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私釈三国志 200 天下泰平


 逝く川の流れに浮かぶうたかたぞ、
 浮き沈むますらおのこの姿かも、
 成るも、成らぬも、夢のまたゆら。
 山、とこしなえに青くして、
 夕日の紅、いくそたび?

 山賤は、山にして春の風をたのしみ、
 漁夫は、水のほとりに秋の月を翫ず。
 時ありてめぐり会えば、
 酌みかわす壺のうまざけ、
 昔がたりに興味は尽きず。

(角川文庫版『完訳三国志』1巻 プロローグ)

F「まずは、ありがとうございました」
ヤスの妻「誰に」
F「師匠に」
ヤスの妻「よろしい」
F「そして、3年間おつきあいいただいた皆さまに。参考にした資料の著者・訳者の皆さまに。何より、お前たちに」
Y「よせよせ、似あわん」
A「お兄ちゃんらしくないぞ、このこのっ」
F「あっはは……僕だって、たまには謙虚になるよ。長続きしないけどね。では、130年の歴史を200回にまとめるというある意味無茶な企画でしたが、『私釈三国志』最終回、を始めます」
A「わー(ぱちぱち)」
F「このタイトル『天下泰平』だが、最初に公表したのは『漢楚演義』13回だから……去年の1月か。まぁ、前回のゴタゴタしたラストでもこれは判ると思う。天下は太平になっていない、と」
A「まぁ、な」
F「じゃぁ何でこんなタイトルに……と云えば、こちらは100回前だ。僕が日本の小説家でいちばん好きなのは児嶋高徳だと云ってあるな」
Y「太平記か」
F「太平記がなぜ『太平記』というタイトルなのか、というのは太平記最大の謎とされている。単純に現代語訳すると『平和物語』だが、内容は南北朝初期の時代をフォローした軍記物語だ。なんでそんなタイトルなのか、は『逆説の日本史』辺りを読んでもらうことにして」
ヤスの妻「平和になってほしいからこんなタイトルにした、だったね」
A「戦乱の時代は終わっていないから、終わってほしくてこんなタイトルにした?」
F「いや、僕はそんな殊勝なことは考えていない。いつぞや云った通り、この時代は誰もが戦う時代だった。武器も戦場もひとそれぞれで、天下を賭けた戦争・政争から外れた場所で、自分の戦場を生きていたひともいる、というのを見ておかないワケにはいかないだろう。天下がどうなろうが自分の生き様を貫いた変人はこの時代にもいた、と」
Y「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの苗を植えるだろう……か」
F「ひとはオレをリンゴ大明神の第一使徒と呼ぶ。そんなワケで今回は陳寿のオハナシ」
A「そーいやばっちりこの時代のヒトでしたね……」
Y「というか、アレを変人と呼ぶのか?」
F「行いそのものは割と奇妙だ。というか、好んで権力者に盾突く姿勢が見えてな。前に触れたが233年に、益州で生まれた陳寿は、黄皓にへつらわなかったのでたびたび官位を落とされたとある」
A「羅憲と同じクチなんだ」
F「覚えていたのは話が早いな。陳寿は譙周(ショウシュウ)から史学の教えを受けたンだが、羅憲は同門にあたる。白帝城攻防戦ののち洛陽に入朝した羅憲は、司馬炎から求められて益州の人士を推薦し、その中に陳寿がいたワケだ」
Y「羅憲同様、人生は何がどう影響するか判らんな」
F「水鏡センセの門下生とされる孔明龐統徐庶のいずれも、劉備を試すような真似をしでかしてから仕えているが、譙周は譙周で、劉璋や劉備(生年不詳だが劉焉の頃には生まれていなかった可能性が高い)の招聘に応じず、孔明に召されてようやっと出仕している」
A「劉備にも?」
