絆〜従04〜 |
閉じ込められているのは花梨だけではない。清らかな生活をしなければならないのは、お側にいる女房達も同じなのだ。友人に会いに行ったり実家に帰ったりする事は可能だが、夫と言えども男など敷地内に足を踏み入れる事さえ許されない。何らかの任務がある者でも、手続きを踏んで許可を得なければ御所を訪れる事は出来ないのだ。 「賀茂の御所だってこんなに固っ苦しい生活していないわ。」 「誰が何時何の用事で来るのか、予め申告しなきゃいけないなんて。」 「そうそう。これではまるで監禁されているみたいじゃない。」 「いいえ、これは犯罪者に対する扱いよ。」 偉い神子様の御側で働くのだから華やかな生活を送れると思っていたのに。身分年齢を超えて八葉の男達全員を魅了した神子は、どんなに素敵な姫君なのかと楽しみにしていたのに。東宮や検非違使別当という身分の高い殿方と知り合う絶好の機会だと思っていたのに。全てにおいて期待外れ。女房達の不満は大きい。 「こんな生活になると分かっていたら、この仕事に志願しなかったのに。」 「あれが京を救った神子様だなんて信じられないわ。そこいらに転がっている町娘と変わらないじゃない。」 神子が己の室に籠もりきりなのを良い事に、陰口悪口言いたい放題だ。 花梨の斎王としての生活は、こんな状態から始まったのだった。 だが。 「今日はお琴の稽古をする日でしたわね。」 御所での生活が落ち着き始めた頃から、花梨は紫姫と並んで琴の得意な女房に習い始めた。本当は楽器など全く興味は無いのだが、これは基本的教養の一つだと言われてしまったのだ。それに退屈を紛らわせる『何か』を探していた花梨にとって、余計な事を考える余裕など無いこれは丁度良かった。 「神子様。」 女房が呆れて花梨の左手を軽く触れた。 「うぅぅぅ、左手が動かない・・・・・・・・・。」 右手に集中すると左手が止まり、左手に意識を向けると右手が止まる。 「神子様、ゆっくり、ですわ。」紫姫が助言する。「身体が覚えますから。」 「うん・・・・・・。」 情けない返事をすると、スローモーションのようにゆっくりと手を動かし、一つの音を確実に鳴らして行く。 「ふぅ・・・・・・・・・。」 亀よりも遅い歩みにため息しか出ない。だが、眉間に皺を寄せながらも真剣に取り組む姿勢には好感が持てる。時間だけはたっぷりあるのだ。この神子をまともな奏者に育て上げるのはやりがいのある仕事だろう。それに、神子に琴を教えたのは自分だと自慢出来る。 そう考えると、俄然やる気が出て来た。 「神子様、指の位置が違います。先ほどお教え致しましたでしょう?」 笑顔で叱り付けた。 琴を教えると言っても演奏するだけではない。合間に雑談もする。すると、他の者達が知らない神子の素顔を知っていく。 「神子様の世界では楽の演奏をそのまま記録して保存出来るんですって。演奏者がその場にいなくても好きな時に楽しめるんだそうよ。便利ではあるけど、風情が無いと思わない?」 その女房は得意げだ。 隠されれば隠されるほど、知りたくなるのが人間だ。貴族にとっても庶民にとっても龍神の神子は雲の上の人であり、憧れの人。どんなに小さな事でも神子を話題にすれば、注目される。琴を教える女房は噂話の中心にいられるのだ。 「神子様、漢詩の勉強はなさいますか?」 「囲碁はこの世界の者なら誰もが知っている遊びです。お教え致しましょうか?」 「お琴が苦手でしたら琵琶に挑戦してみませんか?」 他の者達も真似をするようになった。自分の得意分野を武器にして神子の関心を引こうと話し掛ける。 「兄が今人気の物語を貸して下さいましたわ。お読み致しましょうか?」 どんな事でも口実とし、近付こうとする。 