私釈三国志 199 永嘉之乱(後編)
F「296年8月のことだが、氐族が秦州・雍州で挙兵し、首魁の斉万年(セイバンネン)が皇帝を自称している。これに対し討伐に差し向けられたのが、偽装降伏で孫休を叩いた周魴(シュウホウ)の息子にあたる周処(シュウショ)だった」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
Y「もと呉将、か」
A「涼州の叛乱に呉将出すなよ……何でそんな人事なんだ?」
F「朝廷で監察官の役職にあったンだが、地位・役職を意に介さずに断罪し、司馬師・司馬昭の腹違いの弟にあたる司馬肜(シバトウ)が罪を犯したときも厳しく取り調べたンだ。ために『呉の名将の御子息であらせられる周処殿なら、斉万年ごとき打ち破ってくれましょう!』とヨイショされてな」
A「……死んでこいと?」
F「かつて曹操が洛陽の警備隊長だった折に手加減なく取り締まったモンだから、宮中の有力者は『有能な曹操には、もっと活躍できる場を与えるべきです』と称薦して外に出している。今回も、それと同じだな」
A「ぅわ……えげつない」
F「実は、斉万年は周処が涼州で郡太守をしていた頃に面識があってな。ために『もし周処殿が大将なら我らには対抗するすべはない。だが、周処殿が副将であれば、使いこなせる者はいないのだから生け捕るまでだ』と、完全に事態を読み切った発言をしているンだ」
Y「優秀な敵に信用ならない上官では、勝てたら奇跡だぞ」
A「で、大将は誰だ?」
F「司馬肜だ」
A「周処、死亡確認!」
F「皇族でありながら呉から晋に降り、後続者を次々と呼んだ……という意味での功労者と云っていい孫秀だが、出陣前に周処に会って『母親が高齢であれば出陣を辞退できる』と、死の顎から逃れるよう勧めているが、本人は『忠と孝は両立できぬもので、ひとたび主を持ったからには父母でも子を支配できません』と、死にに出た」
Y「父親が父親だけに反応が冷淡だな」
F「そんなつもりはないンだが……まぁ、ともあれ。実際の戦闘は297年の1月に入ってからだ。斉万年の7万の軍に周処は5000で突っ込むように、と命令が下っている。周処は戦場に到着したばかりで、兵たちはまだ朝食もとっていなかったので『私は死んでもかまいませんが、軍が負けたら国の恥ですよ』と、控えめに反論している」
A「コイツの態度のどこから『控えめ』なんて形容詞が出るンだ?」
F「だが司馬肜は『とっとと行け!』と命じ、周処は出陣している。友軍は出ることになっていたが後続の軍はなく、しかも友軍は来なかったので、完全な孤軍だった。明け方から日暮れまで戦い続け、挙げた首級は一万を数えたものの、疲労困憊し物資も乏しくなり、戦闘継続はほぼ不可能。それでも、退却を勧められても周処は逃げなかった」
『今日こそ節度を知らしめ死ぬ日だ、どうして退却できるか! 古来から、出征する武将には前進は許されても後退は許されん。晋軍のハラの裡はバラバラで、このまま敗れることは明白だが、私は国家に身を捧げる。そんな最期も、まぁ悪くないじゃないか!』
F「かくて奮戦し、司馬肜らの望み通り戦死している」
A「あの周魴の子が、こういう最期を遂げているとはねェ……」
F「司馬衷に見るべきものがあるとしたら、この後の処理だな。例の、周処の年老いた母に『息子さんがよくやってくれました』とも『死なせて申し訳なかったです』とも云わなかったものの、死ぬまで医薬品と酒食を保証している」
Y「周処には、死ぬまでのメシより味方の援軍が必要だったように思えるがな」
F「実はそうでもない。本人の言葉が遺っている」
『世事を避けて久しく、馬に鞭打って西戎を見る。おかずと豆とうまいメシ、それを思えば死ぬことも恐くないね』
F「西戎の地で北馬した周処は、呉人の節度を知らしめて死んだ。平西将軍の位と百万銭が追贈されている」
A「潔い男っているモンだなぁ……」
F「この斉万年の挙兵により、涼州の数万世帯……とあるから実数は十万以上が、食糧を求めて各地に移住している。飢饉が起こっていたのも影響しているが、漢中がまずターゲットになって、十数万の人口が流入した。ために、朝廷へ『蜀に追いやっていいですかー!?』と悲鳴が上奏されている」
