数瞬の間を置いて、ようやく自分が口にした言葉の意味するところに気づいたヘーゼルの、
その面に朱の色が上る。
「ムッシュ……」
「あ…いや、これは……」
庇護を要する存在を、当事者から請われて、あるいは対外的人道的な必要性に応じて、保
護するのはなんら問題のある行為ではなかった。保護を求める存在に、相応の力を持つ者が
手を差し伸べてやるのが人情というものだったし、また、それが必要なことだからと後見を買っ
て出た第三者を、世間は差し出がましいとは評さないだろう。
だが……当事者からの要望もなく、なおかつ世間的に庇護を要さないと思われる存在が相
手だとしたら、どうだろうか。
おかし男は、本来単体、あるいは小規模の群れを作って人里に程近い森などに生息するモ
ンスターだった。生息区域の近さから、時に接触した人間にその習い性で菓子類を振舞ったり
もするが、それだけで害をなすこともない彼らを、付近の住民達が危険視することはない。
そして、おかし男のほうでも、人間と接触しなければしないで、一向に生態に支障をきたすこ
ともなかった。それぞれが関係することなく、互いの領域で生きていくだけのことだ。
それが人であれ、人外であれ……自立し、自活することが可能な存在に、外部からの援助
は必ずしも必要とは限らない。
社会的弱者からの需要と、それを受け止められるだけの権限を持った人や組織からの供給。
そのバランスが成り立ってはじめて、『保護』は『保護』としての意義を持つ。
つまり、ヘーゼルの主張する『保護』は、この場合、世間から見れば全く意味を成さない行為
なのだ。
「……すまない」
「ムッシュ?」
「すまない!今の言葉は忘れてくれ!」
庇護は不要だと主張する相手に、それでも自分の気が済まないからと、執拗に差し出し手を
伸ばして見せるのは、自らが相手よりも社会的優位に立っているのだと信じる者の、狭量なエ
ゴだ。
そして……それは時として、どうしても相手を手放したくないと思いつめた執着を、抱く自らが
認めることを拒むがために、体裁のいい言葉にすり替えざるを得なかった、屈折した思慕の形
でもあった。
『君を必要だと、そう言ってもか?』
君を必要だと……そう言っても、君は一緒に来てはくれないのか?
……それは、仕向けたヘーゼルをして、口をついてみて初めてその意味を知覚できた、彼の
腹の底からの願望だった。
この人外を、自分の側に置いておきたかった。
自分達兄弟と、あの養い子の側で……追憶の日の『彼』がそうであったように、その人好
きのする容色で、穏やかに笑っていて欲しかった。
極端から極端へと走る自分達兄弟の『奇行』を、世間は社会不適合者と後ろ指を指して嗤
うだろう。自分達の生い立ちを知る者が聞けば、やはり親元で育てられなかった子供はこれだ
からと、したり顔で講じるかもしれない。そんな自分達を引き取り養育したあの孤児院の院長
ならば、表向きは慈愛と憐憫の情たっぷりに、あのおかし男さえ余計な浅知恵を弄さなければ
この子達も日の当たる場所にいられたのにと、嘆いて見せるのだろう。
物事の需要と供給とがつりあった世界で……分に見合った職に就き、分相応の望みを持っ
て生活していくことが世間の推奨する営みであるのなら、自分も弟も、きっと社会には適合し
ていない。
望まれもしないモンスターの保護を謳い、すでに世間の仕組みとして根付いた、実社会にお
ける男の子モンスターの隷属に真っ向から否を唱える。そんな自分達の姿は、現状に馴染ん
だ世間からは、さぞや口幅ったい存在として煙たがられていることだろう。
だが、そんな外聞など、自分達の活動を露ほども阻むものではなかった。
空気の読めない過激派と、世間からいくら謗られようとも構いはしない。自分達が心底求めて
いるものは、男の子モンスターが他の何者からも束縛を受けず、完全なる自立を社会から約束
された上で勝ち得る、安寧とした生活の保障だ。そのために蒙る非難など、何というほどのもの
だろうか。
全ては、男の子モンスターの自立と自活の為に……そう、ひたすらに謳い続けてきた。その、
つもりだった。
だが―――ここにきて初めて、ヘーゼルは一つの自問に行き当たった。
庇護は要らないと、自分の差し出し手を拒む人外がいる。『人』に使役されることを、無上の喜
びとして受け止める人外がいる。
そんな彼に向けて差し出したこの手は……執拗に繰り返した、主の下を離反せよという、自分
の『説得』は……
他ならない、自分自身の独りよがりな欲求ではなかっただろうか。
