そんなはじまりの夜 4 |
銀次が振り返ったその先で、リン!と鈴の音を響かせ、人影が木の上からひらりと舞い降りる。 そして、華奢な体躯と、少女のような美しい面立ちの少年が、銀次を見つめて少し寂しげに微笑んで言った。 「お久しぶりです。銀次さん」 「カヅッちゃん…」 "どうしてここに"と訊くのは、愚問だろう。 ろくに理由も告げずに、彼処を出てきた。 探し出して、理由を問いたいのは、当然のことだろう。 そして、"戻れないのか"と。 きっとそう言いたいのだと思う。 自分も、かつてそうだったから。 養父と慕った男が忽然と姿を消して、数日経って、やっと自分が置き去りにされたと知った時。 自分もまた、そうしたいと思ったから。 探し出して、どうしてなんだと問い正して、"戻ってくれないか"とそう懇願したかった。 たぶん、同じ気持ちだと思う。 置き去りにされる者の、哀しさややるせなさは痛いほど知っている。 だのに。 …にも関わらず。 自分は、あの無限城を捨ててきた。 この少年のこともまた、置き去りにしてきたのだ。 あれほど慕われ、信頼されてきたというのに。 それを裏切ってきた。 そんな自分が、今更何を話せるというものでもないと思う。 哀しそうな瞳をして自分を真っ直ぐに見つめたまま、何も言わない銀次に、花月もまた何から切り出したらいいものかと考えあぐねるように、ただその琥珀の瞳を見つめ返した。 月明かりの下、ただ佇むだけの二人の上で、時折の風にざわざわと木々がざわめく。 沈黙に耐えかねたように、花月が口を開いた。 「…お元気そうで、何よりです」 「あ、うん」 "カヅッちゃんも"と同じ言葉を返そうとして、銀次ははっと口を噤んだ。 未だ"あの中"で生きる花月に、"元気そうで"などと言える道理がない。 ロウアータウンでは、こうしている今も諍いが起こり、誰かが命を落としてるのかもしれない。 生きるだけに、ただひたすら懸命にならねばならないあの場所に在っては、生の中身がどうであれ(元気だとか、そういうレベルの問題ではなく)、そんなことは気にとめている余裕すらないのだ。 それを、もう忘れかけているのか、自分は――。 考えて、銀次はぎゅっと両の拳を握りしめた。 それに気づき、花月が静かに瞳を伏せる。 遠回しに言う必要などないだろう。 単調直入に問うほうが、銀次を傷つけずにすむかもしれない。 花月がそう思う。 そして、置いていかれてしまったことを一時は恨みさえしたけれど、まだ自分は銀次を信奉し必要としているのだと改めて知って、微かに自嘲の笑みを浮かべた。 彼には嫌われたくはない、とそう思っている自分がいる。 でも、それでも伝えねば。 そのために、ここへ来たのだから。 「戻っては…いただけませんか?」 予想されたその言葉に、銀次の肩がぴくりとし、琥珀の瞳が震えた。 わかってはいても。 やはり、その口から実際聞くのはつらい。 「うん。ごめん」 それでも、答えはきっぱりとしていた。 いっそ清々しいほどに。 花月が小さく息をつく。 わかりきった答えだ。 それほど揺るがない決心がなければ、銀次の性格から考えて、そうたやすく仲間を置いていけるはずがない。 わかっている。 だけど――。 だからと言って、このまま、あっさりと引くわけにもいかなかった。 「皆、動揺しています」 ぴく…!と、銀次の肩が震えた。 「心の拠り所を失って」 「…それは、皆を守ってくれる"雷帝"がいなくなったから?」 「――そうです」 「カヅッちゃん。オレは」 「銀次さんの仰りたいことはわかります。だけど、貴方は"雷帝"というだけでなく、下層階の人たちや僕らの心の拠り所だった。それは間違いないんです」 「…カヅッちゃん」 「戻ってください、銀次さん」 「…出来ないよ」 「銀次さん!」 「――ごめん。出来ない」 両の拳が、銀次の身体の横でぎゅっと握られる。 