「100歳になった相対性理論」(福江純著、講談社サイエンティフィク)への反論9
著者 高田敞
(以下{ }内は上記本よりの引用)
固有時間
問題
{アインシュタインが主張したのは、無数に存在する観測者一人ひとりが、それぞれ自分の時間をもっているということだ。}
考察
上のことから、相対論ではすべての人の現在時刻は異なっているということのようだ。
電車に乗ってみよう。私の時刻が、2014年9月23日8時20分としよう。そのとき私の隣に座っている人は2014年9月23日9時04分の時刻とか、私の前に立っている人は、2014年9月23日7時59分であったりするわけだ。電車に乗っている何百人もの人の時刻がそれぞれの時刻であるということだ。
私は、隣に座っている人の過去の時刻に存在し、前に立っている人の未来の時刻に存在していることになる。過去と未来と現在が同時に同じ列車の同一車両の中に存在していることになる。
相対論では紀元前6738年の太陽が紀元2014年の「今」の空に厳然と現れていることになる。それが実証ということなのだろうけど、そんなことがあるわけがないと思うのだが。
人々はそれぞれの自分の時間を持っているが、列車に乗るときは、列車の時刻に合わせて乗ってくる。時刻表の時刻だ。17時23分発と列車の時刻表にあれば、どんな時刻にある人も、例えば17時59分の時刻の人も、16時03分の人も、自分の時刻とは違う時刻なのに、その列車に乗りに来る。どのような方法で他の時刻に移動するのだろう。ガモフによると持っている時計の針をその時刻に動かすことで可能なようだが、時計はタイムマシーンではないので、針を動かしたくらいで人間が他の時刻に飛ぶことなど不可能だが。{無数に存在する観測者一人ひとりが、それぞれ自分の時間をもっているということだ。}けれど、すべての人が、列車の時刻表の時刻に集合する方法は書かれていないけれど、そんな方法が現実にあるとは思えない。
また、駅に集まったさまざまな時刻の人のどの時刻でもなく、列車の時刻が最優先されているのはどういう理由からだろう。他の人の時刻には集まれないのだろうか。
問題はそれだけではない。列車もそれぞれの速度で長く走ってきたから、それぞれの時刻を持っているはずだ。それでも、それぞれの列車の時刻ではなく、時刻表の時刻に列車は駅に現れる。時刻表が列車や列車に乗る人の時刻の中心のようだ。
たぶん、列車の時刻表の時刻は魔法の力があって、ニュートン的時空を超越し、相対論時空のある時刻に異なる時刻の列車と人をすべて集めることができるのだろう。
相対論がいかに現実離れしているかがわかる理論だ。隣の人が異時刻であるという証明はできているのかしら。出来ていないでしょう。相対論では隣の人は必ず異時刻であるのだから、証明できるはずだ。それができていない。相対論が間違っているという証拠だ。
結論
相対論がどんなに素晴らしい理論であっても、過去の人や未来の人が「今」に現れたりはしない。
「今」はニュートンのいうように、絶対時間で同一である。