私釈三国志 199 永嘉之乱(前編)
F「では、6時間ぶりの講釈と行こう」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「翌日にずれ込むとこうなるンだよなぁ……体力的に割ときつい」
ヤスの妻「アキラ、おつかれなら義姉さんの胸で休むといいよ」
A2「(ぎゅっ)……だめ」
Y「何回か前にやったこと、そのまま繰り返すなよ」
F「もうツッコミ疲れた(ぱんっ)。今回は、事実上の時系列最終イベント永嘉の乱について。前回、晋朝二代恵帝司馬衷(シバチュウ)が死んだが、これが306年11月のこと。そこで、さっそくトラブルが起こっている」
A「はぅ……懲りないなぁ」
Y「お前が云うな。で、誰だ?」
F「司馬衷の后だ。司馬衷の"次"は皇太弟の司馬熾(シバシ)が皇帝に内定していたンだが、賈南風の死後、300年の11月に立てられた羊皇后が『兄嫁じゃないがしろにされちゃうわー!』と、自分が皇太后になるために、司馬衷の弟で司馬熾の兄の司馬遐(シバカ)の、息子の司馬覃(シバワン)を皇帝に仕上げようとした。司馬覃には利権絡みで立太子された過去があってな」
Y「だから、誰が何のために戦っていたのか判らんことするなよ」
F「これを許したらまた新たな戦乱が起こるのは明らかだ。大臣たちはとっとと司馬熾を帝位につけ、羊皇后には宮廷の一隅を与えて実質監禁状態においた。16年も内外で権力抗争を繰り広げた割には、正しい処置をとったと云える」
A「16年繰り広げたからさすがに懲りたンじゃね?」
Y「だから、お前が云うな」
F「はいはい、仲良くしなさい。のちのゴタゴタにならないよう、翌年12月に、司馬越は司馬覃を金墉(きんよう)城に幽閉し、2ヶ月後に殺害している。この辺の果断さが司馬亮辺りにあれば、八王の乱は起こらなかったように思える」
A「司馬懿を見習おうって意思はなかったのかね……」
F「で、もちろん次のターゲットは司馬越だった」
2人『待て』
F「順番としては正しいだろ? 皇帝には直系の司馬熾を置き、傍系の司馬越は太傅とか丞相とか司徒とかの役職について天下を切り盛りしていたンだが、この両者の仲がしっくりこなくなるのはもはや天命だと云えよう」
A「曹操が見たら何て云うかなぁ……?」
Y「そっちだとさすがに判らんが、曹丕なら『だから身内を信用するなと云ったンだ!』とでも怒っただろうな」
F「晋書懐帝紀、つまり司馬熾伝を見ていると奇妙なことになっているンだ。307年1月の司馬熾即位に際して司馬越は太傅なんだが、その年の12月には丞相になり、309年3月には司徒になっている」
A「降格されていってないか?」
F「だから奇妙なんだって。兼任していたならまだ判るが、肩書きは通じて東海王のままだ。やはり、関係が思わしくなくなっていたと考えるべきだろうね」
Y「敵も味方も、何のために戦って、何のために死んだのやら……」
ヤスの妻「でも、司馬衷が八王の乱の最中で殺されなかった理由は明らかだね。ごはんさえあれば黙ってるから、御輿に担ぐにはこれほど都合のいい皇帝っていないよ」
F「その通りですね。自分の意志で動こうとする皇帝と戦乱を鎮めた元勲の間で、関係がうまくいっていいはずがありません。そんなモン民が許しても、歴史が許さないでしょう」
A「孫皓よろしく『アイツが死んでもっとマシな君主になったらどうする!?』ってことか。で、どんな具合よ」
F「八王の乱の余波がおさまらないのは確認するまでもないと思う。政治的には司馬熾の帝位擁立で治まったけど、軍事的には各地で火種が残っていた。ために、許昌・襄陽・鄴・長安に皇族を配して鎮静化に努めている。司馬越自ら許昌に入ったことからも、晋王朝への反発が強かったのがうかがえる」
A「東西南北の拠点にか……」
Y「正確に云えば鄴は北東な。洛陽から北は并州だ」
F「その并州がこの頃すでに、治所の晋陽に州刺史劉琨(リュウコン)を残して、晋の支配下から外れていてな」
Y「……おや」
F「史書に曰く」
「劉邦・曹操にも匹敵する英雄を中華に生まれさせず匈奴に生ましめたことは、このひとを恨むべきであろうか、歴史を恨むべきであろうか。それにしても情けなきは晋王朝よ、司馬の子孫は羞じて死ね!」