「僕らには、貴方が必要なんです…! どうしても!」 懸命な声で、花月が叫ぶ。 銀次は、それでもただ悲しそうに静かに首を横に振るだけだ。 「オレがいなくても――。君がいる。士度や征やマクベスも。充分、皆を守れる力がある」 だがその言葉に、花月は瞳を曇らせ、視線を下げた。 「無理ですよ。貴方でなければ」 「そんなことはないよ」 「いいえ」 否定は即座だった。 花月の方も、細くきれいな指先をぎゅっと曲げ、苦しそうに拳を結ぶ。 「士度は無限城を出ました」 「え…っ」 「来栖さんは、行方不明です」 「柾が…?」 「そして、マクベスは…」 「マクベスが…。マクベスが、どうかしたの?」 「マクベスは…。朔羅すら寄せ付けず、自分の殻に閉じこもり、心を閉ざしています」 「――そんな…」 「食事も取らず、虚ろな瞳をして、まるで廃人にでもなったような」 「カヅッちゃん…」 「ロウアータウンは、今や混迷を窮めています。人々は動揺し、混乱し、絶望し――。自ら命を絶つ者さえいます」 「!」 「サウスブロックでは暴動が起き、昨夜50数名の死亡が確認されました」 「カヅッちゃん」 「VOLTSの統制が崩れ、外部から下層階への侵入者が増え、イーストブロックのB地区でも暴動が起きようとしています」 「カヅッちゃん…!」 「雷帝がいなくなったと知って、ベルトラインからの襲撃の回数も増えました。ロウアータウンは今や奴らの絶好の狩り場で…」 「カヅッちゃん!!」 遮るように声を荒げてそう叫んで、もう頼むからやめてくれと言わんばかりの銀次に、花月もまた顔を背け、きつく唇を噛みしめる。 それをつらそうに見、強く噛みしめ過ぎて血の滲む唇を微かに震わせ、銀次が言った。 「それでもオレは―― もう戻らない」 「銀次さん…!」 「戻らない。誰が何って言っても」 「銀次さん…」 「無限城には、もう何も思うことはないよ。みんなには悪いけど。ここでやってくって決めたんだ。」 その淡々とした言葉に、花月の瞳が大きく見開かれる。 そして、端麗な顔を歪ませ、花月が口惜しげに吐き捨てるように言った。 「美堂蛮と、ですか?」 「――うん」 答えに迷いはない。 花月は、カッと血が沸き上がるような、嫉妬のような感情を覚えた。 「あの男の何が、銀次さんにそうまでさせるんですか!」 「カヅッちゃん」 「どうしてです?! どうして、あんな男のために…!」 やっと核心にふれることが出来たという風な花月の言葉に、銀次が驚いたように落ちかけていた視線を上げる。 琥珀の瞳がどこを見るとでもなく数度静かに瞬き、それが、ゆっくりと花月に向けられた。 揺らいでいた心が、逆にその名を聞いて鎮まった、そんな瞳だった。 「"せい"とか、そんなじゃない。彼と生きることを選んだのは、オレ自身だから」 下層階の現実に苦しそうにしながらも、それでも少し落ち着いた口調になる銀次とは裏腹に、今度は花月の方が声を荒げる。 「銀次さんは、美堂がどういう人間かご存じないんです!」 「カヅッちゃん」 「ロクでもない噂ばかりですよ。仕事のやり口も後始末も、そして、仲間に対する裏切りも」 「…噂は知ってる。元々、いい噂なんて聞かなかったしね。…でも、美堂蛮がどんな人間か知らないのは、きっとカヅッちゃんの方だと思う」 「銀次さん…!」 「一緒にいても、喧嘩ばっかりしてるけどね。彼、口悪いし」 瞳を伏せるようにしながら、それでも、そんな彼がいいんだと言わんばかりの銀次に、花月がきっと瞳をきつくさせて返す。 「仲間だった者を、その手にかけて殺してきた男ですよ…! いつか銀次さんも同じように…!」 「そんなことない!」 「銀次さん!」 「そんなことないよ、カヅッちゃん…! 彼はそんな人間じゃない!」 「ですが! もしそんな事になった時、傷つくのは貴方の方だ! 