Darwinism〜岸を離れる日3〜





 眼前の人外からかけられた言葉の意味を……白鳳は、しこりなく消化することができなかった。


 種の情報と、「ノーベル学者さん」は言っていた。言葉の持つ響きこそ多少違うが、それは自分たち人間側が言い表すところの「魂の情報」と同様の意味合いで使われたものと、考えて差し支えないだろう。

 提供者となる人間の魂の情報を以って、モンスターの亜種は生まれてくる。それは提供者となった人間とその至極近しい身内のみが知り得る最重要機密のメカニズムであったし、当の提供者でさえ、そのメカニズムに関する記憶の全てを保有することは許されていなかった。
 事実、「学者さん」という男の子モンスターの誕生に一役買った、生物、遺伝子学に精通する父ですら、提供した情報がどのように作用して件の人外が形成されるのか、憶測なりとも解明することはできなかったという。記憶の肝心な部分に制約がかけられているかのようで、解明しようにも論理の基盤さえ築けなかったのだと。

 提供する側に残された記憶がその程度なら、情報を受けて生まれてくるモンスターの方とて、それはご同様だろう。もっとも、自らの種の記憶を辿り、自身のルーツを突き止めようなどと考える種族がどれほどいるものかは疑問が残るところだが。


 「ノーベル学者さん」もまた、自らの種の有り様に興味と疑念を抱く、数少ない人外であるという事なのだろう。そして、そのルーツとなる遺伝子情報の提供者に、恐らくは興味を抱いている。


 面と向かって提供者かと問いかけられたからには、この人外は自分との外見上の類似を認めているという事だ。
 同じ因子を受け継いで生まれてきた以上、ある程度似通うのは至極当然の摂理だったが……それならば、そこから推察されるいまひとつの可能性に、「彼」は思い至らなかったのだろうか。
 それとも、「提供者」から受ける影響の程を、所詮はその程度だと結論付けているだけなのか……


 「その程度の類似」ですむものならどれほど良かったかと……自嘲気味に飲み下した嘆息が、喉元で重くしこった。






 若くして病魔に侵された父は、わずか三十有余年でこの世を去った。
 あとに残されたのは、外で働いたこともない乳母日傘で育った母と、まだ幼い弟。そして、やっと十を超えたばかりだった自分―――近隣の住民達は、そんな自分達がこの先どうやって生計を立てていくのかと懸念して、あれこれと世話を焼いてくれたものだった。

 幸いにも、学会での評価も高かった父は、自分達家族が暮らしていけるだけの充分な遺産を残してくれたので、明日食べるものにも困るような生活を強いられる事はなかったが……


 問題なのは、金銭面ではなく、年若くして寡婦となった母が、心に負った傷の方だった。

 もう泣いても笑っても、残された三人で生きていかなければならないのだからと、事あるごとに幼い自分達に言い聞かせるようになった母は気丈でさえあり……だから、そんな母が内心抱えていた痛みの程を、自分は長いこと気づけずにいた。


 母に最初の変化が現れたのは、自分が十五を過ぎた頃。
 父が他界した当時、ようやく物心ついたばかりだった弟も、地元在住の学者が門戸を構える私塾に就学できる年齢になり、ある程度子育てから手が離れた母からは、ようやくゆとりのようなものが感じられるようになって……
 ……だが、自分の時間ができるようになった分だけ、折に触れ、母が物思いに耽る回数も増えていった。

 母の存在を、省みなかったわけではない。ただ、自分にも弟にも、それぞれ独自の世界と交友関係が出来つつあったし、家の中の事よりは、刺激的な外界に向ける興味の方が大きかったから……
 いつでも穏やかな笑みを絶やさなかった母が、その笑顔の下でどれほどの寂しさを抱えていたのか……自分も弟も、気づくことが出来なかったのだ。


 生涯の伴侶を失い、その喪失が胸に空けた風穴を、忘れ形見である我が子の養育に没頭することで埋め続けていたのであろう母。その自分達が、以前ほどには手がかからなくなってみて初めて、母は気づいてしまったのだろう。