Y「司馬一族に恨みでもあるのか?」
F「劉淵(リュウエン)、字を元海。南匈奴の単于だが……呼廚泉(コチュウセン)を覚えてるか?」
A「曹操だか曹丕だかに宮廷に留め置かれたンだっけ? 前に『龍狼伝』にも出てきてたね。死んだけど」
F「呼廚泉の父は南匈奴の単于でな。黄巾の乱が起こった頃、後漢の朝廷は友好(ほとんど従属)関係にあった南匈奴に兵を出すよう命じ、実際に軍を率いてきたのが呼廚泉の兄にあたる於夫羅(オフラ)だった。ところが、匈奴の本国で叛乱が起こって単于が殺され、於夫羅は漢土に逃げ込み、呼廚泉が単于になっている。その後の呼廚泉の動きは以前触れた通り」
Y「袁家と組んで曹操と敵対したが打ち破られ、魏の朝廷に自分で出仕してきて、匈奴は骨抜きになった、だったな」
F「そゆこと。で、於夫羅の子、呼廚泉の甥にあたるのが劉豹(リュウヒョウ)だ。厳密には『龍狼伝』での表記通り豹で姓は持たないンだが、有名な王昭君のエピソードで知られる通り、匈奴は漢王朝と姻戚関係にある。ために、劉姓を名乗っていた。たぶん、於夫羅や呼廚泉みたいな匈奴風の名もあるはずだよ。史書には残されていないけど」
Y「確認のしようもない、ということか」
F「で、この劉豹の子が劉淵だ。単于の子だから洛陽に遊学(という名目の人質)に来ていた当時、王渾や、直接面談した司馬炎にも高く評価されている。当時まだ呉は健在だったが『劉淵は文武両道、彼を江南に送れば呉の平定など造作もありません!』とさえ云われたほどだ」
A「いや、匈奴を使って呉に攻め入ろうとか思うなよ!」
F「ごもっとも。先に討つべきはこれまた健在の樹機能だろうと、楊欣(ヨウキン)の戦死後に『匈奴全域の指揮権を劉淵に与えてしまえば、樹機能など恐るるに足りません!』と上奏する声もあった」
Y「実行しなかったンだな?」
F「もちろん、と云おう。呉のときは『アイツは蛮族だから朝廷に従いませんよ!』と突っぱねた者がいたが、今度は『アイツに樹機能を討たせても、アイツが涼州を支配します!』と危機感満載な悲鳴が上がっている」
A「正しく評価しているからこその危機感か……」
F「いつぞや云った通り王昶(オウチョウ)は并州出身で、その辺の地縁が王渾に劉淵を高く評価させていた。ために司馬攸が司馬炎に向かって『劉淵を殺さねば并州が失われます!』と訴えた折にも、王渾が『理由もなしに殺せますか!』とかばい、結局劉淵は生き延び、司馬攸は死んでいる」
A「司馬炎のお墨付きでは、そう簡単には殺されんか」
F「279年に劉豹が死んだので、劉淵は左賢王・単于となったが、漢土に留め置かれていた。しばらくして息子の劉聡(リュウソウ)ともども司馬穎(シバエイ)が治める鄴に移されたンだが、八王の乱に乗じて漢人の支配から逃れようとした匈奴から大単于に任じられると、司馬穎をだまして匈奴の本国に脱出している」
A「唐突に前回の内容に戻ったな。司馬穎……あぁ、烏桓騎兵に鄴を奪われた」
F「それを率いていた王浚(オウシュン)は司馬越に通じていてな、戦後鄴には司馬虓(シバコウ)が入っている。劉淵は司馬穎への義理から烏桓を討とうとしたが、副王劉宣(リュウセン)らに『長々我らを奴隷扱いしてきた晋が滅ぼうとしているのに、根をたどれば同族の烏桓・鮮卑を敵に回すことは許されません!』といさめられた。それに応えた台詞が晋書にある」
『よく云った! 我が匈奴の精兵をもってすれば晋を倒すなど、枯れ木を倒すようなもの。かつて漢は我ら匈奴と義兄弟となった。兄が死んだのだから弟が後を継いで何が悪い! 男に生まれたからには劉邦を目指そう、悪くとも曹操となろう! 天下に恩徳を施し、わずか一州で魏と争った劉備よ。漢王朝の甥たる私が、劉禅のあとを継ごう』
F「かくて304年10月、劉淵は漢王を名乗った」
A「いやー、思わぬところに同好の士が」
Y「現代まで続く劉備好きは、こんなところに根っこがあったか」
