追憶のあの日―――眼前に控える人外と寸分違わない外見をした庇護者の許、多少の不
自由は否めないながらも満ち足りた日々を送っていた幼い日の蜜月は、突如押し入ってきた
ハンターの青年によって、あっけなく幕切れを迎えた。
保護者としての能力はともあれ、「男の子モンスター」としては末端に位置づけされるであろう
おかし男の戦闘能力が、手練のハンターのもつそれに太刀打ちできたはずもない。形勢は一瞬
で確定し、捕獲されたおかし男は、専用の調教、管理施設であるラボへ。その当時すでに二親
と生き別れ再会の目処も立たなかった自分達兄弟は、「保護」を受けて国の慈善施設である孤
児院へと、それぞれ身柄を割り振られることになった。
自分達がひっそりと暮らしていた森の近隣に住む老夫婦が、散策の折に見咎めた自分達の
存在を、村の福利厚生を管理する公的機関に届け出たのだという。
人と人外が、主人とその僕としてではなく、家族同然に馴れ合って生活するなどありえない
事だと―――否。それが物の道理も理解できない幼子であるならなおのこと、あってはならな
い事だと、そう採決した機関の上層部による依頼によって、届出から一週間と日を空けずに、
件のハンターが派遣されたということだった。
子供達が人外に近づきすぎて、将来に禍根を残すような悪影響を受けないようにと、その「保
護」には迅速さが求められたのだという。結果としてはそれがお前達の為だったのだから、突
然の生活の変化に戸惑いもあるだろうが馴染む努力をしてほしい……孤児院の院長は、そん
な風に自分達に言い聞かせた。
人らしい生活を送りなさい。これまで取り上げられてきた時間は取り戻せないが、その分人の
倍の努力をして、手に入れた文化的な生活を精一杯謳歌しなさい―――
押し付けられた「善意」との意味など、ほんの子供に過ぎなかった自分達兄弟に理解できた
はずもない。その時自分に解ったことは、何の不満もなかったそれまでの蜜月が、断りもなく土
足で踏み入ってきた部外者の手によって壊されてしまったのだということだけだった。
キャラ屋へと引き立てられていく庇護者に取りすがり、弟と二人、声を限りに懇願した。どうか
連れて行かないでくれ。自分達兄弟以外に、唯一身内と呼べる存在から、頼むから引き離さな
いでくれと、血を吐くような思いで訴えた。
だが……そんな自分達と、自分達に賭け値なしの愛情を注ぎ育ててくれた人外の庇護者の
姿を、ハンターの青年も通報者の老夫婦も孤児院の院長も、まるで奇異なものでも目にしたか
のように、胡乱気な眼差しで一瞥しただけだった。
なにが身内だと。なにが保護者だと。
おかし男が接触した存在に菓子類を振舞うのは、モンスターとしての習性に過ぎない。育ち
盛りの子供に二月以上も菓子ばかりを与えておいて、それで育児をこなしてきたつもりである
ならなんという思い上がりだ。みなしごを保護したのなら、すぐに近隣の村に……それこそこの
老夫婦の許にでも届けて、後を託せば良かったものを。そんなことにも思い至らずに人外の浅
はかさで身勝手な欺瞞に走るなど許されないことだ。そらこの子供達を見ろ。この大事な時期
に栄養価のバランスを滅茶苦茶にされてしまったら、将来どのような栄養障害が起きるか解ら
ないというのに―――
頭の上を通り過ぎていく大人達の罵声を聞きながら、憤懣きわまって頭の芯が冷えていく心
地を味わったのを、今でもよく覚えている。
生みの親にさえ見放され、弟と二人飢えと焦燥に苛まれる日々が、子供心にどれほどの絶
望を強いられるものであったのか、したり顔で「養育」を語る大人達に理解などできるはずもな
い。欠片でも理解が及んでいたなら、ああも強引に自分達を引き離す無体を働くはずがなかっ
た。
飢えた体に何よりの活力を与えるのは、講釈や理想ではない。まず食べて、そして安全な
寝床でしっかりと休まなければ、心身の傷も疲弊も、けして治りはしないのだ。
種としての習い性であろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。世間が救いの手ひとつ
差し伸べてくれなかった飢えた子供に、食べ物を与え寝場所を与えた人外がいた―――子供
が庇護者と呼んで慕うには、それで十分過ぎたはずだった。
身勝手な講釈を並べ立てて自分達を引き離そうとする部外者達に、抗っていられた時間は
