私釈三国志 195 天下一統 4 ―シリーズ孫呉滅亡・6―
F「えーっと、まずはブログでいただいたコメントへの回答から」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「ありがとうございまーす」
F「この戦闘に動員された24万の軍勢で、よく兵站ができた……とのコメントですが、賈充と張華(チョウカ)の働きが大きかったように思えます」
Y「補給担当の張華はそうだろうが、賈充もか?」
F「そもそも賈充が侵攻に反対していたのは『樹機能のせいでそれどころではありません、今は国力の増大につとめるべきです』との口実だったろ? ために、晋の農業生産力と備蓄は24万の軍を充分フォローできたと考えられるンだ。また、時間はあったわけだから輸送路の整備もできていたはず」
Y「やるならそれなりに大規模にならんか?」
F「なるさ。だが、やらねばならん理由が羊祜にはある。西陵包囲戦で羊祜率いる別動隊は、陸抗に侵攻ルートを水没させられて、江陵攻略に失敗しているンだから。西陵への本隊を率いた楊肇(ヨウチョウ)が放逐、羊祜本人も降格の憂きめを見た、この敗戦から『次』を学ばない男ではない」
A「あー……」
Y「その程度の男だったら、陸抗はもっと楽ができたろうな」
F「そゆこと。荊州方面に限るべきではないけど、羊祜が呉への侵攻路・輸送路を整備しなかったはずがないンだ。どうすれば陸抗に勝てるのか、羊祜は智略の限りを尽くすだろう。狩猟に出て陸抗に出あったのだって、作業の下見とも考えられるし」
A「陸抗と羊祜が出会う場所、か……その辺りは確かに見ておかなきゃだね」
F「江陵を今度はしっかり攻略しているからには、ルートの整備ができていたと考えられるワケだ。そして張華は、晋書張華伝ではっきり『陸・水の補給路を整え、必要な物資を計算し手配した』とか『諸方面に(物資を)分配し計算高く輸送したことで、文字通り我らに勝利を運び込んだ』と絶賛されている」
A「……でも、賈充が『張華殺せ!』って云ったのは、その辺が上手くいかなかったからとは考えられない?」
F「賈充は可能なら10年侵攻を遅らせたかった、という前提で考えてくれ。晋の侵攻を妨げるいちばん確実な方法は補給を断つことだ。よって、各軍団に滞りなく補給物資を分配していた張華が邪魔だった、とは思えんか?」
A「10年!?」
Y「10年待って、孫皓が死んでいたらどうするつもりだ?」
ヤスの妻「……あー! えーじろずるいことしでかしてるー!」
F「さて何のお話やら。だからえーじろやめろ」
Y「何の話だ?」
ヤスの妻「いまの話を鼻で笑い飛ばせるはずの8文字がなくなってるんだよ……」
F「さてさて、何のお話やら。ともあれ、賈充は可能な限り呉への侵攻を遅らせたかった、と考えられる。ゆえに、堅実に補給を行っていた張華が邪魔だったので、殺すよう上奏した……と僕は見ている。賈充の考えについては2回先で触れるが、割と笑えない事情があったようでな」
ヤスの妻「むぅ……意見そのものは否定しないけど、否定できる材料をいつの間に……」
A「何をしたのさ……」
F「ただ、現地調達はしなかったように思えます。何せ羊祜と陸抗の代では『道にものが落ちていても、それを拾う輩はいなかった』くらい、敵国の民衆でも大事にしていたので。いざ攻め入ったとたんに略奪では、評判が高かっただけに落ちるのも一直線でしょう」
Y「否定しない」
F「そう警戒するな、2回先で触れるってば」
A「疑問への回答にはなっただろうけど、さらなる疑問を呼んでどうするよ……」
F「避けては通れないけど隠している、というのは『私釈』ではよくあることなんだから。それでは、なんかしっかり補給路について触れたけど、杜預(ドヨ)の顰に倣って、勢いそのままに講釈を続けます。195回『天下一統』第4回『孫呉滅亡』」
Y「元気なのはいいことだ」
A「若いこっちがばててるのに、年寄りふたりがまだ元気かよ……」