F「もっとも、領土は并州ですけどねっ。308年のこれまた10月に、漢王劉淵は国号を漢として皇帝を名乗った。さっきも云ったが、かつて漢と匈奴は姻戚関係にあり、匈奴にとって中原とは漢王朝であり劉氏の政権だった。ために、この頃の匈奴人の多くは劉姓を名乗っている。劉邦や冒頓単于がそれを聞いたらどう思っただろう」
A「泣いたンじゃね?」
F「八王の乱において、諸王は北狄、すなわち五胡の軍事力を利用し、劉宣の云うように奴隷扱いしていた。だが、この戦乱によって五胡の諸部族は自分たちの戦力を自覚したンだ。俺たちは強いんだ、その自覚が漢民族からの自立へと結びつくのは何もおかしいことではなかったと云えよう」
ヤスの妻「まぁ、たかが漢人ごときに騎馬民族がコキ使われていたのが納得できなかったくらいだしねー♪」
F「このヒトどーにかならんかなぁ……。南方、つまり旧呉領では、304年3月に陳敏(チンビン)が徐・揚州の叛乱を平定しているが、305年の11月には揚州で自立して、荊州を治める劉弘(リュウコウ)と戦火を交えている。ところが、部下の顧栄(コエイ)が陳敏を見捨て『そもそも呉人が陳敏に味方したのは、このワタシがいたからではないか!』と豪語。陳敏の部下はあっさり逃げ出した」
A「あっけないな……顧雍の子孫?」
F「孫(次男の子)だね。長江を越えようとした陳敏だが、追いつかれて建業で処刑されている。各地に配されていた弟たちも斬られ、ある程度安定したところで、朝廷は司馬伷の孫の司馬睿(シバエイ)を送り込み、現地の統治に充てた。これが、のちに東晋初代皇帝となる……というのはまた別のオハナシ」
A「どこかでつながってるモンなんだなぁ……」
F「つながりはないンだが、この頃北方でもひとつの巨星が動いている。いつぞや云った石勒(セキロク)が、劉淵に帰属してな」
Y「来たか」
F「石勒は、いつぞや云った通り羯族の出身で、幼少時に司馬越の弟の司馬騰(シバトウ)に捕らえられ奴隷に売られている。この頃(に限らず)異民族は漢民族の迫害を受けており、生活は厳しかった。また、漢民族による人狩りで捕らえられ、奴隷として売買されるのは珍しいことではなかったンだ」
ヤスの妻「むすぅーっ」
F「もともと曹操が戦力・労働力として徴発したのが、異民族が漢民族に従属する契機となったのだから、この辺りを解決しなければ民族問題に発展する……と危機感を抱いた郭欽(カクキン)が『呉を討ったのだから、蛮族どもは辺境に返すべきでしょう』と上奏している。だが、司馬炎はこれを聞き入れなかった」
Y「ために、火種がくすぶっていたワケか」
F「劉淵の挙兵も、そういった事情だからな。劉淵は烏桓の勇猛な部族を味方につけようとしていたが、その部族から良い返事がなかった。そこで、石勒は自らその部族に降伏し、他の部族との戦闘で先陣切って奮戦し、声望を高めた」
A「戦上手だった、と」
F「指揮能力に関してこの時代ではトップクラスだ。自分の名声が高まったのを見てとると、おもむろに族長を縛りあげ『オレがいいか、コイツがいいか』と選ばせたところ、誰もが石勒を推す。ために、族長を放逐して烏桓兵・降伏させた諸部族を引き連れ劉淵に帰属した。劉淵は石勒を軽く扱わず、その辺りの指揮を任せている」
Y「信賞必罰さえ貫いていれば、まっとうな不満は出ないからなぁ」
ヤスの妻「もともとが遊牧民だから土地に呪われていない。だから、人種や民族で差別するなんて下劣な真似ができないンだよ」
F「発言は過激だと思いますが、意見そのものは否定しません。307年の5月には漢軍の猛攻に城主の司馬騰が殺害され、鄴が陥落していますが、この軍に石勒が加わっていた、と本人の伝にあります。割と根に持っていたのかな」
A「そりゃ、ねェ」
F「ただ、漢軍は鄴を放棄しているンだ。この辺り騎馬民族なんだと思わずにはいられない。許昌から出陣した司馬越は、この年7月に官渡で漢軍を破り、8月には鄴に入っているけど、石勒に焼き払われ灰塵と帰した銅雀台跡地に兵を留め『奪還しました!』と宣言している。実情を知っている漢軍からすればお笑い草だろうけど、それなりに士気は高まったようでな」
A「割とやり手だねぃ」
