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私釈三国志 195 天下一統 1 ―シリーズ孫呉滅亡・3―

F「蜀のときは1日でまとめて講釈したが、あいにく本調子じゃないので、少しペースを落とす。シリーズ孫呉滅亡の3から6は、4日間かけて行います」
A「やっとゴタゴタが解禁かな? いや、ホント姉が混乱巻き起こしました……」
ヤスの妻「アキラや義姉さんが悪いンじゃないでしょ。誰も悪くないから揉め続けた、それだけだよ」
F「強いて云うなら向こうの祖父母が悪くて、オレは完全に部外者だったンですがねェ。ともあれ、195回『天下一統』は4回に分けて、今回はその初回になります。サブタイトル『決戦前哨』で」
Y「官渡でやったな、そのタイトル」
A「晋の侵攻前の、呉最後の悪あがき?」
F「んー、今まで孫皓がどんな君主か、繰り返しその悪行を見てきたが、軍事・内政・人事がほぼメインだった。触れなかった外交面でのオハナシからになる」
Y「孫権は、外交面では優れたセンスを見せていたな」
F「孫皓もある程度はそのセンスを受け継いでいた。孫皓即位の頃だが、当時南方では呂興(リョコウ)に端を発する叛乱が活性化していて、しかも孫休(権六男、先代皇帝)の死によるゴタゴタが続いていた。そこで司馬昭は、軍を進めるのではなく使者をつかわして臣従を求めている。これには当時、司馬昭が晋公・晋王叙任のため動きにくかった、という事情がある」
A「蜀滅亡の頃だね」
F「鍾会のプランでは、蜀攻略の余勢を駆って呉に侵攻することになっていたし、司馬昭も『呉は政治が混乱し刑罰はむちゃくちゃ、蜀が滅んで孤立無援になっている。武陵(ぶりょう、南荊州)・豫章(よしょう、揚州西部)の民や呂興が我が国に帰順し、おまけに孫休が死んだせいでそれぞれ勝手なことをしでかしている』と酷評している」
ヤスの妻「何しろ、続けて『滅亡の兆しがこれほどまでにはっきり表れたことは、歴史上になかった』と云ってるし」
F「蜀より非道かった、としているワケです。ただし、蜀平定とそれに続く内紛の影響でしょう、『大軍を動かすのは労力を費やすので、ここは帰順を求める方がいい』と結論づけています」
Y「平和的に解決できれば、それに越したことはないな」
F「そゆこと。そこで選ばれた使者は、諸葛誕討伐戦(257〜258年)で魏の捕虜になっていた呉の武将だった。徐紹(ジョショウ)が正使なんだが、副使の孫ケ(ソンイク)は孫権の分家筋と記述がある。呉書からは血縁は確認できないが、たぶん孫壱(ソンイorソンイチ)辺りの親族だろう」
A「隅っことはいえ、皇族筋が使者では無碍にもできんな」
F「このふたりに『呉に行って本当のことを云ってこい。降伏すれば征伐しなくて済む』と、呉と魏の国力の差や、魏の軍事力をもってすれば12日で呉を攻略できるとしながらも『綿竹で死んだ諸葛瞻(ショカツセン)らのことを考えると、呉で同じ殺劫を繰り返すのは本意ではない』と伝えさせている」
A「さつごう?」
ヤスの妻「仙人の、ときどきヒトを殺したくなる衝動のこと」
Y「幸市の患ってる慢性戦闘欠乏症が軽くなったものだな。コイツのは常駐だが、仙人は千五百年に一度だから」
A2「(くすっ)……ルンルン気分で殺戮モード?」