Y「漢中だけでその人口が養えるなら、孔明は苦労しなかっただろうからなぁ」
A「まったくもってその通りでございます!」
F「このとき朝廷から、避難民を慰撫するため使者として李必(リヒツ)が送られたンだが、実際のところ、益州に入らないように監視するのが主な目的だったようでな。ところが、賄賂をもらって態度を一変させ『行かせないとまずいですね』と上奏したモンだから、益州に入るのが許可された、という事情がある」
A「よくそんな賄賂があったね?」
F「出したのはたぶん李特(リトク)なんだろう。避難民の中からさらに落伍しかけた傷病人を助けて、声望を高めていた人物だが、剣閣から蜀の地を見下ろして『このような土地を持ちながら、劉禅は囚われの身となったのか……バカ野郎め』とぼやいた、とされている」
A「……おい」
F「斉万年は299年1月まで戦い続け、捕らえられて処刑されているが、いち地方の叛乱でも平定に3年半かかっているンだ。晋の衰えと異民族の強大化は明らかだった、と云える。この頃の益州刺史は趙廞(チョウキン)と云ったが、実は賈南風の姻族でな。300年4月に賈南風が処断されると、11月には解任の内定が出ている」
A「逃げた?」
F「いや、開き直った。いっそ蜀にこもって自立しようと考え、避難民たちに官庫から物資を放出して支持を集めたンだ。一方で李特一家を抱き込み、新任の耿騰(コウトウ)に被害を与えたため、耿騰は『避難民を元の土地に戻さねば、涼州の災厄が益州にも伝播します!』と朝廷に訴えている」
Y「事の善悪はともかく、支持は得られんだろうな」
F「ために、新旧の益州刺史は激突している。官吏の陳恂(チンジュン)が『趙廞が益州を出ないうちは、益州に入るのは危険です。せめて陳総(チンソウ)の軍が来るのを待ちましょう』と耿騰をいさめたものの、耿騰は退くを潔しとせず益州に入ろうとして、趙廞の出した軍に敗れ、死んでいる」
A「なんだかなぁ……」
F「連れてきた官吏はほぼ逃げたンだけど、陳恂は逃げなかった。自分で後ろ手に縛って趙廞の前に出頭し、耿騰の死体を回収するよう申し出た。この態度に趙廞は感服し、許可している」
Y「いちおうは御大尽ぶりを見せるのか」
F「だが、耿騰に連携して、軍を率い益州に入ろうとしていた陳総には、討伐軍を差し向けている。この陳総が割とろくでもない奴で『耿騰と趙廞との争いであって、ボクには何の関係もありません』としれっとしていた。部下の趙模(チョウモ)に進軍するよう勧められても『関係ないから大丈夫』と何もせず、そのまま討伐軍に蹴散らされている」
A「……世にバカ者の種は尽きまじ」
F「しかも陳総、部下を放って逃げた。趙模が陳総の服を着て抗戦し討ち取られているが、首級が違うと気づいた趙廞の兵はさらに捜索し、ついに陳総を見つけ、殺している」
A「黄皓や孫皓は見逃したみたいだけど、神サマっているンだなぁ」
F「かくて趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、李特の兄・李庠(リヨウ)に軍は任された。数万の軍勢で漢中への道は封鎖され、益州は自立を標榜するに至っている。300年12月のことだったとされている」
A「やっちまったなぁ……」
Y「81年前に劉備が」
A「やかましい!」
F「まぁ、似たようなことだ。李庠は旗揚げからの味方ではないのだから信用してはならない……と、腹心の杜淑(トシュク)・張粲(チョウサン)にけしかけられて、趙廞は李庠と距離をおこうかと考え始めた。気づかない李庠から『帝位に就かれては?』と勧められると、一気に爆発して殺してしまう」
Y「劉備よりは理性が」
A・ヤスの妻『お黙りなさい!』
F「もちろん弟の李特はこれを根に持ち、趙廞から『アイツは死んで当然だけど、家族に累は及ばんぞ』と慰撫されても、漢中への封鎖を放棄して綿竹に戻っている。その直後、荊州への抑えを張っていた許合(キョゴウ)から『ちゃんとした地位がほしい』という申し出を蹴った杜淑・張粲が許合に殺され、許合もふたりの部下に殺される事件が起こった」
Y「李特が裏で糸を引いていたか」
