Vol.14 Sept.'98-Sept'99

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子どもの風景(3)



学校へ行くのは、何のため?


 頭からシャンプーを洗い流して、私はバスタブのモモコの横に滑り込んだ。なぜ子どもは学校へ行かなくてはならないのか。モモコは答えを待っている。私は言葉を選んだ。

 「私も子どものとき、モモコと同じことを考えたわ」
 「えーっ、おばちゃんもそう思ったの?」
 「うん。毎朝、毎朝、学校へ行って、ずうっと学校のなかにいなくちゃならないのがいやだった。好きなときに好きなところへ行って、やりたいことができる大人がうらやましかったな。でも学校は好きだったのよ、ヘンだけど」
 「私はきらい。すごく疲れるんだもん」
 「それは言える。教室の蛍光灯とか、うすみどり色の壁とか、リノリウムの床とか、何だかエネルギーが吸い取られる感じがするもんね。私もときどき疲れたな」
 「でしょう? なのに学校って何であるの?」

 私は本気で考えこんだ。

 「そうねぇ。たぶん学校って、国語や算数だけじゃなくて、大人になるための、もっといろんなことを勉強するためにあるんじゃないかな」
 「たとえば?」
 「たとえば、決められた時間は席について、静かにしている練習とか、やりたくなくても先生と約束した宿題はやることとか。みんなと力を合わせて何かをしたり、嫌いな友だちとも仲良くできるようになったり。それに、イジメにあったら上手に逃げたり、ちゃんと『助けて』って言えるようになったりすることも、勉強なんじゃない?
 学校はいろんな子が集まる場所だから、いい友だちと出会うチャンスもあると思うわ。ゲームや運動会や合唱コンクールだって、学校みたいに子どもが大勢いるところじゃなければ、できないでしょ? 学校って、本当にいろんなことを勉強するところなんだと思う」

 「でも、どうしても行きたくなかったら?」
 「勉強だけのことなら、無理に学校へ行かなくてもいいと私は思うわ。学校へ行かなくても、自分で勉強する方法はいろいろあるからね」
 思いがけない朗報に、モモコは身を乗り出した。

 「でも自分ひとりで勉強するのは、すごぉーくたいへんよ。学校の何倍も、何倍も、努力しなくちゃならないと思う。
 それに家のなかだけでは、どうしても世界が狭くなるよね。だから大人になったとき困らないように、世の中に出てちゃんと生きていくための練習もしなくちゃ。お手伝いとか、ボランティアとか、ちょっと大きくなったらアルバイトだってしなきゃね。
 学校の外にだって、嫌な人や意地悪な人はいくらでもいるわよ。辛いこともいっぱいあるから、学校のほうがまだラクだって、モモコは思うかもしれない」

 モモコは「うーん」と考えこんでしまった。
 その小さな肩に、何度もお湯をすくってかける。

 「慌てることないわ。学校のことは、一緒にゆっくり考えよう。きっといい考えが浮かぶわよ」 そう言いながらも、私には何が正解なのかわからない。こんな無力な自分が、いったいどうすれば、この子の力になってやれるのだろう? 私だって心細い。

 だが、子どもは大人にたくさんのことを教えてくれるものだ。
 モモコの問題を解くカギは、必ずこの子自身のなかにある。私は彼女がよこすメッセージを、取りこぼさないようにちゃんと受け止め、一生懸命に考えながら、ひとつひとつそれに答えていくだけだ。

 そう、この先どう進めばいいのか、きっとモモコがすべて教えてくれる。この数カ月間、ずっとそうだったように。


リハビリ開始!



 4月、モモコは名目、4年生に進級した。

 新学期を前に私に呼び出しがあり、モモコの両親と一緒に彼女の小学校へ出むいたが、学校へ戻れという催促ではなく、最近のモモコの様子を聞かせてほしいのだという。

 校長と、モモコの新旧の担任に、私は姪との半年間の暮らしと、その間の彼女の変化について話した。
 途中から続々とほかの先生方も集まってきて、小さな会議室はすし詰めだ。みんな真剣な様子で、いちいちメモをとる先生もいる。ひとりモモコの問題というより、今の教育現場にとって、不登校はそれほど深刻な課題になっているのだ。

 「私たちはいつでもモモコちゃんが戻れってこれるよう、できる限りの準備をして待っています。小学校の間は、勉強の遅れはいくらでも取り戻すことができますから、焦らず時間をかけて見守りましょう。たいへんだと思いますが、モモコちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

 女性校長はそう言って、校舎の玄関まで見送ってくださった。

 モモコの生活は、年が明けてから大きく変わった。腫れ物に触るように接する時期はもう卒業だ。
 すっかり元気になったモモコは、何の束縛もない生活に味をしめ、最近タガが緩みきっている。家にいることと自堕落な暮らしを、混同させるわけにはいかない。ここにいれば、いつまでもブラブラしていられるなんて、舐めてもらっちゃ困る。

 よし、ここらでそろそろリハビリだ。
 私は普段のお手伝いに加えて、家事の一部を「仕事」として、モモコに与えることにした。お風呂掃除、廊下と玄関の掃除、それに、洗濯物を取り込んで、たたんで、みんなの部屋に配達する係りなどだ。
 