F「それだけに、宮廷では野放しにしておけないという意見が出回りつつあってな。各地を転戦していた司馬越に、例によって司馬熾の舅(后の父)王延(オウエン)がよからぬ企みをくわだてた。これまた例によって、帰還した司馬越に王延ら十数人が、司馬熾の目の前で斬殺されている。309年3月のことだった」
A「……それにしても、どうして外戚って『皇帝の妻の父』ってだけで自分が天下を握っていると思えるンだ?」
Y「どうしてなんだろうなぁ」
F「不思議な話ではあるが、その辺の疑問を考えている余裕はなかった。半年後の309年9月、劉聡率いる漢軍(ただし匈奴兵)が、洛陽を包囲しているンだ。司馬越がちょうど戻ってきていたため、結論から云えば洛陽は陥落せず、11月に劉聡は兵を退いている」
A「おや。じゃぁ、今度は劉淵自ら?」
F「本心としてはそうしたかっただろうけど、幸か不幸か翌310年の6月に、劉淵が病死しているンだ。配下の軍勢は各地で動いていたものの、本営は動かせなかったようでな」
A「あら、あっけなく……」
F「しかも、後継者争いが発生している。長子の劉和(リュウワ)が皇帝になったンだけど、コレが能力はあっても嫉妬深い男で、劉聡(四男)ら弟を殺しておくべきとけしかけられ、他の弟はきっちり殺したのに劉聡には計画がバレて、あっさり返り討ちにあっている。結局在位1ヶ月で殺され、劉聡が帝位に就いた」
Y「匈奴としてはいい結果なんじゃないか?」
F「結果としてはよかったンだが、やはり動揺があったようで、7月以降漢軍の動きは今ひとつでな。だが、晋のおかれた状況はさらに悪い。晋書に曰く」
「恵帝(司馬衷)の死後、政治はさらに乱れてしまった。永嘉年間(307〜313年)、争乱はいっそう非道くなった。華北ではイナゴが大発生し、草も木も、家畜の毛さえ喰い尽くされた。そのうえ疫病が流行り、飢饉まで起こった。人々は群盗に殺され、屍で黄河の流れが埋まり、放置された白骨が地に満ちている」
A「世紀末だなぁ」
F「というわけで、司馬熾と司馬越の対立が最高潮に達した。最大の外敵は内輪揉めしていて、軍事的には小休止状態(ただし、各地で戦闘は継続中)。それなのに、自分たちが天災に苦しめられていては、互いに『アイツが悪い!』と思いつめてしまっても、まぁ責められんだろう」
A「いや、責めていいと思うけど……」
F「310年の11月に司馬越は許昌に移動し、その月のうちに項(かつて賈充が呉征伐の総指揮を執った)に移っているが、翌年1月に司馬熾は司馬越討伐の軍を出している。これは撃退したンだが、司馬熾が重ねて各地の太守に『司馬越を討て!』と詔を出したせいで、司馬越は3月に憤死している」
Y「報われねェ……」
F「そして、この機を逃す漢軍ではなかった。まずは司馬越の葬列を襲い、息子をはじめ血縁者48人を討ち取っている。この葬列は、司馬越が率いていた軍勢とその家族で、10万人が殺されたとあってな。信じられるかはともかく、晋書でも被害が大きかったのは認められている。そして、6月には劉聡自らも加わって、洛陽を再び包囲した」
A「だが、もう司馬越はいない……」
F「必死に抵抗したようだが、洛陽は陥落している。司馬熾は長安へと逃れようとしたものの、劉聡の追撃を逃れきれず捕縛された。祖廟は焼かれ、妃たちはレイプされ、兄の司馬晏(シバアン)をはじめとする王族や、官僚・庶民を問わず3万人が殺されたとある。それでも司馬熾は殺されず、平陽へと連行された」
A「まだ利用価値があると思われた?」
F「そゆこと。王浚ら生き延びた家臣が、何とか晋王朝を長引かせようとしていたが、もともと武官だった王浚には政治的手腕が乏しく、長安に馳せ参じた者が王浚に絶望して去っていく、という事態が続いたンだ」
A「あらら……それじゃ反撃もできんな」
F「各地で抵抗はしていたが、大規模な反撃に出ようとしても王浚では怖くない、というところでな。まぁ、事実上晋は滅んでいたから、囚われの司馬熾が死んだのは313年の1月。新年の宴会で、芸人の服装で劉聡に酌をしたところ、随行していた家臣が大泣きしたため、それが気に入らないと殺されている」
A「いや、もう少し丁寧に扱おうよ!?」
F「司馬熾の死はあっさりと広まり、長安では司馬晏の子・司馬鄴(シバギョウ)を立てて皇帝とした。だが、この段階に至っては、王浚が帝位に欲を出しても無理からぬオハナシだろう」