ヤスの妻「疲れたなら、義姉さんの胸……もとい、膝枕で休む?」
A2「(ぎゅっ)……だめ」
ヤスの妻「わたしがちょっと遠慮したのに、あーちゃんが抱きつくなんてずるいよ!」
A2「(ふるふる)……ずるくない」
Y「どうすンだ、アレ」
F「なまじ休んだせいで甘ったれたことほざいてるな。まぁ、疲れが抜けるまでほっとこう」
A「いえもう疲れてないので助けてください!?」
F「ちなみに、僕はお前と同い年だからな(ぱんっ)。さて、晋軍の侵攻に対して、孫皓でもさすがに手をこまねいていなかった。なんかごく最近にこのフレーズは使った記憶はあるが、いちおうの対策は講じている。王濬(オウシュン)が成都を発したほとんど直後の2月9日、岑昏(シンコン)を斬り捨てた」
Y「宦官だったか?」
A「蜀の黄皓と並んで、国を滅ぼした元凶とされる宦官じゃね」
F「狡く立ち回って孫皓に気に入られ、九卿に昇進したとあるな。民衆に労役を科したので恨まれていて、いざ晋軍が攻め入ってくると、宮中の数百人が頭を床に叩きつけ『敵が迫っているのに兵が武器を取らないのは、岑昏がいるからです!』と泣きついた。ために『アイツを犠牲にして天下に謝罪せねば!』と孫皓は処刑を許可している」
ヤスの妻「コレのどこが対策なの?」
A「演義だと、孫皓が『宦官ひとりくらいでなんだ』とスルーしようとしたら、はっきり『蜀の黄皓をお忘れですか!』って突っぱねて、有無を云わせずにそのまま……そのまま……」
F「はい、自爆しない。詰めかけた連中は岑昏を殺し、その生肉を剥いでは喰っている。まぁ、演義の話だが」
Y「黄皓云々の台詞がないのか?」
ヤスの妻「それ以前で、宦官とはどこにも書いてないの」
Y「……マジか?」
F「今までに何度か出した記憶はあるが、僕も宦官とは云わなかったはずだぞ? 呉書の記述からは、宦官だとは確認できない。黄皓のような判りやすい滅亡の責任者を作ろうとしたのか、何なのか」
ヤスの妻「少なくとも黄皓とは違って、呉の滅亡の原因とはなりえないよね。それを斬るのがどーして対策になるの?」
F「はい、ニヤニヤしない。孫皓は『今まで俺のせいだと思われていた悪事は、全部岑昏のせいだったンだ!』と責任転嫁する目的で、岑昏を斬り捨てたように思えるンですね」
ヤスの妻「むっ……」
F「無実の家臣に罪を押しつけ処刑するような真似は、孫皓ならいくらでもやっていますから。今回に限って周囲の意見を聞いたとは考えにくいンですよ。現に、因縁つけて斬ろうとして当の岑昏に制止され、その場では許した張尚(チョウショウ、張紘の孫)は、のちに追及され死んでいます」
Y「あのとき岑昏を出したのは、コレが目的か」
F「いや、実際に『岑昏が百人余りを引き連れて頭を床に叩きつけ、寛大な処分を求めた』とある」
Y「何が『いや』だ。そうやって制止されたから、そうやって殺したようにしか聞こえんぞ」
F「岑昏については、その一件と出世の経緯しか記述がないンだ。演義では、例の長江封鎖と水中の杭も岑昏の発案とあるが、それだと『実効性はともかく、家臣を処刑しようとした孫皓をいさめ、晋の侵攻に際して防衛策を提案した』というのが岑昏の言動になる」
Y「一般的な岑昏への評価は『呉を滅ぼした宦官』だが……」
F「孫皓被害者連の、最悪に近い扱いを受けたひとり、というところじゃないかと思えるンだよ」
ヤスの妻「……アキラ、傷心の義姉さんを慰めて」
A「うぁーっす……よしよし」
F「以前見たように、孫皓は優秀な他人を許せない性格だった。ために、家臣の顔を削ぎ落して『お前のツラの皮が厚いのが気に入らん』と云った、ともされる。恐怖政治で呉を従えようとしていたのかとも思えるが、それだけに、非常時において誰も従ってくれないという事態に追い込まれていた」
A「というか、誰もいなくなっていた?」
F「各地で、攻撃を受けた拠点が次々と陥落していたのは歴然たる事実だな。そこで、278年に丞相に任じられた張悌(チョウテイ)に、建業駐留の軍から3万を割いて一軍を編成させ、形勢を覆すよう命じている。若い頃から才覚を知られていたが、高官になると利益を図ろうとしたので、あまり評判はよろしくなかった……とあるな」
