絆〜歩01〜



京から遠く離れた河内、その日は嵐だった。


「やぁ、頼忠。久しぶりだね。」
頼忠を訪ねて来たのは翡翠。
「翡翠。今頃京の帰りか?随分とゆっくりしていたのだな。」
全身、頭からズブ濡れの翡翠に中へ入るように促した。
「過去の想い出に別れを告げるのに思ったよりも時間が掛かってね。」
「・・・・・・・・・。」
思わせぶりの笑みに眉を顰めるが、訊いたところで翡翠が答える筈も無い。黙ったまま布を手渡した。
「すまないが、この嵐が止むまで宿を頼めないか?供の者達を休ませたいのだ。」
「分かった。離れが空いている。用意させよう。」
「ありがとう。」礼を言うと、頼忠の袴を握り締めている幼い子供を見下ろした。「君が頼忠の子の忠直だね。宜しく。」
「えっと・・・こんにちは。」
人見知りするようで、見慣れない翡翠に少しはにかみながら挨拶。
「少しお邪魔させて貰うよ。外は嵐で月が隠れているだろう?だから天界に帰れないのだよ。」
「あなたは、てんていしゃま(天帝様)のおちゅかいなの?」
大きな瞳をクリクリさせて尋ねた。ズブ濡れだろうが貴族のように優雅で美しい容姿の翡翠をこの世の者とは思えず、冗談を真に受けたようだ。
「そうだよ。君が良い子にしていたらご褒美を下さるように天帝様に頼んであげよう。」
「ごほうびってなぁに?」
「教えてしまったらつまらないじゃないか。楽しみにしておいで?」
「うん。ぼく、いいこにしてる!」
にこっと笑みを浮かべた。
「翡翠、こっちだ。」
幼い子供を何からかっているんだ、とも思ったが、楽しそうだから気にする事も無い。促すように先を歩き出した。



乾いた衣に着替え、用意してくれた温かい食事を食べる。のんびり寛いでいると頼忠がやって来た。
「飲むか?」
酒の入った壷を掲げた。


しばらく互いに黙ったまま飲む。
ちらりと頼忠を見ると、翡翠はふっと笑みを零した。訊きたくて訊きたくて仕方ないのに、無理に耐えているのが丸分かりだ。
「あの子は君にそっくりだね。とても可愛い。」
「・・・・・・・・・。」
「八葉も星の一族も、黒龍の神子もみな元気だよ。一人、我らの神子殿を除いて、ね。」
「今も・・・お元気になられていないのか・・・・・・・・・?」
この河内に戻って来てから、翡翠は時折立ち寄ってくれていた。そして神子の様子を教えてくれた。感謝するべき事だが、辛い話しか無く、苦しい。
「当然だろう?自由に飛びまわっていた鳥が、羽をもぎ取られたのだ。そして全てを失ってしまったのだからね。君も。忠直も。」
「・・・・・・・・・。」
俯き、手の中の杯を見つめる。
「神子殿は大層弱っておいでだ。このままでは耐えられないと、ご自分でそう判断したよ。」
「なっ!」
ぱっと顔を上げた。
「希望の無い人生などいらない、と。来世を祈る、と、出家する事を決意なされた。」
「そ、そんな・・・・・・。神子殿は、生気に満ち溢れて、光のような方で・・・・・・・・・それが・・・・・・。」顔色は無く、小刻みに震えている。「お前達は、それを許したのか?神子殿が尼僧になられる事を?」
「八葉は神子の願いを叶える為に存在しているのだよ。」肩を竦めた。「それに、自ら死に急がなかった事を感謝しているよ。」
「くっ!」
ガン!と大きな音を立てて置くと、杯が割れた。そのまま頼忠は立ち上がると室を出て行く。
「私達はみな、姫君が幸せになる事を願っているよ。」
独り言を呟くと、杯に残っていた酒をぐいっと一気に飲み干した。



頼忠は自室でたった一つ点けている燈台の明かりを見つめていた。
直接逢った最後の夜が忘れられない。頭からも心からも消え去る瞬間は無い。別れを哀しんで下さった瞳も、大好きと言って下さった御声も。そして柔らかな唇も。
少女の哀しみを考えると辛くて。守る事が出来なかったのが悔しくて。やり場の無い怒りが苦しくて。それを破壊行動によって発散する事も酒で誤魔化す事もせずに、己を苛み蝕んでいくままにしていた。
あの時の決断は間違っていたのだろうか?全てを犠牲にしても、花梨だけを抱き締めて生きるべきだったのか?少女の自由だけを守って。
「ふっ。」
自嘲気味に暗い笑みを浮かべた。今更何を考えようが後悔しようが遅いのだ。お守りするとの誓いは果たせなかった、その事実が変わる事は無い。
頭を振った、その時。
ガヤガヤガヤ。バタバタバタ。
ふと、離れが騒がしいのに気付いた。それと同時に、嵐が去り、天候が回復して静かになっている事にも。
翡翠が離れにいる。何事かと確認する為に立ち上がった。



