「それは、とてもトクベツな一日」 1 2 3 4 5 4 〜2005 蛮ちゃんお誕生日祝SS/「オイシイ生活」シリーズ〜 |
空になった鍋は、寝入ってしまう前に、銀次が後で片すからねと言いつつ、台所に運んだ。 汚れた食器の類も同様、シンクで山に積み上げられている。 今、低いテーブルの上にあるのは、湯呑みが2つと、日本酒の一升瓶が一本と、灰皿。 賑やかしの二人が潰れてしまっているため、部屋を漂うのは、沈黙と、蛮の吐き出す煙のみだ。 父は、湯呑みに手酌で注いだ酒を、壁に背を預け、ゆったりと喉に流し込んでいる。 蛮や波児に比べて食が少ない分、既に大概飲んでいるはずだが、まるで水でもやっているかのように顔色一つ変えることはない。 それを、『つまらねぇ飲み方しやがってよ』とでも言いたげに一瞥した後、蛮が自分の肩からずり落ちかけた銀次の頭を、指にあったマルボロを咥え煙草に代えて、空いた右手で支えて戻した。 銀次が、むにゃ…と口元を綻ばせ、笑みを浮かべる。 それを見下ろし、ついつられてフ…と微笑んでしまってから、蛮が視線に気づいて、じろりと壁際の男を見やった。 どうでもいいが。 そいつが持つと、ただの湯呑みの日本酒が、何やら高級なワインにでも見えるから、どうにも余計に腹立たしい。 クソ面白くもねぇと内心で毒づき、蛮は、もう一つの湯呑みに並々と一升瓶から酒を注ぎ込んだ。 ぐいと、一気に飲み干す。 そして、「しみったれた飲み方してねぇで、テメエももっと豪快にやれや!」とばかりに、ダン!とテーブルに叩きつけるように酒瓶を置いた。 息子の挑戦的な態度に、さも面白げに視線を動かすと、父は薄笑いを浮かべて、それを受ける。 空になった自分の湯呑みに、同じように並々と酒を注ぐと、くいとたやすく飲み干した。 瓶をテーブルに置くと、無言のまま、お前の番だとばかりにチラリと息子の方を見る。 蛮がムッとした顔でそれを受け、空けた湯飲みに再び勢い良く酒を注ぐと、ぐいっと飲み干し、またダン!とテーブルに瓶を返した。 相変わらず無言のまま、テメエの番だぜと顎をしゃくる。 父がその顔に、喉の奥で低く笑いを漏らした。 やれやれ。 困ったものだ。 波児がこの光景を目の当たりにしていたら、そんな父子のやりとりに、"お前らなあ…"と、わざとらしく大袈裟に肩を竦めてみせることだろう。 サングラスの奥で目を細め、呆れたように笑いながら。 交代で酒を煽っているうち、一升瓶はあっという間に空になってしまった。 秘蔵の酒でも出して、こうなりゃ、とことん勝負してやるかと蛮がふと考えるが、それを即座に頭の中で打ち消した。 馬鹿馬鹿しい。 クソオヤジに出す酒なんぞ、あるか。 思い、じろりと父を睨む。 その視線を受ける蛮によく似た紫紺の瞳は、先程までとは違い、気のせいか、幾分柔和になったようだった。 アルコールが、二人の間にある緊張を、ほんのささやかではあるが解したらしい。 僅かに酒の残った湯飲みを手の中で弄びながら、視線を落として、父がぽつり呟いた。 「こんな、晩だったな」 「――あ?」 「お前が生まれた夜も」 「……」 「こんな、静かな晩だったよ」 突然の告白に、蛮がわかりやすく瞠目する。 予想外な言葉に、毒づくのも忘れて父を見た。 そんな事はお構いなしのように、独り過去を懐かしむように、父が眼差しを遠くする。 ふいに、くすり、と笑った。 「あぁ、そうだ。