Darwinism〜岸を離れる日2〜





 記憶に残る在りし日の父は、暇さえあれば書物を広げ、自らの造詣を深めることに余念のない人だった。


 生物学者という生業上、常に最新の学説に通じていなければ学会の動向から取り残されてしまうし、また、そこから派生する世論を柔軟に受け入れるためにも、基盤となる知識はいつでも万全な備えをとるべく、磨いておかなければならなかったという事情もあったのだろう。

 だが、元来鷹揚な育ちであり、学会での出世に執着していた風でもなかった父のそんな習性は、偏にその貪欲な探究心を納得させるためだけのものだったのだろうと、今でも白鳳は思っている。


 母もまた、父に負けず劣らず浮世から離れたような気性の人だったから、そんな父に、家計に結びつくような実益性のある研究をしろとは言わなかった。

 双方共に、所謂「それなりの育ち」をしてきたらしい両親には、もともとが、良くも悪くも生活臭というもに希薄な面があったのだろうが、父の探究心が高じて学会に持ち込まれた学説の多くが高い評価を得たことで、収益が後から付いて回るという生活の繰り返しが、その為人に尚のこと拍車を掛けていたのだろう。
 まだほんの子供だった自分達兄弟の前で、そんな素振りを見せなかっただけという可能性も、ないではなかったが、少なくとも白鳳の知りうる限り、生家が金策に喘ぐような暮らしぶりだったことはなかった。

 これは今少し自分が大人になってから知ったことだが、両親は結局一度も、心強い後ろ盾であったはずの双方の実家から、何らかの援助を受けたことはなかったそうだから、唯一の収入源であったと思しき父の研究は、それだけ学会で重用されていたということなのだろう。

 もっとも、父方、母方ともに、祖父母が他界してから後は、資産家の家系によくある遺産争いもあったようで―伝聞形なのは、みんな後になってから判明した話だからだ―、そのいざこざを境に、両親はますます実家との距離を置くようになったらしい。今となっては、白鳳にとってもその二家は、頼るべき筋ではなくなってしまった。


 ともあれ、全ては後々になってから、浮き彫りになった裏事情だ。

 子供心に覚えているのは、両親がとにかく屈託のない人であったという事。そして、そんな両親の元で、自分と弟はこれ異常ないほどに慈しみ育てられていたということだけだった。


 まだものの道理も理解できないような年頃の我が子に向かって、それでも子供に合わせて言葉を選び選び、目を輝かせて自らの研究について講釈するような……そんな、ある意味年甲斐のない父だった。

 こういう大人になりたいとは、庇護者に心酔する世代の子供心にも、思った事はない。それでも……


 浮世を離れた風情でありながら、その実、しっかりと現実に足を下ろして生きていた。こんな大人になれるものならいいのにと……白鳳の記憶に残る父は、子供の自分に、そんな事を思わせてしまうような人だった。







 幾度目かの応酬の末、それまで間断なく続いていた喧騒の物音が、ふつりと途切れた。


 所謂飛び道具使いである、白鳳と「ノーベル学者さん」の相性は、こと一対一の実戦においては、最悪と言っても差支えがなかったかもしれない。

 曲線的な動きを得意とする白鳳の獲物では、自在に屈折の角度を変えられる「ノーベル学者」さんのレーザーを掻い潜って効果的な攻撃を仕掛けることは難しい。刀鎗のような、レーザーの反射を狙いつつ、一瞬の隙を突いて対象の懐に飛び込むといった、「待ち」の戦法が取りやすい獲物の心得がない事は、こうして相性の悪い敵と相対した時、我流の戦術しか待たない白鳳の弱点を浮き彫りにさせた。

 勿論白鳳自身が名うてのハンターである以上、得意とする獲物一つで標的と渡り合う事になんら引け目を感じないだけの戦闘能力は有している。また、けして負けの許されない旅を自らに課している以上、境地に陥ってまで矜持大事の片意地を張って、一人勝ちに拘るほどの狭量でもないつもりだ。そのための助力は、そのように躾け育てた人外の従者達がいくらでも差し出してくれる。

 だが……弟と、知己の身内を人質に捕らわれ、相対すべき敵の外観にその怒りと焦燥を煽られる形となった今の白鳳は、些か頭に血が上りすぎていた。周囲の制止の声を振り切って敵の本拠地に飛び込んでしまった今となっては、その興奮を鎮めてくれる存在も助力も期待できはしない。

 自力で何とかしなければならないのだと焦れば焦るほど、獲物は今一歩のところで焦点を外してしまう。始めから及び腰の攻撃が、まぐれ当たりでも致命傷に繋がるはずもなかった。




 一方、「ノーベル学者さん」の方でも、白鳳の存在は招かれざる敵であると言えた。

 元来、「学者」を名乗る彼らの種族は、種の本能として何よりも探求することに貪欲だった。また、他者への興味を覚えやすいという意味合いにおいて、非常に好奇心が旺盛な種族でもある。

 一旦興味を持ったもの、疑念を覚えた対象について、そのまま捨て置くことができないのもまた、「学者さん」の習性である。そして、彼らの抱く「興味」は、人のそれに比べてはるかに根深い。
 珍妙な生物のサンプルとして、最も興味を掻き立てられる研究対象を奪い返しに乗り込んできた以上、「ノーベル学者さん」にとって、白鳳は紛れもない敵だ。だが、「彼」自身が口上したように、学者的見地からの興味を白鳳に抱いたとなれば、話は別だ。

