絆〜従02〜



「雨が降っている。」
妻戸から顔を出した花梨は、空を見上げてため息を吐いた。昨日も一昨日も雨だった。そして今日も朝からずっと降り続いている。折角元気になったのに、これでは外出など出来ない。
「つまんないの〜!」
室に戻ってごろんと床に転がった。しかし今は2月になったばかりで寒い。風邪を引いてしまえばまた御帳台に押し込められてしまう。うたた寝してしまわないように起き上がった。
と言って、やる事は何も無い。しかも蔀は下ろされていて室の中は暗い。一人でいると退屈で仕方がない。
「誰か暇な人はいないかな?」
おしゃべりの相手を探そうと、再び室を出た。



「それではあまりにも神子様がお可哀想です!」

紫姫の室に近付いた花梨は、その紫姫の涙混じりの叫び声に驚き立ち止まった。
『紫姫・・・・・・?』
神子、つまり花梨に関する話題だ。ならば自分もこの話し合いに参加するべきだ。だが、あまりの重苦しい雰囲気に入る勇気が持てない。

「申し訳ありません。そのような根回しがあった事など、私達は全く気付かなかったのです。」
幸鷹の苦しそうな声が聞こえる。
「だからって何でそうなるんだ?もう役目は終わったんだから花梨は自由の筈だろう?」
イサトが不満げに言うが、彰紋が落ち込んだように答えた。
「いえ、そういう訳にはいかないんです。肩書きは無くなっても、花梨さんが龍神の神子だったという事実は消えませんから。」
「龍神の神子は京の命運を左右する力を持っています。」泉水が続けて言った。「その強大な力を手に入れたいと思う貴族は多いのです。」
「権力争い、か。くだらぬ。」
泰継が冷たい声で呟いた。
「神子を妻としたいと思う者もおりますし、養女として縁組し入内をたくらむ者も。」幸鷹が言った。「そしてその事が、折角安定し始めた政局が乱れる原因になると・・・憂慮する者がいるのです。」
関白左大臣が他の大臣、大納言などの有力貴族に話をつけたのだ。神子が結婚する可能性が高いのは側にいる者達、八葉だった貴族。しかし神子と縁の無い貴族達からすれば、側にいたという理由だけでその力を手に入れられる事には納得出来ない。それ以上に、権力を持っている者にとってその力を失う事は耐え難い。ただ指を咥えて待っている訳にはいかないのだ。阻止する方法を示されるとこぞって賛成したのは、彼らからすれば当然の事だった。
「己が手に入れられないなら、他の者にも渡さない、か。」
翡翠が呆れたように言った。
「龍神の神子なら千歳殿もそうです。勝真殿、千歳殿は・・・・・・?」
「あぁ、千歳にはこんな話は全く無い。」深苑の問いに勝真が答える。「あいつは院の庇護を受けているからな。院の承諾も無しにそんな勝手な提案をしたら、したヤツはただでは済まない。関白殿だろうがな。」
同じ神子でも、貴族ではない花梨は不安定なのだ。どの家にも関係無いから誰でも手に入れられる、利用出来る可能性がある。だからと言って誰にも手が出せないように龍神の神子に相応しい身分を頂戴してしまうと、今度は頼忠と釣り合わなくなってしまう。
「今は花梨の事だ!」イサトがじれったそうに叫び、話を戻す。「花梨は権力には全く興味無いんだしさ、そんなの関係無いじゃん。頼忠は貴族じゃないんだし。」
「はい。頼忠との事は兎も角、それは何度も説明したのです。ですが、身分や財産に興味が無い、と言う事を理解出来る者は少ないのです。」
京が滅びる恐怖に慄いている時でさえ、権力争いは止まらなかったのだ。平和が戻れば尚更だ。
「それもあるのですが、京を救ったのは龍神の神子です。民の中には、貴族は苦しい生活を強いてばかりいて何もしてくれないと感じている者も多いのです。ですから。」幸鷹の声が小さくなる。「帝よりも龍神の神子を信じている者がいて・・・。」
「なるほど。神子が二つ目の太陽か。」
泰継が言えば、勝真も皮肉っぽく言った。
「だから斎王なのさ。良い考えだろう?龍神は龍神の神子の願いを叶えるからな。京の平和を祈って欲しいという大義名分があるのさ。」

『さいおう?』
会話の内容はほとんど分からない。だが、龍神の神子の存在が争いの種となりそうな状況は理解出来た。龍神の神子の処遇を貴族が勝手に決めようとしている事は。

