そんなはじまりの夜 5 |
驚いた表情のまま固まる銀次の隣に、少し間を置いて蛮がベンチに腰掛ける。 そして、"ほれ"と銀次の目前に缶コーヒーを差し出した。 銀次がそれを、ほとんど条件反射のように両手に受け取る。 「あ、ありがと…」 銀次が礼を言うのも待たず、蛮はその隣で既にブラックコーヒーの缶を開け、ごくりと喉に流し込んでいた。 「あ〜。やっぱ、サンポールのコーヒーとは全然違ぇな。不味いー。ま、喉の渇きを癒すにゃ、これでも足しにはなるがな」 「え、と」 「飲まねぇのか?」 「あ、ううん。飲むケド」 缶を開いて、こくりと一口ミルクコーヒーを飲み、銀次が、先ほど頬にふれたものはこのホットの缶だったのかと納得する。 …あたたかい。 なんだか、缶を抱いている指先から、奪われかけていた体温がじんわりと戻ってくるような気がする。 思い、やっと自分の手が、固く冷たくかじかんだようになっていたことに気づいた。 ふと見ると、蛮のはどうやら冷たいコーヒーのようだったけれど。 あれ…? もしや、これは、彼なりの気遣いなんだろうか。 不器用な彼なりの。 銀次が思い、まじまじと蛮の横顔を見る。 それに気づくと、不機嫌そうな声が返ってきた。 「なんだよ」 「え、ああ――。なんでもない」 「何だ。言いたいことがあったら、はっきり言えっての!」 「あ、うん。…えーと、オレの分もコーヒー買ってきてくれて、ありがと」 「あぁ?」 "そんなことかよ?"とでも言いたげに銀次を見、蛮が肩を聳やかす。 それでも、どこかほっとしたような銀次の表情に、蛮の表情もつられるようにして緩んだ。 そのまま、無言のまま、二人してぼんやりと月を仰ぎながら、缶コーヒーを飲む。 いっそのこと酒にでもすりゃよかったか、などと蛮の方は思いつつ。 ややあって。 銀次が、両手にコーヒー缶を持って、躊躇いがちに訊いた。 「ねえ、あの」 「んだよ」 「ずっと、そこにいた?」 「は?」 「話、聞いてた?」 「何の」 ぶっきらぼうな答えに、銀次が思わず小さく溜息をつく。 「…わかんないんだったら、いいけど」 溜息の混じった言葉に、蛮が視線だけちらりと動かし、隣を見た。 「…いいのかよ」 「うん…」 頷いて、銀次がほとんど空になってしまった缶を、まだその熱に縋りついていたいかのように両の手で包み込む。 瞳は白い半月を映したまま、そっと言った。 「でも」 「あ?」 「オレは――此処に居たいんだ」 先刻の花月とのやりとりを聞いていないのならば、あまりにも唐突な言葉だとワカってはいるけれど。 それでも、どうしても言わずにはいられなくて。 隣に並んで坐る蛮に視線を戻し、真っ直ぐな瞳で銀次が言った。 「こうやって、美堂君の隣に並んでたい――」 蛮が、それを僅かに瞠目して見つめ返す。 懸命な琥珀の瞳。 ――何をいまさら。 そう、蛮の胸が呟く。 それをお前が望む以前に、オレの方が先にそう望んだのに。 "何の話だ?"と問おうとして、やめた。 さすがにそこまでは、自分も人が悪くないらしい。 自分で気づいて、蛮が微かに自嘲の笑みを浮かべる。 「いるじゃねえか」 「え…?」 「いるだろ? 此処に」 「……うん」 「今こうやって、よ―」 「うん…」 「なら――。そんでいいじゃねえか」 「…美堂君」 それが答えだと言わんばかりの物言いに、それでも蛮の言いたいことだけを察して、銀次が瞳を大きくして蛮を見つめる。 確かに―― そうだと思った。 大事なことは、今こうしてそばにいるということだ。 もうそれが、何より自然と感じられる。こうして並んでいることが、むしろ当たり前のことのように思える。 それがきっと、答えなんだ。 誰が何を言ってきても、きっと揺るぎない筈の。 そう気づいて、銀次がはにかむように小さく笑む。 そして、そのまま。 …やや項垂れた。 「馬鹿だなー、オレ」 「んだよ、とーとつに」 「ん。なんか、自己嫌悪…」 「あ?」 「オレって、かなり…。酷いヤツだなぁって―」 「――どういうこった?」 「あんな風に彼を傷つけ退けておいて、落ち込んでたのに。それなのに今、美堂君の言葉がすごく嬉しい」 銀次が、ぽつりとそう呟く。 