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私釈三国志 198 八王之乱(後編)

F「そんなワケで八王の乱は幕を開けた。第1ラウンドでは楊駿、第2ラウンドで司馬亮衛瓘(エイカン)・司馬瑋(シバイ)を除いたことで、賈充本人こそ亡くしていたものの賈家の権勢は確立された。賈充の家督は孫の賈謐(カヒツ)のところに渡っていたが、賈南風が実質的な支配者だったと考えていい」
A「ほとんど呂后だな」
F「行く末も似たようなオチだ。賈一族に国政が壟断されるのに、各地の皇族が不満を抱いた。まぁ抱いて当然なんだが、ここで司馬一族の系図を見てもらおう」

司馬家略家系図(初版)

F「八王に数えられる面子のうち、すでに汝南王司馬亮・楚王司馬瑋が欠けているが、次に動いたのは司馬師司馬昭とは腹違いの弟にあたる趙王の司馬倫(シバリン)と、司馬炎の甥(弟の子)にあたる斉王の司馬冏(シバケイ)だった」
A「八王の乱の後半戦、第3ラウンドのゴングが鳴り響いた、じゃね」
F「そして、ほとんどワンパンチでKOが決まる。中央では常備兵が極端に削減されたというのに、諸王には武装権が認められていたモンだから、先の楊駿誅殺のとき同様、この戦闘はあっさり決着し、賈一族はお縄になった」
A「……盛り上がらねェ」
F「賈南風は皇后たる身分を剥奪され、平民に落とされ洛陽内の金墉(きんよう)城で毒殺される。賈一族は楊一族同様処断され、賈南風に与して権勢を握っていた張華も処断されたが、これは文鴦とは違って無実ではないな。かくて、外戚を排して皇族が権力を取り戻したことになる。これが300年4月のことだった」
A「司馬遹の死んだ翌月か」
F「司馬倫は自ら相国を名乗り内外の軍権を掌握し、同調した、八王には数えられていない梁王司馬肜(シバトウ、倫の兄)を太宰(儀礼主任)、淮南王司馬允(シバイン、衷・瑋の弟)を驃騎将軍に、と論功行賞を行ったが、すぐに仲間割れを始めている。8月、司馬允が司馬倫を討とうと挙兵し、返り討ちにあってふたりの息子ともども死んだ」
A「何でまたそんなことになってるンだ?」
F「仲違いの理由について明記はないが、おそらく司馬倫が司馬衷をないがしろにしたンだろう」
A「……えーっと、まだ生きてたの?」
F「死んでないが、賈南風専横の原因の半ばは司馬衷に求めていい。前にも云ったが司馬衷は暗愚で、政治のことを試されても何もできなかった。ために賈南風がカンニング答案を手配して、それをそっくり写して提出したことさえある」
A「孫皓でも自分で悪事を働いていたというのに……」
Y「こんなボンクラには天下は任せられんなぁ」
F「そう考えるのも仕方ないだろ? というわけで、実権を握った司馬倫は司馬衷を軽んじながら独自の政策を執っていたようだが、理性が限界に達したのは301年1月。司馬衷を太上皇というポスト(日本の上皇の元ネタ)に押し込んで金墉城に幽閉すると、自分が帝位についた」
Y「いっそ潔いな」
F「司馬遹は300年4月の時点で、改めて皇太子として葬られ、5月にはその息子の司馬臧(シバゾウ)が皇太孫に立てられていた。ところが、帝位についた司馬倫は司馬臧を殺害している」
A「これじゃ揉めないワケがないな……権力欲に取りつかれた?」
F「いや、権力欲の権化に取り憑かれていた。司馬倫のブレーンに孫秀という、前に聞いた名前の別人がいてな。下々出身でありながらなまじ出世したモンだから驕り高ぶって、司馬倫を使って権勢を得るのに没頭していたらしい」
A「なんでそんなボケた奴を近づけるかな……」
F「意外に思うかもしれんが、賈充も似たようなモンだぞ。賈逵(父)が『名家ではあったが、早くに親を亡くしたため冬の袴もなく、妻の兄を訪ねて袴をかっぱらって帰った』くらいの貧困から成り上がって、皇后を出すくらいに出世したンだ。ために、いつも通り増長して、家を滅ぼしている」
A「……孫秀もそんな状態だったワケか」
F「というわけで、賈一族誅殺の首謀者のひとりでありながら、戦後の論功行賞では賞されず、8月になって空きができた平東将軍に叙任されると許昌に追い出された司馬冏が『野郎を許すな!』と各地に檄を飛ばし、挙兵した。ほとんど私怨私情ではあったが」
A「何でそんな扱いなのさ!?」
