rest〜おだやかな時代・5







 胸の奥底から、ひたひたとせり上がってくる自らの情動と……どう向き合う事が自分の望んだ
姿であったのか、ヘーゼルにはもはや断定することができなかった。


 ともすれば嗚咽となって溢れ出しそうな思いの発露を、寸でのところで喉元で噛み殺す。それ以
上の動揺を晒さない事が、ヘーゼルのせめてもの自制であり、最後の矜持だった。

 子供の時分によくそうしていたように、眼前のおかし男に外聞もなくすがり付いて、一緒にいてく
れと泣きつく訳にはいかない。『彼』自身から釘を刺されたように、『彼』は自分を守り育ててくれた
あの得難い庇護者とは似て非なる存在なのだ。


 自らの居場所はここなのだと言い切られた以上、これ以上身勝手なエゴで、このおかし男を求め
る事はできない。互いの立ち位置を自覚し、その境界にはっきりとした線引きをすることができなけ
れば、曖昧な相関に苦しむ事になるのは当の自分達だ。

 不可侵の取り決めを言外に交わせるからこそ、人は互いに適度な距離を保つことで、円滑な関
係を続けることができるのだ。どちらかが無理矢理にその境界を崩せば、何からの形で相関は破
綻する。


 今自分の前に立つ、この人外が自分にとって『他人』であるということを、どうあっても自分は認
めなければならなかった。
 『彼』の自主性を認めないということは、その『人間性』をも否定するのと同様だった。それでは彼
ら人外を消耗品扱いするハンターやラボの研究者達と、傲慢さはなんら変わらない。

 ―――否。こうして、人の心を持つ人外を養育してきたハンターの実例を見せ付けられてしまった
以上、自分のエゴはそれにも劣る。


 自らの傲慢から伸ばした腕は、自らの意思で引き戻さなければならない。
 このおかし男は、あのハンターの元で使役されることを無上の喜びだと語っていた。ならば、この
手を離して『彼』の意思を尊重することこそが、『彼』にとっての本当の『保護』なのではないだろうか。

 認めなければ。この手を、自分から引かなければ。
 すでに自らの生きる道を定め、その道程をまっすぐに進んでいく『彼』の歩みを、自分のエゴで押し
とどめてはならない。それこそが『彼』にとっての自立であり、また、自分達党員はその支援の為に
こそ活動を続けてきたのだから。

 ……例えそれが、不倶戴天の敵ともいうべき人種である、あのハンターの元に隷属することであっ
ても。



 それは、自ら発足した党の理念に芯まで浸かり、その正当性崇高性をひたすら声高に主張して
邁進を続けてきたヘーゼルにとって、二律背反とも言うべき苦汁の選択だった。



 胃の痛くなるような思いで以って、相反する主張の間で堂々巡りを繰り返す。そんな葛藤を見抜
いたわけでもないのだろうが、おかし男は沈黙したヘーゼルに、自分から声を掛けようとはしなかっ
た。


 どれほどの時間を、そうして互いに押し黙っていたのだろうか。


 と、その時―――

 扉の外から僅か漏れ聞こえた喧騒の気配が、それまで室内に立ち込めていた重苦しい静寂の
帳を打ち破った。
 咄嗟に身構えたヘーゼルとは対称的に、勝手知ったるこの宿の住人であるおかし男は軽く居住
まいを正しただけで、動じる素振りもない。その様が、喧騒の中心となる人物が『彼』にとっての
『身内』であることを、暗にヘーゼルに教えている。

 自分の置かれた状況と、これまでおかし男から聞かされた話の経緯から鑑みて、それはただ一
人しか存在しえない様に思われた。


 果たして―――
 「……失礼いたします、ムッシュ」

 鷹揚な断りを一言言い置くと、しかしその語調にそぐわない機敏な所作で、室外へと続く扉の前
に、おかし男が歩み寄る。
 そう躾られたのであろう立ち居振る舞いによって、扉の向こうに待つ存在への推測は確信へと変
わったが……止め立てるだけの間も、ヘーゼルには与えられなかった。


 「おかし男、いるかい?」

 時を同じくして、室外から発せられた軽快なノックの音と、呼ばわりの声。
 既に出迎えの体制に入っていたおかし男によって扉はあっさりと開かれて……その先に、ヘーゼ
ルにとって因縁浅からない相手が、幾分気だるげにたたずんでいた。







 おかし男によって室内に迎え入れられた人物は、ヘーゼルの記憶に残るその男と、寸分違わな
い装いをしていた。

 あれから一日と過ぎてはいないはずなのだから至極当たり前のことなのだが、その共通項が尚
のこと、共に植えつけられた屈辱の記憶をも触発する。
 たった今、おかし男の自立を支援すべきだと自身に言い聞かせたばかりだというのに、その『彼』
からの奉仕を慣れた様子で受ける姿さえもが、酷くヘーゼルの気に障った。