名付け親を波児に頼んだら、最初つけられた名が気に入らないと、お前、波児の顔面を蹴飛ばしたんだぞ」 言われように、蛮の眉間が寄り、さも怪訝そうになる。 「…生まれたての赤ん坊だろうが。出来るか、クソオヤジ」 もっともな指摘に、父が笑む。蛮を見た。 「いや。蹴飛ばしたのは本当だ。それで、こんな野蛮なヤツは、"蛮"でいいと」 「波児がか?」 「あぁ」 「何だ、そりゃ。いい加減なこって」 ケッと吐き捨てるように言う蛮の口元には、それでも微かに苦笑が浮かんだ。 まぁ、らしいといえば、そうかもしれない。 波児らしくもあり、自分らしくもある。 自分の名の由来を聞くのは初めてだったが。 どこか、安堵した。 血族の誰とも名の知らぬ者や、占いを生業とする者がつけたと言われるよりは、かなり良いように思う。 もっとも、そんな事に興味を示したことは、過去に一度もなかったが。 だいたい、自分が"蛮"という名なのだとはっきり自覚したのも、その名の下に"ちゃん"などと付けて呼ぶ、フザけた人間が現れてからだ。 そんな思惟を知ってか知らずか、父が続けた。 「どうやら、この名はお前も気に入ったようだったしな。それで決めた」 「だから、赤ん坊だろうがよ! 気に入るも入らねえも、自分でわかるかってぇの!」 まったく何を言ってやがんだか馬鹿馬鹿しい、と煙を吐き出す息子に、だが父は笑むと、"お前こそ何を言っている"とばかりにこう返した。 口調は、さも自慢げに。 「わかるさ。俺の息子だ」 瞬間。 蛮の胸の深奥が、ちりっと熱をもって痛んだ。 微かに瞠目する。 それを悟られまいと、反抗的に素早く睨みを効かせるが、やんわりとそれはかわされた。 心の奥底で、もう随分と幼い頃からずっと眠らせておいた記憶と感情が、僅かに芽吹くように持ち上がる。 蛮が苦々しく紫紺を眇め、心中で舌打った。 短くなった煙草をテーブルの下の灰皿に擦りつけ、心に湧いたそれも、煙草の火と一緒に消した。 そして、新しい煙草を咥え、ジッポで火を点けると、空になった箱をぐしゃりと手の中で握り潰す。 深く吸い込んだ煙を肺で味わい、ゆっくりと吐き出した。 ふと、どうでもいい事が気になった。 「……で?」 「何だ?」 「その最初の名ってのは、何だったんだ」 「最初の? あぁ、波児が最初に良いと言ったアレか」 「あぁ。一応、聞いておいてやらぁ」 「与作」 「…は?」 「だから、『与作』だ」 「あぁぁあ〜〜!?」 「やはり、日本人なら与作だろうと」 さらりと言われ、蛮の眉間の皺がさらに深く刻まれる。 「なんで、そうなるんだ!? つーか、真面目に考える気あんのか、テメエ!?」 「考えたのは、波児だ。私ではない」 「だからってな…!」 怒鳴りつつ、頭の中で銀次に"与作ちゃん!"だの、"与っちゃん!"だの呼ばれる自分を想像して、蛮の多少酔いの回りかけていた頭がサーッと急速に冷めてくる。 「冗談じゃねえぞ、ったく!」 「そう思ったから、波児の顔を蹴ったんだろ」 「あぁ、そうかよ!」 投げやりに応える蛮に、父が笑う。 そして、瞳を細め、遠くを見るようにして、ふいに言った。 「お前の母親も、"蛮"という名が良いと。嬉しそうに笑っていた」 「――!」 母の話が出るなり、突如として、蛮の表情が強張った。 両の瞳を睨むように険しくさせる蛮に、父が鎮めるようにその名を呼ぶ。 「…蛮」 「何だ」 喉から絞り出すような声が返る。 それを知りつつ、父は続けた。 「母親を、恨んでいるか?」 まさか。 そんな言葉を父から聞くとは、思ってもいなかった。 