「100歳になった相対性理論」(福江純著、講談社サイエンティフィク)への反論13

著者 高田敞


     


(以下{ }内は上記本よりの引用)

問題1

{重力と加速は同じもの}

{重力と加速は同じもの}の証明にエレベーターが使われている。

{では、その「重さ」の感覚だけから、自分が地球上で停止したエレベーターに乗っているのか、それとも宇宙空間で加速しているエレベーターに乗っているのか、区別することができるだろうか?}

考察

科学なのに人間の感覚で証明しているが、それでいいのだろうか。

アインシュタインの時代では、科学はまだ神学からそんなに離れていなかったから、神の証明に感覚が重要視されたように、科学も感覚が重要視されたのかもしれない。しかし、現代の科学世界でまで人間の感覚を柱に事象を証明しているとは、不思議なことだ。それで科学なのだろうか。

結論

これは科学的方法ではないといえる。

問題2

エレベーターの条件

エレベーターには{窓はないので外の景色は見えない。音も聞こえない。}

考察

証明したいことに不利になることは締め出す。有利なことだけを条件にする。これは現代の科学の方法ではない。神学の方法だ。今の科学はあらゆる不利な条件をいれても、なおかつ証明されなければならないはずだ。

この傾向は、相対論全般に言える。不利なことは無視し、有利なことのみ取り上げる。前近代的な科学の方法である。また、これは今の欧米に見られるディベートという議論のやり方だ。言い負かした方が勝ちだ、というやり方だ。だから、自分の主張に有利なことしか述べない。まあ、商売や政治の世界だ。勝てば官軍だ。しかし、科学の世界では、議論は、何が真実かを追究するために行われなければならない。あらゆる条件を出し合い、本当はなにかを突きとめていく。勝利を求めるのではなく、本当は何かを求めるからだ。その意味では相対論は、相対論は正しいという証拠ばかり集めて、そうではないという証拠を完全無視することから、ディベートのやり方といえる。勝つための手段しか考えていない。真実を求める姿勢ではない。

科学なら、この場合、少なくともエレベーターに窓があって、音も聞こえる場合を想定し、窓がない場合と比べる必要がある。本当は最新科学機器を使って測定することを中心に調べなくてはならない。人間の感覚など、捨て去るべきだ。

結論

これは科学の方法に反している。科学の方法にのっとって証明する必要がある。この論理だけでは加速と、重力が等価であるという証明には使えない。

問題3

{自分が感じる「重さ」の原因が、重力によるものなのか、加速運動によるものなのか、その違いがわかるだろうか?}

考察

分からないだろう。だからといって、それだけで重力と加速は等価であるということがいえるのだろうか。言えるという証明がない。

たとえば、ミミズが乗っていたらどうなのだろう。ミミズにはわからないから重力と加速は等価だといえるのだろうか。では、人間の1000倍高度な文明と、感覚を持った生物が乗っていたらどうだろう。窓がなくても、加速と、重力の違いを言い当てたとしたら、(例、エレベーターの加速には潮汐力が感じられない、と区別できたら)その時は重力と加速は同じものではないとなるのだろうか。(今の相対論では、潮汐力など微々たる違いだから気にしない、と無視しているから、その時も無視するのだろうか。)

窓のあるエレベーターならどうだろう。外を見た人は、景色が動いているので、自分は動いていると感じるだろう。加速されていると感じるのではないだろうか。

するとこういうことがいえる、窓のないエレベーターに人間が乗ったときや窓があってもミミズが乗ったときは、加速と重力は区別できない、すなわち、加速と重力は等価であるといえる。しかし、ヒトが窓のあるエレベーターに乗ったとき、あるいは窓のないエレベーターでも1000倍高度な文明と感覚を持った生物が乗ったときは加速と重力の違いがわかるので、加速と重力は等価でないといえる。

結論

エレベーターの条件や中に乗る生物の違いによって、導き出される結論が異なってくる。間違いであるということだ。

人の感覚などというのは、錯覚に満ち満ちている。そんなものを根拠に科学の定理を証明するというのが根本的に間違っている。この場合は、加速を重力と感じたのは感覚の錯覚にすぎない。その上錯覚させるためにわざわざ窓をつけなくしている。これではとても科学とはいえない。

問題4

加速するエレベーターの加速度と、地球の引力は同じか。

考察

1 引力の範囲

エレベーターの外の下側に人がいるとする。人はエレベーターに置いていかれる。地球の下側に人がいるとする。人は地上に吸いついている。違いがある。

引力は宇宙の果てまで影響する。しかし加速するエレベーターの影響する範囲は、エレベーター内だけだ。それも、床に押されている物質にだけである。

2 落下するリンゴ

エレベーター内で手に持ったリンゴを離すと、加速しながら落ちるように見えるという例がよく出される。このことを考えてみる。

ア エレベーター内

離したリンゴとエレベーターの床は加速しながら近づく。(中の人が見ると、これが地上でリンゴを離したときとそっくりに見えるはずだということから加速と重力は等価であると相対論では述べている)

