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私釈三国志 195 天下一統 3 ―シリーズ孫呉滅亡・5―

F「あー、やっと終わった……」
A「ちょっと待たされたけど、何やってたの?」
F「お前を使えばもう少し早く済んだオハナシ。では、始めよう。かくて羊祜は死に、司馬炎は征呉を決断。三国志最後の戦いが幕を開けた」
Y「279年11月、だったな」
F「この年8月には呉の南方で郭馬(カクバ)が挙兵し、呉の総兵数の3割を引き受けてくれていた。さらに12月、北方に猛威を奮った樹機能(ジュキノウ)を討ち取っていて、賈充(カジュウ)こそまだ反対していたけど、戦機としては今を逃す理由はなかったワケだ」
A「賈充は心配性だねぃ」
F「肝心の羊祜が、生前に呉侵攻のプランを上奏している……というところで、待たせた原因おーぷん」

長江流域略図


A「ぅわ、自作?」
F「作った。今回と次回で触れるイベントは網羅できてるはずだ。コレを見ながら、羊祜の作戦計画を確認してください。なお、そこで口出ししたくてたまらんとゆー顔つきの人妻は、頼むから黙ってろ!」
ヤスの妻「えーじろらしくなく、精巧じゃない地図だし」
F「だからえーじろやめろ。手書きならもっとマシなモンができましたよ……」

1 荊・益・梁州の軍を出して、西陵(B)・江陵(C)へ侵攻
2 羊祜指揮する本隊と豫州の軍は夏口(G)・武昌(H)へ侵攻
3 徐・揚・青・兗州の軍は直接呉都建業に侵攻
4 上記三軍に対応すべく呉軍が分散したのを見計らって、水軍を出し長江を進軍させる

F「単純に云うと、長江沿いの呉領を3ブロックに分け、それぞれに同時攻撃をしかけ、それに対応しようと呉軍が分散したところへ、蜀から水軍を出してそれぞれの援護に回す、という戦略だ」
A「かつて陸抗に煮え湯を飲まされた西陵と、呉の副都武昌、そして呉都建業に同時攻撃……か」
F「以前、紀陟(キチョク)が司馬昭に『長江は五千七百里ですが、その全てを防御する必要はありません。重要な拠点といえばみっつかよっつですので、そこを守れば充分です』と云っているのを見たが、やはり答えたのがまずかったようでな。あっさりと防衛ラインへの対策をなされていたワケだ」
Y「あまり好きじゃないが、確かに、多勢に無勢では呉に対応策はないか」
F「敵より多くの兵をそろえるのが戦略の基本だからな。では、実際の晋軍は、どんな具合に兵を進めたのかといえば」

1 鎮南大将軍杜預は荊州の本軍を率い、襄陽(@)から江陵(C)へ侵攻:推定6万
2 平南将軍胡奮は荊州の支軍を率い、新野(A)から夏口(G)へ侵攻:推定2万
3 豫州刺史・建威将軍王戎は豫州の軍を率い、安城(B)から武昌(H)へ侵攻:推定3万
4 瑯邪王・鎮軍将軍司馬伷は徐州の軍を率い、下邳(D)から建業へ侵攻(北路):推定4万
5 安東将軍王渾、揚州刺史周浚らは揚州の軍を率い、寿春(C)から建業へ侵攻(西路):推定5万
6 梁益二州軍事総督・龍驤将軍王濬、巴東監軍唐彬は梁・益州の軍と艦隊を率いて、成都(地図にはない)から長江を東進:推定4万
7 太尉賈充は総司令となり、襄陽(@)で全軍の統括を行う
8 中書令張華を度支尚書とし、全軍の補給を執り仕切らせ、また作戦計画に参画させる