 「ええーっ、どうしてあたしばっかり、そんなにやらなきゃいけないの?!」
 「キリちゃんは学校とアルバイトでいつもいないし、おじいちゃんやおばあちゃんは、庭仕事や洗濯をやってくれているでしょ。モモちゃんが一番ヒマな人なんだから、家族なら手伝うのが当たり前じゃない?」
 「そんなの不公平だ!」
 「ハッ、ごじょうだんでしょ! 私なんかね、毎日掃除をして、買い物に行って、1日3回もご飯を作って、あと片付けをして、それから夜にはモモコに本を読んで、そのうえあんたが寝てから朝まで仕事をしているの! そっちのほうがよっぽど不公平だっ!」

 プーっとふくれるが、もちろん返す言葉などない。

 「わかった! やればいいんでしょ、やればっ!」

 しぶしぶ引き受けたものの、隙さえあれば仕事をサボって私と喧嘩になる。「ルールが守れないなら出て行け!」と、締め出しをくらうことも再三なのだった。

 彼女の不運は更に続く。

 「さあ、今日から一緒に勉強を始めるわよ。最初は30分でいいから、少しずつ時間を延ばしていきましょう」
 「えっ、なんで? 学校には行かなくていいって、おばちゃん言ったよ!」
 「はい、そうです。学校へは行かなくてもいい、とは言いました。でも、勉強しなくていいとは言ってません」
 「ずるい、ひきょうだ! なんで家にいるのに、勉強しなくちゃならないの!」
 「漢字は読めない、書けない、計算もできないじゃ、大人になっても誰も雇ってくれないの!」

 「いいもん。私、仕事なんかしないから」 モモコはツンとすまして言う。

 「じゃあどうするの? 働かなきゃ、ご飯も食べられないわよ」
 「お金持ちと結婚するからいい。うんと広い庭で何匹も犬を飼って、その子たちと暮らすんだ」

 なんとまあ、最初から他力本願で、遊んで暮らすことを考えているらしい。

 「ふうん。でも、そういう男の人は、もっと違う女の人を選ぶと思うな。なんにもモノを知らない奥さんじゃ、話が合わなくて困ると思うわ」

 そんなすったもんだの末、ほとんど力ずくで自宅学習が始まったのである。苦手な国語は相変わらず苦手だが、算数の計算問題100問を、時間を測ってやるのが気に入ってしまい、足し算・引き算の復習から、掛け算・割り算の問題まで、モモコは猛烈なスピードで解けるようになっていった。

 何でもいいのだ。ひとつでも得意なものができれば、どこへ行っても、それが彼女の自信になるだろう。たったひとつでいいから、そういうものを身につけさせてやりたかった。


モモコのテイクオフ



 昨年の秋口にモモコが来てから、冬が過ぎ、春も過ぎ、季節はもう初夏だ。

 8月のはじめ、モモコの両親が意を決した様子でやってきた。元気が回復したモモコを、2学期から学校へ戻そうというのだ。それがいやなら、全寮制のフリースクールに入れてしまうという。

 いつかは通らなければならない、モモコ最大の関門だ。だが彼女はもう、1年前の抜け殻のようなモモコではない。どういう結論になるかはわからないが、本人と両親だけで、とことん話し合ったほうがいい。
 私は外出の仕度をした。

 夜遅く家に戻ると、モモコは眠っていた。さんざん泣いたり暴れたりしたらしいが、最終的に、夏休みが終わったら学校へ戻ることで納得したという。
 この一年、問題にぶつかるたびに、モモコと私は一緒にうろたえ、一緒に考え、力をあわせて乗り越えてきた。規則正しい寝息をたててているモモコの顔に、涙のあとがないことを確認して、私は胸をなでおろした。
 これならだいじょうぶ。きっと今度も、そしてこれからも、いろんなハードルを乗り越えていけるだろう。

 1ヶ月後、モモコが自宅へ帰る日がきた。

 彼女は涙を見せることもなく、さっさと荷物をまとめ、祖父母に挨拶を済ませた。そして玄関先で靴を履き終えると、いきなりくるりと振り向き、振り向きしなに私に抱きついて、頬に長々と特大のキスをした。

 「アハハ、ほっぺに穴があいちゃう〜! 助けてー!」

 子どもはベソをかきそうな顔を離すと、小さな声で言った。

 「また、遊びに来てもいい?」
 「うん、いつでもおいで。待っているから」

 父親の車に乗り込んだモモコは、リアウィンドウ越しに大きく手を振った。それから前を見て、二度と振り返らなかった。

 こうしてモモコは帰っていった。
 1年近くを彼女が暮らした私の部屋が、同居人を失って淋しくなった。

 モモコは今、ゆっくりと、学校のなかに居場所を取り戻しつつある。ときどき電話をかけてきては、「学校はやっぱり疲れるよ」などとこぼしながらも、友だちのこと、学校行事のことなどを元気に報告してくれる。

 「いやなこともあるけどサ、私、これでもがまんしてるんだ。けっこうストレスがたまるよ」
 「そっかぁ。我慢するのはいいけれど、ストレスは溜め込んじゃだめ。じょうずに吐き出さなくちゃね。どんどん私に言いつけて、さっぱりしちゃいなさい」
 「うん、そうする。困ったらまた相談するからね」
 「オッケー」
 「おばちゃんも、無理しちゃだめだよ。夜はちゃんと早く寝てね」
 「はいっ」

 いつ舞い戻ってくるかと最初はハラハラしたが、その後もけっこう楽しく通学しているようだ。


End of Vol.14

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