F「そう読める、とは応えておく。蜀が滅んだ折には劉禅に降伏するよう勧めた張本人だが、その功績で司馬昭から召されても、漢中までは進んで『病気だよ』と引き返している。この際に『司馬昭が8月に死ぬよ』と洛陽から来たヒトに暴露しているけど、実際に265年8月に司馬昭が死んでいるのは先に見ているな」
A「……例の予言能力?」
F「それっぽいな。断りきれなかったようで、267年には、洛陽まで赴いて『功績もナシに爵位も封土も受けられないよ』とオコトワリしたけど、司馬炎はそれを許さなかった。270年の秋にはさらなる官職を与えられたけど、病気を理由にそれを辞退して、冬には死んでいる」
A「予言能力がホントにあるなら、晋の先が見えていたのかもね」
F「羅憲は羅憲で、黄皓におもねらず東に送られ、劉禅が降伏したのが確認できてから喪に服している。つまり、場合によっては指揮下の2000で魏軍相手に一戦交える覚悟があった、とも考えられるンだ。そう簡単には上に媚びないのが、譙周と門下生の生き様みたいでな」
A「陳寿にもその辺が受け継がれた?」
F「そゆこと。ただし『羅憲が譙周門下の子貢(シコウ)なら文立は顔回(ガンカイ、いずれも孔子の高弟)だ』と云われた文立(ブンリツ)は、晋に仕えて司馬炎に『蜀の旧臣を使ってください!』と繰り返しているから、一概にはあてはめられないけど。で、陳寿が媚びなかった"上"とは誰かと云えば、世俗的な上司のみならず、当時の礼や道徳・常識、すなわち儒教そのものでな」
A「そういうタイプなの?」
ヤスの妻「まぁ、そういう評価もできるけど……」
F「僕にはまるで判らん話だが、儒教では、親が死んだときには薬を飲んだりしてはいけないとしているらしい。つまり、親の喪に服しているときに自分の身を案じてどうする、という理屈だ。僕には何が悪いのか判らんが」
A「それくらい親御さんを大事にしなきゃいけないって教えなんだよなぁ」
F「ちなみに僕は、親が死んだら赤飯を炊く。陳寿は父の喪中に体調を崩したので、メイドさんにお薬を作らせていて、それを弔問客に見つかっている。おそらくは黄皓の指図だろう、そのまま蜀が滅ぶまで官職には就けなかった」
A「ただ要領が悪かっただけ、じゃないのか?」
F「母親のときも同じことをしているンだ。洛陽にいた陳寿は、死んだ母を洛陽に葬ったところ『母を故郷に埋葬しないとは何事か!』と罪に問われ、仕官の道を閉ざされている。僕には何が悪いのか判らんが」
A「ちなみに、はいらんぞ」
F「しかも、この一件は儒教に反しているのか僕には判断がつかない。何しろ陳寿が母を洛陽に埋葬したのは、本人が『洛陽に葬れ』と遺言していたからでな。子は親に従わねばならないのが儒教だろう?」
A「……どうだろうな、これは。親がそう云ったなら、従うのが子の努めだが」
F「実際のところ、親が僕を殺すのに刃物はいらなかったンだよ。僕に向かって『親に逆らえ』と命令すれば、僕としては自殺するしかない。親に逆らうことが親に従うことになるとしたら、若い頃の僕には死ぬほかはなかった。今ならきちんと対応できるが、連中がそれに思い至らなかったのを神に感謝しなければな」
Y「……ともあれ、親の遺志に背いてでも親を故郷に葬るべき、という教えそっちのけで埋葬した、か」
F「陳寿がなぜそんな真似をしていたのかといえば、本人の人格がそういうモンだから、としか云いようがない。当人曰く『未来を知る術を使える』譙周センセが、陳寿を直に評した台詞が晋書にある」

「キミは才能と学識で名を成すけど、周りからは叩かれるね。でも、それは不幸な人生じゃないよ。ふぁいとっ♪」
 (卿必以才學成名 當被損折 亦非不幸也 宜深愼之)

