絆〜従03〜



斎王は、未婚の内親王や女王の中から卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占いの儀式で選ばれる。そして宮中の初斎院(しょさいいん)という場所で二年間潔斎し、身を清める。その後、禊などの儀式の後、斎王として務める事になる。
だが賀茂斎王はもう既にいて、花梨が斎王としての役目を果たす必要は無い。龍神にも帝にも龍神の神子として認められている。斎王になる為の儀式も要らない。準備が整い次第、務める事になった。



斎王としての準備、まず始めは姫君としての最低限の事が出来るようになる事。つまり、この世界での衣を着て歩けるようになる事だ。


「う、動けない・・・・・・。」
花梨は涙目で腕を支えてくれている千歳に訴えた。
初めて着るこの世界の衣。長袴は名前どおり長い。足の長さよりもずっと。重心を移動するだけで、足元が滑って転びそうになる。しかも紐やボタンなどで押さえない袿を何枚も重ね着しているから、少しでも動くと着崩れしてしまう。
「ゆっくりで良いから、ほら、足を前に出して。」
「う、うん・・・・・・。」
ガク、ガク、ガク。まるでロボットの動きだ。
「まぁ、これは慣れ、だから。大丈夫大丈夫。」
「・・・・・・・・・。」
気楽に言う千歳を恨めしそうに見つめた。確かに慣れだろう。だが、生まれてからずっとこれを着るしかなかった千歳とは違う。優雅に歩けるようになるまでにどれだけの時間が必要か、考えたくも無い。
「ねぇ、本当に良いの?」眉を顰めながらよたよたと歩く花梨に尋ねた。「龍神の神子なら私だってそうなのよ。貴女が斎王となるなら私だってなるべきよ。」
「斎王って言ったってお飾りだもん。二人も必要ないよ。」
右足をゆっくりと上げ、左足よりもほんの少し遠くに下ろした。身体の重心を前に移動させる。
「だったら貴女ではなく、私がなるべきでしょう?京とは無関係だった貴女がこれ以上縛られる事も無いわ。」
「もう決まっちゃったから。」
深呼吸し、今度は左足を上げ、慎重に右足よりもほんの少し遠くに下ろした。
「それに紫姫は付き添いで行くのに、何で私だけ除け者にするの?」
「除け者だなんて・・・・・・。」
花梨は上げかけた右足を下ろし、心配してくれる優しい親友を見つめ返した。
本当は一緒に来て欲しい。斎王は男との接触は禁じられているのだ。八葉の誰一人として会う事は出来ない。そんな退屈な日々を紛らわしてくれる女友達がいてくれたら、こんなに嬉しい事は無い。
「だってそうじゃない。来るなって言っているんだから。」
「閉じ込められているんだもん、外との繋がりが欲しいの。女友達なら文の交換は出来るし、訪問も許されているんだよ?友達と言えるのは千歳だけだし、深苑くんに頼めない事もあるだろうし。ね?お願い。」
幼い頃から龍神の神子として一人悩み苦しんできた千歳に、これ以上の重荷を背負わせたくない。花梨以外の友人を作ったり、恋をしたり。そう、一人の女性としての幸せを見つけて欲しい。―――花梨の代わりに。対である千歳に。
「貴女って頑固よね。」
「千歳だって人の事言えないよ!」
ため息をつく千歳を笑い飛ばした。



占いの結果、3月上旬の吉日、花梨は斎王としてその役目を担う為の御所に移る事が正式に決まった。
そしてその準備は着々と進んでいる―――筈だった。



「何だよ、これは!」
「これはこれは。」
龍神の神子が斎王として住まう予定の御所を見て、イサトは喚き、翡翠は呆れた。
「これの何処を手入れしたと言うんだ!?」
イサトが修繕の担当をした貴族の男、少納言に詰め寄った。
御所と言っても元は貴族の屋敷を利用する。しかし、かなり前に住む主を失ったその屋敷はあちこちが痛んでいた。それを修理修繕、掃除した筈だった。なのに土塀は崩れ、柱にはネズミが齧った跡があり、室の中には蜘蛛の巣が張ってある。簀子の床には見苦しいシミが付き、ところどころ板を打ち付けてある。庭も大きな石が無造作に転がり、雑草が生い茂っているその様子はまるで原っぱだ。
「なにせ急な話でしたので時間が無かったんですよ。」にやにやと笑みを浮かべながら弁解する。「しかしこの程度なら、住むのに何ら支障はありません。」
「何ぃ!」
イサトが男の胸倉を掴んだ。この男は関白左大臣の娘婿だ。対して花梨は貴族の姫ではない。強力な後ろ盾が無い為に軽んじているのだろう。だが、この扱いはあまりにも酷い。
「ひぃ!」
「イサト、止めなさい。」
殴りつける寸前に翡翠が止めた。
「何で止めるんだ!殴らせろ!」
「そんな暇は無いよ。急がないと間に合わない。」
見回し、冷静に状態を分析する。
「くっ!」突き飛ばすように手を放す。「もう良い!オレ達で何とかする。」
悔しそうに睨むと男を追い出した。
「兎に角人を集めよう。」
大急ぎで翡翠の部下やイサト、頼忠の仲間を集め、修繕と掃除を指示した。