 喪失の痛手に渇いた心が、それを満たすものにどれほど飢えていたのかを―――



 あれは、確か残暑の厳しい晩夏の事だった。
 当時通っていた私塾の、研究発表会か何かに出席するためだっただろうか。正装前提の会場への出入りのため、その日、自分は普段は袖を通す事のないスーツの上下に身を包んでいた。
 着付けない正装は思いのほか支度に手間取ってしまい、時間を気にした母が、支度はどうかと様子を伺いに来て……

 その時限りの出来事だった。以後、一度でも母が同じ呼び名を口にした事はない。だが……
 その時―――確かに母は、自分に向かって父の名を呼んだ。




 人の認識には、思いもかけない穴が開くこともあるのだから……例えば、上の子供と下の子供の名を、母親が無意識に呼び違えてしまうなどと言う事は、日常的に起こりうる過失だった。子供のどちらかに、より意識が向けられていたから起こるという類のものではない。
 母にとっての自分が、関心の薄い存在なのだとは、だからその時でさえ、自分は思わなかった。それほどに深く、愛されて育ったという自覚が当時から自分にはあった。

 ただ……生前の父と、わずかばかり背格好が似通ってきたというだけの自分の上に、一瞬でも父の面影を見出した母の姿が、あまりにも物悲しく見えて……
 それほどに空虚な思いを持て余すほど、母は寂しかったのだろうかと……そう思うと、酷くいたたまれない気分になったのだ。


 そして、その日を境に、自分の中で澱のようにわだかまりはじめた懸念が、もう一つ。

 当時、ようやく六つになろうかという年頃だった弟は、それでも自分よりもはるかに、亡き父の面影を受け継いでいた。もう十年もすれば、もともとが童顔だった父を生き写したかのような外見に成長するだろう事は、想像に難くない。
 その日がやってきた時……母は、弟の面差しに、また父の姿を重ねて見るのだろうか。

 自分の上に、自分以外の存在を重ねられたことで、相手の自分に向ける愛情を疑おうとは思わない。それでも、我が身に降りかかって来たとき、それはけして気持ちのいい感情ではなかったから……
 同じ屈託を、弟には味わわせたくないと―――そう強く思った事が、今眼前に立つ人外へと繋がる因縁の、最初の布石であったかもしれない。



 魂の情報を提供した、オリジナルである父の面影を求めて、それまで積み重ねてきた暮らしの全てを擲つほどに、「学者さん」に傾倒した母。その亜種である「ノーベル学者さん」を父と見間違え、その手に陥落してしまうまでに、「父親」という存在に飢えていた弟。

 もうこれ以上……自分達家族の中に、余計な波紋を投げ込まれるのはごめんだった。
 自分達が求めていたものは、本物の父だ。その外見に空しい感傷を掻き立てられるくらいなら、姿形を写し取っただけの紛い物などいらない。

 もう二度と―――この人外に、自分達兄弟の人生とは関わりは持たせない。
 この、望まれざる亜種を生み出してしまった自分の、あの大罪の日の覚悟に誓って……まいた種の全ては、ここで刈り取って終わらせるのだ。





 「……提供者?私が?」

 意図して作った声音で、揶揄するように相手の言葉をなぞらえながら、白鳳はその口元をうっそりと撓めて見せた。

 まずは、相手の興味を全てこちらにひく事だ。自分に向けられた関心が深まれば深まるだけ、スイや盗賊団の少年にかかる危害は少なくなる。
 「ノーベル学者さん」にとって、おそらくは最たる関心事であるだろう、実際の提供者である父については、攪乱を狙えると解っていても、どうしても口に出すことは出来なかった。

 「……そうだと、言ったら?」


 これは、自分の甘さが引き起こした事態だ。だから、どうあっても自分の手で収拾をつけなければならない。
 だから、自らも揺らぐと知りながら、余計な情報を流す余裕などありはしないのだ。どれほど傍目に見苦しく映ろうとも、どんな手段に訴えてでもこの場を切り抜け、自分達はそれぞれの日常に戻らなければならないのだから。


 「私が提供者だとしたら、どうするつもりなんだ?いっぱしの研究者を気取って、お前達の種の起源でも追及するか?」
 敢えて相手の神経を逆撫でにするであろう言葉を選んで、挑発を繰り返す。相手が乗ってきたときに生じるはずの隙を窺いながら、白鳳は「ノーベル学者さん」をせせら笑った。

