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私釈三国志 195 天下一統 2 ―シリーズ孫呉滅亡・4―

F「そんなワケで、着々と迫りくる晋の侵攻に向けて、孫皓は家臣とその一族の死体で長江を埋めようと必死だった」
A「自分で地ならししてどうするつもりなのかね、あの男は」
F「さすがに『……俺、殺りすぎたンじゃね?』とでも思ったようで、ちょっとだけ手は打っている。275年にヴェトナム送りになっていた陸凱陸抗亡き陸家一族を、278年に建業に呼び戻し、元通りの将軍位を与えているンだ。孫呉名物『困ったときの陸遜頼み』は健在でな」
A「陸遜がいるより、張節(チョウセツ)か施丹(シタン、いずれも叛逆者)が成功していた方が呉のためだったように思えます……」
F「というか、困ったときにしか頼らないンだから、神が助けないのは当然だろうに。常日頃から、朝晩信心深く祈りを捧げ、安息日には礼拝に赴き、浄財も惜しみなく捧げないと、いざというときでも蜘蛛の糸は伸びてこないって」
Y「日頃の行いが問題なら、何でお前はあの女と結婚したンだ?」
A「ひとの姉にケチつけないでください」
F「信仰に疑問をおぼえたのは師匠が死んで以来だが、その辺のことはオープニングジョークと思って流そう。というわけで195回の第2回『決戦前夜』ですー」
A「だから、ねーちゃん何かと気難しい時期なんだから、いらん波風立てるなよ!」
F「あとで謝っとく。さて、前回見た通り、孫皓は賢人への嫉妬から家臣を粛清・弾圧し続けていた。劉備曹操とはまるで異なるタイプだったワケだ」
Y「曹操は三国時代通じて最高ランク……というか最高の人材で、自分より優れた者がそもそもいなかった。劉備は自分に欠けているものを補える人材に、頭を下げるのをいとわないタイプだった。孫権はそのほぼ中間で、嫉妬不満は口にしつつも人材活用という点では曹操・劉備より柔軟だったとさえ云える、かね」
F「いろいろツッコミたいものはあるが、まぁそんなところだな。ところが、孫皓はいずれとも異なり、能力のある者に嫉妬し、権力をもって抑圧した。結果、呉では頼れる者がいなくなってしまった、と」
A「フォローの余地もないンですけど」
F「そんな奴を相手に、司馬炎がなぜ侵攻に踏み切らなかったのか……は、以前触れた通り賈充たちが反対していたのと、実は、晋の側でも割と問題が続いていたンだ」
A「北方域で?」
F「いや、それだけじゃなくて……ちょっとまとめてみるか。晋書武帝紀で確認できる記述だ」

265年 晋王司馬昭(炎の父)没、魏滅亡し晋興る
266年 驃騎将軍王沈(オウチン)没
267年 立太子:司馬炎の子・司馬衷(シバチュウ)が晋の皇太子となる
268年 太保王祥(オウショウ)・皇太后王夫人没黄河が氾濫呉軍の侵攻(189回参照)
269年 黄河が氾濫呉軍の侵攻(189回参照)
270年 万斛堆(ばんかいたい)の戦い胡烈戦死
271年 大司馬司馬望・安楽公(もと蜀帝)劉禅没、交州陥落青山の戦い牽弘戦死)、匈奴の侵攻(〜272年)
272年 太宰司馬孚没、益州刺史殺害事件(190回参照)、西陵城包囲戦(189回参照)
273年 司徒石苞没弋陽包囲戦(前回参照)、鮮卑の侵攻
274年 皇后楊氏・後廃帝曹芳没、平州設置、黄河と洛水をつなぐ運河の建設
275年 洛陽で疫病発生(〜276年)台風とイナゴの害に見舞われる
276年 并州・涼州で戦闘相次ぐ6月まで雨が降らず、8月には地震と洪水に見舞われる、敦煌で叛乱(年内に鎮圧)
277年 洪水が二度発生北方には鮮卑荊州には呉が侵攻
278年 征南大将軍羊祜没武威の戦い楊欣戦死

