「重力とは何か」について目次
宇宙の始まりと重力
不確定性原理の位置と速度

「重力とは何か」(大栗博司・幻冬舎新書)について27

 
著者 田 敞


(以下、{ }内は、上記本よりの引用)

 

量子は不可定というけれどそれは本当だろうか

・ {「あったかもしれないことは、全部あった」と考える}       

 

・ {量子力学では、この物理学の常識が覆ります。ミクロの世界では、粒子の運動が決まった軌跡をたどるわけではありません。したがって、方程式を使って計算しても、光子や電子の行き先は予測不能です。先ほどの実験で、ある一つの光子が「二つのスリットのどちらを通ったのか」という簡単な質問にさえ、答えられないのです。}

 

・ {たとえば大砲を撃ったときの着弾点が計算で求められるのと同じように、光子や電子の質量と速度が分かれば、その行き先も予測できるだろうと思います。それを「分からない」とする量子力学には、簡単に納得できません。}

 

・ {きのう私が家から職場まで通ったルートは無限の可能性がありましたが、その中には「途中で車に轢かれて死んだ」という可能性も含まれています。}{職場についたときの私は、「ほんのわずかだけ死んでいた」といってもいいし「死なない程度に死んでいた」といってもいいでしょう。}

 

問題1

{ミクロの世界では、粒子の運動が決まった軌跡をたどるわけではありません。したがって、方程式を使って計算しても、光子や電子の行き先は予測不能です。先ほどの実験で、ある一つの光子が「二つのスリットのどちらを通ったのか」という簡単な質問にさえ、答えられないのです。}

考察

 答えられないのは、粒子の運動に問題があるのか、人間の能力に問題があるのか、のどちらなのでしょう。{答えられない}のは人間の能力がいたらないからではないのでしょうか。

 光子が、二つのスリットの右側を通ったのなら右側を通ったのです。左側を通ったのなら左側を通ったのです。出来事は、起こった時点で決定しています。{光子が「二つのスリットのどちらを通ったのか」という簡単な質問にさえ、答えられないの}は、人間の観測能力がいたらないからです。

 

人間が、起こったことについて正しく認識できるかどうかと、実際に起こった物質のできごとは別問題です。

 

 天気予報を考えてみます。明日の天気を100%予測することはできません。簡単な明日の天気でさえです。それは気流や、水蒸気や、気圧の動きが、複雑で、つねに、変化しているから、人間の持っている今の科学技術では100%の予測ができないからです。天気が悪いのではありません。予報とはそんなものです。起こっていないことを予報するのですから、間違いはつきものです。

では過去のことはどうでしょう。

 昨日の東京上野の天気は何だったかという簡単な質問には答えられます。観測記録があるからです。起こった天気は一つに決定しています。昨日の雨の確立40%なんてことはありません。雨なら雨、晴れなら晴れです。すべて100%です。起こった出来事だからです。

しかし、紀元前24年2月16日の上野(当時名前ははなかったでしょうが)の天気は何だったかという簡単な質問には答えられません。理由は、可能性がいっぱいあるからではありません。紀元前24年2月16日の上野の天気は観測記録がないから、今の人間には分からないだけなのです。分からないけれど紀元前24年2月16日の天気はただ一つに決まっています。今の人間に分からないからといって、晴れと、雨と、雪と、曇りと、雹と、みぞれと、霧とが{「あったかもしれないことは、全部あった」と考え}てそれらがすべて重なっていたということはありません。また、そのどれでもあった可能性があるようでも、起こった天気以外の可能性はまったくありません。そのときの天気が何であったかはたった一つに決定しています。他の物に変えることはできません。昨日1日中雨が降っていたときは、昨日の天気は晴れや、曇りや、雪の可能性がないのと同じです。それが何千年過去のことでも、起こった出来事は一つです。他の可能性はありません。天気が{「あったかもしれないことは、全部あった」のではなく、あったかもしれないことは、あった一つ以外すべてないのです。かもしれないと云うのは、人間の無知が頭の中で生んだ妄想です。あったことはあったことだけです。そのほかのものは一切ありません。だから、他の可能性はありません。

人間の能力が足りないからいろいろな可能性を考えているだけです。ミミズは目がないから、自分を食べるモグラの全体像が分からないのと同じです。分からないからといって、もぐらが、ワニのような形と、像のような形と、猫のような形と、鷲のような形と、その他の{「あったかもしれないこと」は、全部あった}が重なっていることはありません。ミミズがどう思おうがモグラはモグラなのですから。

