幼い時分に培われた記憶というものは、その後どのような育ち方をしても、どのような暮
らしぶりをしていても、完全に色褪せるものではないらしい―――相対した訪問者を前にし
たヘーゼルの、それが最初に抱いた感慨だった。
おかし男は、人里の近隣に広がる森林地帯などに好んで群生する、人間側にとってもそ
れなりに馴染みの深い男の子モンスターだった。男の子モンスターの権利と自由を謳い文
句に掲げるきゃんきゃん党の筆頭であるヘーゼルもまた、当然活動の中で彼らと接触する
機会に恵まれることもあった。
だが……何度あいまみえる機会を得ようとも、追憶に刻み込まれた『彼』をそっくり写し取っ
たかのようなその風体を目の当たりにするたび、胸の底からせり上がってくるもので、鼻の
奥が痛くなる。
人間と比べ、その生態の限界である寿命の長さが、格段に劣るのが彼ら男の子モンスター
だ。何度新たな出会いを繰り返しても、幼い頃に生き別れた、あのおかし男と自分達兄弟
が再会できる日は永遠に訪れない。
そんな覚悟をどれほど自身に言い聞かせても……それでも、幼い日の僥倖の記憶の具
現とも呼ぶべきその姿は、いつでもヘーゼルの心を波立たせた。
このヒライナガオの地で、隆起した遺跡の始末をめぐって、旅の冒険者達と幾度となく対
立してきたが―――その発端となった最初の衝突で、こちらの目を欺くためおかし男に扮
した一味の一人を、自分達は正体を見破るどころか、身内同然の扱いで以って歓待してし
まった事があった。
モンスターを保護しては抱きつくのが趣味なのかと、件の青年からは一触即発の剣幕で
一喝されたが……今振り返れば、その青年の非難は、あながち的外れではなかったので
はないかと思う。
もはや、自分達兄弟の中で聖域とまで化しているあの人外の姿は……それほどに、稀
有であり、抗い難い引力を宿すものなのだ。
―――そう。たとえ相対したその場所が、憎むべき天敵の効力下に置かれた、敵地であっ
たとしても。
「ムッシュ?ご気分は、いかがですか?」
向き合った形のまま一言も発することなく、ただ相手を凝視するばかりのヘーゼルの様
相に、入室を求めたおかし男の方も困惑したのだろう。
一度目よりも幾分滑舌に難ある語調で、再び同じ問いかけが成された。
「……ああ。いや…」
その呼びかけに、ようやっと、ヘーゼルも束の間の物思いから現実へと引き戻される。
「いや、大丈夫だ。多少気だるい程度で、全く大事無い。……ところで君―――」
「お連れの方達は、別の部屋でお休みです。、まだ目を覚まされてはいませんが、ご心
配なさるようなことは」
問いかけの機先を制され、幾分鼻白んだ面持ちで、そうかと短く返す。束の間とはいえ、
今最も安否を気遣うべき身内の存在を意識の外に追いやって、この人外に見惚れていた
自分の薄情が、なんとも決まり悪く、いたたまれなかった。
そんなヘーゼルの胸の内など知りようはずもなく、おかし男は人好きのする柔和な容貌を、
笑みの形に綻ばせた。
「お連れの方は、気がつかれ次第こちらにお連れします。それまで、どうぞこちらでおくつ
ろぎください」
「いや、しかし……」
本来、穿った見方をすれば軟禁とも取られかねないのが、今自分達が置かれている状況
だ。こんな所でのんびりと油を売っている余裕などないことは、いまだ本調子ではないヘー
ゼルにも解っていた。
そもそもが、自分とあのハンターとは、立場的にも感情的にもけして相容れることのない
二律背反の間柄だ。この先どれほど因縁が深まろうと、歓待を受けたり仕掛けたりするよう
な相関だけは築けないことを、それを心底拒み続けるヘーゼル自身が誰よりも承知してい
た。
だが……それでもはっきりとした言葉で誘いを固辞できなかったのは、やはり自分の中
に澱のように積み上げられた、拭い切れない感傷のためだろうか。
歯切れの悪い反応を、単純に遠慮によるものと思ったのか、おかし男は言葉を重ねてヘー
ゼルに休息を促した。
だが……
「マスターから、ムッシュのお世話を言い付かっています。今ドルチェの用意をいたします
ので、どうぞお楽に」
「……っ」
「ムッシュ?」
それは、おかし男にしてみれば、腰の重い賓客を促すために成された、他意のないもてな
しの言葉に過ぎなかったのだろう。主人の言い付けだと付け加えることで、遠慮深い客人に
余計な気を回させまいと、彼なりに気遣った結果の言い回しであることは、想像に難くなかっ
た。
だが……
「君は……君が……っ」
―――君が、それを言うのか……!