「斎王の事はよく分からないけどさ、でも仕える男だっているんだろう?」
「本来ならば事務や神事、占いなどを司る者がいます。しかし全て女官が代わりになさるそうです。このお役目は星の一族の深苑殿、八葉である私達を遠ざけるのが一番の目的ですから、それ以外の男も側に置かないでしょう。」
「でもさ、何とかなるだろう?ほら、もう将来を誓った相手がいるって言えばさ。」
「いえ、婚儀はまだですのでその言い訳は通じません。そもそもそんな相手がいるとは公表しておりませんから。」
「だったら駆け落ちしろ。頼忠と河内にでもどこにでも行っちまえ!」
「いえ・・・それも・・・・・・。」
口篭もる彰紋の代わりに勝真が口を開いた。
「斎王と決まった姫をかどわかしたとあっちゃあ、只では済まない。逃げられたとしても、代わりに武士団、故郷の一族が責を問われる事になる。」
「じゃあ、自分の世界に戻るってのは?」
「京に残ると宣言してしまいましたから・・・・・・。」
「結局は同じ事だよ。」翡翠が軽蔑口調で言った。「決定した後でやっぱり帰ると言えば、逃げ出した事になる。お側にいる八葉も星の一族も責任を追及されるだろうね。当然、四条の尼君も。」
「オレ達が代わりに罰を受ければ良いのか?って、罰を受けるってどんな罰なんだ?」
「貴族は京から追放、そして他の者は良くて牢獄、悪くて・・・・・・。」
「処刑。」
言いよどんだ幸鷹に代わり泰継がずばりと言い放った。
「しょ、処刑・・・?」
先程までの元気は何処に行ったのか、動揺の余りイサトの声が震える。
「花梨がそれで幸せになれるなら、俺は構わない。」勝真が言った。「花梨がいなければ京が滅んで俺も死んでいた訳だし、俺自身が変われたのは花梨のお陰だしな。」
「はい、それは私も同じ思いです。」泉水が頼忠を見ながら言った。「しかし頼忠も幸せにならなければ・・・・・・神子は・・・・・・・・・。」
そう、花梨は頼忠と一緒でなければ自分の世界に戻らないだろう。しかし、仲間や一族の未来を分かっていて、頼忠は行けるのか?そして、何も知らないふりをして幸せになれるのか?―――無理だ。
「それでは・・・それはもう決定事項だと、そういう事ですか。それを避ける方法はもう、残されてはいないと。」
それまで黙って聞いていた頼忠が口を開いた。
「はい・・・。」
「・・・・・・・・・。」

カタン。

「誰だ!?」
廂から聞こえた不審な物音に、頼忠が飛び出して来た。だがそこに、顔面蒼白で座り込んでいる花梨を見つけた。
「神子殿。」
「斎王って何?」
処刑という言葉が心を凍らせたようだ。麻痺したように、痛みも恐怖も、怒りさえも感じない。遠くから眺めているような、他人事のような感じがする。取り乱す事も無く質問する自分を冷静に見つめていた。
「以前、僕の姉宮が賀茂の斎院としてお仕えしていると話しましたが、覚えていますか?それと同じで帝の代わりに神にお仕えし、祭祀に奉仕するのです。」
「神、神子殿の場合は龍神の花嫁となる、との説明が一番分かり易いかと思います。男と接する事無く、清められた場所で祈りを捧げ続けるのです。」
頼忠の後ろから彰紋、幸鷹が説明する。
「どうして?」
「龍神の神子の力は大きすぎるのです。京を救う事が出来るという事は反対に、御心一つで滅ぼす事も可能だという事です。あなたがそれを望んでいないのは分かっていますが、その力を手に入れたい、利用したいと願う者がいるのは事実です。そういう人間がいる事を不安に思う者がいるのも。」
「だから誰にも利用されないように、どこかに閉じ込めるって事?」
「はい。」
「ふ〜ん・・・・・・。」
「申し訳ありません・・・・・・。」
「また・・・、勝手に私の運命を決めるんだね・・・・・・。」
この世界に連れて来た時も、花梨に一言の説明も無かった。そして今度も拒絶の選択肢は無い。
「「「「「「「「・・・・・・・・・。」」」」」」」」
言い訳も弁解も出来ずにみな黙り込んだ。