動揺を隠すように、蛮がその言葉を噛み締めるように、静かに一度瞳を伏せる。 何を今更と、しかもそれをテメエが訊くのかと、言ってやりたいことは山ほどあったが。 今、それを言うのはやめた。 眠っている筈の銀次の肩が、蛮にもたれ掛かったまま、ぴくりと震えたのに気付いたからだ。 「――いや」 「ならば。赦せるか」 「赦すも赦さないも関係ねえ」 「蛮、お前の母は…」 「関係ねぇって、言ってるだろうが!」 「…蛮」 「俺は――。もう、そんなこたぁ、どうでもいいんだ」 「どうでもいい…?」 「あぁ…」 父の眼差しを一旦見つめ返し、それから傍らの銀次を見る。 紫紺が静かに細められた。 「おふくろの事も、テメエが、半狂乱になったおふくろを置いて行方をくらました事も―。別に、今となっちゃどうでもいい事だ。――ただ」 「ただ…?」 「俺は、テメエとは違う」 「…」 「護ってやりてぇ人間の側から、そうたやすく離れたりしねぇ。俺は、傍に居て護る。――それだけだ」 強い宣言に、父の視線がゆっくりと柔和になり、フ…と笑む。 答える声は、夜の静けさの中で、どこかあたたかく蛮と銀次の胸に響いた。 「そうか…。そうだな…」 その後、父は自分の湯のみに残っていた最後の酒を飲み干すと、満足げに笑み、それきり無言になった。 蛮も無論、敢えて話すこともなく。 ただぼんやりと、時間と煙草だけが消費されていき、ついに最後の一本をも灰にした所で、蛮がさっと立ち上がった。 "煙草切らした。買ってくらぁ" ぽつりとそう残して、部屋を出る。 別に。 いい加減、とっとと帰れと言ってしまえばよかったのだが。 それも、「後で銀次がうるさいに違いない」と思うと、言葉にならず。 一人、コートも着ずに夜道を歩く。 冬の深夜にも関わらず、不思議と、寒さはさほども感じなかった。 ――あの男と昔何があったかなど、とうに忘れた。 もとより、幼い自分があの男にどういう感情を抱いていたのかさえ、別れてから、あまりに時間が経ち過ぎたため、もうほとんど忘れてしまった。 それに。 もう逢う事も無いと思っていた。 インフェルノドームで一度再会は果たしたが、思わぬ事態と展開に、感情面は後回しになった。 その後、父がGBの初代であり、波児の相棒だったと知り、さすがにやや見解も変わったが。 それでも結局は、その初代の名を捨て、無限城中層階にデル・カイザーとして長く君臨していた男なのだ。 下層階を、そんな中層階からの暴力と侵略から護るため、どれほど銀次が苦しみ、傷つき、それでも歯を食いしばって戦ってきたか。 あの男は知らない。 ――それが赦せない。 銀次の前では、決して、それを口にすることはなかったが。 もっとも。 言ったところが、銀次のことだ。 どうせ、こんな答えが返ってくるだけだろう。 『きっと蛮ちゃんのお父さんにも、そうせずにはいられない、何かワケがあったんだよ』 ――と。 自分の傷みなど、少しも顧みずに。 笑みさえ浮かべて、あの男を赦すのだろう。 そんな銀次を知っているから、尚。 余計に自分は赦せない、と思う。 あの男も、そして、その血を受け継いでいる自らも、また――。 「蛮ちゃん!」 「…!」 背後から呼ばれた声に、街灯の下で、蛮がはっと足を止めた。 振りかえれば、白い息を吐き出しながら、銀次が夜道を駆けてくるのが見える。 「蛮ちゃん、待ってよ!」 「んだよ」 残り十数歩ばかりに二人の距離が縮まったのを確かめ、蛮がゆっくりと歩き出す。 