前へ
戻る

私釈三国志 196 司馬安世

F「かくて、蜀は降伏し、魏は禅譲し、呉は滅亡したことで、天下は晋により統一された。これにより、三国時代は幕を下ろしたことになる」
A「長かった戦乱の時代が終わった、と」
Y「そして新しい戦乱が始まる、かね。正直、お前らには前科があるから、終わると云われてもすぐには信じられん」
F「だからね、泰永? 僕やお前のカミさん(きょうは不在)が一度でも『終わる』と云ったかね?」
Y「やかましい」
F「静かに怒っとるなぁ……まぁ、逆恨み上等ということで。では、三国時代、そして広義での三国志さえ超越した時代にそーっと足を踏み入れよう。もっとも、この先は割と駆け足になるが。今回のお題の司馬炎、字は安世とは何者か」
A「それにしてもすげー字……あと付けかね。えーっと、三国全てを平らげた皇帝さま?」
Y「問題はその後だ。天下統一後は女色に溺れて政治をないがしろにしたことで、評判を落としてる」
A「あ、そーなの?」
Y「気が抜けたのか本性が出たのか、天下を盗ってから失政を繰り返しているンだ。その辺り、お前がどう評価するのか興味深いものがあるが」
F「前回云ったが『避けては通れないのに触れていない』というイベントが『私釈』には割とある。本来25年前に触れておくべきことを、実はスルーしていた」
A「25年前って……えーっと、255年か?」
Y「司馬師が死んだ年だな」
F「そゆこと。司馬師(仲達長男)の死後に、どうして司馬昭(仲達次男)が後を継いだのか、というオハナシだが」
A「……云われてみれば。子供がいなかった?」
F「息子はいた。だが、養子だったンだ。司馬昭の次男、つまり司馬炎の弟の司馬攸(シバユウ)でな」
A「何でそんなことになってるの?」
F「司馬師の妻が、ヤンだままデレない春華さんに殺されたから」
A「何でそんなことになってンだ!?」
F「昼メロ顔負けのドロドロが当時あった、ということじゃよ。そして、それを生き抜いただけに、司馬炎の心にはやや思わしくないものが宿ってしまっていた。司馬炎の本性がどんなものかと云えば、即位後にそれを見せたのは一度だけじゃないかとさえ思えるンだ」
Y「ちょっと待て。司馬炎とは何者か?」
F「玉座の上のハムレット。まず、西は孔明を防ぎ北は公孫淵を破った仲達でも裸足で逃げ出す恐妻、張春華さんのしでかした嫁殺しにさかのぼってみる」
Y「羊祜(ヨウコ)の姉は後妻だったな」
F「司馬師は生涯で三度結婚しているが、ひとりめの妻は夏侯尚の娘、つまり夏侯玄の妹にあたる。夏侯家のおじょうさんだね」
A「割といいとこだな」
F「うむ。母も皇族、曹真の妹でな、曹爽のいとこでもある。司馬師本人よりみっつ年下で、名は夏侯徽(カコウキ)。彼女は234年、つまり孔明の死んだ年に死んでいるンだが、この年数えで24。ところが、子供は娘が5人いたという」
A「割と夫婦仲はよかったってこと?」
Y「だが男児はない、か」
F「それが義母の逆鱗に触れたっぽい。なにしろ司馬師は司馬家の長男で、それなのに娘ばかり生まれていては、母としては畑が悪いと考えても無理からぬことだろう。父系に男の子が生まれにくい遺伝子があるとは、司馬の八達という家柄からしてありえない。現に、司馬炎にも司馬衷(シバチュウ)の他に25人の男児がいる」
A「それはそれで多すぎるように思えるけど……男の子が生まれない原因が、妻にあると思われても仕方ないのか」
F「さらに云えば、この年齢(実年齢では22か23)で娘5人ということは、双子がいた可能性が高い。僕は見慣れてるから気にしないけど、多胎児を忌み嫌う風潮は現代でも根強いからな。動物がたくさん子供を産むのにひっかけて獣腹なんて蔑称することもあるくらいだ」