A「そんな奴に呉の未来を任せねばならないとは、周瑜が聞いたら何と嘆くだろう」
F「それでも可能な限りの便宜は払っているンだ。3万なら数の上では晋のいち軍団とはいちおう戦えるし、孫震(ソンシン、孫述の弟、孫歆の兄)・諸葛靚・沈瑩(チンエイ)とそれなりの武将をそろえた。特に、沈瑩の率いる丹楊兵は呉の精鋭部隊とされ、五千の兵全員が刀と盾、そして青い布で装飾した兜を身につけていたことで青巾兵とも綽名されている」
Y「100年前に似たような軍隊がいたな。負けたけど」
F「問題は、この軍をどこにぶつけるかでな。具体的な作戦は張悌に一任されていたが、建業の南南西にある牛渚(ぎゅうしょ、前回の地図参照)まで進んだ(つまり、司馬伷はスルーした)が、そこで張悌と沈瑩の間で議論が起こっている」
沈瑩:この牛渚で王濬を防ぐべし
「長江沿岸には頼れる人材がおらず、晋の水軍を防ぐことはできない。この地に駐屯して水軍と決戦すべきだ。水軍さえ打ち破ってしまえば、長江北岸がいくら占領されようとも奪還できる。逆に長江の北岸で決戦を挑んで勝利しても、北岸を維持することができない。最後の切り札である我らが敗れたら、呉の滅亡は必至となろう」
張悌:長江を渡って王渾を討とう
「牛渚で防御するとなると、晋軍は建業近くまで来ることになり、民衆に不安が広がって取り返しのつかないことになりかねない。それに、敵を待つ軍隊は士気が下がり、戦わずに分裂してしまうだろう。ここは長江を渡って決戦し、勝利して北からの脅威を取り除こう。その勢いを維持して長江をさかのぼれば、進軍してくる敵を倒すこともできる」
Y「どちらが正しくてどちらが間違っている、という類の話じゃないな。数が充分なら二分してそれぞれをやらせるべきだが、3万ではそれもできんか」
F「強いて云うなら孫皓が間違ってるンだよ。3万の軍で五千七百里の戦況を覆せ、と命じたこと自体が。結局、この軍は張悌のプランに従って、長江を渡り王渾(オウコン、王昶の子)の軍に向かっている」
A「それがどんな結果になるのか……だね」
F「前回はおおむね長江上・中流域での戦闘を見てきたが、下流での戦闘に移るよ。寿春(地図C)を出立した王渾は、合肥を経て巣湖の北を進んだ。揚州の長江北岸域は次々と攻略され、あるいは降伏していったが、楊荷(ようか、地図●)まで進んだ先遣隊の張喬(チョウキョウ)が、張悌の軍と遭遇してしまう」
A「兵数は?」
F「七千というところだ。4倍以上の敵軍に遭遇した張喬は、とてもかなわんと陣地を築いて防戦するが、青巾兵は過去の戦闘で何度となく敵の堅陣をブチ抜いた実績を誇る……らしい。支えきれなかった張喬は白旗を挙げて降伏を申し出て、張悌はそれを受け入れようとしたが、諸葛靚が反対している」
A「その場では降伏しても、何をしでかすか判らんからねェ」
F「劣勢だからと降った輩を生かしておくべきではない、後方から襲われないよう穴埋めにすべきだ! と主張したンだが、張悌はその意見を退け、張喬隊の将兵をいたわり、その陣地に留まらせている。まだ先が長いのに穴埋めなんてしていたら疲労がたまる、との考えだけど、そもそも云いだしたのが諸葛靚では賛同者も少ないだろうな」
A「……思えば魏から寝返った武将だな」
F「というわけで、楊荷から北西に進んだ張悌の軍は、版橋(はんきょう、地図×)で王渾の主力部隊と遭遇した。張喬の部隊から先の戦闘の推移は聞いていたようで、王渾は周浚(シュウシュン)らに打って出ないよう命じ、青巾兵の猛攻を三度に渡って耐え抜いている。これにより、呉軍には『青巾兵でも抜けないなんて……!?』と動揺が広がった」
Y「強い武器を持つ者は、それに依存したくなるものだな」
F「その動揺を見逃す王渾ではなかった。即座に反撃に転じると、士気が低下していた呉軍では防ぐこともできず崩壊していく。おまけに、背後から張喬まで襲いかかってきた」
