そんなはじまりの夜　３

まったく、まったくもうと、心中での舌打ちは既に５回は数えただろう。 まったくまったく美堂君てば。 なんであんなに、性格が悪いんだよ。 ああ、しかも。 舌打ちする癖なんかなかったのに。 誰のせいだよ、ほんとにまったく。 変な癖までうつっちゃって。 ――とはいっても。 まだそんなにいうほど、長く一緒にいるわけでもないんだけどね。 …ふと思い、つい口元が綻ぶ。 ついでに釣り上がり気味だった目元も緩んだ。 そして、それは銀次の顔の筋肉と、いかり上がった肩からも力を抜けさせる。 子供みたいな、他愛もない口喧嘩。 こんなの、そういえば初めてだ。 思い、くすっと小さな笑いがこぼれた。 「…っと」 それを、当の本人に見られてはしないかと心配になり、肩越しに背後を振り返る。 でも。銀次のその位置からは、もうスバルは影さえ見えなかった。 夜の公園を大股にずんずんと横切って、気がつけば、随分車から離れたところにきてしまったうようだ。 もっとも、別にふてくされたわけでも、車に居るのが嫌だったわけでもないんだけど。 ――ただ、気配を感じたから。 闇の中から、自分を呼ぶ声がしたような。 銀次の顔から笑みが消え、表情が厳しくなる。 視線を上げる。 拳がぎゅっと握りしめられた。 その視線の先には、高く夜の闇にそびえたつ真っ黒な巨大な城がある。 つい最近まで、自分の世界の全てだった場所。 ―もう、戻ることはない筈の場所。 すべてを決意して、あの場所を後にした。 今しがた喧嘩をしたばかりの、あの男と生きていくことを自ら望み、選び、そしてそれと引き替えに全てを捨ててきたのだ、自分は。 守るべきものも、何もかも。 拳がさらに強く握りしめられる。 血が滲んでくるほど、強く。 けど。 後悔はしていない――。 琥珀の瞳でその黒い城を睨み付けながら、銀次は振り返りもせず、背後の木の上に音もなく迫ってきた気配に向かって静かに言い放った。 「用があるんなら、出てきて話せば？　カヅッちゃん――　オレは逃げも隠れもしないよ」 蛮は、取り残された車の中で、一人ぼんやりと煙草をふかしていた。 窓を開ければ、夜の闇に吸い込まれていくように紫煙が風に流され消えていく。 それを両の紫紺で追いながら、意識だけはほとんど無自覚に銀次の気配だけを辿る。 大丈夫だ。 近くにいる。 あの城を前にしても、特に揺らぐことはねえらしい。 思い、自嘲の笑みがその口元に浮かぶ。 馬鹿か。オレは。 いったい何の心配をしてるんだか。 しかし、よくよく考えてみれば。 こういう心配も、実は初めてだ。 だいたいにして、同年代のダチなんぞ、今までいなかったし。 というか、たとえ仕事がらみでも話をする気にすらなれなかった。 と、蛮が思う。 なんつーか。 ガキすぎて。 頭も悪すぎて。 いや。 頭が悪いぐらいならまだマシだが、妙に切れる頭の回転のいいヤロウは、とにかくこざかしくて、ずるがしこくて。 もっとタチが悪い。 そして、世の中の何もまだ知っちゃいねえくせに、まるで底の底まで落ちて、すべてを見てきたような目をしやがる。 自分はこんなにもツイてねえ、サイアクの星の元に生まれ落ちたと。 卑下し、荒んで。 何もかもをこんな世の中が悪いとか、あんな親がとか、いつも何かの誰かのせいにして。 それより、もっと酷いのは、自分の悲劇をウリにして、大人に媚びを売って擦り寄っていくヤツらだが。 ドッチにしても。 ――反吐が出る。 薄っぺらいガキども。 その割にゃ欲が深くて、自分の利益のためなら何だってする。 ダチを裏切ることも、欺くことも、殺すことだって躊躇なく造作なく。 だが――。 アイツはちがっていた。 落ちて、自力で這い上がって、尚かつ、まだ誰かのために立とうとしていた。 自分のためではなく。誰かのために。 自分が生き残るための最後のチカラさえ、他人を護るために使おうとしていた。 そんなものは偽善だと、オレに嘲り笑うことさえさせない、真っ白な潔強さで――。 運転席の窓から、半分の月を仰いで、蛮が思う。 口にくわえたままのマルボロは、いつのまにかそのほとんどが灰になっていた。 自分の中で、銀次が特別な存在になったのは、いつだろう。 蛮は、ふいにそう考えて、思い返すように眼を細めた。 