Y「気にするモンかねぇ。うちなんざ俺の下に双子が続いたから、2年で弟ひとりと妹3人できたからな。その中の3番めの妹が、コイツと恋仲だったワケだが」
A「ヤスのおうちは極端すぎる事例だと思います……」
F「同感だがフォローはしよう。アレは僕の人生で、欠くべからざる時間だった。あの満たされた時間があったからこそ、いまの僕がある。というわけで、僕は双子を差別しないが、何しろ時代が時代だ。今から1700年以上前では、跡取りを産めない獣腹の嫁を、姑が目の敵にしてもおかしくはないだろう」
A「……何だろう、云ってることはまぎれもなくただの昼メロなのに、反論どころかツッコむ余地がない」
Y「いちおう云っておくと、現代日本ではそんな姑、珍しくも何ともないぞ」
F「だな。『嫁して三年子なき嫁は去れ、と民法で制定されている!』と断言したババアも知ってるが、というわけで夏侯徽は春華さんに殺されている。通説では、司馬師が魏の皇室に敬意を払わなくなり、同様に皇族出身な妻を疎んじるようになって殺したことになっているけど、当時の司馬家にそんなつもりがなかったのは触れてあるな」
A「ちょっと誤解がある、か」
F「夫婦仲はよかった。子供5人だし、聡明な夏侯徽に何かあるたびに相談していたともある。だが、怖い母にその仲を物理的に裂かれたモンだから、次の妻とはあっさり離婚し、羊祜の姉と結婚したのは春華さんの死後のようでな。ちなみに、娘しか生まれなかったのにはどうにも司馬師の側に責任があったようで、結局男の子は生まれなかった」
Y「……そうかよ」
F「そこで発奮したのが、お兄ちゃん大好きな弟だ。兄嫁が母にいびられて殺され、司馬師に息子が生まれないモンだから、自分の子を司馬師の養子に出して、死後には家督を継がせていた。そのうえで『この天下は兄者が得たのであって、俺の功など何もない!』とか何とか云いだした」
A「兄思いとは聞いてたけど、そこまで司馬師に入れ込んでたのかよ!?」
F「これには、司馬炎より聡明とされる司馬攸を自分の後継者にしたい、という感情もあったのは云うまでもない。だが、長子相続でなければ袁紹劉表、そして孫権の轍を踏むことになりかねない。踏むなら曹操曹丕ラインが理想だが、ここで影響したのは、司馬師の死後に司馬攸ではなく司馬昭が後を継いだという事実でな」
Y「父や同腹の兄が弟の下について後見するワケにはいかんだろうな」
F「そゆこと。司馬師の死後に司馬攸が司馬家の家督を継いだら、順番がおかしくなる。ために、司馬家の家督は司馬昭に移り、司馬昭はそれを利用した。兄が得た天下なのだから、兄の後継者が天下を継ぐべきだ……と、公言こそしなかったものの、自分のあとは司馬攸に継がせると暗示したンだ」
A「司馬炎は面白くねェだろうな」
F「司馬炎と司馬攸が12歳違いなのが割と大きい。司馬昭の意をくんで司馬攸に近づく輩には、司馬攸が幼いから扱いやすいと踏んだ輩もいるだろう。司馬昭の死後に幼い司馬攸を操り、権勢を得ようと考える輩だ。司馬炎にとっては敵であると同時に、厳密には司馬家全体の敵なんだが、往々にしてこういう輩は少なくない」
Y「よくあるとは云わんが、揉め事としてはありきたりだな」
F「司馬攸が司馬師の家督を継いだのは8歳のとき、司馬師の死んだ255年だが、司馬昭の後を継ぐのが司馬炎・司馬攸のどちらなのか決まったのは、その10年後の265年だった。表面だって揉めた記述はないが、水面下では司馬炎派・司馬攸派に分かれての抗争が続いていたのは考えるまでもない」