僕は、僕は銀次さんが…!!」 「――!」 言いかけた途端、ぎくり…!としたように、花月の瞳が大きく見開かれた。 ――凄まじい殺気。 そのまま、背後の気配を辿る。 全身から、冷たい汗が噴き出した。 「カヅッちゃん? どうしたの?」 しかし銀次には"それ"は感じられなかったらしく、いぶかしむように小首を傾け、花月を見ている。 あからさまな、殺意――。 それもただごとではない。 鋭いというより、"激しい"ような。 それ以上何か一言でも銀次に言えば、確実に命を奪ってやる。 そんな逼迫した殺気が、真っ直ぐに花月を狙っていた。 出所は知れている。 だが、ここまでとは。 ぞくりと背中を走る戦慄に耐えながら、まるで白旗を上げるように、花月が咄嗟に取った臨戦態勢を弛める。 背後を取られているのだ、一分の隙もない状態で。 戦うなどというのは、不可能に近い。 「わかりました…。今日のところは、引きましょう」 「カヅッちゃん?」 「そろそろ時間です。僕もそう長く、無限城を離れるわけにはいきませんから」 「う、うん」 いったいどうしたんだろうというような銀次の顔から視線を外し、花月が踵を返す。 「けれど。これで、諦めたわけではありませんから。――銀次さん、貴方を」 鋭く視線を背後に動かし、誰に言うでもなく挑むようにそう告げて、花月が木々の上へとひらりと身を翻す。 そしてその姿は瞬時にして、銀次の視界から消え去った。 「カヅッちゃん…」 遠ざかるその気配を見送った後。 銀次が、はぁ…と力のない息をついて、膝から崩れるようにベンチに腰を下ろす。 そのまま、前に上体を倒して項垂れた。 膝の上で握った拳が、自然と震え出す。 花月の言葉に動揺した。 そして、自分の言葉にも動揺した。 それは、自責の念となって、銀次の心に降りてくる。 ああ言うしか、なかった――。 だけど。 無限城が、ロウアータウンが、仲間達が。 自分が、あの場所を捨てたせいだ。 そのために、彼処に住むたくさんの罪もない人々が―。 命を奪われた。 覚悟はしてきた。 何れ、自らの力の暴走によって全てが破壊されるよりはと、出ることを選んだ時に。 何より、美堂蛮と、外の世界で共に生きたいと思った。 やっと巡り会えた、たぶん自分にとって唯一の人。 直感が、銀次の感覚の全てがそう告げていた。 だから、あきらめたくはなかった。 ――だけど。 厳しい現実を突きつけられ、狼狽している。 …いつか、この選択がみんなのためになれば。 そのためなら、どれほど憎まれてもいいとさえ思っていた。 けれど。 そんなことは、ただの後からの理屈づけじゃないのか。 自分はただ、楽になりたかっただけじゃないのか。 あの場所から、逃れたかっただけじゃないのか。 そのために、美堂を利用したんじゃないのか。 ただ、自分が、自分だけが、逃れたかった。 そのために。 多大な犠牲を払った。 やっと穏やかに暮らし始めた下層階の人々を、また元の地獄に追いやった。 本当は、そうなんじゃないのか? 「く…っ」 呻きのような声が漏らされる。 涙は堪えた。 自分がここで泣くわけにはいかないような気がして。 嗚咽を無理矢理呑み込んだ。 そのため、拳の震えは腕を伝わり、両肩にまで及んだ。 「う…」 迷いはないと、そう思ってきたのに、そう言ったのに、だのに。 怖い。 こうしている間にも、あの中では人が死んでいく――。 だけど…! だけど! だけど――!!! 月明かりに照らされ、蒼白に見えるその俯いた頬に。 ふいに背後から、ぴたりと温かいものが押し当てられた。 「え…っ」 銀次が突然のそれに驚き、はっと瞳を見開いて顔を上げる。 振り返ろうとするなり、頭のすぐ上で、既に耳慣れてしまった声が聞こえた。 「何、不景気なツラしてやがんだよ。カミナリ小僧――」 「美堂、君…」 novelニモドル 3< 5 |