頭の奥にはまだ「あの時」の、悲鳴のような銀次の叫びが残されている。 "頼むから…！" "もう、引いてくれ…！　このままじゃ、自分で自分が止められなくなる！　これ以上チカラが増幅したら、この無限城ごとあんたを、灼き尽くしてしまう――。　だから…！" おい、お前。 言い方、まちがってねえっかっつーの。 お前の立場なら、 "この無限城ごとあんたを"じゃなく、"あんたごと、この無限城を"ってのが普通だろう。 お前の護るべきはこの城で、ここに棲むヤツらなんだろ。 "このままじゃ、テメーごとこの城をぶっ壊してしまうから、皆のためにここはお前が引け――"と。 オレに、そういうべきとこじゃねえのかよ？ ええ？ 「アンタを…死なせたくない…っ！」 ――ったく。 オレ様を誰だと思ってやがんだ。 みくびられたもんだぜ。 だいたいよ。 今の今まで、本気で命の奪り合いをしてきた相手に向かって、いったい何をトチ狂ってやがんだか。 馬鹿じゃねえのか。 涙を溜めた懸命な瞳に告げられて、オレは心底呆れていた。 アイツにじゃねえ。 オレ自身に――。 なぜなら。 奇遇にも――。 この時。 オレも、同じ事を考えたからだ。 コイツを死なせたくねぇ、と――。 できることなら、この手で、なんとかしてやりてぇと。 救ってやることができるものならば。 こんな呪われた手でも、血に汚れた手でも。 お前がもし、望むなら―。 初めて、誰かのために何かしてやりたいと思った。 オレに、もし、出来るならば。 その涙を、もう流させたくないと、そうも思った。 ――ガラでもねぇが。 雷鳴が轟く嵐の無限城で、オレは唐突に手を差し出した。 アイツに。 "オレと来い" テメエが、テメエでなくなる前に――。 そうしたら、アイツは。 ガキみてぇに顔をくしゃくしゃにして。 雨の中で歯を食いしばって、ぼろぼろと涙を流した後。 さも、嬉しげに。 微笑ったんだ――。 結局、その懸命さとひたむきさに、自分はほだされたのだ。 生まれて初めて、相手の感情に心が揺さぶられた。惹かれた。 そして。 今、自分の手が相手に必要だと感じ、自分もまた、相手のその手を必要だと感じた。 ほとんど無自覚に近かったけれど。 考えて、思わずフッと笑みがその口元に浮かぶ。 これは果たして自嘲の笑み、か？ 蛮は、ほとんど味のわからなかった煙草を灰皿に揉み消し、シートを倒し、身体を伸ばすように横になる。 空のサイドシートをふと見つめた。 このまま、アイツがいねぇうちに少し眠るか？ どうも横にいると気になって。 しかも寝苦しそうにしやがるもんだから。 何か、思い煩うことでもあるのかと。 コッチもなんだか気になっちまってよ。 ロクに眠れやしねえって。 まったく。 なんであんな手の掛かるヤツ、拾ってきちまったんだが。 ずっと一人だった。 一人に慣れきっていた。 他人と暮らすとかどうとか、一時そんな生活もあるにはあったが。 その結末は、さらに他人を必要としない自分を作り上げただけだった。 一人が気楽だ。 失うものも何もなくて、死ぬ時も一人で、とにかく気楽だ。 だが――。 「――――…！」 ふと、無意識に追っていた銀次の気配が変わった。 …何かあったか？ そのまま瞳を窄めて、その気配だけを探る。 敵意を発してはいない。 だけども、多少の警戒は感じる。 同時に、微かな動揺も。　　　　　　 「……ったく。あンの、バカ」 本っ当に、世話がやけるったらねえぜ、まったく。 こん畜生。 いや。 別に、心配なんぞしてるワケじゃねえ。 オレもちっとばかり外の空気を吸いたくなった。それだけだ。 ついでに自販機でコーヒーでも買うか。 サンポールの煎れたのに比べりゃ、泥水みてえなモンだけどよ。 喉を潤す程度なら、あんで十分だ。 ああ、そうだ。 オレは、さっきから喉が渇いてたんだ。 別にカミナリ小僧のことなんぞ、これっぽちも気になっちゃいねえ。 喉が渇いたから、飲み物を買うためにちょっくら車を降りた。 そんだけだ。 山のようないいわけを自分の中に落としつつ、蛮はシートを元に戻すと、運転席のドアを開いた。 そこから滑り降り、後ろ手にドアをロックする。 そして見上げた夜の空では、半分の月が、"自分の半身はいったいどこにいってしまったのか"というように、少し不安げに青ざめてそこに在った。 novelニモドル　　２＜　４