A「待て!」
F「313年の末くらいから、皇帝をないがしろにし、利益を貪るようになっている。いさめた面子は次々と殺され、民心を失っていたモンだから、王浚がいた薊では非難の戯れ歌が流行っている。そこで、石勒の動きが再び天下を動かしている」
Y「しばらく出てこなかったな」
F「ちょっと確認するか。308年2月に兵を率いて冀州に入った石勒は、9月には鄴を含むほぼ全域を攻略。さらに進んで兗州に攻撃をしかけている(この年10月、劉淵は皇帝を自称)。309年頃には自称『張子房の再来』張賓(チョウヒン)を幕下に加え軍師とした」
A「……自称て」
F「劉淵率いる漢軍は劉聡・石勒・王弥(オウヤ)の三枚看板で北方域を攻略して回ったモンだから、晋としてはたまったモンではない。王弥はともかく劉聡と石勒は軍才でも統治能力でも劉淵に匹敵し、云わば劉淵が3人いる状態でな。まぁ連戦連勝とはいえときには破れ、309年の8月・10月にはこの両者でも連敗し、将を失うなどしている」
A「破竹の勢い、とはいかなかったワケか」
F「徐・豫・兗州への攻撃が上手くいかなかったのは、その辺の事情と劉淵死後の混乱が原因だろうな。だが、劉聡の即位後も重用された石勒は勢いを盛り返し、311年2月には許昌を攻略している。この頃死んだ司馬越の葬列を襲い、多数の捕虜と司馬越の遺体を得たのも石勒だった」
A「エース武将だね」
F「面白くなかったのは王弥だ。さっき云ったが、劉淵時代は劉聡・石勒に次ぐ勇将だった。ところが、劉聡の代になって関係がしっくりこなくなり、石勒は張賓の策に従って王弥を殺してしまう。これが311年10月だったが、劉総は石勒を口では責めても態度には出せなかった。王弥亡きいま、石勒を討てる武将がいなかったワケだ」
A「割と弱気だねぃ」
F「弱気にもなるさ。312年12月には、王浚に通じて漢に敵対し、一度は打ち破られた鮮卑を撃退し、王浚の勢力を北方から駆逐している。313年4月には鄴を再攻略。5月には青州を攻略し烏桓を味方につけたことで、劉聡から征東大将軍に任命された。この辺の働きは、王弥にはできなかっただろうからな」
Y「実績という強みがある、か」
F「話を中原に戻そう。帝位への野心を見せ始めた王浚に、そんな石勒が『帰順します!』と偽装降伏したモンだから、魏・趙を得ている石勒を得られれば天下を得たも同じ、と王浚は大喜び。石勒の使者に財宝を持たせて帰した」
A「判りやす過ぎるフラグじゃね」
Y「もう少しひねらないか?」
F「だから、僕に云われても困るって。石勒は演技上手でな。届いた財宝を受け取るのではなく、壁にかけて朝晩拝んだ。『この頂きものを見ているだけで、王様に拝謁している気分になれます』とブチかましたモンだから、王浚はすっかり騙されている」
A「南だけじゃなくて北にもだまされやすい奴が……」
F「というわけで、314年3月に、石勒自ら乗り出して王浚のこもる薊を攻めた。歓迎の準備さえしていた王浚は、城門を破られてもまだ事態がよく判っておらず、実際に捕らえられても『お前、オレに帰順しただろうが!』と叫んでいる。処刑されるくらいなら、と自殺騒ぎまで起こしたが、結局斬刑に処された」
Y「負けて当然のアホウと、こんな奴に天下を任せねばならなかった晋王朝の、どっちが哀れだろう」
A「……ホントに、晋は滅んでないか?」
F「続いているかと聞かれたら困るが、滅んだかと聞かれるとNoだな、いちおう。実は劉琨がまだガンバっていて『もう俺ひとりしか残ってないのに、俺まで死んだらどうします!?』と悲鳴を上げている。鮮卑とは友好的だったから長持ちしたンだが、それでも316年までに陥落している」
Y「いちばん最初から、最後まで粘っていたのか?」
A「凄い奴もいたモンですねェ」
F「まぁ、過去形だ。長江から南こそそれほどの戦乱が起こっていなかったが、北は劉聡と石勒にほぼ奪われ、蜀も李雄に……と、すでに晋の領土と呼べる場所はほとんど残っていなかった。ここでちょっと時間をさかのぼって、西方・蜀での戦闘を見てみたい」
A「あ、聞きたい聞きたい」