私釈三国志 197 毒婦賈后
A「タイトルに女が出たのってはじめてかね?」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
F「貂蝉や郭太后でも使わなかったからなぁ。王異はどうしようかと思ったけど、結局無難に収めたし」
A「元ネタが元ネタだから、アレでいいだろ」
F「いまのところ未公開です。これまでの『私釈』196回で登場人物で、男女比は19対1くらい。しかも、フルネームできっちり出ている女性となると、さらに人数は減る」
Y「そもそもフルネームが残ってない場合が多いからなぁ」
F「古来女性は太陽だったが、儒教の影響で男尊女卑がはびこっているのが現状だからな。まして当時においておや、公然と差別が行われていたワケだ。中国四千年の歴史の中で唯一の女帝・武則天が帝位に就けたのには、五胡十六国の時代を経たことで儒教意識が薄れたのが影響しているが、その辺はちょっと三国志とずれるから追及しない」
A「別の機会に聞こう」
F「そうして。なお、前回ラストで出した胡貴嬪こと胡芳(コホウ)は、記念すべき1111人めの登場人物でっす!」
A「駆け込みで何人か出してたのはそれが目的か!?」
F「はっはっは。今回のタイトルとなった賈皇后は、フルネームがきっちり伝わっているひとりだ。賈南風(カナンプウ)といい、賈充の娘(三女)にあたる。ちなみに、前回出てきたケ千秋は男だからな」
Y「弟と云ってたから、その辺は判ってるぞ」
F「そして、これも前回のラストで判ってもらえたと思う。賈充は、可能な限り天下一統を先延ばししたかった」
A「可能なら10年……」
Y「正確には、司馬炎が死ぬまでだな?」
F「そゆこと。羊祜曰く『堯・舜に比肩され、後々の世の規範と』なる天下一統の事業を完遂するのは、司馬炎なのか司馬衷(シバチュウ)なのか……が賈充には極めて大きい問題なんだ。まぁ、それは賈充に限ったことじゃないが、彼が『天下を統一した司馬炎の息子の妻の父』となるか、それとも『天下を統一した司馬衷の妻の父』となるか、は彼の問題だ」
A「どう考えても2番の方がいいね」
F「司馬衷が即位してからやっと天下を平定すれば『司馬衷に代わって天下を統一した賈充こそ、天が晋王朝に与えた真の家臣であった』と歴史に残ったかもしれない。それでなくても、皇太子の義父より皇帝の義父のが権力も利権も大きいからな。本音では、かつ本気で、賈充は呉への侵攻を先送りしたかったと考えていい」
Y「しかし、欲望に駆られて天下統一という国是まで曲げるか?」
F「間接的な証拠を挙げれば278年、件の羊祜の死後になるが、涼州での樹機能の動きについて『洛陽から兵を出すほどのことじゃないですよ、だいじょうぶ』と、過去の発言と正反対なことを云っている。翌279年早々に涼州が陥落したのには、宮廷で賈充ほどの要人がンなことを云っていたという現実が影響していたワケだ」
Y「……後出しでンなこと云われても、素直に納得するしかねーだろうが」
A「情報ってものの使い方を熟知してるからなぁ……」
F「果たして賈充は、本気で北狄を危険視していたのか、というか危険性が判っていたのか、素直な疑問を覚える。だが、その頃にはすでに娘を司馬衷に嫁がせ、次代外戚の座を得てあった。前回、司馬炎が死んだのが290年だと触れたが、司馬衷の妻が決まったのは272年だ」
A「割と前なんだ?」
F「だが、スムーズに決まったワケではない。まぁ当然で、次代外戚という地位とそれに伴う利権が、そう簡単に得られるはずがないからな。強力な競争相手がいたンだ。誰かと云えば衛瓘(エイカン)だが」
A「……生きてたのか?」
F「ケ艾を殺したことで杜預ににらまれていたが、その頃には征北大将軍・幽州軍事総督となっていた。娘は美人で頭もよくてないすばでーだったので、司馬炎は、司馬衷の妻にはまず衛瓘の娘をと考えていた。ちなみに賈南風は『背は低く色黒の醜女、性格は陰険で嫉妬心のカタマリだった』と晋書にある」
Y「息子のとはいえ、誰がそんな女をヨメにしたいと思うか」
F「『家柄にしても衛瓘のが上なんだから、朕はそっちがいい』と司馬炎はのたまっている。普段なら『お前の趣味は聞いてない』とでも云うところなんだが、僕も親として二択なら衛瓘の子を選ぶな。男の子いないけど」