そう言いながらもどこか哀しそうな横顔に、蛮が横目でそれを盗み見、心中深く溜息をつく。 そして、紫紺の瞳をやや細め曇らせた。 ――まったく。 いったい、どういうお人好しなんだか。コイツは。 そして、思う。 テメエがあそこを出たのは、何も自分のためばっかじゃねえだろう。 このまま、彼処で自分が力の限りを奮えば、いつか下層階のみならず、無限城は崩壊する。 すべてを破壊してしまう。 それに気づいたからこそ、出ようと考えたんじゃねえのか。 そうすることで、ヤツらを守ろうと。 そう考えたんじゃねえのか? だったら。 そんな顔してんじゃねえ。 自分を責めるなんざ、もっとお門違いだ。 第一。 後でそんな顔するぐれぇなら、最初から憎まれ役なんぞ買って出るな、アホ。 似合わねえんだっての。 …ったく、不器用なヤツ。 心中でこぼし、そしてふと――。 先刻見た、消えてしまいそうに頼りなげだった背中を思い出した。 力無く項垂れて。 心の痛みに、全身で耐えていた。 苦しそうで、つらそうで。 それでも、そんな風につらそうにしながらも、まだ他人ではなく、自分を責めているような背中。 よく見れば、その両肩は、涙を懸命に堪えて小刻みに震えていた。 ――無限城の暴君"雷帝"。 まだ少年のその肩に、重過ぎる責務と多くの命を背負わされて。 やっと"自分のため"の一歩を踏み出せば、自分だけ逃れるのかと、あの城とその住人は、未だ銀次を呪縛から解き放たない気でいる――。 クソッタレ…! 蛮はその憤りに、一気に残りのコーヒーを飲み干し、空になった缶を勢いよく目の前のゴミ箱へと投げ捨てた。 カラーンという音が、人気のない夜の公園に響く。 我慢できないというような口調で、蛮が切り出した。 「ハッタリだ。カミナリ小僧」 「え?」 「あんなモンはよ。ただのハッタリだっての。余程下層階の現状が逼迫していりゃあ、あの野郎とて、おいそれと無限城を留守に出来るワケがねえ」 「美堂君…」 「オメーがいなくなったことで下層階から消えたヤツがいたとしても、まだあのヤロウが動ける程度には、兵隊は残ってるってこった」 「…うん」 「何とでも、しやがるさ。テメエが気を揉むことじゃねえ」 「…う、うん」 驚いた顔のまま、銀次が頷く。 やっぱり聞いてたんだと思いつつ、それでも、それを咎める気にはなれなかった。 いや、どちらかと言えば、聞いていてほしかったのだと思う。 きっぱりと、花月に"戻らない"と言いながらも揺らいだ自分も、淡々としつつも内心は、ひどく狼狽えていた自分も。 そんな自分の弱さも全部、蛮にだけは知っておいてほしいような気がした。 「なんで言わねぇ?」 「えっ」 「テメーが無限城を出なくちゃなんねえ理由が、実は他にもあるってことを、よ。アイツらに言わなくていいのか」 「…うん」 「どうしてだよ?」 「言い訳のような気がするから」 「言い訳?」 「――うん。なんだか、仲間を見捨てて出てきた自分を、そうやって正当化してるみたいな気になっちゃうから」 「正当化も何も。事実は事実だろが?」 「うん、でも…。やっぱ、そればっかじゃないし」 「あ?」 「美堂君と出逢わなかったら、彼処を出る決心も、きっとつかないままだったと思う。だから―」 「…オレのせいだってか?」 少々揶揄するような口調で蛮が返す。 銀次がそれに、困ったように小さく微笑み返した。 「うん、たぶん」 笑みを含んで言う銀次に、"さっきあのオンナみてーなヤツに言ってた事と随分違うじゃねえか"と内心で思いつつ。 これが彼なりの、まだ控えめな"甘え"なのだということはなんとなく想像がついたから、蛮も肩を竦めただけだったけれど。 舌打ちを一つ落として、蛮が胸のポケットから煙草を取り出す。 ジッポを開き、火を点した。 紫煙が上がる。 それをぼんやりと眺めつつ、ちょっと言いにくげに銀次が切り出した。 「あの…」 「…んだよ」 「さっき、ごめんね」 「あ?」 「なんか、怒ったまま出てきちゃって」 「あー? そうだったか?」 「そうだったかって。…なんだ。それで探しにきてくれたんじゃないの?」 「ば、バカ言ってんじゃねえ。オレはただ、喉が渇いたからコーヒーを買いに来ただけだ。誰がテメーの心配なんぞするかっての!」 