 生物が対象であるからには、その生態を余さず観察する以上に、成果の期待できる研究手段はない。対象の遺伝子レベルでの研究を行うのであれば、尚のことだ。
 いずれは解剖という手段を選ぶにしても、一度はその生態を調査するために、対象は生かしたまま捕らえたいというのが「ノーベル学者さん」の本音だろう。

 屈折の角度を自在に調整できるというミミックレーザーにものを言わせても、生かさず殺さず、対象を捕獲することは難しい。ましてや、相手が相応の戦闘能力を有しているのなら、その難易度の程は推して知れた。



 結果として、お互い決定打には至らない、様子見のような攻防の応酬に徹さざるを得なくなる。じわじわと傷を増やしながらの体力の削り合いは、一人と一体の鬱積を溜め込むには充分すぎた。


 ―――埒が明かない

 内心で、そう吐き捨てたのは、果たしてどちらが先だったか。


 じりじりと互いの隙を窺いながらの、決定打に欠けた攻防戦が膠着状態に陥ってから、どのくらいの時間が過ぎていたのだろう。
 行動を起こしたのは、「ノーベル学者」さんの方が先だった。



 「―――ハクホウ」
 「……っ」

 名乗った覚えのない名を出し抜けに呼ばれ、今まさに、その相手の死角から繰り出されようとしていた獲物の動きが止まった。


 思わずその場に立ち尽くしかけ、弾かれたように一歩の距離を退いた白鳳の前で、言葉の主は然したる感慨もなさそうにその総身を眺めやっている。

 「……な…っ」
 この人外には、相手の目に見えない情報を読み取れる能力でもあるのかと……知らず知らずに居住まいを正していた背筋が寒くなった。

 名を呼ばれたという、ただそれだけのことに、心拍数が一足飛びに跳ね上がった自身の動揺を、否応なしに思い知らされる。


 何より、その声が……その居丈高な物言いが在りし日の父とはまるで似つかないものだったから、これまで辛うじて気づかない振りを続けてこられたその声が……

 ―――同じだった。
 なにか頼みたい時の、言い聞かせたい事がある時の、その、わずか含みをこめた呼ばわりの語調が……


 「……っ…さ……」
 父さんと……そう反射的に呼びかけた声を、寸でのところで飲み下せたのは奇跡に近いと、血の上った頭に残された、冷静な部分でそう思う。

 総毛立つという感覚を、この時白鳳は、骨の髄まで思い知らされた心地になった。
 それほどに―――人外に過ぎないと、自身に言い聞かせてきた存在が発した声は、幼い時分に慣れ親しんた父のものと酷似していた。


 何故と、そう問う事は、きっと何の意味も成さない行為なのだろう。人の生態に準えて考えてみれば、答えはおのずと知れてくるものだ。

 それぞれ別の環境で育てられた双子が、実際に会話をさせてみたら寸分違わない声音をしていた、などということは、人の世界にも間々ある実例だ。
 こと、声に限って言うならば、重要なのはどういった境遇に置かれていたかということではなく、どういった形の声帯を持って生まれてきたかということだった。
 後天的な要因が加わることによって声帯に異常でも起きればこの限りではないだろうが、双子……特に一つの卵子から生まれてくる一卵性双生児ならば、酷似した遺伝子情報によって、ほぼ同一の形状をした声帯を生まれ持つ事になる。結果として、その二人の声が非常に似通ったものになっても何ら不思議はなかった。

 幼かった自分を相手に、生物学者であった父が子供向けに噛み砕いて説明してくれた講義の内容を、ほろ苦い思いで反芻する。
 魂の情報を提供した父と、眼前の人外は、いわば魂の双子とでも呼ぶべき存在だ。結果として外見や声が似通う事に、それ以上の意味などありはしない。


 ―――ましてや、対象同士がその記憶を共有するなどという可能性など。



 対峙する態勢はそのままに、激しい葛藤を繰り返す白鳳の胸の内を知ってか知らずか、「ノーベル学者さん」はその鉄面皮を崩すことなく、淡々と言葉を重ねるだけだった。

 「……そう、周りの人間に呼ばれていたな。それがお前の名か。色彩の白に、鳳凰の鳳で白鳳か…?」


 図らずも正確な字体までも言い当てられ、結果としてより「オリジナル」に近しい発音で名を呼ばれた衝動が、呼び名を漏れ聞かれていただけなのだと判明した束の間の安堵を打ち砕く。もはや言葉もない白鳳の前で、『彼』はこともなげに、研究データには正確な学名が必要だからと続けて見せた。

 「お前の外見にも、私は興味を抱いている。我々という種の根底に繋がるものを、その個体から僅かに感じるのでな」
 「何を言って―――」

 下らない繰言はよせと、高圧的な態度を崩すまいとせめてもの意地にしがみついていた白鳳の虚勢は……しかし、次の瞬間あっけなく瓦解することになった。




 「―――「白鳳」、お前は我々の、種の提供者か?」

    back next


    王子さまLv1 SS置き場