A「でなきゃ10年も揉めないか……ほとんど曹丕と曹植の後継争いだなぁ」
F「そして、今回も兄が勝った。『長子が後を継ぐのが正しいのです』と司馬炎派の連中が主張したのに、司馬昭も折れたということになるが、武帝紀では、司馬炎は『とても誰かの臣下におさまるタマじゃありませんぜ』とされ、見方によっては『炎殿下が後継者でなければ、我らは炎殿下について叛逆しますよ』とさえ云っているンだ」
Y「相変わらず、お前の翻訳はブっ飛んで……」
A「でも、仕方ないと思うぞ。呉が健在なのにたかだか18歳の後継者なんて立てたら、つけいる隙を自分たちで作るようなモンだろう」
F「そゆこと。そんなワケで司馬炎は晋の王太子たりえた(3ヶ月後に司馬昭死去)が、この瞬間、司馬炎の政治的な立場は地に落ちた。何しろ彼は、家臣たち王太子にしてもらい、そして皇帝にもしてもらったことになるからだ」
A「……あー、それじゃダメだわ」
Y「なるほど……それではずいぶんと」
F「司馬炎派、が具体的に誰かと云えば、まず何曽(カソウ)。晋の建国に併せて丞相となり、先の台詞で司馬炎を推した張本人だが、もともと魏で司徒だった割に晋代ではそれほどの働きはない」
A「何曽の他に誰かがいる、と?」
F「楊駿(ヨウシュン)、そして賈充だ。このふたりによって、司馬炎の擁立はなされたと考えられる。なぜなら、このふたりが外戚となったからだ。司馬炎の妻(司馬衷の生母)の楊氏が274年に死んだのは195回の2で触れたが、楊駿はそのおじに当たる。そして、姪の死後に楊駿は、今度は娘を司馬炎の妻にあてがっている」
Y「何十年か前に、蜀で張飛が、姉が死んだら妹を劉禅にあてがう真似をしていたな」
A「それよりタチが悪ィ……」
F「一方の賈充は司馬衷に自分の娘をあてがっている。つまり、司馬炎の代では楊駿が、司馬衷の代では賈充が外戚となるンだが、これが決まったのが267年のこと。つまり、即位して2年であっさり次の世代まで、外戚という利権が固まってしまったことになる。司馬炎を帝位に推した連中は、かつての孔明よろしくこう考えていたようでな」

 ――我ら家臣一同が命を賭けて殿にお仕えしてきたのは、殿が王となり我らも富貴に預かるためですよ!

Y「天下の縮図が蜀にあったのか?」
F「けっこう顕著な証左もある。以前云った通り、杜預王濬は呉への侵攻に賛成していて、賈充をはじめとする外戚派は反対していた。もともとはどっちつかずだった張華が賛成派に与したのは、賈充ら外戚の専横を憎々しく考えていて、ここで呉征伐に踏み切れれば政治的なダメージを与えられると踏んだ、という事情がある」
Y「だが、たかだか中書令の張華にそれほどの影響力はなかろう?」
F「そう、影響力も発言力もない。それだけに、出世もできないンだ。張華が立身するためには賈充を蹴落とさねばならないンだよ。呉征伐における補給の大任を成し遂げた張華は、読み通り戦後行賞で出世しているが、そのあとで幽州方面に左遷されている。賈充の息がかかった連中ににらまれた、というところでな」
A「……ドロドロだな」
F「派閥や人間関係ってそういうモンだから。前線に出なかった張華でそのザマだが、実際に戦場に出た侵攻賛成派の連中はやや賢明だった。王濬は『ワシはケ艾のようになるのかのぅ……』とぼやいて隠忍自重し、杜預は宮中に賄賂を送って、それぞれ身の安全を謀っている」
A「王渾胡奮は反対派だったな」