妻戸に寄り掛かって座った花梨は、霙(みぞれ)混じりの雨が降り続ける空を眺めていた。
「皮肉なものね。」
ポツリと呟いた。
力が無いと責められた日々。涙を堪えて頑張って、そして京を救うだけの力を得た。だけど京を救った途端、その力を疎(うと)まれるなんて。
「お身体が冷えてしまわれます。室の中にお戻り下さい。」
頼忠が苦悩を絵に描いたような表情で近付いて来た。
「龍神様はお嫁さんなんて欲しがっていないよ。」振り返りもせずに言った。「神子を必要としたのは京の人々。龍神様に願いを叶えて欲しかったから、伝えられる神子を欲しがったんだよ。」
「神子殿・・・。」
「八葉との絆を強めろとは言ったけど。それが、その絆が神子を守ると教えてくれたけど。でも龍神様自身は・・・神子を必要としていない。京が平和なら・・・神子は選ばないんだから。」
「・・・・・・。」
黙ったまましゃがみ込み、花梨の肩に顔を埋めるようにして後ろから抱き締めた。
「みんなから離れて・・・頼忠さんから離れて・・・・・・私、どう生きれば良いのかな。」
「申し訳ありません。私が貴女の世界に共に行く事を決意していれば―――。」
「違う、頼忠さんのせいじゃない。私がこの京に残りたいって言ったんだよ。この世界で頼忠さんと生きて行きたいって。」
ずっと支え守ってくれた貴方を、今度は私が幸せにしたいと願った。生きる喜びを知った貴方に、知らない世界で生きる苦労を味わせたくは無かった。
「しかし・・・貴族達の考えを予測出来なかったのは頼忠の落ち度ですから。貴女にこんな辛い運命を背負わせてしまったのは―――。」
「それを言うなら、貴族の彰紋くん達だって気付かなかったじゃない。頼忠さん一人が悪いわけじゃないよ。それに・・・頼忠さんの意見に耳を貸さずに我が儘を通したのは私だし。」
頼忠の腕に手を乗せた。
もしも、もしも二人で花梨の世界に行っていれば、今頃幸せになっていたのだろうか?―――考えたって分かる筈は無い。向こうでは向こうならではの苦労がある。京に残っていれば、と後悔したかもしれない。いや、する瞬間は必ずある。―――考えるだけ無駄だ。
「正式に決まるのは何時?」
「明日の朝議で決定されます。その後すぐに正式な使者が参るようです。」
「やけに早いのね。」
「何でも、全て準備を整えてから提案されたようで。貴女が籠もる御所も、主を失った屋敷を手入れするだけのようですし。」
使者が来てしまえば、準備に忙殺されるだろう。自由なのは今夜だけ。悲しむ時間さえ残されていない。
頼忠の腕に乗せた手に力を込める。
「ねぇ。室まで連れて行って。」
「神子殿、それは・・・・・・。」
「何を今更。」躊躇う頼忠にもたれかかった。「神泉苑で呼んだら、来てくれたじゃない。龍神様は気にしないよ。」
「・・・・・・・・・。」
「最後の夜、だよ?今夜ぐらい、傍にいてよ。」
「畏まりました。貴女のお望みのままに・・・・・・。」
頬に軽い口付けを落とすと抱き上げた。



もうすぐ夜が明ける。
泣き合い、抱き合い、一晩を過ごした。疲れ果てて眠りに落ちても、恋人の閉じられた瞼からは涙が零れ落ちてくる。指で拭う。
「花梨。私はこれを最後の夜にするつもりはありません。何時か貴女と共に生きられる日々が来ると・・・・・・信じています。」
信じなければ生きられない。虚しい祈りだが、それでもこの少女との出会いを無かった事には出来ないのだから。
誰かに気付かれる前に帰らねばならない。頼忠は渋々身体を起こした。
「ふぅ・・・・・・。」
ため息を吐きながら昨夜脱ぎ捨てた衣を身に付ける。少女にも着させようと、夜着を手に取った。
「花梨。失礼致します。」
小さな声で言うと、上掛けを取り去り、抱き起こした。袖に腕を通し、足元まで裾を引っ張る。そして再び褥に寝かせる。身体を覆おうと前身ごろを持った手が止まった。
「・・・・・・・・・。」
それがどんな意味を持つのかも分かっている。この愛しい少女を大変な窮地に追い込んでしまう事も。だが、それでも願わずにはいられない。
「頼忠との間に・・・確かな絆が結ばれし事を・・・・・・・・・。」
腹部に口付けた。