A「だろうね……」
F「漢中への封鎖は、降っていた李必たちが継続していたけど、李特はこれを襲撃し打ち破っている。あっさり攻略するとそのまま成都に攻め込み、趙廞をも打ち破った。成都から脱出した趙廞が部下に殺されたモンだから『何もかもアイツが悪かったンです!』と上奏している」
A「信じたのか?」
F「もう幕引きしたかったンだろうね。李特を受け入れる旨告知すると、梁州刺史の羅尚(ラショウ)を益州刺史に転任させて事態の収拾にあてている。李特は羅尚の下手に出て歓迎したけど、部下の辛再(シンサイ)が『アイツが原因ですから、もう除いてしまいましょう』とけしかけた」
Y「目端の効く奴もいるモンだな」
F「というか、辛再は李特と昔馴染で、本性を知っていたようでな。李特と会うなり『凶!』と断じている。だが、羅尚はこの時点では李特を切り捨てる意思はなかった。301年は3月になろうとしていた」
A「ゆっくり時間が過ぎるねェ」
F「その3月、羅尚の部下が羌族と戦って死んでいるのが悪影響して、避難民を涼州に返すよう朝廷から督促が来た。李特は『せめて冬まで!』と羅尚に訴えたものの、趙廞の滅亡を事前に予測していた羅尚は『7月だ』と値切る」
Y「中間管理職は冷淡だな」
F「避難民は益州で日雇い労働をしていたが、辛再や李必が強制送還しだしてな。戦火と天災で荒れ果てた大地では耕作もできず、資本もないのにどうやって……と、避難民は再び李特のもとに集まり始めた。そこに辛再が『連中が趙廞の叛乱に乗じて奪った財貨を取り戻せ!』と、避難民に攻撃するよう命じている」
Y「弱り目に祟り目どころじゃないな」
F「実際に略奪したのは事実なんだが、辛再は欲深い男でな。趙廞討伐の功を独占しようと事実を曲げた上奏をしている。そもそも、趙廞戦に従軍した形跡さえないンだから、コイツの強欲ぶりも明らかだろう。だが、李特のところに避難民が集まっていると聞くと、辛再は『賞金を出すから李特を殺せ!』と逆ギレしてしまう」
A「……錯乱したのかね」
F「いちおう羅尚が、李特からの使者に『そんなに厳しい真似はしないから』と発言しているが、その使者は戻って李特に『あの方はあてになりませんね……』とぼやいているな。ために、李特は弟と南北に別れて、武器を集め兵を訓練して戦闘準備を整えていた」
A「戦る気マンマンじゃねーか」
F「10月になるが、これに危機感を抱いた辛再と李必は『羅尚の命令など待っておれん』と、部下に3万の兵を与えて先制攻撃をしかけ、仕方ないと羅尚も援軍を派遣した。というわけで、しっかり警戒していた李特の軍に返り討ちにされ、武将が3人討ち死にしている」
A「ときどき思うンだけど、接続詞おかしくない……ンだよなぁ、なぜか」
F「その3人の首級を送りつけられた羅尚は『俺はゆっくり避難民の対策をしようとしていたンだぞ! はやまったことをしでかして、どうするつもりだ!』と激怒。逃げ帰ってきた辛再に李特が追撃されたので、李必たちを援軍に行かせようとしても、李特を恐れて前進しない。ために、辛再は敗走している」
A「……羅憲の息子だったよね?」
F「兄の子だってば。この羅尚は貪欲で、益州の民からは嫌われていたンだ。対して李特は『私が益州を治めるにあたっては、劉邦を見習って法は三章のみとします!』と宣言したモンだから、民衆の支持の帰結は明らかだった」
Y「それじゃ負けるな」
F「羅尚は成都を出て、川沿いに砦を築いて侵攻を防ぐ一方、南方や梁州に救援を求めている。302年5月に司馬顒(シバギョウ)が北路から益州に入っているけど、李特はあっさりこれを打ち破り、兵の大半を降伏させている。8月には猛攻に出た晋軍に敗れかけたものの、息子の援軍で盛り返し、将の張微(チョウビ)を討ち取った」
A「益州軍、ボロ負けかい」
F「それでも主戦場でなければ善戦しているけどね。南中では、李特に呼応する動きが活発だったけど、南方方面軍を率いていた李毅(リキ)がこれを鎮圧しているンだ。何年か前に寧州は益州に併合されていたンだけど、この事態を受けて再び設置され、李毅が刺史に就任している」
Y「これにより羅尚は李特に専念できるようになった、と」