A「じゃぁ、何で覆ったンだ?」
F「賈充の宮廷工作が上手くいったから。前回名だけ挙げた、賈充の腰巾着のひとり荀勖(ジュンキョク、当時は侍中)が『賈充の娘がよろしいかと』と上奏したり、楊駿の姪にあたる楊皇后が『賈充は功臣なのですから』と吹き込んだりで、宮廷内の多数派工作に成功したようでな」
Y「その辺の政治力を衛瓘に求めるのもなぁ」
F「そこで衛瓘はある意味ブっ飛んだ、だが割と賛同者が出た対抗策を講じた。『司馬衷を廃嫡して、司馬攸(シバユウ、炎の弟)を天下の後継者としましょう!』と司馬炎をけしかけたンだ。実は司馬衷、誰に似たのかかなり暗愚でな。司馬炎は何度か廃嫡を考えている。そして、司馬攸擁立には張華(チョウカ)らが賛同の声を挙げてしまった」
A「でも、司馬衷があてにならないから司馬攸、っていうのは極端すぎないか?」
F「つまり、例の司馬炎−司馬攸間の後継者争いの折に、衛瓘はそっち側だったと考えていい。だが、結局司馬衷は廃嫡されず、司馬攸は毒殺されている」
A「待て!」
F「284年のことだが、36歳で司馬攸は急死している。ところが、息子の司馬冏(シバケイ)が『医者に殺されました!』と騒ぎたて、司馬炎から司馬攸を診察するよう命じられた医者が処刑される、というアクシデントが発生しているンだ」
Y「誰のせいで死んだのか、は割と明らかだな」
F「すっかりふてくされた衛瓘は、ある日行われた無礼講の宴会で、司馬炎の玉座にしみじみ触って『ああ、陛下……この座が惜しゅうございますなぁ』と嘆息している。司馬炎でも思わず真顔になったが『……おいおい、酔っ払うのもほどほどにしとけ』と、何とかその場ではギャグで済ませた」
A「笑えないけどね……」
Y「よく覚えておけ、アキラ。無礼講の席だからといって本当に無礼な振る舞いをする奴は社会ではやっていけん。ひとは、酒を呑んだときにこそ理性を保たねばならんのだ」
A「憂さ晴らしのために酒を呑むンじゃねーのかよ……」
F「そして、実際に笑わなかったのが賈南風だ。衛瓘がンな真似をしでかしたのを見て『この老いぼれ、いつか殺してやる……』と、正史でもあげつらわれた悪い性格フルスロットルで根に持ってしまった。ケ艾のときもそうだが、この男にはどーにも自分のクビを自分で絞め上げる悪癖があってな」
A「どーしてこんな奴に、ケ艾が殺されなきゃいけなかったンだろう……」
Y「あの件に関しては、多少ならず同情の余地があると思うンだが」
F「あるねー。まぁ、暗愚な司馬衷が廃嫡されなかったのには、息子、つまり司馬炎から見れば孫にあたる司馬遹(シバイツ)が利発だったこともあげられている。将来的には廃嫡しない方が晋のためになる、という口実だが、これははっきり云って弱い。聡明さを云うなら、年齢でもちゃんとしている司馬攸を使えばいい話だ」
A「どうしても司馬攸を使いたくない、という面子もいるだろ? 賈充とか」
F「そう思うのも無理からぬことだが、司馬炎が病に倒れて政務をとれなくなった折には、賈充でさえ司馬攸擁立やむなしと黙認する姿勢を見せている。理由としては決定的なものとは云えないンだ。結局、司馬炎が司馬衷を廃嫡しなかったのは、賈充ら外戚たる賈家への配慮というところに落ちついてな」
A「……司馬炎と賈充の政治的な立ち位置の格差は、前回しっかり見たなぁ」
F「そもそも力関係が賈充の側に傾いている、という前提がある。張華や衛瓘といった反賈充派の要人は、おおむね幽州方面に飛ばされて宮廷を離れることが相次いだことでも、それは明らかだった。賈充が呉への侵攻に仕方なく従軍したのにも、その辺の力関係と、何より賈充当人の焦りがあったようでな」
A「何に焦ったンだ?」
F「余命だ。以前触れた通り、賈充は217年生まれ。呉を平定した時点で還暦回っているンだ。王濬から見れば年下だが、世間一般の尺度では年寄りそのもの。10年待てるかと云えば、無理。現に、父の賈逵(カキ)は55歳で死んでいる」
Y「……8文字云々というのはそれか」
F「うむ、賈逵の没年についてぼそりと触れたことがあったが、アレはまずいと思って修正しておいた。そして、その焦りは現実のものとなった。天下統一からわずか2年後に、賈充は世を去っている。282年だから65歳、当時としては大往生になるが、本人としてはまだ死にたくなかっただろうことは想像に難くない」
