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私釈三国志 198 八王之乱(前編)

Y「へい、おまちー」
A「わーい」
A2「(じーっ)……これは、なに?」
Y「ブリオッシュ。幸市のリクエストで作ったが」
F「パンがないときに食べるケーキだよ」
A「あー、コレがそうなんだ。マリー・アントワネットがぶっちゃけた」
F「いや、J・J・ルソーだ。著作の中に『ルソーはパンがないとワインが呑めないクチだったが、あいにく手元になかった。そのとき、ある高貴な妃が「農民にはパンがありません」と云われて「それならブリオッシュを食べればいいじゃない」と応えたのを思い出し、ブリオッシュでワインを呑んだ』とあってな」
A「その『高貴な妃』がマリー・アントワネットなんじゃろ?」
F「著作というのはルソーの『告白録』で、1766年に成立している。マリー・アントワネットが生まれる15年前なんだ。元ネタが歪んで伝わり『あの王妃なら云いかねない』『いや、あの女に違いない』と盛り上がった、というのが実情みたいでな」
A「……世の中に、餓えた民衆ほど怖いモンはないな」
F「強いて云うならキレた女房とレモンティかね。おい泰永、よく冷えたレモンティ怖い」
A「アキラはブリオッシュおかわりー」
Y「燃費の悪い兄弟だぜ」
(閑話休題)
F「さて、腹ごしらえも済んだところで、きょうの講釈に入ります。54回と81回で見たけど、再確認」

『全ての"正史"はいんちきだ。新しい王朝は前の王朝を始末し、自分たちの徳を讃えるために歴史を騙る。ゆえに官撰の"正史"に信頼できるものなど存在しない! 野史こそが真実。そして、コレこそが真の三国志なのだ!』
Y「誰か黙らせろー」