F「この通り、晋の建国以来、大きいかはともかく小さくは決してないイベントが相次いでいてな。異民族との戦闘は連年、国の重鎮の死はほぼ毎年、呉との戦闘自然災害も少なくないンだ」
Y「改めてまとめると、賈充の発言もあながち的外れじゃないな。これだけ続けば、北が不安で呉に攻め入れん」
F「北だけじゃなくてな。梁州(263年)・秦州(269年)・寧州(271年)が設置されたのを以前見たが、274年の2月には、幽州から五郡を割いて平州が設置されている。271年1月に匈奴が境を越えているンだけど、これを鎮圧できたのは1年後なんだ。ご多分にもれず、西北域のみならず北方域も不安になってきたようでな」
A「あー、北方北方って云ってたけど、基本的には西北域を指してたね」
F「判りにくくて悪いがな。以前触れたが、地方軍将にはある程度独断で迎撃・侵攻できる権限が黙認されていたようだけど、それでも州牧なり刺史なりに話は通さないとあとあとまずい。そこで、異民族の矢面に立つ州を分割し、刺史ひとりあたりの守備範囲を狭くして、フットワークの向上を狙ったワケだ」
Y「今回、分割されたのは?」
F「遼東・楽浪・帯方といった朝鮮半島寄りの郡。その辺のお荷物を切り捨て、幽州を挙げて匈奴に対抗できるようにしたワケだ。魏の頃から東夷は従順で、しっかり朝貢を繰り返していた。276年にも入朝しているから、その辺の防備は薄くていいとの判断だな」
A「北東部はまったく聞かないと思ったら、安泰だったのか」
F「さっき云ったが、匈奴を平定したのが272年。277年には鮮卑・匈奴・東夷の首領20人が部族を挙げて降伏してきたとあり、その辺の対策は功を奏していたワケだ。……まぁ、西北部では鮮卑相手に苦戦していたけどな。禿髪樹機能相手の連敗は云うに及ばず、273年には軍民に5000人の被害が出ている」
A「そりゃでかいな」
F「樹機能相手の決着がいちおうついたのは、279年に入ってからになる。この年の1月に、ついに涼州全土が陥落してな。抜本的な対策を講じなければ、とようやく晋でも考えたンだが、令孤愚(レイコグ)という名を覚えているか?」
A・Y『…………………………?』
ヤスの妻「王淩の甥っ子だよ。王淩の挙兵前に死んでたけど」
F「はい、正解。令孤愚の死体も、王淩と併せて掘り返され、晒し物にされたのは146回で触れた通りです。この令孤愚は兗州の刺史だったので、部下だった馬隆(バリュウ)は私財を投じて令孤愚の遺体を埋葬し直し、三年の喪に服しました。これが251年のことですが、樹機能討伐に志願したのが、余人ならぬ馬隆でした」
A「不平分子じゃないの?」
F「朝廷では、馬隆について『口だけで何もできない奴』との噂が流れていてな。令孤愚の一件が根を張っていたようで、それほどの地位にはなかった。だが司馬炎は『よく云った!』と討虜将軍・武威太守に任命し、望み通りの武器に食糧3年分を持たせて送り出している」
A「期待を寄せたのか、死んでも惜しくないと思ったのか」
F「前者だ。馬隆が3500の兵で出陣していったモンだから『あんな小勢で何ができる』とか、連絡が途絶えると『アイツはもう死んだンでしょうねー』『いやいや、逃げたンですよー』と云いだす輩がいたくらい。ところが、実際には鮮卑軍を打ち破り、樹機能をも討ち取っていた」
A「勝ったンかい!?」
F「報告が来た頃には12月になっていたが、司馬炎は『お前らを信じていたら秦・涼は取り戻せなかったな』と笑い、恥じた連中がその場から逃げたという。十年近い樹機能との戦いは、ちょっとあっけなく幕を閉じた」
A「うーん……」
F「樹機能がいなければ、晋はもう数年早く賈充の反対を押し切り、陸抗の死の直後には呉に攻め入っていたと考えていい。晋の西北域に陣取って多数の将兵を討ち取り続けたのは、意識はしていなかっただろうけど呉にしてみれば天の助けに等しいからな。特に、生きていれば呉への侵攻に際して有力な戦力足り得た胡烈(コレツ)たちが死んだのは大きい」