 「人知れず自分だけのラボを構え、自己満足な研究に明け暮れるのがお前達の習い性らしいけれど。偏屈な学者を気取ってみたところで、所詮はその成果を世間に公表する機会すらないんじゃないか。学者の本分は探究心にあるといっても、それを聞いてくれる相手もいないのでは意味がないな。お前も「学者さん」も、二言目には研究研究と喧しいけどね。形ばかりの人真似にどんな意義があるのか、この際教えてほしいものだな」

 誰に認められずとも、自らの内面から沸きあがってくる探究心を押しとどめることはできない―――生前、父が良く口にしていた言葉だ。
 見返りだとか、自己顕示欲だとか、そんなものは二の次なのだと常に語っていた父は、その言葉通り、晩年まで自身の探究心を満たすべく研究に没頭していた。

 それが研究者というものだからと、どこか困ったように笑っていた父の姿勢を、否定する気持ちは今でもありはしない。
 ただ、他の何ものにも捕らわれない、そんな父の生き様を羨ましいと思う反面、地に足をついた生活をしてほしいという思いも、自分の中にはあったから……
 「ノーベル学者さん」を煽るために重ねたその言葉には、父の生前には口に出せなかった白鳳の本音も、確かに含まれていた。


 ともあれ、白鳳の言及は、彼ら「学者さん」の名を持つ人外の存在意義そのものを、否定しているも同然だ。余計な追憶に幾分ほろ苦い気持ちになりながら、それでもこれなら必ず食いついて来るだろうと、白鳳は内心ほくそ笑む。

 果たして、それまで能面のような鉄面皮を崩さなかった「ノーベル学者さん」の双眸に、僅かに苛立たしげな光が浮かんだ。

 「……人間。我々の種の本能を、軽々しく揶揄することは許可しない」

 言葉ほどには感情を気取らせない語調で牽制の姿勢を見せ……しかしその無機質な表情の下で、何らかの意識の切り替えが成されたのだろう。
 モンスターという種を一絡げに考えた時、その総評から大きく外れる程度には、「ノーベル学者さん」は白鳳に対して饒舌だったが、向けられる言葉に含まれた重みが、先刻までのものとは違っていた。

 つまりは、「彼」にとっての白鳳の存在が、先刻までとは異なる認識を抱く対象になったということか。


 「お前が提供者だというなら、是非もないこと。オリジナルの遺伝子情報は、この上なく有益なサンプルとなる」
 果たして、言葉面だけは淡々と続けられた「ノーベル学者さん」の壊述に、明らかな熱がこもった。

 喰いついた……!

 眼前の人外から向けられた興味が、研究対象に対するそれに挿げ変わった事を確信した白鳳の口許に、意図して作り上げるまでもなかった剣呑な笑みが上る。

 「へえ、目の色が変わったね。私の体からサンプルを採取したいという訳か?……残念ながら、自己満足一偏等の、なんの生産性も発展性もない研究題材にされるだなんて、まっぴらごめん蒙るね」
 「生産性も、発展性もない……?」
 「その通りだろう?こんなダンジョンの片隅で、種族の根源をどこまで突き詰めてみたところで、その成果を世間が評価してくれるわけでもない。男の子モンスターに偏見を持たないキャラ屋やラボなら、有効活用してくれるかもしれないが……人間さえ研究対象にしてしまうような危険なモンスターを、そもそも彼らがまともに相手にするとも思えないしね」

 自己満足を自己満足と言って、何が悪い―――居丈高に言い放って見せた白鳳の腹の底では、形成を覆すための筋書きは概ね出来上がっていた。
 その呪いとも呼ぶべき外見への萎縮によって、後手後手に立ち回ざるを得なかった対峙だったが……こちらの土俵に引き込んだ上で冷静な状況判断をすることが出来れば、戦闘能力の上ではけして敵わない相手ではないのだ。
 一番の悩みどころであった相手の姿形にも、いい加減目が慣れてきた頃だ。このまま畳み掛けて、反撃の糸口を掴まなければ――



 だが……
 「……否。これは、非生産的行為とはなり得ない」

 だが……対する「ノーベル学者さん」は、白鳳の挑発に薄く嗤っただけだった。
 「何故なら、発達させるべき対象は、私自身だからだ」
   



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