A「何なんだ、この予言者……」
F「いつぞや云ったが、歴史家が敬意を払うべきは歴史そのものか、でなけりゃ神だ。現世利益におもねるのは歴史家の取るべき態度じゃないンだよ。陳寿の生き様はまさしくその通りだったように思える。利権渦巻く晋の宮廷で、一歩間違えば粛清の刃に倒れてもおかしくないのに、官職からの放逐だけで済まされたンだから」
Y「晋に仕えたンだったか? 陳寿の書いた野史が、死後に官史と公認されたンだったと記憶しているが」
F「大筋としてはそういうこと。張華に高く評価されて『父親の喪中に薬を飲んだくらい、大したことではありませんよ!』と官職に就いている。張華は『呉を攻略した最大の戦果は陸兄弟を得られたことだな!』と陸機(リクキ)・陸雲(リクウン、いずれも陸抗の子、陸遜の孫)兄弟を得たのを喜んでいるように、文人・詩人を厚遇していてな」
A「100年前に聞いたなぁ、その台詞」
Y「曹操はともかく、ちょっといいか。張華は賈充からにらまれていたのに、どうして賈南風に通じていた? 改めて考えると奇妙に思えてな」
F「えーっと、順番に見て行くぞ。張華が外に出されたのには、政敵の馮紞(フウタン)が暗躍したのが大きかった」
A「賈充の腰巾着の片割れだったね」
F「司馬炎が後事を誰に託すのが良いか、と諮問した折、張華は『司馬攸様こそが』と応えている。これに司馬炎がいい顔をしなかったのを見てとった馮紞は、ここぞとばかりに司馬炎に謁見し『鍾会よろしくよからぬことを企む輩は、陛下のおそばから遠ざけられるべきです!』と云いきった。これにより、張華は幽州に左遷され、杜預王濬は不遇な晩年を過ごしている」
Y「あの謀略家に比せられるのはむしろ光栄なのかね」
A「いや、露骨な悪意だろ。政敵や潜在的な危険分子を遠ざけようとした」
F「で、張華が八王の乱で賈南風に与していたのは、賈充や馮紞、相方の荀勖(ジュンキョク)が司馬炎より先に死んでいるのと無関係ではないと思う。もともと賈充に政敵よろしくにらまれていた張華だが、呉の征伐後には宮中でそれなりの地位にあったのは事実だ」
A「えーっと、賈充が282年、荀勖は289年に没。馮紞は?」
F「286年だ。この頃には、張華が権力の座から遠ざかっている理由はすでになくなっていた、と云えるンだよ。直接張華を嫌っていた賈充・荀勖・馮紞はすでになく、それが理由で賈南風の宮廷における勢力も衰えていた。双方、接近を躊躇う理由はなくなっている」
Y「利害が一致したワケか」
F「そんな張華が陳寿を登用した(ただし、呉への侵攻が行われる前のオハナシ)のは、文人養護の一環でな。国の歴史はその国が滅んでから編纂する、という原則が漢土にはある。ために、晋では蜀の歴史を編纂する作業が行われることになった。誰にその大任を任せるべきかで、おそらくは羅憲のみならず譙周からも陳寿を推す声があったはずだ」
A「でも、蜀では官職につけていなかった陳寿に、そんな大仕事任せられる?」
F「ここでひとつの布石が生きてくる。以前、樊建(ハンケン)が司馬炎に孔明の話をして、司馬炎が孔明を高く評価したのを触れたが、陳寿は『蜀相諸葛亮集』という長い文書を編纂していた。演義では、孔明が死に臨んで姜維に託すものだが」
Y「孟徳新書ネタの焼き直しじゃなかったのか?」
F「実在しとる、現存はしとらんが。実際には兵法書じゃなくて、孔明の言行録でな。二四篇十万四千百十二字に及ぶこの文書が司馬炎に上奏されると、陳寿は著作郎、つまり史官の地位に任じられている。『事実をありのままに執筆し、優れた歴史家となる資質を持っている』と陳寿を絶賛する声があったくらいだ」
A「現存してないのが惜しまれますねェ」