A「蜀侵攻を戦い抜いた勇将が3人も失われてはなぁ」
F「加えて、蜀侵攻では干されたものの、呉の侵攻を退けて健在ぶりをアピールした司馬望(シバボウ)が271年に、司馬望の父で仲達の弟にあたる司馬孚(シバフ)が翌272年に死んでいる。死因については疑う余地がなくて、司馬望は205年、司馬孚に至っては180年の生まれなんだから、むしろよくこんなに生きたなって思える年齢だ」
A「赤壁どころか黄巾の乱より前なんですけど!?」
F「92歳だね。まぁ、司馬一族の長老と戦上手なその息子が死んだからには、国内の士気が嫌でも落ちる。石苞(セキホウ)や曹芳くんもこの時期に死んでいる。そして278年には、呉への出兵賛成派最大の巨頭とさえ云える羊祜(ヨウコ)が世を去っていた」
A「陸抗に遅れること4年……か」
F「賈充は『北方が不穏で呉に攻め入るなどもってのほかです!』と主張したが、羊祜は『呉を下し天下を平定してしまえば、北方などどうにでもなりますよ!』と主張している。正直、樹機能がそれくらいで大人しくなるとは思えんので、僕としてはこの意見に限定して賈充に一票入れるが」
Y「それにしても、嫌われてたのかね? 確か、姉か妹が司馬師の妻じゃなかったか?」
F「姉が後妻だね。……まぁ、陸抗がそうだったように、羊祜も呉への内通を疑われていた節があるンだ」
A「そりゃ仕方ないだろ、前線で陸抗とちちくりあってたら」
F「はっきり云おう、羊祜の父は羊衜(ヨウドウ)という」
Y「……おい、その名は覚えてるぞ。李衡(リコウ)を取り立てた呉の大臣だろ」
A「ええっ!? ……えーっと、本人?」
F「判らん。同姓同名同郷の別人だと思うが、正直こんな珍しい諱が南陽で流行っていたのか判断しかねる。泰永が覚えてたのだって、珍しいからだろ?」
Y「まぁな」
ヤスの妻「その割には令孤愚のことは忘れてたくせに。でも、同郷だっけ?」
F「どちらも南陽の出身とありますね。もっとも、荊州の南陽か青州の南陽かは判りかねますが」
ヤスの妻「後漢代の青州に南陽はないよ。諸葛瑾の出自になってるのは演義のまちがい」
Y「おい、頼むから何か見ながら応えてやれ。史料両手の幸市を素手で論破するな」
F「泣きてェ。えーっと……祖父の羊続(ヨウゾク)は劉虞(リュウグ)の推薦で三公になった、と魏書にありますね。で、母は蔡邕(サイヨウ)の娘ですが、匈奴に嫁した例のヒトではない様子。そして、羊祜が12歳の時だから233年に父は亡くなった、とあります。少なくとも晋書羊祜伝の記述では、父の羊衜が呉の大臣だとは考えられません」
A「そうはいない諱の、同姓同名同郷の別人ねェ……」
F「あるいは合肥新城の戦闘で捕虜になってそのまま呉に仕え、それが魏では『死んだ』と伝わった……とも考えられなくもないが。ちなみに、羊祜の妻は夏侯覇の娘だ」
A「待て待て待て!?」
F「驚くには値しないぞ。司馬師・昭の弟にあたる司馬伷(シバチュウ)は、諸葛誕の娘を妻にしている。さすがに当人が諸葛誕戦に従軍した記述はないし、夏侯覇が蜀に亡命すると姻族の多くは絶縁したが、羊祜は夫人を手放さなかった……とあってな」
Y「叛逆者の娘が妻でも、それに累を及ぼさないよう、魏・晋でもある程度気を遣っていたワケか」
ヤスの妻「それこそ王淩の妹(郭淮夫人)も、罪には問われなかったしね」
F「まぁ、その辺が影響したのかも判断しかねますが、司馬炎が羊祜を控えめに厚遇しようとしたり、朝廷の心ない連中が羊祜を弾圧しようとしては、本人が才覚でいずれも退けるということを繰り返していました。例の『あとで悔やむぞ』発言ののち、278年には発病して、前線から洛陽の朝廷に移っています」
A「直談判に乗り出した?」
F「そんなところだ。ところがこの6月、タイミング悪く姉が死んだモンだから、悲しみからさらに容体が悪化して、羊祜も11月には世を去っている。享年五十八」
A「若くはないけど、まだ戦える年齢だったな」
F「洛陽に入った羊祜に、司馬炎は、側近の張華(チョウカ)を送って天下を平定する策を尋ねさせている」

