Vol.14 Sept.'98-Sept'99
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子どもの風景(1)
モモコ、不登校を宣言する
このごろ時間が経つのがひどく速い。誰かがこっそりと地球の自転・公転のネジを巻き上げて、1時間を20分、1年間を100日くらいにしてほくそえんでいるのではないか。私は密かに疑っている。右を見て、左を向くと、もう半年、もう1年が経っている。
そんなふうに感じるのは、たぶん自分自身に余裕がないせいなのだろう。また一人同居人が増えて以来、時間が飛び去る速度は加速するばかりだ。
姪のモモコは9歳。そして目下、不登校中だ。夏休みが終わって間もなく、彼女はちょっとした友だちとの行き違いを契機に、学校へ行かなくなった。
はじめは‘風邪’だの‘お腹が痛い’だの、その日一日を休むための口実を、苦労してひねり出していたらしい。
しかし、親や先生が本気で説得にかかるようになると、ついにこの小学生、「友だちなんかいらない! 先生もきらい! 死んでも学校へは行かない!」と宣言したのである。
学校や教育カウンセラーにも相談しても埒があかず、お手上げ状態になった彼女の両親から、しばらくモモコを預かってほしいと泣きつかれたとき、私は少なからずうろたえた。
あわててインターネットで情報をかき集め、本屋でいろんな本を立ち読みした。親や教師、フリースクールの先生、カウンセラー、教育評論家、そして不登校経験者自身によって書かれた本が、こんなにあるのかと驚くほど出ている。
不登校(いやな言葉だ)は根が深い。サボりや甘えとは根本的に違う。学校へ行く、行かない、といったことは、表面的な現象に過ぎず、どうやら問題は、なにが彼や彼女にそうさせているか、だ。
原因も、置かれた環境も、一人一人の子どもによってまったく違う。答えはひとつではなく、子どもの数だけ異なる対処法があるという。
他の誰でもなく、「この子」のなかでいったい何が起きているのか−−−。
そこに目を向けなければ、根本的な解決にはならないと思った。
私は外部の情報に頼るのを一切やめた。
専門家の分析も、他の子どもの事例もいらない。私がすべきことは、先入観を捨ててモモコと向き合うことだ。
だが、いったん関わると決めたら、途中で投げ出すことはできない。
これから何が起こるのか、まったく先が見えない状態で、不規則な今の仕事を私は続けていけるだろうか?
だいじな自分の時間を潰してでも、モモコを最優先にする覚悟が、本当に私にあるだろうか?
葛藤がなかったといえば、嘘になる。
一晩考えた末に、私は全面的にモモコを引き受けることに決めた。
ちびっこのハートブレーク
9月の終わり、モモコはわずかな衣類を携え、親に連れられ私の元へやってきた。ほんの一カ月ほど前、夏休みに遊びにきていたときとは、まるで様子が変わってしまっている。
もともと元気で活発な子どもが、まず目に光がない。輝くような頬の色もあせて、顔色全体がひどく悪い。口もききたがらず、朝から晩まで私の部屋にこもってカーテンを閉めきり、ぼんやりとテレビを見続ける。それでいて、ちっとも楽しそうではない。
おつかいに行こう、散歩に行こうと誘っても、絶対にのってはこないし、何ごとにもまるで興味を示さない。
身も心も疲労困憊、まるで子どもの形をした抜け殻だ。
女の子同士でいざこざがあったらしいこと以外、学校で何があったのか、詳しいことはわからない。
だが女の子というのは小学校中学年にもなると、暴力に訴えずに同性を傷つける術を身につけているものだ。
これ見よがしな耳打ち、意味ありげな目配せや、薄ら笑いの繰り返しが、どれほど巧妙に標的に打撃を与えるか、彼女たちはちゃんと心得ている。
モモコの場合も、そんなところから始まったのかもしれない。
「学校へ行かない」ことへの罪悪感に押しつぶされそうになりながら、9歳の子どもは孤立無援で絶えていた。これ以上傷つかないよう心を閉ざし、必死で殻のなかに立てこもっているのだ。
「モモコ、かわいそうだね」 キリコがぼそりという。
そのとおりだ。肉体につけられた傷なら一目瞭然だが、心の傷はどんなに血を噴いていても目に見えない。
こういうとき、「我慢しなくてはだめだ。辛くても逃げるな」と、闇雲にいうのはおかしい。全身骨折で倒れている人、酸素吸入が必要な病人に向かって、「運動不足だからそうなる。さあ、今すぐ起き上がってスポーツをしろ」というバカがどこにいる?
身体と同じように、人間の心にも自己治癒力が備わっていると私は思う。心が元気と弾力を取り戻せば、ちょっとやそっとのことくらい、自力で跳ね除ける力も湧いてくるはずだ。
学校へ戻るとか、フリースクールを探すといったことより、今はモモコの心の健康を取り戻すことに専念しなければならない。
「学校や友だちの話題は当分厳禁。長丁場になると思うから、結論を急がずに、モモコとは普段と同じように接すること。長い休みで遊びに来ているだけだ、そう思ってちょうだい」
家族にはあらかじめそう言い渡してある。
それでもたまにチラリとでも学校の話が出ると、どんなに機嫌よくはしゃいでいるときでも、モモコは弾かれたように部屋を出て行き、私のベッドにもぐりこんでしまうのだ。
「モモちゃん、どうした?」
そばへ行って話し掛けると、布団の下から、くぐもった声が怒りに震えて答える。
「おじいちゃんが、『学校は楽しいぞ』って言った」
「おじいちゃんには幼なじみが何人もいて、だから小学校は楽しかったと思っているの。それだけのことよ」
「でもいやなの! 言われたくないの」
「おいで」
私はベッドの端に腰を下ろし、モモコを膝に抱いてゆっくりと揺すった。
「あのね、聞いて。私はどんなモモちゃんでも、モモちゃんが大好きなの。いい子でいるときだけじゃなくて、言うことをきかないモモコも、怠け者のモモコも全部好き。
髪の毛が黒くてもピンクでも緑色でも、ピーマンが食べられても食べられなくても、学校へ行っても行かなくても、世界で一番かわいい大事な子。
お父さんやお母さんだって、おじいちゃんやおばあちゃんやお姉ちゃんだって同じよ。
どんなことがあっても、モモコの味方になってあげる。絶対に見放さないし、必ず守ってあげるから心配しなくていい」
子どもは私のTシャツの胸に顔をこすりつけ、何も言わない。代わりに背中に回した腕に力をこめ、ぎゅうっとしがみついてきた。
その思いがけない力強さに、私は先の不安を忘れ、一筋の光を見た気がするのだった。
<次のページへ続く>
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