F「どこまでヒトをバカにしてますか、アンタらはっ!? 涙を呑んで続けますが、挙げ句に司馬昭は、ふたりの一族郎党にも同行を許可し、魏がどれだけ彼らを優遇していたのかの証明としています。オレなら置いていきましたがね」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
F「いや、司馬昭自身『呉が帰国を許すとは思えんが』としています。敵に降った捕虜が帰って来たら、そのことを責める輩もいるンですよ。現に、日本軍の帰還兵は開口一番『恥ずかしながら帰ってまいりました』だったでしょう」
A「呉に、そういう風潮があったのかといえば」
F「考えるまでもないワケだ。出発が……えーっと、264年の10月だったが、孫皓が孫ケに返礼の使者をつけて魏に帰したのは265年3月のこと。紀陟(キチョク)らが魏に赴いている」
A「? 徐紹は?」
F「濡須まで行ったところで建業に呼び戻されて殺され、遺族はヴェトナム送り。本人が出立してから、孫皓に『アイツは魏を絶賛していましたぜ』との密告があったらしい」
A「……どこまでアホなんだ、コイツは」
F「だが、孫皓も魏との全面戦争は避けたがっていたようでな。紀陟らに持たせた返書では、文頭で二度『もうしあげる』と書き、名は書いても姓は記さないという、家臣からの上奏文に近い様式の文書を送っているンだ。孫権は、状況によっては魏に頭を下げるのを躊躇わない男だったが、その顰に倣っているようでな」
A「立派かどうかはともかく、君主の行いとしては正しいか。で、紀陟って?」
F「孫峻(ソンシュン)に命じられて、孫和(権三男、公式での孫皓の"父")に自殺を迫った張本人だ」
A「お前、何やっとんね!?」
F「ただし、紀陟は孫和に便宜を図り、まず正々堂々と自己弁護させている。このため孫峻(というか、大トラ)ににらまれ、屋敷に立てこもって身の安全を図った。結局孫和は自害に追い込まれ、孫皓は孫和とつながりのあった諸官一族をことごとくヴェトナム送りにしているけど、紀陟の家系だけは許して使っていた」
A「ホントに、孫和と孫皓の関係が理解できん……」
F「そんな紀陟が魏に到着する(4月)と、当時の皇帝・曹奐(ソウカン)自らが引見している。まず『呉王の様子はどうであったか』と聞かれると『壮行会ではよく食べられ、私が出立するときにはバルコニーまで百官を引き連れ見送ってくれました』と、出迎えが悪いのと歓迎がなっていないのを暗に非難している」
A「歓迎はともかく、出迎えが悪かったの?」
F「寿春(じゅしゅん、魏領の揚州)まで来たとき、現地の武将が流鏑馬をして見せ『こんなことが呉の武将にできるか?』と挑発していてな。紀陟は『そんなものは軍人がやればいいこと、ちゃんとした人物がやることではありません』と突っぱねている」
A「何だ、そのチンピラ……」
F「その辺の対応のまずさは魏の宮中にも伝わっていたようで、司馬昭自ら紀陟を歓迎する宴席を開いている。その場には、安楽公こと劉禅や拓跋の力微(261年入貢)が出席し『どうだ、凄いだろう!』と威張れば『あーはいはいそーですねー』とスルーする。実際には割と美辞麗句並べているンだが、読んでると『それがどうしたよ』みたいな台詞でな」
A「何だ、この張松……」
F「その席上でなされた、両者の会話がある」