そんな観察されるのも、纏わり付かれるのも、疲れる。黙れ、あっちに行け、と怒鳴りたくなる時がある。だが、花梨の言動一つ一つが側にいた者達、八葉や星の一族に繋がっている。悪く言われるのは、恥ずかしい思いをするのは、彼らの方なのだ。 だから花梨は、 「教えて下さるんですか?助かります。」 「お願い出来ますか?ありがとう御座います。」 お礼の言葉を添えて丁寧に、にこやかに応対していた。断る時でさえ言葉使いに注意し、好印象を持たれる努力を続ける。 そのお陰で、花梨に対する感情は雪崩を打つがごとく急激に変わった。 「神子様って本当にこの世界の方じゃないの。何も知らないのよ。でも何にでも前向きに、真面目に取り組まれるのよ。」 「素直な方よ。全然えらぶった態度は取らないし、我が儘もおっしゃらないし。」 「間違いを指摘したらごめんなさいって謝られたのよ。びっくりしてしまったわ。」 「この前、風邪を引いたのを隠して仕事をしていたんだけど、気付いたのは神子様だけだったの。体調が悪い時は無理しないで休んでって。私なんかの事まで気遣って下さるのよ。」 一ヶ月と経たない内に穏やかな雰囲気に変わったのだった。花梨の心の内では気の抜ける瞬間など無くて疲労は溜まっていく一方だったが。 「花梨、元気?」 斎王としての生活が始まってから一ヶ月、4月になると千歳が遊びに来た。花梨にとって待ちに待った日。 「元気じゃな〜い!」 バタバタと走り寄り、いきなり抱き付いた。 「か、花梨様・・・・・・。」 花梨のそんな姫らしからぬ行動に顔を顰めつつ、女房が慌てて千歳の席を作る。 「貴女、やつれた?眼の下に隈が出来ているわ。」 驚き、花梨の眼の下に触れながら訊いた。 「絶対に勉強のし過ぎ。」 千歳の袖を引っ張って座り込む。 「毎日何をしているの?」 さして乱れていない衣を調えつつ訊いた。 「文字の練習。」 文机の上に置いてあった紙を千歳に手渡した。 「あら?随分と上達したのね。」 「ほら、屋敷の中に閉じ篭っているから勉強しかやる事って無いじゃない?でも文字が読めなければどうしようもないから一日中練習しているの。まだ、お手本が無いと全然書けないけどね。」 「それでも凄いわ。」 「その合間に琴と琵琶の稽古をして囲碁を習って。」 「囲碁は遊びでしょう?」 「楽しむ域には達していないもん。」口元がへの字となっている。「その他にも役所の名前とか位、季節の行事は常識だって言うし、お香とか裁縫は嗜みだとか言われるし。色の名前だって私の世界とは全く違うから混乱しちゃう。休憩中でもいきなり道具とか家具とかの名前を訊かれるし。」 答えられないと笑う人もいるの、と小声で付け足す。 「まぁ。」 花梨はこの世界に遊びに来たのでは無い。京を救うべく走り回り、怨霊と戦っていたのだ。赤ん坊でも知っているような知識さえ学ぶ暇など無かったのだから、答えられなくても当然だ。周りで控えている女房を睨む。 「もう頭の中はしっちゃかめっちゃか。夢の中でも和歌を詠もうとしてうなされているの。寝た気がしない。」 「頑張っているのね。よしよし。」 貴族が生まれてから自然と覚えて行く事を、一気に習わされているのか。花梨でなくともウンザリする毎日だ。花梨の頭を撫で、慰める。 女房が持って来てくれた白湯を飲みながらおしゃべり。 「みんなと完全に縁が切れてしまうのかと思っていたけど、そうじゃなくて良かった。」 「えぇ、兄から聞いたわ。簀子にいる紫姫とおしゃべりしていると御簾近くまで出て来て会話を聞いているって。だから八葉の事を話題にしていると。」 頷きながら言うと、花梨はにやりとふざけた笑みを浮かべた。 「千歳の事もしゃべってくれるから、元気だって分かって嬉しいよ。」 