絆〜その他後日談1〜



年が明けると、京では宮中や家の行事で慌しい日々が続く。だが、小正月を過ぎる頃には少しずつだが落ち着きを取り戻していった。
そんなある日、星の一族の元に河内から一通の挨拶の文が届いた。その内容は密かに、そして速やかに八葉、黒龍の神子に伝えられた。



「この度は女御様がご懐妊されたそうで、おめでとう御座います。」
今、内裏内では新年早々のこの明るい話題で持ちきりだ。彰紋が兄である帝に微笑みながらお祝いの言葉を述べた。
「あぁ、ありがとう。」こちらも微笑み返す。「だが産まれたのが皇子ならば東宮を退くと言う気持ちは変わらないのか?」
「はい。僕は補佐する方があうと思うのです。」
「確かにそなたは優しすぎるところがあるから辛いだろうな。だが、皆に配慮する事が出来るから良い指導者になると思っているのだが。」
確かに次の帝は自分の子供に継がせたい気持ちはある。しかし弟の彰紋には、帝として立派にやっていけるだけの力量があるとも認めているのだ。
「帝の地位は天が決めるでしょう。それより今は女御様と御子のご無事を祈りましょう。」
「そうだな。」
上手くはぐらかされたか。しかしここ数日の彰紋は、悩みが吹っ切れたような清々しい表情をしている。それは東宮の地位を退くとの長年の望みが叶うかもしれないとの思いだけではなさそうだ。
扇を広げては閉じる。それを繰り返しながらさり気なく尋ねた。
「ところで、最近穏やかな表情をしているな。そなたの大切な姫君から幸せな便りでも届いたのか?」
「え?」ギョッとして兄の顔を見つめた。だが思い当たる事があった為、ふっと諦めの表情で微笑んだ。「やはり気付いておられましたか。」
「当然だ。八葉みな態度が不自然だったからな。」
閉じた扇で肩を叩きながら脇息に寄り掛かった。
貴族の世界は身分社会だ。責任者と言えども身分の低い勝真ではどんな些細な要望も撥ね付けられてしまう。それを彰紋や幸鷹が分からない筈は無い。知っていながら敢えて東宮の地位にいる彰紋ではなく勝真が出て来たのだから、それは八葉が神子を救う為に動き出したという事だ。
「帝の御配慮のお陰で花梨さん、神子は今、愛する者達に囲まれて幸せに暮らしておられるようです。」
「そうか。幸せになられたか。」微笑む。だが、すぐに笑みは消えた。「いや、謝罪しなければならないな。本来ならば京の民を代表して私が神子をお守りし、幸せにしなければならなかったのだから。」
「いえ、花梨さんはしたくても出来なかった帝のお気持ちはご理解なさっておりました。」平和になった京を荒らしたくないと言う気持ちは、花梨も同じだったのだから。「遠くの空の下から京の幸せを祈っています、と文にそう書かれておりました。」
「そうか。神子は京を、私を、許して下さるのか・・・・・・。」涙が零れ落ちる。「あの方が龍神の神子で良かったな。本当に良かった・・・・・・・・・。」
「はい。」
彰紋の眼には涙は無く、ただ嬉しそうに頷いた。



ザァァァーーー。
ガラガラガラ。
ガッタン!
考え事に没頭していた幸鷹は、乗っていた牛車がつんのめるように止まった拍子に現実に引き戻された。屋形が傾いている。
「どうしたのです?」
物見窓を開けて尋ねると、牛飼い童の一人が小走りで近寄って来た。
「申し訳ありません!車輪が溝に嵌って壊れてしまいました。代わりの車をご用意致しますので少々お待ち下さい。」
「そうですか。分かりました。」
外は土砂降りの大雨。そしてその雨が積もった雪を融かし、泥道となっている。さすがに歩いて帰る気にはなれない。多少遅くなろうと仕方が無いと諦め、窓を閉めようと手を掛けた。
「どうなさったのですか?」
ちょうどその時、脇を通り過ぎようとしていた車に乗っている者が幸鷹の車の状態に気付き、従者に声を掛けさせた。
ざわざわざわ。牛飼い童を始めとして従者達に緊張が走る。車の主は右近衛府大将、神子を見殺しにするのも止むを得ないと言ったあの貴族だ。
「車が壊れてしまって立ち往生しております。」
「では、こちらにお移りになりませんか?屋敷までお送り致しましょう。」
ザァァァーーー。
雨の音だけが聞こえる。
と。
「ありがとう御座います。助かります。」
幸鷹は礼を言い、右近衛府大将の車に移った。