「お頭、車の準備が整いましたぜ!」
「そうか。あ―――。」
頼忠に気付き、近付いて来た。
「翡翠。何の騒ぎだ?」
「すまない。急な用事で出発する。」
「こんな真夜中にか?」
「あぁ。しかしすぐに夜が明ける。大丈夫さ。」一瞬空を見上げ、すぐに視線を頼忠に戻した。「伊予でちょっと問題があってね、すぐに戻らなければならないのだ。」ふっと楽しそうな笑みが浮かぶ。「申し訳ないが、室を片付けていく時間が無い。残っている荷物は好きにして良いから、後は頼むよ。そうそう、渡しそびれていた八葉と星の一族からの文が文机の上あるから、それも。」
「ふぅ。」ため息を吐いたが頷いた。「分かった。」
「ちちうえ?」
騒ぎで眼が覚めてしまったようだ。眼を擦りつつ、忠直が離れにやって来た。
「やぁ、忠直。嵐が去ったから出発するよ。離れの一番奥の室にご褒美があるからね。」
「うん、ありがとう!」
途端、眼が覚めたようだ。中に飛び込んで行く。
「じゃあ、世話になったね。―――行くぞ!」
馬に跨ると、颯爽と駆けて行った。



「―――騒がしい。」
後片付けなら明日で良い。だが、戸締りと火の始末だけは確認しておくか。頭を振りつつ離れに入った。
「俺、こっちを見てくるわ。」
弟が戸締りを手伝おうと、後ろからやって来た。そして別の室に入って行く。
「頼柾(よりまさ)、頼む。―――こっちは大丈夫そうだな。」
こんなにも早く帰ってしまうのなら、もう少し詳しい話を聞けば良かった。逃げ出さずに。
後悔しつつ奥へと進むが、どこか違和感があり、立ち止まって室の中を見回した。ただの雨宿りにしてはこの荷物はおかしい。鏡や文箱、扇などの道具類の他に、屏風や几帳、二階棚などの調度品まである。このまま一人の人が暮らしていけるほど揃っているのだ。しかも、全てが女物。
「翡翠、何を企んでいる?」
そう呟いた時、忠直が神妙な顔付きで最奥の室から出て来た。
「どうした?」
「ちちうえ、どうしよう?」
「何があった?」
「ぼく、てんにょしゃま、もらっちゃった。」
「何?」
「あのてんていしゃまのおつかいしゃん、ごほうびがおくにあるっていうからみにいったんだけどね・・・・・・。」頼忠の袴を掴み、見上げた。「しなものじゃなくて、てんにょしゃま、てんにょしゃまなの。」
「天女様だって?」聞きつけて弟が近寄って来た。「どんな方だ?」
「うんっとね、としはおじうえよりもすこしわかいみたい。でね、ものがたりのえよりもずっとかわいらしいかただよ。」
「へぇ。俺も見て来ようっと!」
若い女、それに興味を引かれ、足取りも軽く走っていく。あまり興味は無いが確認しようと頼忠も後を追った。


「へぇ、本当だ。なかなか可愛いじゃん。」
室の奥に几帳が立て掛けてあり、その陰に若い女が寝ていた。
「ね、てんにょしゃま。ぼく、どうしたらいいの?」
「どうしたらって・・・・・・。兄上、どうすんだ、この女。」
頼忠は二人の後ろから覗き込んだ。
「この娘(こ)、ここいらの娘じゃ無いな。何処からか攫って来たのか?」翡翠が海賊だと聞いていた頼柾は眉を顰めた。「好きにして良いって言ってもそういう訳にもいかないんじゃ―――。」
「でも、ぼくにくれたんだよ。ぼくのだもん。」
頼柾の腕を掴んで振る。
「あのな、人間は物じゃないんだ。」
「でもっ!」
女の姿が眼に入った途端、頼忠の脳裏に懐かしくも愛しい面影が甦った。その少女とこの女を見比べ始めた。
「まさか・・・・・・・・・。」
トクン。
女は横向きに身体を丸め、数枚の袿に埋もれるように寝ていた。背中が隠れるほどの長さの茶色の髪は軽く波打ち、閉じられた瞳の睫毛が白い頬に影を落としている。華奢な首筋、小さくて紅い唇は儚げで、男の視線を釘付けにする。
トクン。
ふらふらと近寄ると、膝を付く。そして穴が開くほどじっと見つめる。
顔に疲労の痕があるが、あどけなさが残っていてとても愛らしい。
トクン。
頬に指の背を滑らせて女の体温を感じ、生きている事を、そこに存在している事を確認した。
「兄上?」
何時もと違う頼忠の様子に弟は戸惑い、声を掛けた。だが、頼忠の耳にはもう女の寝息しか聞こえない。
『花梨・・・・・・。』
背中に腕を回して抱き起こす。頬を優しく撫でた。
「ん・・・・・・。」
眠りを邪魔するのは何だろうと顔を顰めながら眼を開けた。
『花梨・・・・・・っ!』
『・・・・・・・・・え?』
未だに夢を見ているのだろうか?斎王の御所で眠りに付いたのだ。起きたら尼寺にいる筈だった。なのにどうして眼の前に頼忠がいるのか。何故涙を流しているのか。眼を瞬かせるが、頭で理解する事が出来ない。
「えっと・・・より―――。」
『花梨っ!!』
花梨は尋ねようと口を開いたが、感極まった頼忠に強く抱き締められ、途中で言葉が止まった。
「あ、兄上―――っ!?」
「え?ちちうえ?」
後ろで二人は驚き騒ぐが、頼忠にとってそこには花梨しか存在しない。呆然としている花梨を更に強く抱き締めた。






注意・・・『―――絆〜反〜―――』の数日後。

この部分、
翡翠「頼忠、花梨を連れて来たよ♪」
ではつまらないからね。ただそれだけの理由で連載・・・・・・。