銀次がやや早足になって、その背後に追いついた。 「ねぇ。どこ行くの?」 「煙草きらしちまったからよ、ちっとな」 「コンビニ?」 「おう」 「んじゃ、俺もついてってあげる」 「あぁ? ガキの使いじゃねぇんだ。別についてきて欲しかねぇぞ」 「いいの! 俺もおなかすいたし、何かお菓子買いたいし」 「って! あれだけ食って、まだ食う気か、テメエ」 「えー? 俺、そんな食べてないよー」 「大概食ってたじゃねえか、しかも肉ばっかりよ」 「うわ。蛮ちゃん。そういうとこだけ、しっかりチェックしてるんだから、意地汚いっ」 「どっちがだ」 「蛮ちゃんが!」 「テメエだろうが!」 「んもー」 拗ねたように口を尖らせながらも、銀次が手に持っていた蛮のコートを、その寒そうな肩へとバサリと掛けてやる。 「ほらっ、まったく、コートも着ないで出てっちゃうんだもん。風邪ひいちゃうよ」 「そう大して寒かねぇだろうが、今夜はよ」 「そんなことないよ、寒いよ」 言って、蛮の肩にコートを着せかけ、その肩越しに至近距離で目が合うなり、銀次がどきりとしたように瞳を数度瞬かせる。 真正直な琥珀の瞳。 蛮が、苦笑を漏らした。 「な、何」 「――いや」 「何なのさっ、何で笑うの」 苦笑の後は、くくっと意味深な含み笑いをされて、銀次が思わずむくれたような顔になる。 「――タヌキ」 「へ…? な、何ソレ! た、たぬきって!!! そりゃあ似てると言われたら、似てなくもない気もすっけど! ヒトの顔真近で見て、いきなりタヌキって! いくら何でもシツレイってもんじゃあ…!」 「ばーか。そうじゃねえよ」 「えっ?」 きょとんとする銀次の額を指先でちょいと突付いて、蛮がにやりとする。 「狸寝入り」 「…あ」 どうやら思いきり心当たりがあったらしく、銀次がうっと返答に詰まる。 その様子に、蛮がやれやれと両肩を聳やかした。 煙草を取り出そうとポケットを探り、きらしていることに改めて気付く。 溜息で誤魔化した。 「ヒトの肩を枕にしてタヌキ寝入りたぁ、良い度胸じゃねえかよ」 「う…! そ、それは、ですね」 「ったく! 波児と二人して、くだらねぇ事企てやがってよ」 しどろもどろになる銀次に対し、突き放すような不機嫌な蛮の言葉は、言葉の中身とは裏腹に、声音は随分とやさしかった。 それでも"殴られるかな?"と、ちょっとびくびくしつつ、頭を低くして銀次が答える。 (つい頭を差し出してしまうのは、どうも条件反射らしい) 「…き、気付いてたんだ」 「当たり前だってえの」 「…あ、でも。波児さんは、多分本気で寝てたと思うよ」 「だろうな。ありゃあ、どう見てもマジ寝だったぜ」 「っていうか…。実は、俺も途中までホントに寝てたんだけど。蛮ちゃんが…。えっと、お母さんの事…」 「――あぁ」 わかっている。と、蛮が心中で返す。 そして。 もしも、銀次が自分の肩で身じろがなかったら、起きたことに気が付かないままだったとしたら。 もっと口汚なく酷い言葉を、父と、それから母に向けて叩きつけていただろう。 そう思う。 それが自分自身をも傷つけると。 知っていたから、尚更。 その分罵る言葉は、たぶん容赦がなかったに違いない。 そんな蛮の心中を知ってか知らずか。 押し黙ってしまった蛮を気遣うように、横顔を背後から覗きこむようにして、銀次が言った。 「ねえ、あの」 「…ん?」 「怒ってる?」 「あ?」 「…やっぱ。怒ってんの?」 「何を?」 