「はぁ・・・・・・。」
「ほぅ・・・・・・。」
幸鷹の方の従者達も、そして右近衛府大将の側近達も胸を撫で下ろした。
ガタン。
ガラガラガラ。
何はともあれ、これが仲直りのきっかけになれば良いとの願いを乗せ、車が動き始めた。

ザァァァーーー。
「先日はご協力ありがとう御座いました。今までお礼の言葉も申し上げぬ無礼、お許し下さい。」
雨の音で外には声は漏れない。それでも囁くような小さな声で幸鷹が謝罪した。
「いや、それは気にするな。仲違いしたと思われた方が互いに都合が良かったのだから。」足を崩し、寛ぐ。「それに礼を言いたかったのは私の方だ。少納言に復讐する機会を与えてくれた事に感謝する。」
妹を苦しめ、結果的に父と妹を死に追いやったあの男。だが、すぐに関白殿の娘婿となってしまった。舅に嫌われているのは分かっていたが、関白殿の顔を潰す訳にはいかない。復讐など叶わぬ事と諦めていたのだ。
しかし内裏内での噂を思い出し、思わず笑みが浮かんだ。
確かに今回の婿の不祥事で恥をかいた。しかし多くの貴族は、素行に問題のある婿を追い出す口実が出来た左大臣の運の良さを羨んだのだ。しかも妻だった姫は元々左大臣のお気に入りの娘、繋がりを持ちたいと早くも縁談を申し込んだ者までいる。
「・・・・・・・・・。」
少納言の父である大納言も面目を失った一人だ。だが彼もまた、この不祥事のおかげで息子を追い出す事に成功し、長年の悩みが消え失せ晴れ晴れとした顔をしていた。
この事件は政局にほとんど影響を与える事もなく終わったのだ。幸鷹にも笑みが浮かんだ。
「探索も縮小したのだな。」
「はい。手掛かりは何も残されてはおりませんから。」
神子が誘拐された事が公となったが、この大将が反対してくれたお陰で追っ手を差し向ける事は叶わなかった。それでも不審に思われぬ程度に部下に探索させていたのだ。しかし年を越したのを期に、少しずつ縮小し始めた。桜の花が散る頃には全て引き上げさせるつもりだ。
「して、神子はその後いかがされたか?」
「信頼出来る者の側で静かに、幸せに暮らしておられます。」
「そうか、幸せになられたか。」
ふっと優しい笑みが浮かぶ。
「はい。大将殿のご協力のお陰です。」
「ふ。」
別当殿は煽てるのも上手いな、との苦笑に変わった。



「お前、本当に出て行ってしまうのか?」
内大臣が息子に尋ねた。
「はい。そろそろ私も大人にならねばならない歳になりましたから。父上の側にいましたらどうしても甘えてしまいますので。」
きっぱりと言う。そして側にいた泉水に話し掛けた。
「父上の事、頼みましたよ。」
「はい。ご安心下さい。」
穏やかな笑みを浮かべ、室を出て行く兄である大納言の隣を歩く。
「父上は今も反対なのですね。」
結婚したい姫君がいると、大納言が父親に打ち明けたのは先月、年末の事。だが、内大臣家に大納言ありと盛大な結婚の儀式を取り行いたいと願っていた父の理想に叶う相手ではなかった。
「あぁ。関白殿の姫君だから黙認して下さってはいるが、内心は。」寂しそうに微笑んだ。一度結婚した事のある姫だから、こっそりと引き取ろうと思っていたのに。「辛い思い出の多いあの屋敷から離れさせたいのだ。だが、ここでは安らかな暮らしは望めそうに無いからな。」
祖父から受け継いだ小さな屋敷、そこに移り、そしてかの姫を引き取って静かに暮らすという。
「どうかお幸せに。」
「あぁ、ありがとう。」
牛車の側まで来たが、大納言は乗り込もうとはせずにじっと泉水の顔を見つめている。
「兄上?」
怪訝な表情で見つめ返すと、大納言は視線を下に落とした。
「兄上、か・・・・・・。お前は今も変わらずそう呼んでくれるのだな。」再び上げた顔には優しい笑みが浮かんでいた。「今日からこの内大臣家の嫡男はお前だ。父上の事だけでなく、この家の事も頼んだぞ。」
「え・・・・・・?」
いきなり言われ、驚き過ぎて言葉が出ない。しかし大納言は、そのまん丸の瞳がおかしくて声を立てて笑い出した。
「ふはははは。何を驚いている。私のもう一人の弟が教えてくれたのだ。家を継ぐのは正妻の子か、母の身分が上の者だ。だから、お前が継ぐのが当然の事なのだよ。」
「もう一人の弟?」怪訝な顔で首を傾げたが、次の瞬間には合点言ったように眼を伏せた。「宮が・・・・・・。いえ、しかし、父上は兄上が相応しいと―――。」
すぐに顔を挙げて反論しようとしたが、泉水の声におっ被せるようにしゃべり黙らせる。
「全てを知ってもなお、争いを避ける為に胸にしまっていた泉水の事だ。左右の大臣の権力争いも、その思慮深さで抑えられるだろう。」
「いえ、私ごときでは―――。」
声を落とし、まだ納得しない弟の耳元で囁いた。
「京の平安を望んでいたのは龍神の神子だぞ。」息を呑んだ泉水に続けた。「その神子が京にいない今、その願いを誰が叶えるというのだ?」
「・・・・・・・・・神子の、願い。」
瞑目し、数珠を胸の前で握り締める。
「大丈夫だ。この私、大納言がお前を支えるのだからな。」
戸惑いが不安に、それから決意に満ちた表情に変わるのを見届けると、嬉しそうに泉水の肩を叩いた。
「分かりました。この私に出来る限りの事を致します。」
「あぁ、任せたぞ。」
もう一度ぽんと軽く叩くと、乗り込んだ。
「お二人の幸せをお祈り致します・・・・・・。」
牛車で出て行く兄をずっと見送っていた。