A「自分の寿命をある程度計算していたから焦った、か……」
F「まぁ、年齢からして司馬炎より先に自分が死ぬと気づいていたンだろうな。そこから司馬炎が政治権力を取り戻せれば、晋の進路は変わっていただろうけど、生前に賈充が打っていた対策はしっかり効果を発揮している。司馬炎が賈南風を離縁させようとしても、皇后(今度は楊駿の娘)が『賈充は功臣です!』といさめたンだ」
Y「派閥工作は死後も健在か」
F「政治家としては極めて優秀だったようでな。ただ、育った娘を見ていると親としては最悪に近いが」
2人『………………………………』
F「お前が云うな、という顔をしないように。まぁ、実際のところ、天下統一後も晋の重臣が相次いで死亡する、というのは続いていたンだが。晋書武帝紀で確認できるものを挙げただけでもこれだけある」
281年 大司馬陳騫(チンケン)没
282年 太尉賈充、司徒李胤(リイン)没 揚州で叛乱
283年 司徒山濤(サントウ)、斉王司馬攸、大将軍司馬伷(シバチュウ)、帰命公(もと呉帝)孫皓没
284年 鎮南大将軍杜預没
285年 撫軍大将軍王濬没
286年 驃騎将軍司馬駿(シバシュン)没
287年 呉で三度の叛乱
288年 尚書右僕射胡奮(コフン)没
289年 尚書令荀勖、尚書右僕射朱整(シュセイ)没
290年 武帝司馬炎没
F「何かに呪われているのかと思えるくらい、まぁバタバタと死んでいるンだ」
A「賈南風の……?」
F「いや、皇族を除くとだいたい210年から220年の生まれなんだ。割といいトシの皆さんが上の方にいた、というのが実情っぽい。この辺りが本当に偶然かは判断しかねるが、少なくとも父の死後から数年、賈南風は皇后楊氏にかばわれて、表面上は大人しくしていた」
A「表面上とはっきり云いきれるのが嫌だね」
F「そもそも、賈南風は司馬衷の妻であって司馬炎の妻ではない。この時代の皇后はさっきも云ったが楊氏で、父の楊駿が健在なんだ。司馬炎は290年4月の臨終に際して、楊駿と叔父の司馬亮(シバリョウ、師・昭の弟、伷の兄)に後事を託すつもりだったが、皇族の侵出を好ましく思わなかった楊駿が参内を妨げ、司馬亮が間に合わなかったこともある」
A「大胆なことしでかすなぁ……」
F「というわけで、太尉だった楊駿は太傅となり、宮廷の実権を握った。これに反感を抱いていた賈南風は、楊駿を追い落とすのに、まずこの司馬亮に眼をつけた。自分と組んで楊駿に取って代わろうと持ちかけたところ、司馬亮はあっさり洛陽から出ていった。外戚同士の政争に巻き込まれるのを拒んだワケだ」
Y「もともと、後事を託されるようなタマじゃなかったようだな」
F「次に眼をつけたのは、司馬衷の異母弟にあたる司馬瑋(シバイ)だった。当時楚王として荊州を張っていたが、誘われるとあっさり応じて、洛陽に乗り込んでくるや楊駿一派を誅殺してしまう。291年のことだが、この年20歳の司馬瑋(司馬衷は32歳)には、コレが何を巻き起こすのか深く考えていなかったとしか思えない」
A「ある程度若くて行動力のある皇族、に眼をつけて味方にしたワケか」
F「そゆこと。ここから賈南風の本性がむきだしになってくる。まず、肝心の楊駿の娘、皇太后となっていた楊氏を、平民におとしめて幽閉した。司馬炎から離縁されそうになったときにかばってくれたこの姑は、賈南風に何かにつけて口出し説教していたため、恨まれていたンだね。嫁姑の争いと云ってしまえばそれまでだが」
Y「いるンだよなぁ。指導だしつけだと時代にそぐわない的外れな暴言で、息子の妻を罵倒する老婆って」
A「……云ってることそのものは否定しないけど、ヤスの発言、今回のケースとはちょっとずれてね?」
F「僕もそう思う。ちなみに、僕がアキラのお姉ちゃんとの結婚を決意したのは、口うるさい親族がいなかったからだ」
元カノの実兄「やかましい」
F「それが、僕の親族を直接見知っているお前の発言か」
Y「(土下座)すまん」
直接の面識がない妻の実弟「あっさり頭下げた!?」
F「話を戻そう。楊駿を失った朝廷は、呼び戻された司馬亮とひともあろうか衛瓘を並立させた。司馬亮は皇族の、衛瓘は豪族の長老格として、二大長老による合議制というかたちを装ったが、実情は賈南風ら賈家による国政壟断が行われている」
Y「やる気のない奴と実権から遠ざかっていた奴を並べてはなぁ」