F「割と単純。司馬倫は司馬師・司馬昭の弟だけど、司馬冏は司馬昭の孫で、司馬師の家督の継承者だ。つまり司馬倫にしてみれば孫世代で、あと回しにしてもいい程度の存在にすぎなかったンだよ。死んだ司馬允(司馬炎の子)よりも優先順位は低かった、と云っていい」
Y「年少者を軽んじるのは儒者の宿業だからなぁ」
F「まぁ、この状況で儒教云々と口にするバカはいなかった。長沙王司馬乂(シバガイ)・成都王司馬穎(シバエイ、いずれも司馬炎の子で衷・瑋の弟)、河間王司馬顒(シバギョウ、司馬孚の孫)がこれに呼応しているが、見て判る通り、いずれも司馬倫から見れば孫の世代になる」
A「軽視されていたか無視されていたと考えていい面子だね」
F「そゆこと。例の孫秀が各地に軍を配して迎撃準備を整えたものの、各地で大敗。司馬冏の挙兵は301年3月のことだったが、4月には八王には数えられていない淮陵王司馬漼(シバサイ、司馬伷の末子)・左衛将軍の王輿(オウヨ)が洛陽宮に入っている。司馬倫・孫秀らは処刑され、司馬衷が帝位に戻った」
A「あっけない……」
F「いつか明記はないンだが、司馬漼がこのあと間もなく死んでいてな。政治は、挙兵の旗頭となった司馬冏が輔弼することになっている」
A「今度はちょっとはマトモになる?」
F「ここで司馬冏が、司馬衷を支え公明正大な政治を行っていれば、晋はもう少しマシな方向に進めただろうが、もちろんそうは行かなかった。天下を握った司馬冏は本性を剥きだし、酒色におぼれて驕慢な政治を行い、人心を失っている。わずか2ヶ月後の6月には、王輿が司馬冏を討とうとして失敗しているが、黒幕は実弟の司馬蕤(シバズイ)だった」
Y「悪い意味で盛り上がってきたな」
A「こんな盛り上がり方はいりません……」
F「さすがに弟は殺せなかった司馬冏は、司馬蕤を庶民に落として放逐しているが、王輿は一族郎党皆殺しになっている。これでは司馬冏も先がないと判断した司馬顒・司馬乂・司馬穎は軍を率いて洛陽を包囲し、司馬冏を攻め殺した。二度に渡って天下を動かした司馬冏の最期は……えーっと、302年の12月だな」
A「……いま、何ラウンドめだ?」
Y「8ラウンドかな、数え方によると思うが」
F「斉王の家督は司馬蕤の子が継承しているが、司馬冏の子供たちは金墉城に幽閉された。で、司馬乂が太尉となって内外の軍権を預かったンだが、そのあと何が起こったのか確認するまでもないだろう。疑心に駆られた司馬乂が大臣を殺したモンだから、303年8月に司馬顒・司馬穎が挙兵している」
A「またあっさり仲間割れかよ……」
F「だが、今度は長引いている。司馬顒・司馬穎が直接洛陽へ攻め入らなかったことが影響しているのか、侵攻してきた両王配下の軍勢は洛陽に到達したものの、城門を抜くことができず返り討ちに遭う始末だ。そこで、司馬顒配下の張方(チョウホウ)は作戦を変更し、洛水の堤を決壊させ洛陽を水不足に陥らせた」
A「大規模な策で来たか」
F「普通の水攻めはあふれさせるンだが、今回は渇き攻めとでも云うべきか。このせいで洛陽城内の米搗き場では水車が回らず、奴隷を動員して米を精米することになった。米一石が一万銭と、平時の100倍の値がついたとある」
Y「インフレもインフレだな」
F「ところが、思わぬ事態が発生した。八王最後のひとり東海王司馬越(シバエツ、仲達の弟の孫)が突然洛陽に現れ、司馬乂を生け捕ると金墉城に押し込んだ。そして、張方が攻めるに任せ、殺してしまう。303年12月のことだった」
A「今度は……」
F「司馬乂が実権を握ったのは、司馬冏を討ったときに司馬衷の身柄を抑えていたのが司馬乂だった、という事情がある。それを知っていた司馬穎は、司馬衷をそそのかして司馬顒との仲を裂こうとした。これは功を奏して、洛陽攻めを任され司馬乂を討った張方は、洛陽で思う存分略奪してから長安の司馬顒と合流している」
Y「跡を濁してから逃げたか」
F「一本取られた司馬顒だったが、司馬穎への対策は万全だった。司馬衷に『自慢の弟君を政治に参画させるのがよろしいかと』と上奏し、それが容れられて司馬穎は、皇太弟にして丞相となり軍権を握った」
A「誰かが条件反射で反発する?」
F「司馬越と、司馬衷の弟にあたる司馬熾(シバシ)が反発。304年に入ってから鄴の司馬穎を、司馬衷を出馬させて軍を動員し討つことになった。……のだが、この司馬穎討伐軍が敗走してしまう」