F「303年に入ると、李特の攻撃を支え切れず、羅尚は川沿いの砦を放棄して逃走。何しろ、馬は徴発したものの他の物資は民衆から得ようとしなかったから、支持が高まる一方でな。各地で自警団が組織され、李特に通じる旨の連絡が届いている」
A「快進撃だねェ」
F「ところが、トラブル発生。ご機嫌な李特は食糧を送って支援するけど、李特本軍で食糧が不足し始める。そこで、周囲の諫めも聞かずに、各地の自警団に避難民を送って寄宿させた」
Y「食糧と兵を分散したのか?」
F「そゆこと。荊州刺史宗岱(ソウタイ)が駆けつけたことでも勢い込んだ羅尚は、各地の自警団にも一斉蜂起するよう手筈を整え、2月10日に全面攻勢に出た。分散していた李特本軍はこれを支え切れずに敗退、各地の自警団も攻撃したモンだから、ついに李特は討ち取られた。首級こそ洛陽に送られたものの、死体は焼き捨てられている」
A「……負けるときはあっさりしてるなぁ」
F「残された軍は弟の李流(リリュウ)が率いることになったものの、この李流には、才はともかく李特ほどの意欲と人望がなかった。部下が裏切って李特の長子・李蕩(リトウ)が討ち死にしたモンだからさらに気落ちして、李流は妹の夫・李含(リガン)の勧めに従って、荊州軍先鋒の孫阜(ソンフ)に降伏すると云いだした。すでに56歳で、体力も気力も衰え盛りでな」
A「誰か止めろよ!」
F「きちんと若いモンが制止している。李含の息子の李離(リリ)と李特の三男・李雄(リユウ)が『あの老人ふたりが反発したら、脅迫してでも攻めるぞ!』と云いあい、兵を動かして孫阜の軍を打ち破った。ちょうど悪く宗岱が死んだものだから、荊州軍は撤退。この勝利で李流は態度を改め、軍の全権を李雄に任せている」
A「よしよし、反撃に出るンだな」
ヤスの妻「ねェアキラ、何でそっちの味方なの?」
A「……おや?」
F「ところが、蜀の民はしっかり自警団が張っているか、荊州か寧州に逃げたかで、李流の軍に味方するどころか接触してくる者さえいなかった。略奪しようにも誰もいないので、李流軍は飢えてしまう」
Y「補給が続かねば戦争はできんな」
F「そんな益州で、范長生(ハンチョウセイ)に率いられた民衆が山中に避難していた。この地出身の武将が、羅尚に『名望高い范長生と組んで李流を討つべきです』と上奏したのに却下されたので、怒った武将はかえって李流に寝返り、范長生に渡りをつけた。ために、李流軍は食糧を得ることができるようになっている」
Y「かくて準備は整った、か」
F「んー……この頃、303年の夏には司馬駿(シバシュン)の子・司馬歆(シバキン)が、武陵蛮の挙兵で死んでいる。先に荊州刺史宗岱も死んでいたモンだから、荊州方面の守りはかなりガタガタでな。鎮南将軍の劉弘(リュウコウ)が、司馬歆を討った叛将を討ち取って荊州の統治を任された、というのを挟んでおく」
A「はぁ」
F「そんなことがあった303年の9月に、李流は病に倒れた。さっきも云ったが56歳、割といいトシだ。だが、死に臨んで『李雄は天才だ、私の後は李雄を主とせよ』と李雄に後を継がせている。李雄、この年働き盛りの30歳。後継者としてはまっとうかつ正確な人選だった」
A「で、今度こそ……」
F「李雄は攻勢に転じ、まずは部下を使って羅尚の軍を誘いだしている。例の『降伏するから軍を出してくれ』という偽装降伏だが、『城を攻めてくれたら内通する』との申し出に羅尚は乗った。先に、李蕩が死んだ戦闘で、羅尚の側に寝返ったもと李家の武将を出して、きちんと打ち破られている」
A「珍しく、ちゃんと成功したンだ?」
F「数十年ぶりかなぁ。機動戦力を撃破された羅尚は成都城にこもるものの、周囲の城を攻略されて補給が途絶える。李雄はさらに猛攻を重ね、羅尚は12月に成都城を脱出し、残された部下たちは城門を開いて降伏した。羅尚を追撃しなかったのは城内の民衆まで餓えていたせいで、李雄は食糧を放出して救済に努めている」
A「……そういう奴なんだなぁ、あっちもこっちも」
F「逃げ延びた羅尚には、刺史が『李雄を討とうともしなかった!』と罰せられた梁州の兵権が与えられたが、食糧が乏しかった。ために、荊州の劉弘に食糧の供与を求め、部下は五千斗の食糧を出そう、と云いだしたが、劉弘は『食糧さえ出しておけば、西からの軍勢は羅尚が防いでくれるンだぞ』と三万斗の食糧を提供している」