司馬昭「呉の防備はどんなものかね」
紀陟「西陵から呉都建業まで、五千七百里というところですね」
司馬昭「それだけの距離があっては、堅固に守るのは難しかろうな」
紀陟「なに、距離は長くてもその全てを防御する必要はありません。重要な拠点といえばみっつかよっつ。どれだけ図体のある人間でも、風邪を引かぬようにするには数ヶ所を保護すればいいのと同じで、そこを守れば充分です」

F「攻城戦の名手たる司馬昭だけに、この発言を気に入って、紀陟を厚く遇している」
ヤスの妻「裴松之は『人体じゃなくて城に例えて「防御を気にするのは四方の門だけでいい」って応えた方がよかっただろう』って云ってるけどね」
F「相手は司馬昭ですから、門より城の内側をこそ気にする必要があるンですよ。拠点だけ守れば充分と云ったからには、すでに人心の一致はなされているという意思表示、と踏んだからこそ『いつでも攻め入ってこい』『いい根性だ』と無言のやりとりがあったように思えます」
Y「漢のやりとりかよ」
ヤスの妻「むぅ……」
F「さて、これが4月のこと。この年8月に、司馬昭は死んでいます」
A「たった4ヶ月後か」
F「身体の調子が悪かったとかの記述は一切ないから、この時点ですでに病気になっていたのかは判らんけどな。ただし、司馬昭の死はしっかり呉に伝わっている。その証拠に、例の武昌(ぶしょう、呉の副都)への遷都は265年9月だ」
Y「何がどう証拠なんだ?」
ヤスの妻「紀陟たちが建業を出たのが3月で、洛陽に到着したのが4月でしょ? 8月に司馬昭が死んで遷都が9月なら、ちょうどいい計算になるよ」
F「そういうことです。呉書では紀陟らの到着直後に司馬昭が死んだ(死因の記述はない)ことになっていますが、魏書・晋書の両方で4月になっているので、そちらが正しいでしょう。紀陟らが呉に戻ったのは呉書にしか記述がなく、これが11月。司馬昭の葬儀は9月24日なので、それを見届けてからの帰国でしょうね」
A「使者がそのまま葬儀に列席した、ってことか」
Y「そして、弔問外交はせず『この状況なら攻められることはねェな』と判断して武昌に移った?」
F「遷都令は9月なんだが、孫皓が武昌に移ったのは12月ともとれる記述がされている。その直後、年が明けた266年1月に、改めて司馬昭の弔問に出された丁忠(テイチュウ)が『弋陽(よくよう、魏領の揚州)を攻めましょう!』と孫皓をけしかけたのは以前見たな。陸凱(リクガイ)らの反対で沙汰やみになったが、孫皓の出兵意欲はその頃から加速している」
A「この君主にしてこの家臣あり、かね……?」
F「呉書には記述がないンだが、273年、実際に孫皓は弋陽を攻めている。だが、7年後だけにきっちり防備が備わっていたようで、晋書に『魯淑(ロシュク)が弋陽に攻め込んできて、王渾(オウコン)に撃退された』という記述があってな。いつぞや出したが、王渾は王昶(オウチョウ)の子で、魯淑は魯粛の子だ」
A「いたなぁ……って、ちょっと待って、魯粛が死んだのっていつだった?」
F「217年だから56年前だな。翌274年に死んだとあり、戦傷死かもしれないがまぁ寿命だろう。ちなみに、この年、なぜか『孫奮(ソンフン、権五男)が帝位につく』という意味不明の妖言が流れている」
A「意味不明でもないと思うけど……」
F「すでに死んでるンだよ、孫奮は。270年、孫皓の夫人のひとり・王氏が死んだンだけど、孫皓は彼女を惜しんで引きこもり、数ヶ月ひと前に現れなかった。ために『孫皓が死んで、孫奮か孫奉(ソンホウ、孫策の孫)があとを継ぐ』との噂が流れ、それを真に受けた豫章の太守・張俊(チョウシュン)が、現地にあった孫奮の母の墓をお掃除している」
Y「判りやすく媚を売ったな」
F「というわけで、張俊は車裂き、一族は皆殺し。半ばとばっちりなんだが、孫奮も息子五人ともども皆殺しになり、孫奉まで殺された。4年前に死んだ孫奮が、どうやって帝位につくのやら」
A「……どっかで勘違いでもあったのかね?」
F「うん、たぶん単純な勘違いだと思う。亡き張布(チョウフ)には娘がいたンだが、孫皓の夫人になっていた。ある日、孫皓が『お前の父親はどこにいる?』とからかうと『悪人に殺されました』と正直に答えたモンだから、そのまま殺されている。ところが孫皓は彼女を惜しんで、木で等身大フィギュアを作ると、いつも隣においていた」
A「惜しむなら殺すなよ!」
F「ごもっとも。どうしても生きた彼女が惜しかった孫皓は、すでに嫁いでいた彼女の姉を、奪って後宮に入れた。おおいに寵愛したものの、また死んでしまう(死因は不明)。というわけで、ひきこもった孫皓が半年も姿を見せなかったのと、葬儀がずいぶん豪奢だったのとで、呉の人々は『孫皓が死んだ!』と期待……もとい、誤解したワケだ」
A「違うのほとんど人名だけか……」
F「ただ、何夫人伝では、孫奮ではなく何都(カト)が帝位についたと噂されている。コイツは孫皓生母・何太后の一族で、何太后の弟の息子にあたるが、顔が孫皓に似ていたらしい。ために、噂を真に受けた臨海(りんかい、揚州東部)郡太守の奚煕(ケイキ)が『そんなことが許されるか!』と兵を挙げ、呉都建業に攻め入って何都を討つと息巻いた」
A「今度は今度でとんでもない事態ですね、オイ!?」
F「まぁ、何太后の弟の何植(カショク、なお何都の父かは不明)が鎮圧に差し向けられると、あっさり部下に殺されているンだけどね。奚煕の首級は建業へ送られ、一族は皆殺しになっている」
Y「細部は違っても大筋ではほぼ同じことが発生していて、陳寿が誤解したのかね?」
F「たぶん、単純に間違えたンだろう。まぁ、だいぶ話がずれたが、そんなこんなで孫皓は、外交面でも失態をかましていた。弔問外交で、和平とまではいかなくても停戦状態に持っていけばよかったのに、司馬昭の死と魏の滅亡が重なって『あ、もう大丈夫だな』とナメきった結論を出してしまっている」
A「軍事、政治、人事、外交、ついでに後宮……いずれにおいてもろくでもない奴だった、と」
F「余罪も追及しておこう。呉の二張こと張昭張紘だが、張紘の孫の張尚が孫皓に殺されていてる。張紘の息子は『父に及ばなかった』とあるンだが、張尚は『才気煥発』とあってな。孫皓に何か諮問されると、あっさり上前をはねていた。こんな具合だが」