A「張悌に謝れ!」
F「だまされたアンタが悪い、とは諸葛靚でも云わなかった。手勢だけを連れて張悌のもとに駆けつけている」
諸葛靚「国家の存亡をあんたひとりで背負うつもりか! この場を逃れるべきだ!」
張悌「靚殿、私はかつてあなたの家の丞相殿から抜擢されたのですよ。死ぬべきときに死ななければ、孔明殿の知遇に反することになります。きょうこそが、私の死ぬべき日です。……悩ませないでください」
F「諸葛靚は涙ながらにその場を離れたが、百歩進んだ頃に張悌が死んだのが見えたという」
Y「あのバカタレが余計なことを云わなければ、張悌も逃げていただろうに。いや、実に惜しい」
A「暴言はさておき、意見は認める……」
F「どっちなんだ? 孫震や沈瑩も死んで、晋軍が斬った首級は7800。起死回生を狙った張悌の軍は、将兵ともに壊滅したと云っていい。唯一まとまっていたのは、諸葛靚が連れていた五百か六百の兵のみだった」
A「崩壊したねェ……」
F「一方で、司馬伷(シバチュウ)も下邳(かひ、地図D)から南下し、建業に残る呉軍を牽制している。長江上流で連敗しているとはいえ、建業まで逃げ込んできた軍も少なくなかったようで、現に張悌の軍は2万近くが戦場から逃げたか降ったかという計算になる。仮に半数が逃げ込んだとしても1万は帰還したワケだ、無視できる数字じゃない」
A「晋は徹底的に叩くような真似をしないから、生き延びた中で戦意のある連中は建業まで逃げ延びるのか」
F「ために、司馬伷の軍もある程度抵抗を受け、それでも連勝を重ねて、ついに長江を渡っている。その途上で討ち取った、あるいは捕虜にした呉の兵は5万を超えているのだから、激戦の様子が判ろうというものだ」
Y「建業まで近づかれたら必死にもなるか」
F「そんな建業に、ひょっこりと陶濬(トウシュン)が帰還してきた。3月28日のことだが」
A「え?」
Y「一軍を預かって、郭馬(カクバ)の平定に差し向けられたンじゃなかったか?」
F「なんだが、武昌(地図H)で侵攻準備を整えている最中に晋が侵攻を開始して、郭馬どころじゃなくなってな。江陵(地図C)の陥落する前に撤退してきた」
Y「敵前逃亡ではあるが、孫皓としては責めることじゃないな」
A「確か七千の兵……小さくないね」
F「ないンだが、それに伴う被害の方がはるかに大きい。江陵を攻略した杜預は南下を命じられた、と前回云ったが、進んできた杜預に南荊州はもとより、交州・広州の諸郡が相次いで降伏し、太守の印綬を差し出してきたンだ。抵抗して死んだ太守は十二人とあり、他の太守は全員降伏したことになる」
Y「陶璜(トウコウ)は」
F「さすがに州刺史を討ち取っていたらその旨記述があると思うが、陶璜の名は杜預伝にはない。一方で、郭馬の名も晋書にはない。この頃に郭馬はすでに死んでいて、他の武将が陶璜らに対抗していて、そこへ杜預がやってきた、ために降伏が相次いだ……というところじゃないかと」
A「郭馬本人は失っていても、叛乱側のがある程度優勢になっていたってことか」
F「僕が司馬炎なら、郭馬に少なくとも広州は与えていたよ。いくら破竹の勢いでも、事前に3割が主戦場を離れていなかったら、ここまで一方的な展開に持ち込めたかどうか。賞された記述がないからには、郭馬はすでに死んでいたと考えられる。呂興(リョコウ)もあっさり死んだ……あれは部下に殺されたンだったか」
Y「だったな。で、陶濬はどうした?」
F「うん。孫皓に『益州の軍船は小さく、容易に撃破できる。自分に大型船と水軍二万を与えてくれれば、王濬の軍を打ち破ってみせます』と上奏した。孫皓は『よし、お前に任せる!』と、望み通りの船と兵を与えている」
Y「バカか?」
A「軍船は小さくなんかないでしょうが。2万の軍で、王濬の……えーっと、増えて増えて増えて7万くらいか?」