A「おいおい……」
F「司馬衷自ら出馬し、司馬越・司馬熾に王戎(オウジュウ)まで動員した軍勢は10万を超えていて、たまたま母の喪中で鄴にいた司馬繇(シバヨウ)は、司馬穎に降伏するよう勧めている。が、実際の戦闘に突入すると司馬衷の軍勢は散り散りになり、乗っていた輿に矢が刺さって司馬衷自身も負傷する始末だ」
A「いったい、何が起こったンだ?」
F「食糧不足だったようでな。張方のせいで洛陽は『互いに人肉を喰らいあった』とされる惨状。それだけに、従軍すればメシにありつけると期待した連中が集まったような状態だ。ぜんぜん士気が上がらなくて、いざ激突するとあっさり壊滅してしまった。司馬越・司馬熾は逃げ、司馬衷は王戎を伴って投降している。これが秋7月……あ」
A「……がくがくぶるぶるがくがくぶるぶる……」
F「またスイッチ入ったか。投降した司馬衷はひどく餓えていて、差し出された水と桃を喜んでいる。一方で、思わぬ勝利に司馬穎は『余計なことを云いおって……』と司馬繇を殺してしまった」
Y「因果応報だな」
F「が、8月になると司馬越に通じた安北将軍王浚(オウシュン)率いる烏桓騎兵が鄴を襲撃し、司馬穎は司馬衷を連れて洛陽にあっさり脱走。この頃には張方が再び洛陽に入っていて、居残っていた皇后や皇太子が廃されていたンだが、食べ物どころか履き物にも事欠いた司馬衷は、張方に迎え入れてもらっている。明記はないが泣きついたと考えていいね」
A2「(不機嫌)ねえ」
F「えーっと……離れなさい、そこ(ぱんっ)」
ヤスの妻「だって、アキラが泣いてるンだよ!?」
Y「泣かせとけ。ほっといて続き」
F「相変わらず食人ネタはダメか。まぁ、そんな状況では司馬顒の優位性は明らかで、張方を通じて『先祖の廟がある長安に来なさい!』と通達。司馬衷は宮廷内の庭園にあった竹林に逃げ込んでまで嫌がったものの、無理やり御車に乗せられ、司馬顒の本拠たる長安への遷都が決行された。304年11月のことで、董卓による遷都から114年の歳月が経っていた」
A「はうぅ……もうそんなに経ってましたか」
F「やったことも似たようなモンでな。張方は宮廷の財宝を運び出し、ついでに兵士たちが後宮の女たちを襲ったモンだから『魏・晋の富は塵ひとつ残らず』とまで云われている。司馬衷を迎えた司馬顒は『司馬穎はあてにならんから司馬越・司馬熾を朝廷に参画させよう!』と云いだした」
Y「敵の敵は味方、という論法だな」
F「裏の裏は表だが、このとき誰が誰の味方かよく判らんのだよなぁ。年が変わった305年7月から、司馬穎が反撃に転じている。鄴を抑えていた司馬越のいとこにあたる司馬虓(シバコウ)を攻めるも失敗したので、冀州・豫州へ侵攻して勢力を伸ばした。12月には洛陽を攻略している」
Y「ほとんど廃墟でも帝都を攻略されてはかなわんな」
F「その前に、東国一帯を抑えていた司馬越が『天子を洛陽に戻そう!』と云いだし、各地に兵を挙げるよう檄を飛ばしていてな。司馬顒は司馬穎に『鄴を割譲するから!』と和睦を求めたが聞き入れられず、洛陽の張方も防御態勢が整わなくて敗走している」
Y「またあっけない同盟関係だな」
A「しかも、鄴って司馬越の領土じゃろ……?」
Y「自分の懐は痛まないからな。仲間割れさせようとしたンだろ」
F「だな。いちどは、許昌に入っていた司馬虓を劉喬(リュウキョウ)が破っているンだが、司馬虓が鄴から官渡を経て許昌に攻めいるという、105年前に袁紹が志したコースで劉喬を打ち破った。ちなみにこの6月、王戎が死んでいる」
A「知っている名前がまたひとり」
F「劉喬・張方が相次いで敗れたモンだから、306年1月、司馬顒は張方を殺して『アイツがみーんな悪かったンです!』と司馬越に和睦を求めたが、司馬越はこれを拒否。一方で、洛陽を攻略して司馬穎を追い払っている。司馬顒と組んだ司馬穎は何とか反攻するものの、大敗して南方へと落ち延びた」
Y「もはや勢いが違うな」
A「そのようで……で、司馬衷が洛陽に戻る?」
F「司馬越軍が大勝したあとになるが、306年の5月だな。10月には司馬穎、12月には司馬顒が死んで、八王の乱はようやく終結する。司馬炎の死から16年の歳月が経過していた」
A「長かったなぁ……」