 そんなヘーゼルの胸の内を知りようはずもなく、人と人外の主従は、鷹揚に帰営の挨拶などを交
わしている。


 「おかえりなさいませ、マスター」
 「後を任せて悪かったね、ありがとう。……ああ、お茶はいいよ。またすぐに出かけるから」

 帰りが何時になるか時間が読めないから、起きて私の帰りを待っていることはないよ―――穏
やかに言い置いて、迎えに出たおかし男にそれまで肩に掛けていたショールを預けると、男は
ようやく人心地をついたかのように、嘆息混じりにその首を軽く回した。
 と、その緋色の双眸が、今一人の出迎え人の姿を、遅ればせながら見咎める。

 気の置けない身内同士で語らうときの、それが、彼の素の表情なのだろう。どこか気だるげな、
しかし衒いというものをまるで感じさせない開放的な微苦笑が、瞬時に作為的なものへとすげ替え
られた。

 「……おや。お早いお目覚めでしたね」

 整った器量も手伝って、控えめに笑んで見せるその容色は、非常に人好きのするものに、見る
者の目には映った。
 だが、つい先刻まで『身内』に向けられていた、彼の素の姿を目の当たりにしたばかりでは、そ
の意図して作られた愛想顔に覚える違和感を、ぬぐうことができない。ただでさえ、男に対してわ
だかまっていた負の情動が、うなぎ上りに跳ね上がった心地さえした。

 向けられた笑顔とは対称的に、ヘーゼルの表情が固く強張る。
 あからさまな警戒を言葉ほどに物語ったその容色に、だが、一瞬含みのある視線を向けはした
ものの、男はそれ以上の関心をヘーゼルに示さなかった。

 緋色の双眸はあっさりとヘーゼルから逸らされて、再び出かけるという身支度のためなのか、続
きの間と思しき隣室―ヘーゼルの位置からその内部まで確認することはできなかったが―へと、非
常に人目を引く色彩を纏った痩身が、気忙しそうに行き来する。


 「ご気分は、いかがですか?大分お疲れのご様子でしたし、この程度の休息ではまだ頭も冴え
  ないでしょう?私はまた出てしまうのでろくなお持て成しもできませんが、後のことは『彼ら』に
  よく言い置いてありますから。疲れが取れるまで、気兼ねなくお休み頂いて結構ですよ」

 まるで、通りすがりに行き倒れを拾いでもしたかのような、善意の第三者然とした柔和な語調。
 昏倒に至るまでの、途切れ途切れの記憶が警鐘を鳴らさなければ、当事者のヘーゼルでさえ、
眼前の青年の穏やかな労わりの言葉を、字面どおりの純然たる厚意なのではないかと思い違え
てしまいそうだった。

 だが……自分の都合のいい解釈に逃げ込んでしまうには、残された記憶の断片はあまりにも生々
しく、そしておぞましすぎた。


 そこに至るまでの経緯は、はっきりとは解らない。だが、まるで夢遊の中にでもいたかのようなあ
の不明瞭な時間から目覚めた後、自分達兄弟が眼前のこの男から味わわされた屈辱だけは、鮮
明な像となって脳裏に焼きついている。

 よりにもよって、この世で最も忌むべき職種の男に……それも、自分達兄弟の養い仔の前で、不
本意な抱擁を受けるなど……否。それどころか、この男は自分と弟を、手八丁口八丁で丸め込んだ
挙句に……!

 あの時、その本意の程度はどうあれ、この男は自分達を、所謂「そういった対象」としてその食指
を伸ばしてきたのだ。
 結果として未遂に終わったとは言え―――おぞましさに、意識を手放さずにおれようか……!


 しかも……のみならず、いうに事欠いてこの男は……!



 「お連れのお二人も別室でお休みですから、落ち着かれたら『彼』に案内させて……どうしました?」

 いつまでも反応がないヘーゼルの様子を、流石にいぶかしんだのだろう。一通りの身支度を済ませ
たらしい部屋の主が、ヘーゼルの元へと取って返してくる。

 「……どうしました?ひどく辛いようでしたら、医療の心得がある者がいますから―――」

 それは、口先の空言ではなく、自分の様子を案じた男の本意が言わせた言葉であり、取らせた仕
草だったのだろう。それは、数えるほどしか男と顔を合わせた事のないヘーゼルにも容易に想像でき
た顛末だった。

 だが、それでも……
 脳裏に鮮烈に刻み込まれた屈辱の記憶は、他意なく伸ばされた男の手を、それと知りながらも受け
入れることができなかった。


 「触るな!!」
 「……っ」
 「ムッシュ…っ」


 何かを考えるよりも先に体が動くというのは、きっとこんな状況をなぞらえた言葉なのだろうと、頭の
どこかに残していた冷静な部分で、埒もない事をふと思う。

 それまで一切の口出しをせず、まるで置物か何かのように室内の片隅に控えていたおかし男が発し
た留め立ての声と、慌ただしくこちらに近づいてくる足音に、ようやくヘーゼルは、我を失った自身が取っ
た行為の意味を自覚した。

 わし掴んだ陶器の感触が、今更のように指先に返ってくる。


 自分の手元から持ち上げた視線の、その先で……



 「……随分と、手荒い返礼ですね」


 ぶちまけられた茶器の中身を頭から被るはめになった部屋の主が、琥珀の液体を滴らせながら憮然
とした表情で、ヘーゼルを見下ろしていた。




   back


   王子さまLv1 SS置き場へ