孫皓「詩経に『ぷかぷか浮かぶカシワの舟』とあるが、カシワだけが舟の材料になるのか?」
張尚「同じく詩経に『ヒノキの櫂に松の船』とありますので、松も舟の用材になりましょう」
孫皓(……気に入らんなぁ、いつも俺の云うことを出し抜きやがって)「ところで、俺の呑みっぷりは誰に比較できる?」
張尚「孔子と同様、百の盃を呑み干す酒量がおありでしょう」
孫皓「つまり、俺が孔子のように王者たりえず、一生を流浪で終えると云いたいか! ええぃ、張尚の首を刎ねよ!」
岑昏「陛下、お待ちください! 張尚殿は、国家に大功ある張紘殿の孫にございます!」
孫皓「だったらヴェトナム送りだ! お前なんぞ一生、松で舟を作ってろ!」

Y「ガキか?」
F「孫皓におもねらなかったがために、逆鱗に触れてヴェトナムに送られ、船造りの強制労働に科されたンだ。ところが孫皓は収まらず、追及の使者が送られ、結局誅殺されている」
A「二張の血筋でもそのザマか……張昭の方は?」
F「張昭の血筋は、息子の張承が瑾兄ちゃんの娘を後妻に迎えていた関係で、孫の代で諸葛格とともに誅殺された。他の宰相級の家柄で云うと、顧雍の一族は二宮の変で、瑾兄ちゃんちは諸葛格の代で誅殺、歩隲の一族は陸抗に皆殺しされている。まぁ、この辺はちょっとずれてるな」
A「歩家はこの時代だけど、他の家はちょっと早いのね」
F「むしろ中級の役人や、武将連中が被害に遭った……というのは繰り返すまでもないな。187回で触れた面子で健在なのは韋曜(イヨウ)くらいだが、273年に誅殺されているし」
A「孫和を皇帝とする史書を書かなかったから?」
F「はっきり云えば。それだけに、史官の地位を退いて、官史ではなく野史として呉書を編纂したいと申し出ても、孫皓は辞職を認めなかった。もう孫皓の相手をするのが疲れていた韋曜は、孫皓から政治議論に参加するよう求められても『ワシは歴史のことしか存じませんのですじゃ〜』とスルー。ために、投獄ののちに殺されている」
A「……ホントに誰も生き残ってねーのな」
F「えーっと……」
Y「考えこまんと思いだせんのか」
ヤスの妻「華覈(カカク)かな。こっちも史官だけど、孫皓をいさめるのを躊躇わなくて、275年に罷免。で、数年後に死去」
Y「死んでるじゃねーか」
F「ところで、ともう云ってしまおう。正史呉書のラスト『王楼賀韋華伝』は、王蕃(オウハン)・楼玄(ロウゲン)・賀邵(ガショウ)・韋曜・華覈の伝が収録されている。要するに、孫皓被害者連名簿(のごく一部)なんだ。それを最後に持ってきた辺りに、陳寿の、孫皓への正直な本音、つまり『お前のせいで呉が滅んだンだ』みたいなものが見えている」
A「身も蓋もないね……」
F「何で孫皓が、ここまで家臣を粛清・抑圧し続けたのか、は正史の注にぽつりと書いてあった。さっき見た、張尚に関する記述の一部なんだが」

 孫皓は、ひとが自分より優れているのを忌み嫌う性格だった。

A「……身も蓋もねェってば」
F「続きは次回の講釈で」

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