きっと、おかし男は想像することすらなかっただろう。
幼い頃からの、自分達兄弟の憧憬の象徴であった得がたい存在が、寄りにもよって、自
分達が天敵と憎み嫌いぬいてきた存在を、主と呼ぶ―――そのことが、どれほどの衝動
と劣情を、自分に味わわせるものであったのかを。
いま眼前に立つ人外は、幼い日の自分達兄弟を拾い育ててくれた、あの庇護者でなく…
また、彼を使役するあのハンターは、かつて自分達から得がたい蜜月を取り上げた、追憶
の日の闖入者ではなかった。
だから、こんな感情も、わきあがる衝動も……全ては、身勝手な感傷だ。怪訝そうな顔で
自分を気遣う、『彼』にぶつけたところでどうなるものでもない。
それが解っていても―――じわじわと胸を焼く、言葉にならないわだかまりを、ヘーゼル
はどうすることもできなかった。
「…………頂こう」
彼にできたのは……せめてもの矜持で、眼前に控える人外に、表向きだけは厳粛な面
持ちで頷いて見せることだけだった。
†
主人に言い付かっていたという言葉のとおり、おかし男が自分をもてなす為の下準備は、
すでに整っていたのだろう。
ほどなくして、室内のテーブルに手馴れた様子で並べられた菓子類の器を前に、ヘーゼ
ルは先刻とはまた別の意味合いで、言葉を失わずにはいられなかった。
成人した今となっても、些かの遜色もなく自分の中に鮮明な情景を残し続ける、幼い日の
蜜月の記憶。
その、得がたい僥倖の記憶をそっくり写し取ったかのような、菓子類の形状。菓子皿の采
配―――
記憶に色濃い、幼かった自分達兄弟の庇護者は、眼前の『彼』の眷属だ。種としての特性
を鑑みれば、それはなんら疑念に感じる一致ではなかったのかもしれないが……
「……どうぞ?」
うかがうように押し黙った戸惑いを、控えめな声音で促され……とりあえずは手近に置かれ
ていた茶器を持ち上げてみる。
だが―――確かに飢え渇いているはずの体は、欲求のままに手にしたそれを飲み干すこ
とができなかった。
「……?」
勧められた紅茶を一口含み、しかしヘーゼルはわずかに眉間を寄せる。その提供者が側近
くで控えていることもつかの間忘れ、彼は手にした茶器の中身をまじまじと眺めやった。
気を取り直すように、お茶請けにと出された洋菓子も一口摘み―――それらの味に不満足
というよりは、困惑の色濃い思案顔で手を止める。
そんなヘーゼルの様子に、それまで一言も発することなくその場に控えていた人外が、頃
あいと見計らってか、声をかけた。
「ムッシュ、お口に合いませんでしたか?」
「……いや、失礼。上品な、いい味だと思う。口に合わないということではなくて……単なる
感傷だな」
「ムッシュ?」
「すまない…美味い、不味いということではないんだ。ただ少し、私の覚えているこの菓子
や紅茶の味との違いに、身勝手な違和感を覚えただけで……」
幼少の頃、眼前に控える人外とまったく同じ姿形をした庇護者が、幾度となく与えてくれ
た軽食代わりの菓子類。一つ一つの出来栄えもすばらしく種類も豊富であったため、そん
な食生活を送った二月の間、幼い自分や弟が、出されたものに飽きを覚えるということは一
度としてなかったが……
それでも、余程律儀な作り方でもしていたのか、庇護者から与えられたそれらは、いつで
も判で押したように同じ味わいであったという記憶があった。
「あのハンター…君の主人からもう聞かされているかもしれないが…私と弟は、幼い頃、
君の眷属に育てられた事があってね。二月ほどの間だったが、紅茶も、この菓子も、そ
れこそ毎日のように口にしていた。幼い私達が飢えないように、『彼』が振舞い続けてく