 このときリンゴは、手から離れたときの速度で、等速直線運動をしている。それに対して、床は加速しながら直線運動している。その結果床がリンゴに追いついて衝突する。

・ エレベーターの床は、モーターの力を受け続けているから、加速運動をする。

・ リンゴには手から受けていた力しか働いていない。手から離れた後はどこからも力を受けていないから等速直線運動をする。慣性の法則である。

イ 地球上 

手から離れたリンゴは地球にぶつかる。見え方はエレベーター内と同じだ。

しかし、手から離れたリンゴは、地球に向かって加速して動く。地面はリンゴに対して動かない。これはリンゴと地球の質量が大きく違うことから来る。

 リンゴには万有引力が働いて、リンゴに常に力が加わっているから加速運動をする。

ウ 両者の違い

見方(窓のないエレベーター内)を限定すると、見た目は同じ。見方をフリーにすると大きく異なる。

エレベーター(加速)

地球(万有引力)

影響範囲はエレベーター内の床に接触している物質にだけ

影響範囲は宇宙の果てまで。

空間を伝わらない。

空間を伝わる。

床が移動してリンゴに当たる

リンゴが移動して地球に当たる

リンゴは等速直線運動。

リンゴは加速運動。

リンゴには新たな力は加わっていない

リンゴには新たな力(万有引力)が常に加わる。

結論

見方を限定された人間から見たら、見た目ではそっくりである。しかし、厳密には大きな違いがある。見た目以外に同じ所は一つもない。これでは加速と万有引力が同じとはとてもいえない。

 

問題5。

{「自由落下」の感覚だけから、自分が宇宙空間で静止しているのか、それとも地上で落下しているのか、区別できるだろうか?}

考察1

ここ以下は今までの問題と性質が異なる。今までは、加速と重力の問題(相対論の等価原理)であった。今度は、自由落下と自由落下、すなわち、重力と重力の問題である。これはニュートンの万有引力の範疇である。相対論とは関係ない事柄だ。

考察2{自分が宇宙空間で静止している}

ニュートン的考えでは、宇宙はすべて万有引力に満ちている。したがってエレベーターがどこにあっても引力から逃れられない。宇宙のエレベーターは静止できない。必ずどこかに落ちていく。したがって、{地上で落下している}エレベーターも、宇宙で落下(静止はあり得ない)しているエレベーターもどこかの星と万有引力で引き合っているという同じ自由落下現象であるから、区別できないのは当たり前だ。違いは、地上のエレベーターは地球と近いが、宇宙のエレベーターは落下先の星が遠いということだけだ。ニュートン的考えで十分だ。相対論の出る幕ではない。

問題6

{もしエレベーターを乗せた宇宙船が宇宙空間で静止しているときは、もちろん「重さ」を感じないだろう。いわゆる無重力状態とか自由落下状態とよばれる状態である。}

考察

そもそも、相対論は絶対静止を否定している。それなのに、静止があると述べている。これを自由落下といっているところを見ると、落下しているということだ。落下だから加速しながら動いているということだ。静止ではない。言葉の定義が適当すぎる。

自由落下が無重力状態になるのは、周りの物質や体の中までが同じ加速度で落下しているから、相対的に位置が変わらないから無重力と感じるだけだ。実際は引力が働き続けているから無重力ではない。無重力と錯覚しているだけだ。

問題6

かりに静止があったとする。

考察

静止しているのだから、どこからも引力が働いていない。だから、無重力である。

地上に落下するエレベーターの中ではやはり周りが同じ加速度で落下しているから、人間は無重力と感じるだろう。

 人間の感覚では区別はつかない。しかし、わきから見ると、静止しているエレベーターは静止しているし、地上で落下しているエレベーターは加速しているのが見える。外の人間は違いがわかる。見方を変えれば違って見える。たんに見え方の違いで本質は変わらない。

 では中の人間はどうだろう。すぐに地上に激突して死んでしまうから、分かるもわからないもない。

 地上に立っているヒトは、重力を感じる。しかし、いつまでも、そのままで生きていられる。しかし、空中で落下しているエレベーター内のヒトは、重力は感じないが、数秒後には墜落死する。

 不思議な現象だ。重力を感じるヒトは、重力によって墜落死しないのに、重力がない(感じない)ヒトの方が重力によって墜落死する。相対論は摩訶不思議な理論だ。

結論

 なぜこのようなことが起こるかというと、相対論は、人間の感覚は、事象を正しくとらえることができると定義していることにある。落下しているエレベーター内のヒトが無重力と感じているというのは錯覚であるのに、その感覚を理由に実際の現象が無重力としているから矛盾が生じている。

無重力状態と無重力とは違うのである。無重力状態は、無重力のような状態であるが、重力は働いている、加速運動していることが人間の感覚でわからないだけだ。一方、無重力は、一切の重力が働いていないということだ。この現象は今観測されている100億光年内の宇宙には存在していないといえる。万有引力は、相対論者の仮想実験の中だけで遮断できる。今のところ人間には万有引力を遮断することはできない。

 

まとめ

 相対論の言う重力と加速は等価である、ということは科学的には何一つ証明されていない。反対に、重力と加速は異なる力であるということは上に書いたように証明できる。

重力と加速は異質の力であるといえる。