「……お父さん、呼んだコト」 神妙な顔で問われ、蛮が"まったくよー"とすっかり口癖になってしまった台詞を落として、両の肩で息をつく。 だいたいにして。 銀次にこんな風に問われて、本気で怒れた試しが無いのだ。 たとえ本気で怒っていたとしても、それすら一瞬で霧散してしまうような。 怒りにまかせている自分が、妙に小さく思えてしまうような、そんな穏やかな、それでいて子供っぽい甘え口調。 「ねえ、蛮ちゃん?」 「……」 「ねえ、怒ってんの…?」 「……うるせえ。怒ってなんぞ、ねぇよ」 「ホント?」 「あぁ」 蛮の言葉に、背中の気配が安堵する。 「よかったぁ」 「ドッチかってえと…」 「えっ」 「――いや、何でもねえ」 思わず口をついて出そうになった言葉は、いったい何だったろう。 無意識に近かったので、自分でもよくは判じ得ないが。 まさか。 "むしろ、『感謝』してる"――とでも? いや、まさか。 蛮が、自分の思考に苦笑を漏らす。 いくら何でも、そこまで銀次のお人好しが伝染していたのでは、全く以っていただけない。 「つーかよ。どうでもいいが、テメエ。クソオヤジのコト、んな風に気安く呼んでんじゃねえよ」 「え、で、でも」 「だいたい、アイツは―」 「蛮ちゃん…?」 「あの男は、お前らをさんざん苦しめてきた、無限城中層階の…」 「あ! うん。でも!」 ストップ!というように、蛮の口元に銀次の掌がかざされる。 銀次が"それ以上は言っちゃダメ!"というように、きつく首を横に振った。 「銀次…?」 驚いたように銀次を見つめる紫紺を見つめ返し、琥珀の瞳がにっこりと細められる。 「でもさ! 蛮ちゃんのお父さんだもん!」 めいっぱいの笑顔で言われ、蛮が大きく瞠目した。 それは。 予想できた、銀次らしい応えではあったが。 本気で、そんな風に、こんな笑顔で言われるとは思っていなかった。 「――だから、何だっての」 問う声が、微かに掠れる。 銀次がうんと肯くと、急に気恥ずかしそうになって、ぼそぼそと答えた。 「ってことはさ。うーんと、つまり…」 「…あぁ」 「俺にとっても、"お父さん"みたいなモンだから!!!」 「――!」 蛮の背中にぴょん!と飛びつくようにして、さも嬉しそうに言う銀次に、蛮がこれ以上はないというくらいに紫紺を見開く。 「んねっv」 そうだよね?と力強い笑顔に、返す蛮の声が思わず裏返る。 「ぁあ? なんでそうなるよ!」 「だってさ、だってさ! 俺たち、夫婦みたいだって」 「はあ?」 「さっき、波児さん言ってたでしょ。ってことはさ、蛮ちゃんのお父さんは、俺にとっても『お父さん』! ねっv」 「あーのな〜! "ねっ"じゃねえ! いったい、どういう脳天気な思考してやがんだ、テメエは〜!」 「んあっ! い、痛いよっ、何すんの、蛮ちゃんっ!!」 「うるせえ! テメエの外れた頭のネジを、俺様が締め直してやってんだろうが!」 「んあああ〜〜っ! いたい、いたい〜〜っ!」 まったく。 コイツといると、ほとほと、シリアスに悩む自分が馬鹿らしくなってくる。 何度も何度も過去にそう思い知らされてきたが、今日ほどそう思ったことはない。 そして。 それに、自分がどれほど救われているかも。 やはり、今夜は特に、しみじみと思い知らされる。 蛮の拳に両方のこめかみを、さんざんグリグリとこねくり回され、『痛い〜っ』と涙目で頭を抱えている銀次に、「おら、行くぞ!」と声をかけ、蛮がコートに両手を突っ込み、先に立って歩き出す。 