 人間とミミズを一緒にするなと怒るかもしれませんね。人間は何でも知っているから、人間の予測したものはなんでもありなのだというのは、ミミズの考えるモグラと同じです。人間は偉いんだから何でも分かるという人間過信にしかすぎません。ニュートンの海を思い出してください。量子論の人はもう少し謙虚にならなければなりません。人間の考える可能性は{全部あった}と、神様になったかのような考え方は、間違いの元です。見た目がすべてだ、というような人間中心の考え方をしている相対論者もそうですが。

 もう少し考えてみます。

{ある一つの光子が「二つのスリットのどちらを通ったのか」という簡単な質問にさえ、答えられないのです。}

答えられないのは当然です。明日の天気という簡単な質問にさえ答えられないのですから、量子の予測などできなくて当然です。しかし、観測すればどちらを通ったかは分かるようです。次の日になり、現在の天気はということにはちゃんと答えられるのと同じです。

光子も観測すると必ずどちらかを通っているといっていますから、これは、光子は必ず一方だけを通っていることの実証です。

光子が同時にふたつのスリットを通っているというなら、同時に二つのスリットを通っているのを観測して実証しなければなりません。あるいは、同じスリットの上と下を同時に通っているとか、ひとつはスリットを通って他の二つは壁に当たって跳ね返っているとかを観測する必要があります。その観測は今のところありません。いろいろな可能性があれば、{「あったかもしれないことは、全部あった」と考える}のであればそれを実際に観測する必要があります。                                                                                         

二つ同時に通るのが、70%で、上下に3つの光子に別れて通るのが30%の可能性を考えるとき、二つに分かれて通っている光子が70%分はっきりしていて、上下に3つに分かれてスリットを通っている光子が30%分しかはっきりしなくてぼやけている、なんてことを観測で実証する必要があります。仮説をたてたら実証しなければならないのが科学です。実際には、必ず一つの光子しか観測されていないのは、光子は可能性とは関係なく、一つ発射すればスリットを通るのも必ず一つだということです。まあ、普通のことです。

 

 光子が同時に二つのスリットを通るとします。すると、観測者が観察したとき必ず片一方を通るのはどうしてでしょう。他の方を通った光子はどこに消えたのでしょう。観測しないときは二つに分かれて両方を通って、観測したときは片方しか通らないというのなら、光子は観測されたときと、観測されないときをどうやって区別しているのでしょう。今は見ていないから、ズルして両方を通って行こう、なんて考えているのでしょうか。しまった、見つかった、と一方だけ通って行くのでしょうか。火星や、冥王星や、銀河系を回ってくる光子はどうすればいいのでしょう。見られたといっても、その情報が届くのに何時間や、何万年もかかります。情報が届いても、光速で収束しようとしても、やはり何時間も何万年もかかります。どうやって片方のスリットに一斉に収束できるのでしょう。時間差で、あちこちから、バラバラと光子が収束のためにやってくるのが観測できるのでしょうか。

 そんなことはありません。右側のスリットを通るのが観測されたら、右側のスリットを通った一つしかありません。そのとき、火星や、地球を回っている可能性の光子を一瞬で呼び寄せて、収束して右側を通ったのでもありません。たった一つの光子が右側を通ったのを観測しただけです。そのとき人間が見ていなくても同じです。一つの光子は、最初から最後まで一つです。違いは、人間が知ったかしらないかだけです。

 シュレディンガーの猫と同じです。猫が死んだ日時は一つに決定しています。違いは人間が死んだ時刻を知った時間が異なるだけです。実際に猫が死んだ時間と、人が猫の死を知った時間が異なっているだけです。箱を開けたときに猫が死んだわけではありません。サスペンスなら科捜研が出てきて、死亡推定時刻を割り出します。第一発見者が見つけたときに被害者が死んだのではありません。ティラノサウルスの化石を発見したときにティラノサウルスが死んだのではありません。まして、それまで、ティラノサウルスが、生と死を重ね合わせて半分死んで半分生きて8000万年土の下で過ごしていたわけではりません。出来事と、人間の認識を同一視しては間違いです。まして認識の方が出来事の上位にあるという考えは間違いです。