A「……ほぼ、羊祜の提案通りの軍編成になったンだ?」
F「いや、ふたつ違う。ぐだぐだ云い訳を連ねた賈充に『お前が行かねば俺が行く!』と司馬炎がブチまけたように、いち時期皇帝自らの出陣さえ考えられたモンだから、羊祜の想定よりはるかに大規模、推定になるが晋の総兵数(54万)の半数近くになる24万の兵が動員されている」
A「呉の総兵力じゃねーですか!」
F「それでも、青・兗州の軍は動かしていないし、例によって洛陽周辺には3割つまり15万が駐屯していたと考えられる。要するに、北への抑えを除く晋の全軍を動員ないし動員可能な状態にしていたことになる。司馬炎がどこまでこの戦闘に入れ込んでいたのか、気迫が伝わってくるな」
Y「多勢をそろえすぎだろうに……」
F「さて、羊祜は、呉を討つには水軍力が必要不可欠だと考えていた。曹操が、荊州水軍を手に入れても孫権を直接攻めようとは考えなかったように、呉に勝つには呉の水軍と、少なくとも互角に戦える水軍を編成しなければならない、と考えたワケだ」
A「考える順番としてはまっとうだね」
F「そこで選んだのが、かつて部下だった王濬(オウシュン)。益州各地の太守を歴任してから刺史に昇進し、軍民から高い支持を得ていた。長江の上流に位置し木材・鉱物を豊富に生産する益州を治めるこの男こそ、呉を打倒する水軍を編成するのにもってこいの人材だと踏んだのね」
Y「益州の統治者か」
F「ちょうど悪く、大司農(金銭・貨幣造幣の責任者)に任命され中央に招かれる予定だったモンだから、羊祜は司馬炎にこっそり申し出て、王濬を益州刺史に再任し水軍編成に充てている。司馬炎から正式に命令を受けた王濬は、現地で軍船の建造と兵の訓練を開始した」
Y「何とかという、三千人乗りの大型船が呉にはあったな」
F「うむ。かの巨大戦艦"大舡"に対抗すべく、二隻の大型艦を連結し、二千人乗りの軍艦を建造した。高楼を建て、木板で壁を作り四方に門まで設け、甲板を馬で走ることもできる代物だ。船首には長江の水神への祈りと感謝を込めた鳥や獣の絵を描いている」
A「……絵は必要なのか?」
F「絵描きの云う台詞か、それは。上流でンなことをしていたモンだから、呉の対益州最前線の建平(けんぺい、地図A)では、木くずで長江が埋め尽くされるという異常事態が発生している。太守の吾彦(ゴゲン)はその木くずを孫皓に献じて『もっと兵をください!』と上奏したけど、もちろん孫皓は相手にしなかった」
A「もちろん、云うな」
F「そうとしか云えんわ。一方で、羊祜が洛陽に移ってから、荊州の指揮を執っていたのが杜預(ドヨ)だった。涼州方面で石鑒(セキカン)と揉めて免官されたが、中央で再雇用され、本人の指名で羊祜の後任となった杜預は、さっそく西陵(地図B)城に兵を出している」
A「おいおい……羊祜でも抜けなかった鉄壁の城だろ?」
F「アレは陸抗がいたからこその苦戦だろうが。城こそ落ちなかったが、精鋭で奇襲をしかけて、呉軍をきっちり打ち破っているンだ。ところが、西陵の城主・張政(チョウセイ)は、警戒していないところを襲撃されて大敗したのを恥じ、敗戦を建業に報告していなかった。それを知った杜預は、この戦闘での捕虜を建業に送りつけ『勝ちました!』と云わせる」
A「死んだ?」
F「建業に呼びつけられた、とはあるな。この張政、なぜか『呉に残された最後の名将』みたいな扱いを受けることがあるンだが、この一件でしか見つけられないのとやってることのボケ具合から、僕にはどーにもそうは思えない」
A「あっけなさすぎるモンなぁ……」
F「そんなふたりを主軸に、呉への侵攻軍は編成された。ちなみに、賈充と王渾(オウコン)は出兵反対派、杜預と王濬が出兵賛成派、張華(チョウカ)は中間派だったが賛成派に与するようになり、この辺のバランスが崩れて出兵に踏み切った、という事情があるのを、頭の隅っこにでも入れておいてくれ」
A「人間関係複雑だねぃ」
F「残る司馬伷(シバチュウ)は司馬望の代わりだな。で、誰もツッコまないので僕から暴露するが、羊祜の出兵案と実際の戦略で違う点のふたつめ。羊祜のプランでは水軍は陸軍のフォローとして使うつもりだったのに、王濬の水軍がほとんど主力と化していたンだ」
A「……お前、またそんな真似を」
F「気づかないお前らがどうなんだ。呉への侵攻命令が出されたのは279年11月、実際の戦端が開かれたのは280年になってからだったが、2月に王濬は成都を発って唐彬(トウヒン)と合流。大艦隊を率いて長江を東へと乗り出した。まず立ちはだかったのは、白帝城の目の前に位置する建平の吾彦だった」
A「順番としては妥当だね」
F「吾彦は、晋が水軍を整えているのを察していただけに、手をこまねいてはいなかった。長江を横断する鎖を張って軍船の侵攻を妨げ、あるいは水中には4メートルの杭を打ち込んで船底に穴を開けようとしていた。まぁ、実際に長江を封鎖できる長さの鎖を作れるとは思えない。長い縄のところどころに鎖を仕込んでいた、というところだろう」
Y「あー、それなら……」
F「うん、この辺りの工作は羊祜に知られていて、彼を通じて王濬は対策を講じている。船首に松明を無数に括りつけて突っ込ませ、封鎖を焼き払っているンだ。ホントに鉄なら松明くらいで溶けるとは思えない。ロープが焼けて無力化された、と考えるのが状況としては正しいと思う」