F「断片的な写本なら残ってるけどな。著作郎となった陳寿は、過去に類のなかった三国鼎立の時代の史書、世に云う正史三国志六五篇を編纂した。この書は司馬遷の『史記』同様の紀伝体で書かれているが、『史記』とは異なり物語性はなく、さっきも云ったが『事実をありのままに執筆し』ている」
A「史記は違うのか?」
F「一見しただけでは歴史書なのか歴史小説なのか判らん記述が多く採用されているンだ。たとえば、項羽の最期に従った二八騎はことごとく死んだというのに、誰が『俺は悪くありません!』との遺言を聞いたのか」
A「『天が俺を滅ぼすのだ!』だから! ……云われてみれば、ひとり残らず死んでたな」
F「しかも、この台詞は従う二八騎に云ったと明記があり、漢軍にまで聞こえたのか判ったモンではない。戦場ゆえにその辺で聞いていたヒトはいたかもしれんが、司馬遷は項羽本紀にこれを採用している。やってることが陳寿ではなく裴松之に近いンだよ」
Y「事実を淡々と書き綴った陳寿に対し、人間味あふれる著述をした司馬遷か」
F「それはなぜか。陳寿は儒教を軽んじていたが、司馬遷は儒教を重んじていた。『史記』成立の事情は機会があったら触れたいが、『史記』を通じて『天道、是か非か』と問い続けている。天は正しい者に報いるというが、それは本当か。自分は云うに及ばず、李陵でさえ報われなかったではないか、と。だが陳寿は、孫皓など気に入らない奴には手厳しいことを書いていても、正史三国志全体として何かを訴える、ということはしていない」
ヤスの妻「歴史に対して個人の感情をさしはさむ真似をしていない、だね」
F「だからこそ、韋曜(イヨウ)が編纂していたという『呉書』は現存せず、夏侯湛(カコウジン、夏侯淵の子孫)は陳寿の『魏書』を読んで、自分の書いていた魏書を破り捨てた。張華も出来栄えをいっとう喜んで『晋書もこうありたいものだな』と述べている」
A「名声を博したワケか」
F「ところが、呉が滅亡して数年後になるが、司馬炎健在なこの頃、まだ賈充派は勢力を誇っていた。張華を嫌っていた荀勖は坊主憎けりゃ何とやらで陳寿のことも嫌っていた。ために、陳寿を地方の太守に出して、文学界から追放しようとしたが、本人が『母が高齢なので……』と辞退したことで失敗している」
A「……周処もそうしていればなぁ」
F「しかも、杜預が『陳寿を手放してはいけませんぞ』と司馬炎にけしかけたので昇進しているンだ。敵は多かったけど味方も少なくなかった、というところでな」
Y「敵の敵は味方、という話だな」
F「そうなる。が、ここでアクシデント発生。それから何年かして、高齢の母が亡くなったンだ。喪に服すため官職をいったん辞したが、例の埋葬騒ぎがあったモンだから、ここぞとばかりに賈充派に叩かれたようで、復官できなくなってしまった。282年に、張華が幽州に出されたために、後ろ盾がなかったワケだ」
A「宮中で孤立していたワケか……」
F「で、荀勖・馮紞が死んでから数年、復権した張華の推挙だと思うが司馬遹(シバイツ、皇太子)の側近に採用されることになったものの、当時65歳の陳寿はそれを受けることができず、病に倒れ世を去った。297年のことだった」
A「……割と波乱な人生だったな。いや、劉備や曹操には比べようもないけど」
F「この頃の皇帝は司馬衷だが、涼州の州中正・范頵(ハンイン)は、武帝に仕えた司馬相如を引き合いに出して『文章の美しさは司馬相如に及ばないものの質実さは優劣つけがたく、勧善懲悪の言葉を多く含み、得失を明らかにして、文化に貢献するもの』と上奏している。陳寿の『三国志』が正史に認定されたのは、范頵の上奏によるワケだ」
A「天下は動かせなかったけど、歴史に名は遺したワケか」