F「周大荒サンの問題作『反三国志』の序文にある通り、王朝の代替わりのあとでは、新しい王朝は自分たちを称揚すべく前の王朝を悪く云う、という俗説に近い常識がある」
A「どっちなんだよ」
F「両方だ。その王朝の史書が次の王朝によって書かれるのはそういう狙いがある半面、史官には原則として真実を残すという使命がある。先に韋曜(イヨウ)や華覈(カカク)が死んだのを見たが、彼らはその典型だな」
Y「だが、官におもねる者もいる」
F「残念ながらいないとは云わない。だが、史書がのちの時代になってから書かれるのは、当事者でないから冷静かつ客観的にものごとの本質をとらえ、ニュートラルな立場で接することができるから、とされている。まぁ、陳寿裴松之孫盛がずいぶん感情的なのは繰り返し見てきたけどね」
A「ヒトは感情の生き物だからね」
F「僕だってたまには『王さまの耳はロバの耳』と叫びたくなるが、ひとには理性ってモンもあることを忘れるなよ。司馬炎が『全国の女に婚姻を禁じ、自分の後宮に入れる審査を行った』というのは、明らかに孫皓の悪事の焼き直しで、実際に司馬炎がしでかしたか判ったモンではない。司馬炎の本性は胡貴嬪(こきひん)に見せた姿だと僕は思う」
ヤスの妻「誰かさんがどこぞのツンデレにしか本性見せないのといっしょかな?」
F「それが誰なのかはムルマンスクの彼方(魂の故郷)に投げつけて。考えようによっては、そのあとの『呉の後宮から5000人の女を自分の後宮に入れた。これで合計10000人!』というのはやっていそうだが」
A「司馬炎の行いのどこまでが本当か、判ったモンではないと?」
F「うむ。賈充が司馬炎を骨抜きにしようと女をあてがった、という考えだ。何しろ司馬炎は、羊に引かせた輿に乗って後宮を進み、羊が止まった女のところでその夜を過ごす、なんて真似をしていた」
Y「女たちは羊が自分の部屋で止まるよう、竹の葉を刺したり塩を盛ったりした、だったな。盛り塩の起源だそうだが」
F「注目すべきは、泊まる部屋を羊に選ばせたことでな。つまり司馬炎には、女を選ぶ意思がないンだよ。自分で集めたワケじゃないンだから、自分では選ばんぞ。そんな意思表示にも見える」
A「……あー」
Y「古代の奴隷階級にもハラの底では主人に反発する自由意思があった、か……」
F「好意的に考えればそうともとれる、という類のオハナシ。だが、賈南風に関する晋書の記述は、やや悪意はあってもだいたい本当だと考えていい。故意に悪事を記すことでその者を貶めるのは、史書に限らず使われる手段だ」
Y「御用医師を愛人にしたのがか? 昔、始皇帝の母親が巨根の愛人を抱えたのの焼き直しだと思ってたが」
F「あぁ、覚えてたか。だが、件の御用医師・程拠(テイキョ)が司馬遹(シバイツ)を殺しているンだ」
A「毒殺?」
F「いや、薬は調合したがどーしても飲まなかったから殴り殺した」
A「……お医者さんじゃなくてもよかったンじゃね?」
F「正直僕もそうは思うが、僕に云われても困る。司馬遹は司馬衷の子ではあるが、問題の皇后・賈南風の子ではなかった。ために299年12月には廃嫡され、翌300年の3月には殺害されている。290年の司馬炎崩御か291年の楊駿(ヨウシュン)誅殺をもって八王の乱の幕開けとするが、本格的に混迷するのはこの300年3月からだ」
A「すまん、10年飛んでるンだが」
F「だな。とりあえず、事態の背景を確認しよう。曹操の生前から続いた曹丕曹植の血で血を洗う後継者争いに、勝利したのは曹丕だった。ために、曹丕の即位後、曹叡の代に至っても、曹植は各地に国替えを繰り返されている」
A「そこまでさかのぼらないといかんのか?」
F「忘れてると悪いからね。つまり『皇帝に取って代わりうる皇族なんぞ必要ない』というのが曹丕の考えだった。皇族に経済力・戦力を蓄えさせず、皇帝に代わろうという意志さえ抱かないよう飼育するこの政策は、対内的には成功したが、対外的には大失敗だった。皇族ではなく豪族たる司馬家の勢力増長を許し、結局禅譲に至ったワケだから」
Y「名君たる曹丕らしからぬ失態だったよな」
F「それを間近で見ていた仲達の孫だけに、司馬炎はその辺りの政策を一転させた。自分の息子や父の兄弟・祖父の兄弟などなど、多数の親族を王に封じ、皇族優遇政策をとったのね」
A「親御さん大事にするのは間違いじゃないけど……」
F「これには儒教より九品官人法が少なからず影響している。それまでの選ンデ挙ゲル制度では、地方豪族の子弟が推薦・採用され、豪族の勢力が伸張するのを公認していたようなものだった。そこで用いられたのが、中央から任命された中正官が人材をランク付けする九品官人法だ。92回で触れたが」
Y「ところが、その中正官が地方の豪族だったモンだから、旧来の選挙制度と変わらない結果になった」
F「そこで、魏の後半から晋にかけて、つまり司馬一族が実権を握ってからは、中正官の地方に対する影響力を弱める措置をとっている。もともとは地方の郡単位で中正官をおいていた。これを郡中正と呼ぶが、州単位でランク付けを行える権限を持った州中正が設置されたンだ」
Y「本州回避の原則が魏にはあったな。出身地の太守・刺史にはなれないやら云う」
F「かの知恵袋・桓範(カンハン)が曹爽についていたのは地縁が理由(豫州沛国の出身、曹一族は沛国譙県の出自)なんだ。担当する地域を広くすることによって地縁の影響力を薄め、公正な人材登用を目指したワケだが」
A「だが?」
F「地縁が薄いモンだから現地の人間関係をそのまま採用して、家柄重視、名門の出身者かどうかで何品にするか決めるようになってな。その土地と縁遠いから、下級民を採用することがほとんどなくなったンだ」