F「この体たらくでは、大舡があっても郭馬には勝てなかったと素直に思う。しかし、結局陶濬は王濬と戦わなかった。『翌日出立する』と伝令していたモンだから、その夜の間に集められた兵と船はみーんな逃げてしまっている」
A「誰か何とかしてやれよ……」
F「牛渚を越え三山(地図△)まで王濬が迫った、と聞いた孫皓は、今度は張象(チョウショウ)に1万の水軍を与えて迎撃に出すも、コイツは王濬の大艦隊を見ただけで震えあがって降伏した」
A「だから、誰か何とかしろよ!」
Y「誰もいないンだよ。孫皓のせいで」
F「いちおうひとりだけ残っているンだがな。王濬は、三山で王渾と合流することになっていたンだが『風が晋軍に有利だから』と、そのまま止まらずに建業へ向かっている。思えば、杜預と胡奮が進軍すべきか揉めている最中にも、陸軍ほったらかして王濬水軍は前進を続けていた。ちなみに、『君命有所不受』命令違反の常習犯王基(オウキ)との血縁は確認できない」
A「ありそうで嫌だ……」
F「まぁ、王濬がこの戦闘に賭ける意気込みも無理からぬものでな。206年の生まれだから、この年74歳なんだ」
A「おじいちゃんですか!?」
F「以前司馬炎に『ワシももう七十、ワシと船と孫皓のいずれかひとつでも欠けたら、呉は討てませんぞ』と上奏している。老将が最期の御奉公として暴走を繰り返しているモンだから、杜預(222年生)も賈充(217年生)もあんまりうるさく云えなかったワケだ」
A「その頃の生まれでも、すでに老人かよ……」
Y「それじゃ、若造の云うことを聞いたか判らんしなぁ」
F「チンタラしている王渾(223年生)を置いていったのも、仕方のないオハナシでした。そんなワケで、広州に送られたり呼び戻されたり送られたり途上で呼び戻されたりしていて、この頃は建業にいるターンだった薛瑩(セツエイ)が策を献じた。迫りくる司馬伷・王渾・王濬に、それぞれこんな書状を送っている」
「司馬伷様へ
漢末の混乱に乗じ孫権が興した我が国ですが、全世界を覆う晋の恩恵に浸るべく、降伏させていただきたいのです。つきましてはあなたの度量におすがりして、皇帝陛下におとりなしをお願いしたく思います。どうか平民たる私をお救いくださいますように」
「王渾様へ
漢末の混乱に乗じ孫権が興した我が国ですが、全世界を覆う晋の恩恵に浸るべく、降伏させていただきたいのです。つきましてはあなたの度量におすがりして、皇帝陛下におとりなしをお願いしたく思います。どうか平民たる私をお救いくださいますように」
「王濬様へ
漢末の混乱に乗じ孫権が興した我が国ですが、全世界を覆う晋の恩恵に浸るべく、降伏させていただきたいのです。つきましてはあなたの度量におすがりして、皇帝陛下におとりなしをお願いしたく思います。どうか平民たる私をお救いくださいますように」
A「おい、文面一緒だぞ?」
F「それが薛瑩の策なんだ。侵攻してくる三軍それぞれに『アナタしか頼れないの〜』とすがりつくことで、呉を滅ぼすという大手柄を誰がつかむのか、内輪揉めを起こさせる。その隙に何とかしようとしたワケだ」
Y「目前の手柄をつかむためには、足を引っ張るのもやむを得んか……ふむ」
A「ここに来て、えげつないことしでかしたなぁ。さすがは、呉に残された最後のひとり」
F「結論を云えばこの策は失敗している。内輪揉めを起こしている時間さえ、呉には残されていなかったンだ。熱血軍船ジジイが建業北の石頭城(地図※)に到着し、長江を埋め尽くす晋の軍船に震え上がった孫皓は、喪服に着替えて自らに縄を打ち、棺を背負って王濬の前に出頭した。呉書では2月15日とあるが、前回云った通りこの辺の日付はちょっとずれがある。5月1日だろう」
A「……あっけないな、オイ」
Y「229年に孫権が皇帝に即位してから4代51年、280年に呉は滅んだか」
F「ところで、とやっておこう。呉では地方軍の武将から妻子を人質にとっていた。259年のことだが、そんな子供たちが建業で遊んでいると、見慣れない青い服の子供が混ざっている。ひとしきり遊んでから『だれ?』と尋ねると『ワタシハ火星人デアル』とのお返事。あんまり楽しそうで、ついつい混ざってしまったらしい」