Y「宮廷の利権や人事に翻弄されていたが、本心としては、その辺りのゴタゴタから離れた場所で史書を書いていたかったかもしれんな。どうにも、世捨て人の雰囲気が陳寿にはある」
F「どこか仙人じみた印象は否定しないな。ちなみに、故国を滅ぼした敵国に仕え、自分の国の元勲を『戦術的にはヘボだった』なんぞと書いたモンだから、後の時代では『記言の奸賊、載筆の凶人』とまで酷評されている。眼に見えた筆禍だが、陳寿にはそんな評価もあることは覚えておくべきだろうな」
Y「……お前という奴は」
F「ところで、賈謐(カヒツ)って覚えてるか?」
A「?」
Y「……?」
ヤスの妻「賈充の外孫。八王の乱の当時に賈家の当主だったヒトだよ」
Y「そんな奴出てたか?」
A「覚えてない……」
F「あれ……? オレ、出さなかったか? いちおう登場人物リストには加わってるンだが」
ヤスの妻「自分で悩まないでよ……198回に出してるよ」
F「でしたか。えーっと、賈充の末娘の子で、正確には賈姓じゃないンだが、賈南風が『お父様が生前に云っていました!』とゴリ押しして賈家の家督を継がせている。当然、賈南風の操り人形で、賈家は賈南風が実効支配していたのは触れてあるが、そのための都合に併せた人選だったようでな」
A「やる気も才覚もなかった、と?」
F「才覚はともかくやる気はなかったな。文学的なものにしか興味がなく、文人たちを集めてサロンを形成して『二四友』を囲っていた。著名な人物を集めたと云ってもいいが、司馬炎の外戚で賈充の政敵だった楊駿の、娘を娶っていた潘岳(ハンガク)が筆頭格として収まっていた辺り、血で血を洗った派閥関係さえ気にしていないンだ」
A「コイツこそ野放しにするなよ、賈南風!」
F「その二十四人の中に左思(サシ)という文人がいた。晋代の文人といえば張載張協・張華・陸機・陸雲・潘岳・潘尼(ハンジ)・左思の『三張二陸両岳一左』が著名だが、その末に連なっている人物だ。この辺を講釈する予定もあったンだが、回数の都合でスルーします」
ヤスの妻「ざんねん」
A「意外と詩人って多い?」
F「先に意外な奮闘を見せた劉琨(リュウコン)だって、詩人としても有名だからねェ。ともあれ、この左思は、妹が司馬炎の寵愛を受けていたので官職につけたンだが、潘岳が美男子の代名詞とされたのに対し、左思はブ男の代名詞とされている」
A「そんなんで歴史に名を残すのは嫌だなぁ」
F「しかも、文章に携わる者としては致命的な欠点があった。筆が遅くて、代表作『三都賦(さんとのふ)』は構想10年でようやく仕上がったという代物なんだ」
A「そりゃまた、どこぞの雪男に比べるとずいぶんで」
F「いや、僕も早くはないけどな。ただし、熱意はある男だった。詩が思い浮かぶとすぐに書きとめられるように、屋敷はもちろん庭や垣根にも、家中のあらゆる場所に紙と筆が置いてあったという。さらに、『三都賦』を書くのに必要な資料を閲覧できるよう、妹の七光で書庫の整理係の地位を得ているンだ」
A「ろくでもないのか、ほめるべきなのか……どんなものなんだ、それ?」
F「文字通り三都、つまり、蜀の成都・呉の建業・魏の鄴を語ったものでな。各々の都の形勢・物産・各王室の優れた様子を、西蜀公子(蜀の皇太子でない皇子)・東呉公孫(呉の皇太孫でない孫)・魏国先生という架空の人物の口から語らせている。つまり、蜀の王子と呉の王孫が互いに自慢話をしているのを魏国先生がいさめ、最後は曹操によってつくられた魏の発展ぶりと統治政策の素晴らしさが勝利する、というストーリーだ」
Y「どこに優位性を求めているのかは明らかだな。それも、ガキふたりと年長者では」
A「気に入らないなぁ……そんなのが代表作なんだ」