「えっと、あなた。翡翠殿のお知り合いの方、こんにちは。」
関白左大臣の末姫の乳母が、祇園社での警備に駆り出されていたイサトに声を掛けた。
「おう、元気そうだな。」
「えぇ、嬉しい事があったから。」にっこり微笑んだ。「娘の顔の傷、化粧で隠せるほどまで薄くなったの。やっと笑顔を見せてくれるようになったわ。」
「良かったじゃないか!」
ぱぁ〜と満面の笑みを浮かべて乳母の肩を叩いた。
「えぇ、あなた方のお陰よ。ありがとう。それと、姫様が源大納言様のお屋敷にお移りになる事が決まったの。勿論、私も娘も一緒に。」
「へぇ?」
それが何だってんだ?との表情だが、瞳が嬉しそうに笑っている。
「やっぱりあなたも翡翠殿と同じく神子様の従者だったのね。少納言から救って下さってありがとう。」
「シッ!」
慌てて口元に一本指を立てた。誰かに訊かれはしなかったか、周りを見回して確認する。
「それであなた、鍛冶師なのですって?それもかなり腕の良い。」
「へへへ。」自慢げに鼻を擦る。「まだ一人立ちは出来ないけどな。」
「あなたの師匠は私の知り合いなのよ。100年に一人の逸材だって自慢げに言っていたわ。跡を継がせたいって。」
「え?そうなのか?」
怒ってばかりいる厳しい師匠の言葉とは思えない。驚き、訊き返した。
「えぇ。それで、私の依頼を受けてくれないかしら?仕事を頼みたいのだけど。」
「ん?構いやしないが。でもさ、あんた、刀が欲しいのか?」
女が欲しがるような物ではない。不思議に思い、尋ねた。
「私では無いわ。」眼が細まり、唇の端が上がった。「翡翠殿に贈りたいの。でもどういう物を贈って良いのか分からないから。」
「あぁ、そうか。お礼か。」
納得し頷いた。
「えぇ。いらない物を贈っても迷惑なだけだから。必要だと思うような物を探って作って欲しいの。」
「分かった。あいつは今、京にはいないから時間は掛かるけど、最高の物を作ってやるよ。」
「えぇ。それはお任せするわ。ありがとう。」
女房は何度も何度もお礼を言って立ち去って行く。イサトは幸せな気分でその後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。



こちらは伊予。
翡翠はたった一人、夜の海に小さな舟を漕ぎ出した。
港から離れると、空を見上げる。神々しいほどの光を放つ月と、その周りには無数の星が輝いている。寝そべり、懐に仕舞ってある文に衣の上から触れた。
河内から届いたその文には、丁寧でも可愛らしい文字で花梨と頼忠が結婚したと書かれてあった。ありがとう、と。
「君は本当に月に昇ってしまったな。」
不死の仙薬を飲んだ嫦娥のように、翡翠の手の届かない場所へ。だが、そこには愛する者達が共にいる。淋しい思いはしない。
「幸せにおなり、姫君。」
さざめく波の音に耳を傾けながら、何時までも月を眺めていた。






京編にしようと思ったけど、一人、京以外にお住みの方がいらっしゃいましたね。