F「皇族の司馬伷はともかく、王戎には王戎で興味深いエピソードもある。ま、そんな事情があったモンだから、賈充は呉の平定後に『反対してゴメンなさい』と上奏したものの、もちろん司馬炎には賈充を罪に問うことはできない」
A「もちろん、だな」
F「それどころか現職(太尉:軍事の最高権力者)にとどめ、賈充派の要人荀勖(ジュンキョク)・馮紞(フウタン)を昇進させて人事権も与え、朝廷を壟断させているンだ。件の何曽について、晋書では『賈充のことをいやらしい奴だとは思っていたが、それでも派閥の一員だった』と明記がある」
Y「権力欲には変えられなかったということか」
F「孫皓が暴君の皮をかぶった暴君だというのはさんざん見てきたが、司馬炎は暗君の皮をかぶった小物だったように思えるンだ。はたして司馬炎には、賈充らの意向に背くような真似はできたのだろうか、と。さすがに『お前が行かねば俺が行く!』とまで云ったときには賈充も折れたが、アレだって側面的には宮廷内の力関係が大きく揺らいだからだ」
A「……というか、『家臣の意向に皇帝が背けるか』と傍から考えられている時点で、すでに力関係は明らかなんだが」
F「……おおっ(ぽんっ)。つい無意識で、だが素でンなことを考えていたよ」
Y「云いたいことは判った。司馬炎が呉の平定後にふぬけになったのは、賈充らとの対決を避けるためか」
F「天下統一という大業を成し遂げたあとに、司馬炎は女色にふけり、政治の実権をほとんど放棄している。コレは事実だ。だが、賈充らにまっこうからは衝突できないのが司馬炎の立場なんだ。『陛下は誰のおかげで皇帝になれたのですか』と脅迫するときの説得力は、劉備に対する法正のものをも凌駕する」
A「さらに『誰のおかげで天下を統一できましたか』も加わる……か」
F「司馬炎には、ふたつの生き様があった。自分を殺して賈充らに操られるか、それとも賈充らを殺そうとするか、だ。そこで問題になるのは、魏の四代皇帝曹髦を殺したのは誰だったかということでな」
A「ここでそれが響いてくるかぁ……」
F「皇帝を殺すのを何とも思わん男を相手に、皇帝が強気に出られるはずがないだろうが。自分が死ぬべきかそれとも自分を殺すべきか、悩むことじゃないンだよ。司馬炎は自分を殺す方を選んだ。呉の平定後にかろうじてやったことの多くは、後世から失政と称されているが、それも無理からぬことだろう」
A「よきにはからえ、朕は知らぬ……とでも考えたのかね」
Y「暴君ではないが、それじゃ暗君じゃないか?」
F「だが、司馬炎の行いに美点を探すことはできる。その辺を抜きにして、この孤独な皇帝を評価するのはちょっとまずい気がするンだ。失政は次回以降で見ていくけど、数少ないいいことを先に見ておきたい」
A「美点?」
F「司馬炎は、死者への礼を忘れない男だった。『天下に善の基準はひとつしかない。忠義を尽くし国家に心血を捧げたことは立派である』と、孔明親子を絶賛しているンだ。そして、孔明の孫、諸葛尚の弟にあたる諸葛京(ショカツキョウ)を召しだし、役人に取り立てている」
Y「司馬仲達のライバルと思われていた男の子孫を、ねェ。そんなに高い地位じゃないンだろ?」
F「まぁ、地方の県令だね。ただ、諸葛京は善政を敷いて民衆に慕われ、司馬衷の側仕えを経て州刺史にまで昇進している。人事としては正解だったらしい」
Y「……祖父の七光かね」
A「そのまま皇太子のところにとどまって、宰相にでもなっていれば笑えたのに」
F「一方で、事実上呉軍が崩壊した版橋の決戦場から逃げ延びた諸葛靚だが、以前云った通り司馬伷の夫人は諸葛誕の娘、つまり諸葛靚の姉にあたる(靚は末子)。ために、戦後は姉のところに逃げ込んでいたようでな」