A「いっそ清々しいほどに気前がいいな!?」
F「このおかげで羅尚は軍を持ち直すことができている。また、荊州に流入した避難民に、劉弘は耕地と種苗を与え、才覚のありそうな者は登用したので、荊州ではその辺りは安定し始めていた、というところだ。これに関しては前任者の司馬歆が圧政を敷いていたため武陵蛮が挙兵した、という経緯がある」
Y「暴君のあとではある程度穏健な政治をしかなければならんなぁ」
F「天下各地で皇族と異民族が権力争いを繰り返す中、劉弘治める荊州だけは安定していたモンだから、どのツラ下げてきたのか辛再が、劉弘に独立を勧め、今度こそ斬り捨てられている。まぁ似あいの末路だと思わずにはいられない」
A「確かに……」
F「この頃、李雄と羅尚の間に戦端が開かれなかったのは、李雄の側に事情があった。体制固めに余念がなくてな。范長生は蜀で名声を博していたので、李雄は彼を主に担ごうと考えたが、本人がこれを拒否し、諸将も李雄を支持したので、304年10月には成都王を、306年の6月には大成皇帝を名乗っている」
Y「益州の叛乱が再び、か」
A「一度めって誰だ!?」
F「劣勢を悟った羅尚は意外な手段に出た。310年に入ると成都の北と東を治める李雄の親族を、その部下に暗殺させ、城ごと帰順させたンだ。どうにもこの甥は、叔父とは違ってこういうダークサイドが似あってなぁ」
A「なんだかなぁ……」
F「で、羅尚が死んだのはこの年だった」
A「……おい」
Y「因果応報……かね」
F「その辺の明記はないが、羅尚の死によって軍が混乱したのは事実だ。李雄は反撃に転じ、寝返った城を攻略すると暗殺の実行犯を殺害している。この勝利を祝った李雄は暦を改元しているが、成漢が益州に自立したのはこのときだったと考えていいだろうね」
A「かくて益州は晋の領土から離れた、か」
F「他の地方はと見てみれば、鮮卑の、慕容氏が遼西で前燕を、拓抜氏が山西で代を起こしているし、関中(本筋)の氐は符氏、羌は姚氏のもとで結束を強めていた」
A「五胡が続々と動き出したワケか」
F「正直、五胡の成立と活動についてはしっかりまとめたいところではあるが、やりだすと止まらんヒトがいるので場を改めることにします。八王の乱の途中でも五胡がいろいろ動いていた、ということだけ覚えておいてください」
このヒト「ぶー」
F「そして長安では、攻めるより効率的だと考えた漢軍が、316年8月から兵糧責めをしていて、件の皇帝司馬鄴(シバギョウ)でさえわずかなお粥をすするのが精一杯だった。11月、ついに食糧が尽きて司馬鄴が降伏し、晋王朝4代51年の歴史は幕を下ろしている」
A「……救われねェなぁ」
F「永嘉年間そのものは313年に終わっていて、316年は晋の元号では建康4年だ。だが、歴史的には司馬熾の即位した307年から長安が降伏した316年までの、晋王朝の暴走・自滅と五胡の隆盛による戦乱を、永嘉の乱と呼ぶ。この戦乱によって晋王朝、つまり後漢以来となる漢民族による統一王朝が崩壊し、各民族入り乱れての新たな時代が始まるワケだ」
Y「五胡十六国の時代、か」
F「後漢王朝が事実上崩壊した黄巾の乱から132年後に、晋は滅んだ。司馬鄴が死んだのはこの翌年。司馬熾同様、宴会の器洗いだの狩猟の勢子だの、平陽で屈辱的なことをやらされ続けた末での処刑だった。天下を統一しておきながら子孫たちがこのザマでは『羞じて死ね』でも云いすぎではないように思える」
Y「どいつもこいつも、何のために戦って死んだのやら」
A「嗚呼、悲しいかな、哀しいかな……」
F「しかし……やはりこれくらいじゃ足りなかったなぁ。かなりイベント端折ったのに、ずいぶんな量になった。まだいくらでもイベントはあったンだが」
ヤスの妻「続ける?」
F「……いや、区切ります。すぅ……はぁ(深呼吸)。ところで……」
A「だから、しんみりしたなら終わってください!」
Y「さぁ来い」
F「次回、『私釈三国志』第200回『天下泰平』。続きは最後の講釈で」
A「……よろしくっ!」