れたのは、これと全く同じものだったと記憶しているんだが……」
例えば、いま口にしたブランマルジェ―――この菓子ひとつを取っても同じことが言える。
十回作れば十回とも、庇護者であった人外は、風味ともに寸分違わぬものを自分達に提供
してのけた。
作り手の性格云々の問題ではなく……誤差と呼べるほどの差異もなかったその緻密な出
来栄えは、おそらく彼の存在の属する種そのものに共通する特質であるのだろうと、いつの
ころからか自分を納得させていたのだが……
「……いや。所詮は子供の頃の記憶だからな。君達にもそれぞれに個性があるのだから、
風味にも個性が出るのは当然のことだ。けして難癖をつけたい訳ではなかったんだが…
…せっかくの持て成しに、水を注してすまないな」
ただの感傷なのだと、そう人外に告げた言葉を、自身に向けて腹の底で今一度繰り返す。
思えば、自分の味覚が記憶するさまざまな菓子類の提供者は、かつて庇護者であったあ
の「おかし男」ただ一人だけだ。人間の社会でも、人の数だけ無象の「味」が存在することを
考えれば、人外の世界に同じ理屈が適用しても不思議なことではない。
どこかで、同種族であるなら追憶の日のそれと寸分違わぬものを作ってのけるのではない
かと期待していたヘーゼルの夢想は、だからただの感傷に過ぎなかった。
だが……
「ノン、ムッシュ」
だが……幸多いとはいえなかったであろう幼い日の、希少な幸甚の記憶の提供者にして
具現者そのものでもあった、仮初の保護者と同じ姿をした人外は、静かに首を振って、ヘー
ゼルの謝罪に否と答えた。
「私達モンスターには、それぞれ別個の人格があり個性があります。ですが、人間のよう
に、同種族間で閥が生まれることはありません」
「閥?」
何の話が始まったのかとヘーゼルはわずか眉根を寄せて……
そして―――続く語り手の言葉に、その表情は凍りついた。
「自分と相手との境界が、ひどく曖昧なのです。敢えて相手と区別をつけようとしないから、
それぞれが自分の個性を声高に訴えることもない。―――例えば、我々「おかし男」と呼
ばれる種に限っていうなら、種に伝わるレシピ通りに全ての同属が同じ見た目、風味のド
ルチェを作り上げても、まったく気に病まないということです。自然、そうして画一化されて
いく過程で、各々の個性である持ち味というものが淘汰されます。結果として、皆が皆、
判で押したような物ばかりを好んで作るようになる」
さらに付け加えるなら、と続けると、それまで種の歴史をとつとつと物語っていた人外は、
わずか困り顔を見せた。
「逆を返せば……種族相伝のレシピ以外の物を、作ることができないということです」
「……っ」
「ムッシュ。貴方が嫌う、我々モンスターを使役するマスターという存在。彼らは我々にとって、
もっとも近しい距離にある唯一の「人間」です。我々とは別の世界に生きる彼らとの、それ
が主従という形であれ、そういった「接触」、「交流」があってはじめて、我々の世界は広が
るのです」
穏やかな語調でそこまで語ると、おかし男は空になっていたヘーゼルの茶器に、先ほど彼
が美味だと賞した紅茶を注ぎ足した。
そして……
「貴方にとってはご不満のことと思いますが……その紅茶も、お召し上がりになったブラン
マンジェも、種族に伝わるレシピから作ったものではありません。これらは全て、私のマ
スターがご自分のお好みを基に伝授くださったものです」
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