どれほどのものだったのか。
子供の身の非力さゆえに、結局は大人達の意図するままあの森の家を離れざるを得なかっ
た自分達に向かい、目的地は違えど同じように護送されることとなったおかし男は、平時の彼
がそうであるように、こちらを振り返りしな静かに笑って見せただけだった。
そして……彼は幼い自分達に、さながら遺言でもあるかのように、言い残したのだ。
その後二十有余年を経た今となっても、けして色あせる事なくこの胸襟に焼きついている……
自分達のその行く末を呪縛するほどの効力を持った、あの言祝ぎを―――
自ら意図したわけでもない、追憶へと引きずられた時間は、果たしてどれほどのものだったの
だろう。
自失していた自身をヘーゼルが自覚した時……まずその視野に飛び込んできたのは、追憶
の中彼を言祝いでくれた、得がたい庇護者の面影を生き写したかのような、人外の困惑顔だっ
た。
やはり御不快だったようですね、と、ごく抑えた声音で成された呼びかけは、その意味すると
ころを聞き手に読み取らせないほどに抑揚に欠け、それが悪感情をあらわにした自分への窘め
であったのか、あるいはそのような話題を持ち出した事への彼なりの謝罪であったのか、ヘー
ゼルには判別することができなかった。
それでも……自分の不興を買ってでも、『彼』には自分に訴えようとする思いがあるのだとい
うことが、否応なしに伝わってきてしまうから……続けてもよろしいですかと問われれば、否と答
えることもできなかった。
謝意を表すように目礼し、おかし男が再び語り部へと転じる。
「我々にとって、もっとも満ち足りていると感じるのは、誰かに強く必要とされたときです。マス
ターは、ドルチェを作り、それを振舞うことしかできない私の事を、それでも必要だと仰いまし
た。全てを自分にささげる必要はない。けれど、自分の側にいて欲しいと。そういった、心身
を安らがせてくれる存在が、自分には必要なのだと」
自らの『主人』について語るおかし男の表情は、実に満ち足りていて……あのハンターに必要
だと請われた自身を、彼がどれほど誇らしく感じているのかが、如実に伝わってくる。
その思いに偽りのないことを確信すればするほど、そんな彼の姿に、ヘーゼルはいたたまれな
さを覚えずにはいられなかった。
自分は……自分達は、一体なんなのだろう。
党の結成の日から今日まで、ひたすらに男の子モンスターの保護救済活動に邁進してきた。
身勝手な思想に酔いしれる、世情を省みないタチの悪い過激派と、そう後ろ指を差されても党
の理念を貫いてきたのは、それが必ずや男の子モンスター達の未来を指し示す光明になると、
ひたすらに信じていたからだ。
だが……救済対象である、当のモンスター自身から、主に使役される日常が至福であると、そ
う言い切られてしまったら……
「以来マスターにおつかえして三年余りになりますが…私のマスターはこの方以外にはいない
と、今ではそう思っています」
自分の中で、何かが音を立てて砕けたような錯覚に陥る。
黙って相手の語るに任せているのも―――もう、限界だった。
「そんなものは詭弁だ!」
聞くに堪えない、とばかりに拳に握りこまれたヘーゼルの手が、勢いよくテーブルの上に
叩きつけられる。整然と並べられていた茶器が、振動で耳障りな音を立てた。
「君はあのハンターにだまされている!君だってハンターという人間の特性を知らないわけ
じゃないだろう?彼らは、必要だとかそんなことは関係なしに、男の子モンスターという肩
書きを持つモンスターを乱獲しては売りさばくんだ。それが彼らの生業なんだ!」
「ムッシュ……」
「それは……あのハンターは君をキャラ屋に引渡しもせず、三年余りも共に暮らしてきたの
かもしれないが…だが共に寝起きしてきたのなら、君だって気付かなかったはずはないだ
ろう!?ハンターである以上は、彼は多くの君の同胞や他の種族の男の子モンスターを、
我欲のために犠牲にしてきたはずだ!」
さあどうだ、とばかりに眼を剥いたヘーゼルの剣幕に、おかし男は困惑めいた笑みで以って
応えた。
まるで駄々をこねる子供をどうやって宥めようかと、そう思案でもしているかのようなその素
振りが、なおさらにヘーゼルの激情を煽る。
「我々と共にくるんだ!君のマスターとやらは、本当の意味で君を必要としているわけでは
ない!君があの男の犠牲になっている必要はないんだ!」