「わ、待ってよ、蛮ちゃん!」 その背中を慌てて追いかけて、そして、蛮の背後に追いつくと、銀次は上体をその背にぶつけるようにして、やおら蛮の身体にしがみついた。 「蛮ちゃんっ!」 「うお! 何だ、テメエ、いきなり…」 「ごめんね」 驚いたように歩を止める蛮の背中に顔を埋め、銀次がくぐもった声で小さく言った。 「俺、勝手なことして」 「…銀次」 静かに名を呼ぶ蛮の声を背中で聞いて、銀次が顔を横に向け、今度は頬をそこにぺたっとくっつけ、囁くように言う。 「…ごめんね、蛮ちゃん」 「……」 声は、甘えを存分に含んでいる。 蛮が、またしても苦笑を漏らした。 いったい、今夜だけで何度目だ? 「つーかよ」 「うん?」 「テメェ…。ゴメンとか言いつつ、実はちっとも反省してねぇだろ?」 蛮のスルドイ台詞に、その背で銀次がうっとなる。 そして、肩越しに振り向く蛮の視線を避けるように、ずず…と頭を下げて行くと、可愛らしく上目使いになりながら、肩を持ち上げ、笑んで応えた。 「あ、バレちゃった?」 「あぁ?!」 怒鳴られ、思わず隠れるように頭を引っ込めながらも、銀次が蛮の背後から腕を回して、ぎゅっとその身体にしがみつく。 「うん。あんま、反省はしてないかも」 「あ?!」 「さっきの"ゴメン"は、本当の気持ちだけど。でも、俺、やっぱ、よかったって思ってる。今夜、蛮ちゃんのお父さんに来てもらって」 「銀次…」 「本当はさ。来てくれるなんて、思ってなかった。でも、もしかしたらって思いながら、波児さんに頼んだんだよねー。蛮ちゃんは、どっちにしても怒るだろうと思ったし、それに、もし「招待したよ」って先に言って来てくれなかった時に、蛮ちゃん、きっと、口ではそんなこと言わないに決まってるけど、絶対、絶対傷つくし、淋しい想いもするだろうって思ったから…。内緒にしとこーって。そう思って…」 「…銀次」 「でも、お父さん。来てくれた――。蛮ちゃんのお誕生日だって伝えて貰ったら、蛮ちゃんのお父さん、ちゃんと来てくれて…。俺、すごく感激しちゃった」 「……アホ」 何を一人でくだらねぇ事ぐるぐる考えてやがったんだがと、半ば呆れたように言いながら。 蛮が、自分を抱きしめている銀次の手の上に、そっと自分の手を重ねた。 自分の過去も、過去の傷のすべてさえ、抱きしめてくれるような。 あたたかで鷹揚で、やさしい手。 背中の体温は、心をも包み込むほどに、限りなく温かい。 「あのね。蛮ちゃんが生まれた時ね。嬉しそうだったって」 「あ?」 「蛮ちゃんのお父さん、すごくすごく嬉しそうだったんだって。波児さんにそれ聞いて、だから俺、どうしても来て欲しかったんだ。蛮ちゃんとお父さんが、せめて今日の一時だけでも、ちょっぴりでも、仲良く出来たらいいのになぁって」 「……ったく。相変わらず、お人好しなヤローだぜ、テメエは」 「うん…」 「でもさ…」と言いかけて、銀次がふいに、驚いたように夜空を仰いだ。 ちらちらと白い粉雪が、まるで小さな星が落ちてくるように、暗い空から舞い降りてくる。 「蛮ちゃん、雪…」 「あぁ…」 銀次は、それを瞳を細めて微笑んで見上げると。 ともに空を仰ぐ蛮の横顔に甘えるように頬を寄せ、幸福げに、しみじみとその耳に囁いた。 「蛮ちゃん…。お誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう…」 すみません、まだもう1回分だけ続きます(涙) |