A「説得力はあるね」
F「ところが、封鎖は突破しても建平城は落ちなかった。吾彦が必死こいて防戦していたモンだから、ここで手間取るのは思わしくないと判断した王濬は、足止めの兵を残して先に進むことにする。兵力差が大きいからできることだな」
Y「多勢に無勢で、しかも無勢の方が士気も訓練度も武装度も低いってどうなんだ」
F「そんなワケで王濬水軍は東進。水中に植えられていた杭には、幅・長さが150メートルの大いかだに武装した藁人形を乗せて流し、それに刺さらせて無力化した。3月18日には丹陽(たんよう)城、20日には西陵城を攻略し、22日には対岸の荊門(けいもん)城、次いで夷道(いどう)城を攻略して、ここを守っていた陸抗長男・陸晏(リクアン)を斬っている」
A「西陵まであっけなく陥落かよ!?」
F「張政が除かれていたのが、ホントに響いていたのかね? ちなみに、この辺りの戦闘に関する日付について、呉書孫皓伝に書かれている干支は、ちくま版で『三月のものとしてはありえない』となっているくらいおかしい。晋書では日付を正しいものとして干支を書き直しているが、ここでは干支を優先して日付を出すので、ちくま版とはちょっとずれる」
Y「陳寿のうっかりが続いたのか何なのか」
A「終わりが近いからかね?」
F「もちろん、杜預も襄陽(@)から出立し、西荊州に攻め入っている。2月に南下を開始した杜預本軍は、かの古戦場・長坂当陽橋を経て、江陵(C)の城外に陣地を構えた。自身は現地に留まって江陵城に張り、配下の武将には長江沿いに西進させ、長江北岸の諸都市を攻略させている」
A「江陵を孤立させようとしたワケか」
F「いや、江陵の対岸に楽郷(らくきょう、D)という都市があってな。かつて陸抗が荊州方面軍の司令部をおいて駐屯していた重要拠点なんだ。江陵とここを攻略すれば西荊州は陥落した、と云えるので、やや慎重になったと云える」
Y「そんな都市があったか。担当はどの軍だ?」
F「王濬だ。江陵と楽郷の連結を阻むのも王濬水軍に任されていたので、その援護として杜預本軍が、西陵以東の長江北岸を引き受けた、というところでな」
Y「戦力配分としては妥当なモンかね」
F「ちなみに杜預は、首のうしろにこぶがあった。江陵を包囲しても陣地にこもって出てこない杜預を嘲った呉軍は、こぶに見立てた瓜をイヌの首に括りつけてそのイヌをいたぶったり、木のこぶを切り落としては『やぁ杜預の首級を落としたぞ!』と挑発を繰り返している」
Y「盲人蛇に怖じず、かね」
F「江陵城内が『杜預は出てこない』と油断しきっているのを見てとった杜預は、周旨(シュウシ)に精鋭800を与えてひそかに渡河させ、楽郷城下付近の山地に多数の旗を立てかがり火を照らし、あたかも大軍が陣取ったように見せかけた。これには城内が動揺し、一万からの住民が投降してきた……とある」
A「突貫工事で作った陣地に一万も入れて大丈夫なのか?」
F「ちょっとした伏線になるンだ。楽郷に入っていたのは、孫堅の兄のひ孫にあたる孫歆(ソンキン)で、陸抗次男の陸景(リクケイ)に水軍を預けて王濬を迎撃させた。ところが陸景はあっさり大敗して戦死。兵たちは楽郷城に逃げ込んでくる。そのまま進軍してきた王濬は楽郷城を包囲した」
A「今度はちゃんと意地を見せる?」
F「ところが王濬が到着すると、城内にいた晋軍が門を開け放ち、城内に火を放った。周旨隊は敗走してきた陸景の兵にまぎれて楽郷城内に入っていて、例の陣地には投降してきた住民しか残っていなかったのに、そうと知らない孫歆は『晋軍は空を飛んだのか!?』と大慌て」
A「単純極まりない事態が重なってるだけなのに、何だろう、つけいる隙のない策が進んだように聞こえる」
Y「考えすぎじゃねーか?」
F「孫歆は周旨に斬られ、王濬が攻め込んできて楽郷城も陥落した。これが3月25日のこと。同じころ、江夏(こうか)経由で進軍してきた胡奮は、作戦変更があったようで東から大回りで漢水・長江を越え、楽郷南東の江安(E)を攻略した。巴丘(F)から西が完全に陥落したのを見計らった4月3日、杜預は江陵への全面攻撃を命じている」
A「万端の準備を整えてから攻めはじめたな」
F「そんな杜預のところに、江陵を守っていた太守の伍延(ゴエン)が、降伏を申し出てきた。さらに『以前、こぶうんぬんとアンタをバカにした連中を目の前で処刑します』と、縛り上げた兵ひとりに斬首刀を持った兵ひとりずつつけて城壁の外に並べ、見に来るよう杜預に求めている」
A「……危険な香りはするけど、見に行きたいところではあるな」
F「まぁ、もちろん罠なんだがな。のこのこ来たところを斬首役の兵で襲うつもりだったンだが、あっさり杜預に見抜かれ、全面攻撃を受けて伍延は戦死。江陵城も陥落した」
Y「策士策におぼれると云うが、策士というにはお粗末だったな」
F「これも当然なんだが、晋は捕虜・投降者には基本的に手を上げない。一連の戦闘でも降った連中には寛大な処遇がとられていたが、例の、杜預をバカにした連中で生き残っていた者だけは例外で、杜預の命で皆殺しになっている」
A「割と気にしてたのね」
F「西荊州までを攻略した旨司馬炎に報告がなされ、4月4日には新たな命令が下されている」