ヤスの妻「アキラ、ここでやってることそのままだよ? 架空の人物じゃないけど、蜀・魏の贔屓で口論するのを調停者がたしなめながらお話を進める」
A「……おい」
F「やはりこのヒトには、一発で見抜かれるか……。まぁ、その辺りは意識していましたね。前のサイトの頃からアキラとの対話形式で講釈していましたが、ここに着陸するのを前提でしたから泰永というピースが必要不可欠だったンですよ。だからえーじろやめろ」
ヤスの妻「てことは、『私釈』全体を通じて魏寄りになっているのは、ヤスの立ち位置のせいなんだ。うちのひとが呉寄りならうまくバランスがとれたのに魏正統論者だったから、北に北にと偏って」
Y「まぁ、孫権をフォローするつもりはなかったな……ふむ」
F「僕が八方美人に徹したのである程度は調整したつもりですけど、全体的に曹操をヨイショしていたのは事実ですね。話を戻して、左思には名声がなかったので、張華の入れ知恵で、司馬炎の招聘をはねた在野の文豪・皇甫謐(こうほひつ)が序文を、また衛瓘(エイカン)が略解を書いたため、とたんに評価が跳ねあがっている」
A「現金だねぃ」
F「これまで左思に批判的だった者も、掌を返してほめたたえたとあるな。一躍ベストセラーと化したこの書は知識層を席巻し、読んでいなければバカにされるという風潮さえ広まった」
Y「10年の努力は無駄ではなかった、というところか」
F「以前触れた通り、蔡倫が製紙法を確立したのはほんの200年前で、まだまだ高価なものだった。その割には、左思が普通に使っていたようなんだけど、洛陽の民衆は『三都賦』を読んだり書き写して転売するために、紙を買い求めたため『洛陽では紙の値段が高騰した』と晋書にある。世に云う『洛陽の紙価を高らしめる』という故事だ」
Y「……乱世はすでに過去のものとなった、か」
F「そりゃそうだろう。陳寿が正史三国志を著したことでも、三国時代が終わっていたのは明らかだ。断代史、『王朝の歴史はそれが滅んでから、次の王朝で編集される』という考え方がある」
A「あー……」
F「僕は、ここに三国志の終了を宣言する。戦争していた敵国の首都の話題が、帝国の首都でベストセラーになるようでは、もはや三国の抗争は遠い時代のものと扱われていたに等しい。紙を買い求めた洛陽の民衆は、果たして黄巾の乱が起こったことを知っていたのだろうか」
A「……遠い時代、なんだねェ」
F「もうひとつ云っておこう。かつて孔明が唱えた天下三分の計を、僕は『"天下"を英雄各々の才覚・器量に併せたサイズに切り分ける』ものだとしたが、この考え方で行くと、仲達司馬師・司馬昭はともかく、司馬炎以降の司馬氏御一同には"天下"を治める器量がなかったと評価せざるを得ない」
Y「せっかく統一した天下を自分たちの手で混乱させたンだからなぁ」
F「そう、自分たちでブチ壊した、その罪は重い。黄巾の乱のように下からではなく、皇族が八王の乱を通じ、上から戦乱の時代を巻き起こしたンだからな」
A「……劉備や曹操は、何のために戦ってきたンだろうなぁ」
Y「ホントに、何のためやら……」
F「かくて、英雄たちの130年の歴史に幕は下りる。誰もが戦う時代の中で、あるいは人事を尽くして天下を競い、あるいは主を支えるべく智略を尽くし、あるいは競う様を後世に残すべく文を綴った。各々の戦場で各々の武器を使い戦い抜いた英雄たちに、心からの賛辞を。そして、新たな時代の英雄たちにも」
A「戦乱の時代が遠く去っても、新しい時代が続いているモンね」
F「ひとの歴史に終わりはないモンだ。最後になったが、三国志演義120回からグランドフィナーレとなるモノローグを引用しておきたい。本来なら195回でやっておくべきだったンだけど、ラストにこそふさわしいもののように思えてな」