「ムッシュ……犠牲だなどと…」
「君には!……君には、男の子モンスターとしての誇りはないのか!?」
洗脳されているのだ、彼は。
使役する人外を隷属させておこうと思ったら、自分に心酔する無害な存在に手懐けてしま
うのが、最も安全で確実な方法だから。
だから、あのハンターも様々な手練手管で以って、このおかし男を懐柔しているのだ。
救わなければ、と強く思った。
このおかし男は、向けられた思惟の善悪もわからないままに、かけられた言葉のまま自覚
さえなく誘拐されてしまった幼子と同じなのだ。
……否。『彼』のおかれた立場は、それよりも更に複雑で劣悪なものであるかもしれない。
例えば、ある種の目的の元に組織され、その目的遂行のために奔走する人間が、自分達
の大儀を振りかざし、誘拐事件を引き起こしたとする。そして、不幸にも拉致されてしまった
人質が、聞かされた組織の理念に同調してしまったとしたら……あるいは、組する人間の、
極限にまで追い詰められた心情に、同情したとしたら……
その瞬間から、組織に傾倒した人質は、その救出を計る立場の人間にとっても、ある意味
では『敵』となる。奪回活動の障害となるばかりか、たとえ手のひらを返されても、本来救出
するべき相手を見捨てるわけにも、ましてや攻撃するわけにも行かないのだから、本来の敵
よりもよほど厄介な存在であるとも言えた。
そして……これが最も厄介なところなのだが、それでも組織にとって、『人質』は『人質』な
のだ。
たとえ同調した人質が協力を申し出、友好的な関係を一時的に築いたとしても、だからといっ
て、本来組織側の人間でもない者を、彼らが『味方』として手元に置くことなどありえない。
救出を計る者達への牽制等、利用価値がある間は最大限に活用し、それなりに友好的な
振る舞いもして見せるだろうが、それでも彼らにとって、人質が『自覚のない人質』であること
に変わりはない。本来の目的が達成されれば、用済みと切り捨てる事などたやすいのだ。
このおかし男もそうだ。件のハンターにどれほどの美辞麗句か、あるいは愁嘆の言葉を吹
き込まれたものかは知らないが、彼もまた、無自覚の人質なのだ。
人間以上に無垢で純粋な性根を内包しているのが、彼ら男の子モンスターだ。その心の
ケアも十分に施してやらなければ、この先の人格形成にも影響を及ぼす恐れがある。
とにかく今は、この『人質』を、あのハンターの元から一刻も早く引き離す必要があった。
「来るんだ!我々は、君の自由を約束する。ここを離れれば、君は何者にも縛られることな
く自由に、誇り高く、男の子モンスターらしく生きていくことができる。きゃんきゃん党党首
の名にかけて約束する!だから……!」
だが……
「ムッシュ……」
だが……これを最後とばかりに言い募いだヘーゼルの渾身の叫びに、おかし男はそれで
も諾とは答えなかった。
「ムッシュ、お心遣いは嬉しく思います。ですが私にとって、マスターであるあの方に望ま
れたこの場所以上に、私を満ち足りた気持ちにさせてくれる居場所はありません」
刹那―――
息詰まるような静寂の帳が、向き合う自分とおかし男の立ち位置を完全に二分したのを、
ヘーゼルは知覚しないわけにはいかなかった。
馬鹿な、という形に動いた唇は、しかし身の内から沸き起こる衝動に震えて、意味のある
言葉を紡ぎ出す事ができなかった。
拒絶されたのだという、失望。落胆。
そこまで執拗に念入りに、おかし男を自らの傀儡として仕込んだあのハンターへの、呪詛じ
みた深い怨恨。
ここまで言い募った自分の気持ちを、何故理解しないのだという、純然たる怒りの感情。
様々な負の感情がせめぎ合い交じり合い、その混乱にヘーゼルは束の間気が遠くなった。
自分の言葉を待つおかし男になにか声をかけなければと頭では理解できても、戦慄くばか
りの唇が、自分の意思に従わない。
そんな風に、傍目には一触即発とも受け止められかねない沈黙を、向き合った一人と一体
は、どれほどの時間共有していたのだろう。
「……私、が……」
沈黙を破ったのは、先に自失したヘーゼルの方だった。
だが……
「―――私が…君を必要だと、そう言ってもか?」
だが……それは、彼が言い表そうとしていたどの感情をも、なぞらえる事のない言葉だった。
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