A「何やってンのさ……」
F「その火星人は『三公ガ耕シタ後ニ司馬ガイク』と云い残し、空へと消えていった。孫亮・孫休・孫皓が帝位に就いて、そのあとで司馬家の晋に滅ぼされる、という予言だな」
A「判りやすい滅亡フラグじゃね」
F「いつぞや云った通り、当たらなかった予言というものは残されないし、残らない。なぜなら、外れたからだ。正史に予言が書かれている場合、基本的には『こんな予兆があったのに無視したから、このヒトは死んだンですヨ?』みたいなニュアンスで使われる」
Y「董卓なんかはその典型だな」
F「正史・演義を通じて、予言者の言葉を無視して滅んだ輩は少なくないが、無理からぬことではあるンだよ。左慈といい管輅といい、外見が悪いと明記されているンだから」
A「誰かさんのことじゃねーけどさ、外見の悪い仙人って信用されなくても仕方ないよな」
ヤスの妻「むしろ、神秘的とかそういう方向に捉えられればいいけど……ねぇ」
F「無理もねーってンだろ、オラ。西王母だって人面獣身の怪異なんだから、仙人の容貌が悪くても仕方ないンだよ」
A「……西王母って、美人さんじゃなかった?」
F「そういう伝承もあるが、もともとは怪異だな。それはともかく、外見が悪い仙人の云うことを信用するかどうかという問題は、ひとを外見で判断するかどうか、という問いの答えとほぼイコールだ。自分に都合の悪い予言であれ諫言であれ『あんな奴の云うことを聞けるか』と突っぱねるのに、外見をヤリ玉にあげるのは劉備でもしでかしたし、現代でも珍しくない」
Y「経験者は語る」
F「黙っとけ。ツラの皮が気に入らない、と削ぎ落させるような奴が『子供がこんなことを云ってました』と聞いても無視するのは明白だな……と思ったが、当時は孫休の代か」
A「……いや、孫皓の時代に起こっていても、孫皓は無視したよ。間違いなく」
F「そして、孫皓の時代には、子供たちが楽しげに遊んでいるなどということが起こらなかったようにも思える。やはり、劉備でも初見では重用を避けた龐統の、真価を見抜いた曹操こそが偉かったと云える」
Y「否定はしないしできんな。……だが、予言と云えば、孫権のときにもなかったか? 確か趙達(チョウタツ)とか云うのが」
F「そっちは224年だね。曹丕の侵攻を退けた孫権は、趙達に呉の未来を占わせた。『庚子の年に呉が滅ぶ』との卦に『そんな先のことまで責任持てるか!』と云い放ったというオハナシは、孫皓の代までは伝わっていなかったらしい。一方で、陸抗が歩闡を降し西陵城を攻略すると、ご機嫌な孫皓は尚広(ショウコウ)に天下のことを占わせている」
A「卦は?」
F「吉と出た。『庚子の年に、陛下は洛陽に入られるでしょう』と云われ、孫皓は内政をほったらかして外征を行うようになった……とある。まぁ、尚広の占いは当たっていて、確かに庚子の280年、孫皓は洛陽に入った。本人が期待したのとはまるで違う形ではあったが」
司馬炎「おぅ、よう来られた。朕は長いこと、ここにお主の座を設けて待っていたのだぞ」
孫皓「私も呉に陛下の席を設けて、こうなることを待っていたのですよ」
A「何も懲りちゃいねェ」
F「降った孫皓は帰命侯に叙されたものの、これより3年後、283年12月に死んでいる。彼について陳寿の評価は、かなり手厳しい」
「孫皓に殺された人数ははかり知れない。火星人がわざわざ出てきたのも無理からぬことで、孫皓はそれくらいの極悪人だった。それなのに、死罪を赦して侯に封じたのは、晋の恩恵というより司馬炎のやりすぎであろう。殺すべきであった。斬首して、全ての者に謝罪すべきであった」
Y「孫皓に恨みでもあるのか?」
F「ともあれ、呉は滅び晋による天下一統はなされた。黄巾の乱に端を発した後漢末以来の戦乱の時代は、ここにようやく幕を下ろしたことになる」
A「赤壁の戦いから72年、135回か……長かったなぁ」
F「続きは次回の講釈で」