「呉では孫皓が非道を繰り返しており、戦わずに勝つことができる。天下を一統し、教育を盛んにすれば、陛下の功績は堯・舜に比肩され、後々の世の規範となろう。いまの好機を逃して、不幸にも孫晧が死に、呉に良き君主が立ったとしたら、たとえ百万の軍であっても長江を越えることはできん!」

F「この意見を絶賛した張華を通じ、病床でもいいから呉侵攻の指揮を執るよう命じられた羊祜だったが、病を理由に辞退。張華・杜預(ドヨ)・王濬(オウシュン)らに呉侵攻を託し、自ら官職を退いて死んだ。11月の寒空の下で、司馬炎は羊祜の死に涙を流し、濡れたひげは凍りついたという」
A「ホントに、あとで悔やむことになったのな……」
F「悔やんでも悔やみきれない、という実例だな。まぁ、羊祜の云う通り、孫皓が皇帝でいられる間なら、呉はどうにでも攻められる。晋が侵攻準備を整えている間、長江の向こうで孫皓自ら、呉を平定させるための努力を繰り広げていたワケだから。もはやわざとやっているようにさえ思えるくらいで」
Y「否定はできんが、陸家が戻ってきていたンだろ?」
F「生前に陸抗は『西陵の防御のため、精鋭3万を増強してください』とか『私の軍を8万まで増やしてください』と上奏しているンだけど、孫皓はこれを容れなかった。防御の強化は大事だが、第二の歩闡(ホセン)が現れたらえらいことになるからな。しかも、今度は勝てる武将が呉にいない」
A「……気持ちと理屈は判らなくもない。ていうか、晋にもいないだろ? 直接陸抗に勝てる武将なんて」
Y「いっそ簒奪していれば、呉という国そのものはもっともっと長く続いたように思えるがな」
F「陸抗にはその能力はあっても、その辺の意志がなかったワケだ。というわけで、陸抗の子供たちは、もともと陸抗が率いていた兵を分配して各地の守備にあたっていた。孫子に曰く『前を防げば後が手薄になり、右に備えれば左が手薄になる。全てを守ろうとすれば全てが手薄になる』と」
A「北方では人的にも数的にも防衛ラインが悪化の一途をたどり、南方では郭馬の乱が発生し、後方ではボンクラがアホなことを繰り返していたから、司馬炎はついに侵攻に踏み切った?」
F「もはや賈充が反対していても、呉を滅ぼすのは天の意志と司馬炎は断じた。呉侵攻反対派筆頭格の賈充に指揮を執るよう命じ、本人がまだ北方がどうのとごねる(馬隆の戦勝はこの翌月)と、歴史に残る名文句をのたまっている」

「お前が行かんなら俺が行く!」

A「……まぁ、さすがにこれ以上はごねられんわな」
F「具体的にどんな侵攻が行われたのか、は次回に回そう。ところで、194回ではスルーしたが、司馬一族はオカルトにどう接していたか。それを象徴するエピソードがある」
Y「そういえば、あのとき完全にスルーしてたか。いっさい触れなかったが」
F「うん、流した。魏書曹奐伝・晋書武帝紀のいずれにも、265年8月に、襄武県に巨人(原文は長人)が現れた、という記述がある。さっき云った通り、司馬昭の死んだ月だが」
A「正史にそんなモンが書いてあるのかよ……」
F「それも本文にな。風貌に関する記述は魏書にしかないが、大きさは三丈……えーっと、7メートル少し。足のサイズは40センチ、白髪で黄色い単衣に身を包んでいた。黄色の頭巾をかぶり杖を手にして『いまに天下は太平となるぞ』と大声でのたまった、とある」
A「黄色が……土行の色だっけ?」
F「漢は火行で赤、それに替わった魏が土行で黄色。巨人なのはともかく、杖をついて老いぼれた黄巾が現れては、土行の王朝も終わりが近い、みたいな印象を与えても無理からぬことと云える」
Y「だが、実際に太平の世が訪れたのは15年後か」
F「呉ではなく魏の滅亡、晋への代替わりを表しているンだろうね。実際に魏書曹奐伝は、この265年12月で記述が終わっているンだから」
A「……そういう見方か」
F「曹操同様、オカルトや宗教というものを自分たちの権威づけに利用した、と考えられるワケだ。オカルトに振り回された連中はあんがい失敗しやすく、オカルトを使いこなした君主は割と成功していたように思える」
A「……後付けの理由でも説得力はあるな。確かに、うまく宗教とつきあっていた連中は勝ち組と云っていい面子か」
Y「結果論から考えると筋は通るが、お前、筋を通すために結論を先送りしたンじゃないだろうな?」
F「続きは次回の講釈で」
Y「またスルーかよ」

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