「王濬を平東将軍・益梁軍事総督に昇進させる。
 そのまま東進し、巴丘(F)を攻略せよ。
 さらに、胡奮と共同し夏口(G)を、王戎と共同し武昌(H)を攻略せよ。
 武昌の攻略後に建業まで向かうかは、胡奮・王戎らと協議して判断するように。
 杜預は荊州を南下し、南荊州・交州・広州を鎮圧せよ。
 杜預の軍から、1万を王濬に、七千を唐彬に与えよ。
 夏口を攻略したなら、胡奮は七千の兵を王濬に与えよ。
 武昌を攻略したなら、王戎は六千の兵を王濬に与えよ。
 賈充は襄陽から(E)に移動し、全軍の指揮を執れ」

F「このように『王濬水軍を主力にし、他の軍はその援護を行え』と命じているのね」
A「やっと王戎(オウジュウ)も動いたのか」
F「タイミングの問題だよ。王戎の軍は杜預本軍の推定半数、それだけで呉の副都を攻略しろと云われても困るだろ。ために、西荊州から主力が来るのを待っていた節がある。胡奮と共同した王濬水軍はほとんど抵抗も受けずに夏口を攻略。そこで王戎も動き、武昌へと兵を進めている」
Y「ついに副都が最前線ではなぁ」
F「王戎率いる豫州軍の先鋒は、白帝を守り抜いた羅憲(ラケン)の、兄の子にあたる羅尚(ラショウ)。これまで干されていたとはいえ、各地が攻略されて士気上がる豫州軍は、自分たちだけ手柄がなくては戦後どうなるかとばかりに進軍し、瞬く間に武昌城に張りつくや、これをあっさり攻略している」
A「ホントにあっけなさすぎですから!」
F「守将の楊雍(ヨウユウ)や、さっき死んだ孫歆の兄にあたる孫述(ソンジュツ)ら諸将は降伏し、武昌周辺の都市も次々と開城している。ところが……というか、長くなったからここでところで、と云おう。武昌まで攻略したと聞いた名ばかり総司令の賈充は、どうせ武将たちは云うことを聞かないと判断したようで、司馬炎に向かって上奏している」

「これから夏になれば長江・淮水流域には必ず疫病が発生します。
 諸軍を撤退させて今後に備え、また、無用の兵を起こす原因となった張華を斬って天下に謝罪しましょう!」

A「せー、の」
全員『お前、何やっとんね!?』
F「宮廷内の賈充に近しい連中は、この上奏に従うよう司馬炎に勧めているし、実戦場でも胡奮が『夏になれば長江の水かさが減り、大型船の多い我が軍は動きが制約されましょう。疫病も流行するので、冬を待って再度侵攻すべきです』と意見している。賈充のは云いすぎだが、胡奮のは慎重論とも云えるな」
A「で、司馬炎は?」
F「賈充がまだごねている、と聞いた杜預が云った台詞に賛同している」

「いま我が軍は勢いに乗っており、この先に進むのは例えるなら竹を割るようなものだ。節をいくつか割ってしまえば、あとは刃を自然と迎え、そのまま割れてしまう。かつて楽毅(ガクキ)は、済水の戦い一度で斉を破っている。竹に刃を入れてあとひと押しをしないでどうするか」

ヤスの妻「破竹の勢いの語源だね」
F「かくて慎重論は退けられ、呉への侵攻は続けられた……というところで、第195回『天下一統』その3『破竹之勢』をしめておこう。次回、その4『孫呉滅亡』でお会いしましょう」
A「長かった戦いが、ついに終わるか……」
F「続きは次回の講釈で」

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