「何だか余計な事もしゃべっていそうね。」 「うん、当然。求婚の文が沢山来るけど、どれも相手にしないとご両親様が嘆いているって。」 「本当に余計な事を。」 顔を顰める。 「姿を覗き見しようと忍び込んで来る者もいるけど、怪異に遭遇して叫び声を上げて逃げ出して行くとも言っていたよ。」 「あら、不思議ね。」 これにはすっとぼけて言った。 「千歳ったら・・・・・・。」 苦笑した。 「そうそう、泰継さんが屋敷を清めに定期的に来てくれるの。泉水さんの笛の音が呪いを強めるから一緒に。」しかし顔を顰める。「でも折角来てくれても御簾越しだもん。つまんない。」 「でも泰継殿とは直接会話しているって兄上が焼きもち焼いていたわよ。」 うっすら笑みを浮かべた。 花梨が異世界から連れて来られたという事実は、救いの手を差し伸べる格好の理由となったのだ。泰継、泉水はこの京に完全に馴染む事の出来無い神子を守る為に必要だと。 「うん。斎王は男の人と会話しちゃいけないんだよね。だけどほら、泰継さんって陰陽師だから。それに気を読むからお呪いとか薬湯を煎じる為の問診。おしゃべりじゃないのは残念だけど、直接会話出来るのは嬉しいよ。」 普段ならば用事が終わればさっさと帰る泰継だが、花梨の気持ちは分かるらしい。泉水が紫姫とおしゃべりしていると黙って待っている。時には体調や夢見を口実に、紫姫に話し掛ける。そして花梨にも。花梨と出会う前の泰継では考えられないほどの変わりようだ。 「そうだわ、深苑殿から伝言を預かっていたんだわ。」 「兄様からですか?」 「えぇ。」紫姫に頷くと、花梨の顔をじっくりと見つめた。「貴女、こちらに来てからずっと体調が悪いでしょ?このまま物忌みの日を迎えたら危険ではないかと心配しているの。」 「物忌み?怨霊はいないのにまだ五行の力の影響があるの?」 首を傾げた。しかし紫姫の心配そうな視線を浴び、思わず姿勢を正した。 「神子様、怨霊がいるいないは関係ありませんわ。」 「そうなの。だから、物忌みの日には八葉の何人かに此処に来て貰えるように帝にお願いしているのよ。八葉が側にいれば神子を守れるから。」 花梨は二度三度瞬きをすると俯いた。小さな声で訊く。 「・・・・・・・・・。泰継さん達以外の八葉も来るの?来てくれるの?」 「その方が安心でしょ?泰継殿だって陰陽師としての御勤めがあるから物忌みの日だからって此処に来られるとは限らないもの。」 不安と期待に揺れている花梨を勇気づけるように手を握った。 「唐菓子をどうぞ。」 女房が美しい皿に乗せて運んで来た。白湯を飲みながら摘まみ、紫姫を交えてのおしゃべりに花を咲かせる。だが、花梨はその菓子に眼もくれない。 「あら?花梨は食べないの?」 「最近食欲が無いの。」 「大丈夫?食べなきゃ体力まで無くなって余計に辛くなるわよ。」 「分かっているんだけどね。」一つ手に取るが、睨むだけ。皿に戻した。「でも、この生活に慣れれば他の人の分まで奪い取って食べるようになると思うよ。神子時代はそうだったから。」 「まぁ。」 「神子様ったら。」 大真面目な顔をして言う冗談に、千歳も紫姫も笑う。 「千歳、何だか良い匂いがする。」 千歳の袖を取り、くんくんと鼻を鳴らしながら匂いを嗅ぐ。 「気付くのが遅いわ。」 クスリと笑うと、隠し持っていた物を取り出した。 「うわっ、可愛い!」 「まぁ、可愛いらしい。」 見た瞬間、思わず叫んだ。布で作られた花、梅、桃、そして桜だ。 「匂い袋よ。彰紋様が下さったの。花梨、好きなのを一つ選んで。」 「え?千歳が貰ったんでしょう?」 「いいえ、三つあるでしょう?私達三人で分けて下さいって。」 「千歳はどれにするの?」 