 量子も同じです。人間が観測してすべてが決まるというのは、人間の驕りです。

一つの光子が同時に二つのスリットを通っているという観測ができて、初めて、光子は同時に二つのスリットを通るといえます。理論があれば実証が必ず必要です。いや、人間が観測するまで量子は不確定と言いたいなら、1個の光子が無数に別れて同時に、スリットの壁にあたって跳ね返ったり10個も20個もの光子がスリットを通り抜けたり、{右と左のスリットを何度も出たり入ったりして}いたり、二つのスリットをグルグル回ったりしているのを観測しなければなりません。もちろん月をまわってくる光子とかも観測しなければなりませんね。月着陸を果たした光子もあることでしょう。実証できていません。実証しようとも考えていないでしょう。観測したら一つに決まるのだから、観測しても不確定は現れないということなのでしょうか。いつも一つなら、人間が見ようと見まいと一つなのです。いやそれは分からない、見ていないところでは月をまわっているかもしれない、というのでしょうが、そんなことはありません。いつどこで観測しても一つで、しかも月をまわてくる量子は観測さていないなら、発射された1個の量子は、たった1個で飛び、どちらかのスリットを1個で通るのです。途中でいくつにも分かれて靄のようになることはありません。

能力が足りないから人間には予測ができないということを棚に上げて、{「あったかもしれないこと」は、全部あった}と光子の責任にするのは量子論者の傲慢というものです。

もし{「あったかもしれないこと」は、全部あった}というのが事実なら、エネルギー不変則はどうなるのでしょう。1個の光子が何百にも増えたら、エネルギーも何百倍にも増えるということになります。エネルギー不変則に反します。

 

結論

予測できなくても、東北沖地震はあの場所で起こったのです。{あったかもしれない}地震が同時にあちらでもこちらでも同時に起こったのではありません。

自然現象は複雑なので、今のヒトには正しく予測できる技術や理論がないから、予測しようがないだけなのです。ミクロの世界も同じです。人には予測できないだけです。ミクロか、マクロかの違いではありません。ヒトには予測できないことがいっぱいあります。それだけ自然は複雑で、風が吹けば桶屋が儲かるしきに、遠くのちょっとした変化がこちらで大きく変化したりするものです。科学は進歩して、天気予報もかなり当たるようになってきています。そのうち、光子がどちらのスリットを通るか予測できる日が来ることがあるかもしれません。あるいは、人間に代わってAIが地球を支配したときには、予測できるかもしれません。でも、それはあくまでも予測です。予測は事実ではありません。起こっている現象だけが事実です。どんなに正確な予測でもそれは空想にしかすぎません。

{「あったかもしれないこと」は、全部あった}のではなく、「あったことだけ」が{あった}のです。{「あったかもしれないこと」は}可能性だけで実際には存在しない空想の世界のことです。人が1千万の可能性を持って生まれても、人生は一通りしかないのと同じです。他のすべての可能性は可能性だけで現実には存在しなかったのです。

 

問題2

{きのう私が家から職場まで通ったルートは無限の可能性がありましたが、その中には「途中で車に轢かれて死んだ」という可能性も含まれています。}{職場についたときの私は、「ほんのわずかだけ死んでいた」といってもいいし「死なない程度に死んでいた」といってもいいでしょう。}

考察

{きのう私が家から職場まで通ったルートは無限の可能性がありましたが}というとおりです。可能性はありました。しかし、可能性は現象ではありません。頭の中の考えです。昨日職場まで通ったルートはたった一つです。他のすべての可能性は可能性のままで消えて事実にはなりませんでした。これが現実です。車に轢かれて死んだなら、それがただ一つの事実です。生きていることはできません。職場についたなら、ついたのです。死んでいることはできません。{{職場についたときの私は、「ほんのわずかだけ死んでいた」といってもいい}ということはできません。それは事実ではなく、考えだけです。妄想に近いことです。もちろん{「死なない程度に死んでいた」といってもいいでしょう。}ということはありません。そんな人間がどこの職場に着いたというのでしょう。いたら見せてください。すべての通勤している人はその可能性があるのだから、「ほんのわずかだけ死んでいた」人や「死なない程度に死んでいた」という人が周りにごろごろいるはずですから実証はたやすいはずです。ところがそんな人は一人もいません。科学は理論ができたら実証しなくてはなりません。それを怠ってはなりません。もちろん、「ほんのわずかだけ死んでいた」人や「死なない程度に死んでいた」人が周りにいないことはすぐ実証できます。みんなそうなんですから。

 車にひかれてしんだ人にも、無傷で職場についたという可能性はあります。すると、火葬場に運ばれた人も、「ほんのわずかだけ生きている」ことになります。あるいは「生きない程度に生きていた」ということになります。そんなのは妄想です。車にひかれて死んだなら、車に轢かれて死んだ以外にはありません。それが現実です。

これらの人たちが実際に存在しないことは{職場についたときの私は、「ほんのわずかだけ死んでいた」といってもいいし「死なない程度に死んでいた」といってもいいでしょう。}という理論が間違っているということの実証になります。この理論は間違っているのです。