F「割と長い時間を見てきたが、おおむね司馬衷の身柄を確保した者が官軍として扱われていたのはいいと思う。途中で皇后や皇太子が廃されたり、またあとで復権されたりしているが、要するに皇帝の身柄が権威づけとして扱われていたワケだ。それだけに、司馬越は『……もういいや』と考えたようで、306年11月、司馬衷は死んでいる」
Y「……まぁ、皇帝がこのボンクラでなかったら、もう少し状況はよくなっていただろうな」
F「意外に感じるかもしれんが、司馬一族は責任感がある。仲達・司馬師・司馬昭が天下への責任感から権力を掌握し、終末期の魏を支えていたのは以前触れた通りだ。より正確に云えば、仲達は皇帝への、司馬師は魏への、司馬昭は天下への責任感に駆られて、というところだが」
A「あ……それって」
F「そういうことになる。保守派が求める忠誠の向け先は、少なくとも直系の皇帝でなければならない。対して革新派は皇帝を国家の象徴として扱うため、血縁者であれば大目に見る。そして改革派は、天下そのものへの忠誠心を抱き、世直しのためなら新しい天下の創成も辞さないワケだ」
Y「だが、改革派の忠誠心とやらは、世間一般では野心と呼ばれるな」
F「その辺りが、袁術が失敗した原因なんだろうな。ただ、前にメールで指摘されたンだが、この辺の責任感や使命感は仲達や息子たち特有のものではない。司馬朗(伯達)だって、出陣中に疫病が流行して、薬を兵士たちに先に飲ませ、自分は飲まずに死んでいるンだ」
A「あー……」
F「国家への、あるいは天下への責任感があった。ために、八王も楊駿なり賈一族なりを討とうと考えて動き出し、それが収拾のつかない事態に発展していったように思える。さすがの司馬家でも、代を経て使命感が薄れたのか、それともどうしても『自分が天下を率いねばならんのだ!』と考えていたのか」
Y「魏の末期に司馬家がなかったらどうなっていたのか、割と明らかなんだな。あの時代、誰もが『自分が魏を率いなければならない』と考えていたが、頭ひとつ抜き出た司馬昭がいたため、司馬昭と反司馬昭の策謀が飛び交っていた。だが、司馬昭がいなかったらどうなっていたかと云えば、こうなっていたンだろう」
F「ましてや曹操においておや。国を治めるのにはある程度以上の権力者が必要なんだよ。司馬衷はその器ではなかったのが暴露されたのが、16年に及ぶ八王の乱だった。ところで、その司馬衷には食べ物に関するエピソードが多い」
ヤスの妻「肉粥だね」
F「です。いつのことかは明記がないですが、食糧がなくて民衆が餓死していると上奏されると『米がないならなぜ肉の粥を喰わんのだ?』とのたまった、というエピソードを引いて『司馬衷は万事この調子だった』とボンクラの証明としています」
Y「俺にブリオッシュ作らせたのはその辺のネタ振りか」
A「しかし、いいのか? 皇帝相手にそんなモン書いて」
F「ここだけ見るとそう思えるかもしれんが、晋書恵帝紀にもハラペコ話がある。さっき、鄴に攻め入って返り討ちにあい、出された水と桃を喜んだのを見たが、その鄴から洛陽へ逃げ帰る途中でのエピソードだ」

「天子の衣服も車馬も散り散りになり、主従みな財産を失ったため、官僚の私財三千銭で皇帝の生活を賄わねばならなかった。同行者が持ちあわせた米とニンニクのみそ焼きを差し出せば、皇帝はそれを貪り喰らった。また、粗末な米をお椀に乗せて差し出すと、コレもむさぼる。付近の老人から蒸し鶏を献上されるとこれも受けとった」

F「306年の5月に『日照りで地面が熱くてチャーハン作れるよ!』なんて記述があるのも、この皇帝ならではだなー、と思わずにはいられない」
Y「コイツ殺すのに刃物はいらんな。はっきり『毒物』とか書いてあっても空腹なら喰うぞ」
F「あぁ、云わなかったか。その通りの最期だ。司馬越は、餅に毒を仕込んで喰わせ、司馬衷を殺害している」
A「何なんだ、このハラペコ皇帝!?」
F「そんなワケで司馬衷は死んだ。帝位に就いたのは弟の司馬熾で、司馬越がこれを補佐することになった。だが、晋の行く末が短いことは天下の誰にも明らかなことだったと云えよう」
Y「何のために戦って、何のために死んだのやら……」
A「誰が?」
Y「全員だ」
A「……気持ちと理屈は判った」
F「続きは次回の講釈で」

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