「東宮様。お金は無限にある訳ではないのですよ。」
財政を担当している貴族が書類から顔を上げた。口調は申し訳無さそうだが、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「しかしこれではあまりにも―――。」
支度金、修繕費、維持費、そして経費。あまりにも少ない金額で、これでは女房もまともに雇えない。
「怨霊の被害はあちこちに出ているのです。それを放っておけとでもおっしゃるのですか?それに斎王をお世話する女官や下働きの童、警護の者も配給しております。これ以上何を要求するのです?」
「いえ、この人数では足りません。」
一見、その意見は正しいように聞こえる。だが、それもほんのわずかの人数だ。これではまともな生活は出来ない。
平和になったのは神子のおかげでは無いのか?贅沢な生活を望んでいるのでは無いのだ。上級貴族の給金をほんの少し分け与える事が、何故出来ないのか。
「大体、入内する時などご実家が準備するものではありませんか。」
「しかし神子はこの世界の方ではありませんから―――。」
泉水までが反論しようと口を開いたが、あっさりと遮られた。
「だからと言って神子様一人に莫大な金を配分する訳にもいかないのです。給金は出るのですからそれで何とかして下さい。」
問答無用とばかりに書類を閉じた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」

「どうでしたか?」
彰紋と泉水を幸鷹が出迎えた。
「いえ・・・話になりません。」
「申し訳ありません。」
「そうでしょうね。」幸鷹は閉じられた扉を睨みつけた。「あの方は家柄を重視する方ですから、無位の神子殿に配慮する事など思いも寄らないのでしょう。」
あの男の父親は院の弟宮だ。血筋の良さだけで全てを手に入れた男。反対に言えば、血筋を重要視しなければ今の立場は無かった。それだからこそ余計に、特別な力を持つ神子に嫉妬、敵視するのだろう。
「しかしこのままでは神子に惨めな生活を強いてしまいます。」
泉水が顔を曇らせた。
「いえ、僕達で出来る事をしましょう。」彰紋が顔を上げた。「身の回りの品々や調度品の手配は僕が責任を持ってします。」
「では私は、信頼出来る女房や下働きの者を探してみます。」
幸鷹の言葉に突き動かされ、泉水も自分に何が出来るか考える。
「そ、そうですね。では、私は武士団に警備を頼めないか、院にご相談してみます。」
そして、それぞれが言葉通り神子の為に奔走した。



そうして日は流れ、花梨が四条の屋敷で過ごす最後の夜。
カタリ。
妻戸が開き、花梨が簀子に出て来た。キョロキョロと辺りを見回したが、お目当ての姿は見えず肩を落とした。
「あれ・・・?頼忠さん・・・いない。」
普段頼忠が立っている場所の近く、階に近寄り、座った。
「もうそんな季節なんだ・・・・・・。」
月の光を浴びた桜の花が、幻想的な美しさを演出している。まだ3分咲き位だが、先に咲いた花びらが一枚、また一枚とひらひらと舞っている。花梨はその一枚を両手で受け止め、見つめた。桜は儚いものの象徴。花梨の初恋も同じだ。咲いた次の瞬間には散り始めてしまった。
「一番好きな花だったのに・・・嫌いになりそう・・・・・・・・・。」
物思いに耽っていた花梨は、近付いてくる足音に気付かなかった。
「花梨殿。」
「きゃっ?」
いきなり話し掛けられ、飛び上がった。しかし眼の前にいたのは、頼忠。
「驚かしてしまいまして申し訳ありません。」
「ぼうっとしていた私が悪いんだから―――。」
首を振って謝ろうとした花梨だったが、頼忠が差し出した2本の枝を素直に受け取った。紅と白の梅の花。
「綺麗・・・。まだ咲いていたんですね。」
「山頂付近は気温が少し低う御座いますから、まだ残っておりました。」一瞬躊躇う様子を見せたが、言葉を続けた。「その梅の花に願いを掛けるお許しを頂けないでしょうか?」
「花に願いを掛けるの?」
「はい。梅の花は古来より願いを叶えると信じられております。ですから。」花梨の頬に手を触れる。「何時か、何時の日か貴女と共に生きられる日が来るよう、願いたいのです。」
淋しげな、だが諦めきれない想いが溢れている頼忠の瞳を見つめ、花梨は頼忠が自分と同じ想いを抱いている事に安心感を抱いた。掴んでいた桜の花びらを捨てる。そして頼忠の手から逃れるように立ち上がると、梅の花を片手で持ち、もう片方の手を頼忠の首に回して抱き付いた。
「私は梅の花じゃなくて頼忠さんにお願いするよ。頼忠さんのお嫁さんになりたいって言った気持ち、今も変わっていないの。これからも変わらない。だから何時か、叶えて。必ず・・・頼忠さんの元に行くから。」
「花梨殿。」
―――このまま連れ去りたい―――
そんな考えが頼忠の頭を掠めた。仲間も一族、家族の全てを捨て去り、彼らを襲う災厄からも眼を瞑って。そんな事をすれば後悔して苦しむのは分かっている。だが、このまま何もしなくても絶望の日々を過ごす事になるのだ。それならばこの少女の傍で苦しむ方が幸せだ。
しかし、そんな考えは言葉と共に心の奥底へ沈み込んだ。
そんな事をしたら花梨はご自身を許しはしないだろう。この女(ひと)は二度と微笑む事は出来ない。私は・・・貴女を幸せには出来ない。
「お待ちしております、花梨。貴女を抱き締められる日が来る事を信じて、何時までもお待ちしております・・・・・・・・・。」
何時か貴女と共に生きられる事を願って。貴女を幸せに出来る日が来ると祈って。それを支えに・・・・・・生きよう。
「頼忠さん・・・大好き・・・・・・。」
「花梨・・・私もお慕いしております・・・・・・・・・。」
花梨の背中に片腕を回し、頬にもう片方の手を添えると、最後の口付けを交わした。