 はじめに高祖劉邦が、
 三尺の剣をひっさげ天下を定めた――前漢の御世
 半ばには光武帝が、
 衰を返して中興を成した――後漢の御世
 代に代を重ねて献帝の折、
 命運すでに漢になし――乱世
 愚かなる何進は首級を失い、
 魔王董卓は天下に毒気を吐いた
 連環をもって王允がこれを倒すも、
 余燼から燃え上がったふたりの董卓(李・郭)
 盗賊は蟻の如く集まり、奸雄は狼の如く群がる
 江南に覇を唱えし孫堅・孫策
 天下を競った袁紹・袁術
 西蜀に割拠した劉焉親子
 荊州を治めた奇才劉表
 群盗を凌駕する張燕・張魯
 西域の雄馬騰・韓遂
 あるいは陶謙あり、張繍あり、公孫瓚あり――
 曹操は丞相となって官吏を操り、武将を操り、
 天子を操って諸侯を脅し、
 兵を擁して中原に礎を築いた
 楼桑に、皇叔劉備あり
 関羽・張飛と桃園で誓いを結ぶも、
 東西に浮き沈んで、勢力弱く、兵少なく、焦るも虚しい
 時ついに来たりて、南陽の茅盧を三顧
 臥竜に運り逢いて天下三分を謀る
 先に荊州を取り、後に西川を取る
 覇業成り、成都にて蜀漢の天子とならん
 されど、在位わずか三年
 みまかりし白帝で遺すは託孤の命
 孔明、祁山に向かうこと六度
 中原を回復し、漢を復興せんと目指すも、
 天の運りは願いに添わず
 星落秋風五丈原
 姜維は男心に兵を起こすも、
 功なき徒労を繰り返すこととなった
 鍾会・ケ艾の侵攻に、劉備の遺業は魏に降る
 曹魏、皇位を重ねて五代のとき、
 司馬炎、受禅台に立つ
 運りに乗じて長江に軍を進め、
 石頭の城落ちて三国は解消す
 亡国の主、亡国の家臣、全て飼われて捨てられず
 世に事業は繰り返されようとも、
 三国鼎立――それはすでに夢
 聞く人の心悼ます、昔がたり


『私釈三国志』

原作
 陳寿「正史三国志」
 羅貫中「三国志演義」

出席者
 語り部 F
 ツッコミ A
 ボケ Y
 その他 ヤスの妻、三妹、A2、M、翡翠、J

出演
 累計 1234名
 最初登場人物 劉備(第1回)
 最終初登場人物 皇甫謐(第200回)
 最多登場回人物 曹操(212/238回)
 最多登場人物回 第81回(108人)
 最少登場人物回 第153回(5人)

参考史料 多数(挙げきれません……)

Special Thanks
 師匠と、出席者各位
 蒲沢氏・某教授、史料提供・協力者の皆さま
 陳寿・羅貫中をはじめとする史料の著者・訳者の皆さま
 劉備・曹操他、1234名の出演者の皆さま
 全ての、読者の皆さま


F「3年間、ありがとうございました!」

 私釈三国志 End


あとがき
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