A「割と情けない……」
F「内心ビクビクしながら日々を送っていたのは疑う余地がないが、何の前触れもなくバレてな。諸葛靚のところに司馬炎が自ら乗り込んできて『せーちゃん、俺だよー』とブチかました」
A「仲良しなのか?」
F「魏の時代には有力武将の息子同士で、親交があったみたいでな。だが諸葛靚は『おなか痛いです!』とばかりにトイレに閉じこもって顔を出そうとせず、役職を与えられても固辞した。結局許されて故郷に戻り、でも魏・晋に敵対したことを恥じて、生涯洛陽に顔を向けることをせずに死んだという」
Y「諸葛の子孫どもは、割とできがいいようだなぁ」
F「さて、蜀に樊建(ハンケン)という人物がいた。劉禅とともに洛陽に移され、司馬炎の側仕えに取り立てられた文官だが、孔明の治世について司馬炎に講釈する機会があった。諸葛京を取り立てたのは、この樊建の影響が大きかったと考えられる。何しろ、講釈を聞いた司馬炎が『このひと(孔明)が朕の宰相であれば、いまの苦労はなかったであろうに』と云っているンだ」
A「判るヒトには判るモンじゃねっ!」
Y「俺には判らん」
A「期待もしてねェよ」
F「だが、樊建の態度は硬骨そのものだった。その場で床に額を打ちつけると『無実の罪でケ艾を死なせておいてそれを処理もしないのに、孔明様を得られたところで何になりましょう!』と、はっきり司馬炎を批判しているンだ」
A「おいおい……相手が孫皓だったらBコースはかたいぞ」
F「だが司馬炎は『よく云ってくれた!』とむしろ樊建を賞賛。ケ艾が叛逆したというのは誤解であると明言し、奴隷に落とされていた孫を官僚に取り立てている。孫はふたり確認できるが、下の子のケ千秋(トウセンシュウ)は王戎の配下になっているな」
A「……確かに、お前がいつぞや云った通り、感性はマトモっぽいな」
F「王経の名誉を回復させたのも司馬炎だ。『法で裁かれたとはいえ、国への忠義を貫いたことは評価すべきである』として、王経の孫を取り立てている。死者への礼を忘れないこの辺りの美点は、評価されてしかるべきだと思うンだ」
A「ひょっとして、暗君の皮をかぶったいいひとだったンじゃね?」
Y「人格はそうだろうが……どうなんだろうなぁ」
F「ところで、司馬炎の本性がはっきり表れている一件がある。胡奮の娘が後宮に入っているンだが、この胡貴嬪(きひん、後宮での位)は気が強くて、後宮入りするときに嫌がって大泣きし、お役人から『陛下に聞こえる』といさめられても『陛下がなによ!』と云い返した逸話を持つ」
A「ツンデレ?」
F「いや、ツンツン。ある日、ふたりでギャンブルに興じていると、誤って司馬炎の指を傷つけてしまった」

司馬炎「おいおい、これだから武将の娘は」
胡貴嬪「(むっ)確かに、アタシの父は、西で孔明を防ぎ、北で公孫淵を破ったわ。アナタのおじいさんに従って! 武将の娘で何が悪いのよ!?」
司馬炎「……そうだな、すまなかった」

Y「ここで謝るのかよ……」
F「司馬炎は、本性ではまぁ、こういう男だったように思えるンだよ」
A「なんというか……割と判りにくい男だね」
F「To die or To kill, That isn't the question! かくて、天下一統を成し遂げたハムレットは、玉座の上で自分を殺しながら、女たちに囲まれて余生を過ごした。その様子は次回以降見ていくが、享年は五五。呉の滅亡から10年後に崩御している」
A「10年!?」
Y「……そういうことか」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る