「どれも好きな花で選べないのよ。だから花梨、貴女が選んで。私は残った物で良いから。」 「う〜ん、紫姫はどれが良い?」 「困りましたわ、私も選べませんわ。どれもこれも可愛らしいんですもの。」 彰紋は花梨に贈りたかったのだろう。だが、花梨一人に贈るには目立つ。千歳、紫姫はおまけだ。花梨が最初に選ばなければ彰紋の心に応えられない。 「じゃあね、これ。」 「花梨は梅ね。」 「うん、一番好きな花なの。」両手で捧げるように持ち、匂いを嗅ぐ。「梅香香だ。うん、良い香り。」 ふっと微笑む。 隣ではあなたが先に選んで、いえあなたが、などと言い合っていたが、最終的に紫姫が桃、千歳が桜の花と落ち着いた。 「本当に可愛いね。私の代わりにありがとうって彰紋くんに言ってね。」 「えぇ。喜んで貰えて良かったわ。彰紋様もきっと喜んで下さるわ。」 にっこり微笑み合った。 千歳が帰ると、また勉強漬けの日々に戻った。 「今日は和歌を一首完成させましょう。」 「はぁ〜い・・・・・・。」 夏の季語って何があったっけ?言葉を思い浮かべては、密かに文字数を数えていた。 「今日も来てくれなかった・・・・・・・・・。」 ため息を吐いた。 二回目の物忌み、イサトや翡翠も会いに来てくれたが、頼忠だけは一度も来てくれなかった。勝真からの伝言で頼忠の来られない理由は分かっているが、それでも期待してしまうのだ。そして落胆する。 「御簾越しでも逢いたいのに・・・・・・・・・。」 独り言を呟きながら誰もいない小部屋で単衣を脱いだ。神子時代の唯一の息抜きが入浴だった。それを知っていた翡翠が特別に作らせた、たっぷりお湯の入った浴槽に身体を沈めた。 「気持ち良い・・・・・・。」 この斎王としての生活でも、入浴は花梨にとって大切な時間だ。寝ている時以外で唯一、一人になれる時間。気兼ね無くのんびり出来る、唯一の時間。 背中を伸ばして反らせると、浴槽の縁に頭を乗せて眼を閉じた。 もう5月、斎王としての生活は3ヶ月目に入った。気分が優れないのは変わらないが、女房達の眼が柔らかくなったおかげで本当に辛い時には休めるようになった。 「これってやっぱり閉じ籠っているのが原因なのかな?」 ただでさえ遠い建物の中からなのに、御簾や几帳越しではよく見えない。美しい花々に直接触って匂いを嗅ぎたいのに。風を感じたいのに。夜中にでも抜け出しちゃ駄目だろうか?出来ないだろうか? 「見付かったら勝真さんの責任問題になるのかな?」 それだと諦めるしかない。 眼を開けると浴槽の縁から頭を起こした。湯を掻き混ぜるように遠くから近くへ腕を動かし、身体に当てる。同時に身体に手を這わせた。元々余分な肉は付いておらず貧相な身体つきだった。今もそれに変わりは無いが、全体的に丸みを帯びてきたような感じがする。小さい胸もほんの少し大きくなり、腰回りも女らしくなっている。 「大人になりつつあるってか?」 ふっと笑みが浮かんだ。だが次の瞬間、胸元に触れたまま手が止まった。最後の月経があったのは何時だったか。確か、神泉苑での戦いがあった後、1月の半ば。まだ本調子ではなく、重なったせいで辛かったのを覚えている。だが、その後は?もう乱れたとは言っていられない月日が過ぎている。 「まさか・・・・・・・・・。」 たった一度でも、その可能性がある事は知っている。そう、心当たりがあるのだ。 「本当に・・・いる、の?」 様々な感情がいっぺんに胸を過ぎった。戸惑い、動揺、不安、苦しみ。そして周りの者に迷惑を掛けてしまう事に申し訳ないと思う気持ちと、頼忠がどう思うかという恐怖感。だが一番強かったのは―――好きな男の子供を身篭ったという歓びだった。 眼を瞑ると腹部をゆっくりと撫でた。 |