翌日、混乱を避ける為、との理由で花梨は紫姫と共にひっそりとその御所に移った。
「へぇ。斎王としてだから神社とかお寺に住むのかと思っていたけど、普通のお屋敷なんだね。」
斎王を補佐する官人はいない。当然その役所も無い。そして龍神に関する物も何一つ無い。これなら四条の屋敷の方が龍神の神子、龍神に祈りを捧げる斎王が住まうのに相応しい気がする。だが、花梨は気にしてはいなかった。八葉に、頼忠に逢えないのなら、どこに住もうが同じだ。
「そうですわね。でも、建物も庭もとても綺麗ですわ。」
幸鷹達から話を聞いていた紫姫はその苦労を慮(おもんばか)り、心の中で感謝した。
「で、これからどうするの?祈りを捧げていろって言ったって、何をどうすれば良いのかさっぱり分からないんだけど。」
女房に頼んで花瓶を用意して貰うと、頼忠から贈られた梅の花を活けた。その花を見つめながら訊く。
「私にもよく分かりませんわ。」
紫姫が申し訳無さそうに俯いた。
斎王とは言っても、厄介者の龍神の神子を排除するのが目的だ。特別何かをして欲しい訳ではない。役目を果たす為の儀式も執り行うべき祭祀も無い。やる事は何も無い。
「ずっと寝ている訳にもいかないし、じゃあ、勉強でもしようかな。読み書きぐらいは出来るようにならないとね。」
「そうですわね。」
教養のある女房を呼ぶと、花梨は一冊の歌集を取り上げて開いた。



その頃。
「おい、頼忠。」
糺の森で一人静かに瞑想していた頼忠に、勝真が声を掛けた。
「・・・・・・・・・。」
眼を開けて勝真を見るが、黙り込んだままだ。
「警護の役目、本当に他の者にやらせて良いのか?」
「・・・・・・あぁ。」眼を逸らす。「警備責任者は勝真、お前だと聞いた。お前なら信頼出来る。」
さすがに女に警護を担当させる事は出来なかったようだ。
「確かに、警備や雑用の責任者は俺だ。だがな、警備を担当する者は寄せ集めのクズばかりで頼りにはならないぜ。」
龍神に仕える斎王、新たに出来たこの役目。その斎王を世話する役職に勝真が就いた。しかし貴族としての位の低い勝真が就いたという事は、斎王としての役目自体軽んじているという事でもある。下働きや警備の者が配給されたとはいえ、どこでも邪魔者扱いのお荷物ばかり。役に立たないのは一目見るなり分かった。
「武士団の棟梁が何人か手配するとおっしゃっていたから心配は要らないだろう。」
「そうなのか?それは助かる。泰継殿も気を配ると言ってくれた。だがな、お前が側にいなくて良いのかと訊いているんだ。花梨だってそれを望んでいると思うんだが。」
「・・・・・・・・・お傍にはいられない。」
傍にいたら、気配を感じてしまったら―――己を抑える事は出来ない。
「気持ちは分かるが・・・・・・。」勝真はため息をついた。「気が変わったら言ってくれ。」
苦しげな表情の頼忠を一人残し、その場を立ち去った。



梅の花を見つめていた花梨は、端が変色している花びらが一枚ある事に気付いた。植物だから当然なのだが、頼忠との思い出の品、このまま枯れて散っていくのを見ているのは哀しい。どうにか出来ないかと考えていると、ふと花瓶の横に文箱が置いてある事に気付いた。紙は貴重品、無駄にしてはいけないのは分かっている。それでも。
「押し花に出来ないかな?」
薄様よりは厚みのある紙の方が水分を吸収しやすいだろうか?乾燥剤が無いのは残念だがそれは仕方が無い。まだ梅雨の季節ではないのだし、風通しの良い場所に置けば何とかなるだろう。
綺麗な花と葉っぱを数個選び、数枚重ねた紙の間に挟む。更にぶ厚い書物の間に挟み、御簾の近くに置く。そして更に重り代わりに書物を何冊か乗せた。
「上手く出来ると良いな。」
祈りを込めてずっと見つめていた。

「二人の想いが永遠に残りますように―――。」