「え?」 "心配"って――。 蛮の口から思いがけない言葉を聞いて、銀次が瞳を丸くして蛮を見る。 天の邪鬼な蛮の事。 言葉の裏返しが、本音であることがほとんどだ。 一緒にいて、つくづくそうなんだと銀次は思い知らされていたから。 ということは。 つまり、"心配なんぞするか"という言葉の本当の意味は――。 もしかして、心配、してくれた? 心の中で思うなり、胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。 嬉しいような、切ないような。 そんな、言葉にならない感情。 「あのな。お前」 「え」 指の先に挟んだ煙草の灰が、すっかり長くなっているのに気づきもせず、蛮がいたって冷静を装って銀次に言う。 「テメーはよ。よくやってる。今までも、よくやってきた。だからよ。自分を責めるばっかじゃなく、ちったぁそれを誇りに思え」 「美堂君…」 思いもかけない言葉に、銀次が驚いたように琥珀を見開く。 口の悪さは相変わらずだったが、それでもその声音はかなりやさしく、そして、とてもあたたかかった。 「今まで、何もかも一人で背負って頑張り過ぎてきたんだ。ここいらで、ちょっとのんびりしたって別にバチはあたらねえだろ? いい加減、もう楽になれや」 "オレの隣でよ"とそこまでは、さすがに照れくさくて、とても口には出来なかったけれど。 言うだけ言って、蛮が照れ隠しに、すっかり短くなってしまったマルボロを咥える。 長くなった灰が、夜空の下に散った。 蛮の言葉に瞳を震わせ、瞬きさえも忘れて、銀次が茫然と蛮を見つめる。 「…な、何だよ」 「…え。ううん。なんでもない…」 「なら。ぼけ〜っと見てんじゃねえっ」 まじまじと大きな瞳で見つめられ、居心地が悪そうに蛮が怒鳴る。 それに答える代わりに、少し潤んだ瞳をして、銀次が呼んだ。 声が震えていた。 「美、堂君…」 「あ゛あ? 何だって…の!」 勢いづいて返そうとした言葉は、しかし語尾が萎んだ。 一人分ばかりの隙間を空けて坐っていた銀次が、そのままベンチの上を横に移動してくる。 身を寄せられ、蛮がさも驚いたように硬直した。 「お、おい…!?」 「ごめん、ちょっと…」 蛮の紫紺が見開かれ、ぎょっとしたように自分の肩にふわりと降りてきた金色の頭を見る。 「――肩、貸して」 言うなり、トンと、蛮の左の肩先に額を置くようにして、銀次がそのまま項垂れた。 「ちょ、お、おいっ! カミナリ小僧?!」 突然のことに、完全に狼狽えて叫ぶ蛮とは裏腹に、声をくぐもらせるようにして銀次が言った。 「ごめん…。ちょっとの間でいいから、こうさせて」 「こうさせて、ってな、お前…!」 「お願い」 「…………おい」 絞り出すような声での懇願に、蛮が驚いた顔のまま、それを見下ろす。 甘えるように蛮の肩に額を擦り寄せてくる銀次の肩は、小さく震えていた。 「……」 蛮が、瞠目していた紫紺をゆっくりと細め、それを見つめる。 苦しいような、切ないような、そんな想いが胸に広がる。 虚勢を張っていた、その肩が震えている。 皆を護るために、常に強く在らねばと、そう自分に言い聞かせてきた銀次。 たぶん、今まで誰にもこんな姿を見せたことはなかったんだろう。 そんな銀次が。 自分の前でだけ見せる、弱さ。弱音。 そして、本心。 護ってやりたい、と思う。 自分が護ってやらなければならないほど、弱くもないこともよく知ってはいるけれど。 それでも護ってやりたいと思う。 素直できれいなコイツの心を、大事にしてやりたい。 誰かに土足で踏みにじらせることなど、絶対にさせない。 そして、もっと楽に笑わせてやりたい。 もっと楽に、涙を流させてもやりたい。 オレの隣で。 そう思う。 思いながら低く囁いた声には、過分に甘ったるい響きが含まれていた。 「我慢すんな、アホ…」 「ん…?」 「ヒトがせっかく肩貸してやってんだ。泣きてえの、我慢するこたぁねえだろ?」 ――ここまできて、往生際が悪いんだよ。 そんな蛮の、心の声が聞こえてきそうだ。 たぶん目元が真っ赤になっているだろうから、とても顔は上げられないけれど。 頭の上から聞こえる声は、ひどくやさしくて。 