F「だが、さすがに仲達の子とケ艾殺害犯だった。賈家の壟断許すまじと、まずは楊駿誅殺の実行犯・司馬瑋から軍を取り上げることを考えた。各地の皇族に『軍を返上せよ』と司馬亮が提案し、誰も返事をしなかったものの衛瓘が『そーだそーだ!』と声を上げたモンだから、その場にいた司馬瑋は根に持ってしまう」
A「またこの男は、自分のクビを絞める真似を……」
F「というわけで、司馬瑋は司馬亮・衛瓘を殺害する。かつて杜預が断じた台詞を確認しよう」
「野郎は死を免れん。身は名士に属し、高い地位と人望を得ながら、よい評判を立てられることがないうえに、正義をもって部下を統御することもできない。小人のくせに君子の皮をかぶっていては、終わりをまっとうできようか」
F「179回で『人名を変えると〜』とか云っていたのは司馬昭を指していたンだが、当時と今とでは考えがかなり変わっているので、その部分は聞き流してくれると助かる。ともあれ、杜預の予言通りの最期を遂げたワケだ」
A「同情もできんなぁ……」
F「というわけで、と繰り返そう。この段階に至っては、司馬瑋ももう用済みになったのは云うまでもないと思う。司馬瑋には『司馬亮・衛瓘を討て!』との詔が出ていたンだが、張華の進言に従い『詔を偽装しましたね!?』と司馬瑋を責め、処刑してしまう」
Y「またお約束の『どちらが悪かと云えば両方悪い』かよ」
F「そんなワケで実権を掌握した賈南風は、我が世の春を謳歌し始める。愛人の御用医師・程拠(テイキョ)と乱交を繰り広げ、街の若者を宮中に誘い込んで一夜を過ごしては殺す、という真似を繰り返したとある。また、楊駿誅殺に際してもと皇太后楊氏の母は処刑していたが、この頃、幽閉されていた楊氏本人も餓死している」
A「とんでもねー……」
F「上の事情により司馬衷との子か判ったモンではないが、賈南風の産んだ子は4人。ただし、いずれも女児だったので、衣服の下にワラを詰めて妊娠したように偽装し、妹の産んだ子を我が子と思わせる小細工まで行っている。さらにさらに、嫉妬に駆られて身重の側室に戟を投げつけ、胎児が戟の刃に刺さったまま地面に落ちた、なんて逸話もある」
A「えげつない……」
Y「前回はツンツンで、今度はメンヘラか。精神に異常をきたしてるぞ、コイツ」
F「ところで、とここで云おう。賈南風の害を被ったのは楊駿・司馬亮・衛瓘、そして司馬瑋だけではなかった。かの勇者文鴦(ブンオウ)も、彼女のせいで死んでいる」
A「何しでかしたの!?」
F「以前から云っているように、司馬伷の夫人は諸葛誕の娘だ。ために、賈南風に通じ楊駿誅殺に功のあった司馬伷の三男・司馬繇(シバヨウ)が『野郎の父・文欽(ブンキン)を殺したのは諸葛誕だ、今は大人しいがいずれ何をしでかすか……』と猜疑心に駆られ、楊駿誅殺に乗じて『何の罪もない』と晋書に明記のある文鴦を殺してしまったのね」
A「文鴦の無実は、晋書にも明記があるのか……」
F「珍しくはないケースだが、これは完全に司馬繇がはやまったと云える。今まで『私釈』で出してないのに、さっきの墓碑列挙では加えている司馬駿。彼は征西大将軍として鮮卑と戦った軍歴の持ち主でな。その折に、部下だった文鴦が樹機能を降しているンだ。文鴦が晋に忠実であろうとしたことは明らかなのに、思いこみで殺したンだから」
A「惜しい男をまたも亡くしたねェ……」
F「もちろん、司馬繇は司馬繇で自滅している。その辺りの専断を、仲の悪い兄を通じて司馬亮にとがめられ、平州送りにされているンだ。この時代、終わりをまっとうしたのはどれだけいるのか……と思ったが、まだ死んでないな、司馬繇は」
A「……まぁ、留飲は下がったからいいけど」
F「かくて、賈一族は賈南風を頂点に、晋というピラミッドの高いところを独占した。何とかと煙は高いところが大好きと云うが、高くなればなるほど足場というものは安定しないのが世の常だ。叛逆の狼煙は静かにくすぶり始めていた」
Y「少し押せば下まで転がる、という比喩か」
F「その『少し押』す役を歴史の神に命じられたのが司馬冏だった。291年、司馬炎の死によって始まる皇族間の骨肉の争い、世に云う八王の乱は、ここに幕を開ける」
A「しばけい……?」
Y「さっき出ただろうが、司馬攸の息子だ」
A「あぁ、うん。覚えてる覚えてる」
Y「この野郎」
F「続きは次回の講釈で」