幼い日の蜜月を今一度体感したかった、懐古の情に溺れた自分がその相手を求めただけの、
『人』であるが故の、傲慢な強要ではなかっただろうか。
と、刹那―――
「ムッシュ」
そんなヘーゼルの胸の内を見透かしでもしたかのように、それまで沈黙を守っていたおかし男
が、静かに口を開いた。
「ムッシュ……残酷なことを申し上げるようですが…私は、あなたが幼い頃に生き別れたおかし
男ではありません」
「……っ」
「姿形のみを求めて私を側に置かれても…あなたの思い出の中の同胞と私は、やはり完全に
重なり合うことはないでしょう。反って、あなたの苦しみ、悲しみが増すばかりかと……」
言葉を募るおかし男の容色に、ヘーゼルに対する非難の色はなかった。そして、ヘーゼルに向
けられたのは、出会いがしらに無理難題を押し付けた人間に対しての困惑顔でもなければ、憐
憫の苦笑でもなかった。
「―――どうか、御身お健やかに。私達人外の存在を、我が事のように案じ、親しんでくださる
あなたに、多くの幸いが訪れますように……」
そこにあったのは……追憶からそっくり抜け出してきたかのような、あの庇護者が持つそのま
まの柔らかな笑顔だった。
「……お…っ」
その時、咄嗟に喉元で飲み込まれた言の葉は、誰の名を呼ばんとしたものだったのか―――
寸でのところで無理矢理に口を噤んだヘーゼルは、怒りと憧憬がないまぜになった容色で、眼前
の人外をただねめつけた。
やはりこのおかし男は、自分の追憶に残るあの庇護者とは違う。当時ほんの子供だった自分
達に合わせていた部分もあったにしろ、彼は語彙も滑舌も、眼前の人外とは比べようもないほど
に稚拙だった。
年経るごとに、否応なく現世の汚濁にまみれざるを得ない人の身には及びもつかぬほどに、人
ならぬ存在として世に生み出された人外達は、純朴で実直だった。
関わりを持った人間から受ける影響次第で、その従順な僕にも、仇なす外敵にもなりうる彼らは、
それであるが故に、その生の始まりを人以上に無垢な存在として、現世に産声を上げる。
善悪どちらにも属さないその魂を、どちらの色に染め上げるのもその育成に関わった人間次第
だった。
幼少期の数ヶ月を共にすごしたおかし男は、今にして思えば人馴れをしていない存在だった。
ほんの片言の言葉を辛うじて解する状態で、その成長の基盤が止まっていた彼が、同じように
言葉に不自由だった幼い自分達を模倣したのだ。その思惑はどうあれ、すでに成人した人間の
元に身を寄せる眼前の人外が、追憶の彼とは違い流暢に言葉を操るのは、考えてみれば当然
の事だった。
生まれも違えば、ここまで育成されてきた環境も違うのだ。姿や声音は同じでも、自分達の庇
護者とのそれ以上の類似点など見つけられなくて当然だろう。
だが……
『しあわせに、なってください』
今でも脳裏に鮮烈に焼きついている、別れの日の記憶。
泣き喚く自分達の頭を、いつものように気軽な素振りで一撫でし、施設に送られる自分達とは別
方向へ引き連れられていったおかし男。
他に、幼かった自分達を宥める言葉を知らなかったのかもしれない。接触した存在に菓子類を
振舞うことで癒しの時間を提供することが生業の彼にとって、その言葉にさしたる重みはなかった
のかもしれない。
だが…だけれども……
『ムッシュ、しあわせに、なってください』
あれから二十年近い歳月が流れた今でも、自分の中に色褪せることなく残された、もっとも尊
い祈りの言葉。その温かな思いに背を押されるようにして、自分達兄弟はこの半生を生き延びて
きた。
今、自分の眼前に立つこのおかし男は、自分達の保護を必要としていない。どころか、あの憎
むべきハンターの傍近くこそが、自分の居場所なのだと言い切って憚らない。男の子モンスター
の解放と救済を天命と定めて活動を続けてきた自分と弟にとって、これ以上の裏切りはないはず
だった。
だが……保護はいらないと拒絶しながら、それでも彼は追憶の庇護者と同じように、自分達の
先行きを、優しい言葉で案じて見せる。幸多かれと、見返りを求めない言霊を紡いで見せる。
流暢に操れるだけの言葉を、種の記憶を凌駕する程の知識を……惜しみなく与えながら、それ
でもその本質を歪めることなく、このおかし男を慈しみ養育したのは、あのハンターの青年なのか
……
「……おかし、男君」
知らず知らず上がっていた呼吸を整え、ようやっと呼ばわった、眼前の人外の学名。それだけで、
たまらず目頭が熱くなった。
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