見上げたら、きっとその瞳もやさしく自分を見つめてくれているんだろう。 銀次がそう思う。 「美堂…くん」 呟くそうに、そう呼んだ途端――。 胸にぐっと迫り上がってくるものがあった。 堪えてきたものが、一気に胸を溢れ出した。 つらかった。 さびしかった。 こわかった。 とても。 たぶん。今まで、ずっと――。 「――く…っ」 「つれぇんだろ? 泣けよ」 「――みど…!」 「泣け――」 声とともに、あたたかな手のひらが、そっと銀次の後頭部を包む。 そして、促すように、髪をやさしく撫でてくれた。 「――――っ…!」 小さく呻くと同時に、瞳をどっと溢れた涙が、ベンチの上についた自分の手の甲にぽたぽたと落ちた。 我慢出来ずに、しゃくり上げる。 子供みたいだ。 そう思うのに、もう止められなくて。 「う………うっ……え………っ」 こんな風に泣くのは、どれくらいぶりだろう。 声をたてて、しゃくりあげて、とめどなく涙を流して。 「ったく、お人好しでバカの上に、どーしよーもねぇ意地っぱりだな。オメーは」 呆れたような言葉は、でも笑みを含んでいて。 いかにも"慣れないことをしている"という風に、髪を撫でてくれる手は、やさし過ぎて。 涙が止められない。 泣きじゃくりながら、咳き込むように銀次が言う。 「お、オレは……つらいとか、そんなの…思っちゃいけない…んだ…泣いちゃいけない…んだ…」 「ああ、だけど。しょうがねえだろ。人間だもんな。感情ぐれえあるだろう」 「でも…・! みんなを守んなくちゃなんないから……弱い、オレは見せちゃ…いけなくて…」 「ここじゃ、ちげえだろが。テメエが守るもんは、テメエだけでいいんだ」 「だって…。みんなが苦しい時…に、オレ一人……こうやって……」 「テメーは充分よくやった。だから、いいんだ。テメエのことだけで、もういいんだ」 「美堂…く…ん」 「おうよ?」 「でも、オレ……」 それでもまだ言い募る銀次に、蛮が"やれやれ、冗談抜きに強情なヤローだぜ"と笑みを漏らしながら、銀次の金の頭をポンポンと叩く。 「じゃあな。テメーのことだけ考えるのが、どーしてもいけねぇんだったらよ」 「……ん」 「オレのことでも、考えとけ」 「――え」 「テメエと、オレのことだけ考えとけや。どうせ、テメーみてぇな器の小せぇ脳ミソじゃよ、そんで充分手いっぱいだろ?」 「みど……!」 その言葉に、また新たな涙が、止めどなく銀次の瞳を溢れ出した。 蛮の手が、今度は銀次の頭を自分の方に抱き寄せるようにしてくれる。 何気ない言葉やしぐさが、ただやさしくて。 それが、とても嬉しくて。 どうしようもなく、嬉しくて。 「なあ、カミナリ小僧――。これからよ、つれぇ時は言え。泣きたいのも、オレの前では我慢すんじゃねえ」 「――うん…」 「テメエ一人で持ちきれねえモンは、オレも一緒に担いでやる。」 「うん…っ」 「オレらはよ。コンビだろうが?」 「――うん…!」 「もう一人じゃねえんだからよ」 「…うん!!」 こくこくと頷ながら漏らされる銀次の声は、だんだんにはっきりと、強くなっていくようだった。 それに蛮が、満足げに笑む。 そして、銀次が思う。 絶対泣いちゃいけないと思ってきたけれど。 泣くって。 なんだか気持ちがいいんだ。 …知らなかった。 安心できる人のそばで流す涙は、ちっともつらくもなければ惨めでも、情けなくもないんだ。 むしろ、あたたかくて。 ほっとする。 気持ちがすっと楽になるような。 銀次は、蛮に頭を抱き寄せられ、しゃくり上げながら、本当にそうだと思っていた。 蛮の言葉は、涙と一緒に、銀次の心の奥深くまで染み込んでいくようだった。 ただ、あたたかく、やさしい雨のように。 そうして、心にできた深い傷まで癒してくれるように。 そして、互いに実感していた。 やはり、ここが―。 "此処"こそが。 ずっと探し求めていた”自分の居場所"なんだと――。 まだもうちょっとだけフォローが…。いや、あとは車に戻って寝るだけなんですが…(笑) もうココでおわっておいた方がいいかしら。ちょっと不安になってみたりして…。 感想などありましたら、ひとことでもいただけると嬉しいですv novelニモドル 4< >6 |