Y「下級民を採用することで地元豪族と軋轢を生じさせるのを躊躇った?」
F「んー、それもあるか? 地元に精通していれば『あそこの息子は家柄は悪いが優秀だ』や『あそこの倅はあの家の面汚しだ』みたいな噂は入るが、その辺りの判断基準がむしろ薄まって、家柄で選ぶようになってしまったンだ。ために『上品に寒門なく下品に勢族なし(高い位に下層民はなく、低い位に豪族はいない)』と揶揄される人事状態になった」
A「あらら……」
F「だがこれは、思わぬ利点を生みだした。豪族はこの政策をもちろん喜んだンだ。司馬家への支持が高まる一方、主要な官職に収まった家同士で婚姻を交わし、その縁による影響力をもって官職を独占するようになった。ために、魏から晋への禅譲はスムーズに行われた、という笑えないオハナシ」
Y「地方の豪族は司馬家の味方、皇族には力がない、宮中は皇帝のすげ替えから物理的抹殺まで司馬家のやりたいようにできる。まぁ、禅譲もしたくなるな」
F「そうやって成立した晋王朝だけに『皇帝権力の弱さ』と『豪族の影響力の強さ』は司馬炎にとって最大の政治課題だった。なにしろ本人からして、賈充にクビが上がらない。そんなワケで277年1月に『宗室や外戚は国の枝葉である』と布告し、8月には皇子・親族ら15人を各地の王に封じている」
A「さりげなく"外戚"とも入れることで、賈充一派の反発を封じたのか」
F「それでも8月までかかったのは、皇族の影響力を高めるのに危機感を抱いた賈充の反発があったのは想像に難くないな。一方で、そんな賈充の発案としか思えない暴挙が、呉の平定後になされている。軍縮だ」
A「戦争そのものは終わったンだから、的外れでもないと思うが」
F「以前触れたが、晋の総兵士数は推定54万。これに呉の23万が加わったが、常備兵を1万まで減らしたンだ」
A「お前、何やっとンね!?」
F「もちろん、山濤(サントウ)や陶璜(トウコウ)が『異民族に晋の虚ろを見せるつもりですか!?』と反対の声を上げているンだが、司馬炎は諫めを聞かなかったとある。さすがに1万よりはあったと考えたいところだが、地方で軍を率いる連中が制止命令を聞かずに呉を滅ぼしたのを、賈充は根に持っていたようでな」
Y「だが『呉や蜀どころでない』と名指しされた鮮卑が健在だろう?」
F「名指しされた禿髪樹機能がわずか3500の兵に敗死し、その死後に鮮卑をまとめあげられる人材を欠いていた。加えて、前回触れたが賈充の本音は『夷狄? あー、だいじょうぶ大丈夫』だった。何かあったら中央軍を派遣することにして、地方で大兵を有する武将が勢力を持つのを禁じたワケだ」
Y「異民族も武将も怖くないと判断した、というところか」
A「浅知恵に思えるンだけど……」
F「それだけに、王に封じられた皇族が自分で兵を集めるのは黙認されたようでな。豪族と皇族の力関係を腕ずくで覆そうとした、と考えられる。王濬杜預が不遇の最期を遂げたのは、そんな経緯による」
A「軍縮が、文官と武官に格差を生じさせた、か」
Y「順序立てて考えると、司馬炎の失政には、自己の権勢を拡大しようと企む賈充の影響が強いのか」
F「一方で、失政と呼んでいいのか判断しかねるのが占田・課田でな。簡単に云うと、個人で専有できる土地と労働力(人員)に上限を設け、その土地の広さに応じた税を課したものだ。呉を攻略してすぐに始められたこの税制は、そのまま混乱の時代が再開したせいで、効果があったのか判ったモンじゃない」
A「判断しかねる、ということか」
F「ただし、この占田法でも九品官人法における上位者は優遇され、課田法に至っては豪族には課せられなかった。社会的に優遇されていた豪族を経済的に支えていた法律、とも云える」
A「……やっぱり失政じゃね?」
F「まとめると、魏の皇族冷遇政策から生まれた私生児たる晋は、借り腹の悪いところを修正し、豪族の力を弱め皇族に力をつけさせる政策をとった。ところが、その過程で実行役として必要悪だった賈充ら外戚が必要以上に勢力を持ってしまい、娘の賈南風の代ではさらなる権力を求めるようになってしまう」
A「さて、司馬炎が死んだ……」
F「そんなワケで八王の乱は幕を開けた。……はいいが、ここまででもずいぶん長くなったので、一度切ろう。いちおう、290年からこんなことがあった、というのは見ておくけど」

290年
 4月 司馬炎崩御、司馬衷即位
 8月 司馬遹を皇太子とする
291年
 3月 楊駿・楊太后の母・文鴦ら誅殺される
 6月 司馬亮・衛瓘が誅殺されるが、誅殺した司馬瑋も処刑される
 12月 地震が発生
292年
 2月 楊太后、殺害される
 11月 疫病が大流行、雹が降った
293年
 4・6月 大量の雹が降った
294年
 1月 石鑒没
 5月 匈奴の侵攻
 8月 大飢饉の発生(9月には被災者に免税措置が取られる)
 この年を通じて8度の地震・洪水・山崩れが発生
295年
 この年を通じて地震・台風・洪水・雹が発生
296年
 1月 地震が発生
 5月 匈奴の侵攻
 8月 氐・羌の侵攻
297年
 1月 梁山の戦い(周処、戦死)
 7月 王渾没、疫病・旱魃が発生し飢饉に
298年
 1月 地震が発生
 9月 荊・豫・揚・徐・冀州を大水害が襲う
299年
 1月 中亭の戦い(氐の首魁斉万年敗死)
 4月 鄴で叛乱が起こるも鎮圧される
 12月 司馬遹が廃嫡される

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