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私釈三国志 194 石印三郎 ―シリーズ孫呉滅亡・2―

A「来たよ……」
F「おいコラ泰永、どこへ行く」
Y「俺がいてどーにかなる類の話か?」
F「…………………………うーん」
Y「真顔で悩むなよ」
A「まぁまぁ」
F「えーっと、そんなワケで今回は、早い回どころか『恋姫』の攻略で予告しておいてひたすら流していた石印三郎について。なお、判っていると思うけど『いしじるしさぶろう』とは読まないように。『せきいんさんろう』なので」
A「何で正史にこんな奴が出ているのかと素直に思う……」
F「仙人だし。冗談抜きでこんな仙人の記述が、正史孫皓伝の注に引かれた『江表伝』にある。ちょっと見てみるか」

「歴陽県には水辺に臨んで岩山があり、その高さは百丈。三十丈のところに七つの穴が並んでいて、穴の内部は黄色や赤色と岩山本体とは異なった色彩をしている。現地の云い伝えではこれを石印と呼び、石印の封が開くとき天下は太平となるとされていた。その岩山の下にはほこらがあって、巫女さんが云うには石印の神・三郎がいるという。
 276年秋、歴陽の県令が『石印の封が開きました!』と上奏してきた。(真に受けた)孫皓が使者を送って牛と豚を捧げさせると、巫女さんから『天下が太平になります、と石印三郎が申しております』とのこと。使者がはしごで石印を確かめ(ナニも神託はなかったので)朱文字を石に書き込んで、孫皓に『こんな字がありました!』と報告した。
 ――楚は九州の渚にして、呉は九州の都。揚州の士が天子と作り、四世にして治まり、太平な時代が始まる
 すると孫皓大いに喜び『呉は九州の都とも港(渚=水運の集まる場所)ともなるに違いない! 大皇帝から私で四代、太平の主となるのが私をおいて他にいるか!』とのたまう。重ねて使者を送り、印綬を与えて三郎を王に封じ、また石に銘を刻んで碑を立て、神への感謝とした」

F「ときどき思うのは、孫皓は救いようのないアホウじゃないかってことでな」
A「気持ちと理屈は全面的に判る……」
F「恐ろしいことに、この『銘を刻んで』立てた『天璽紀功碑』は拓本が現存しているとのこと。さすがに実物は残っていないが、この時代の遺物が残っているというのはロマンだねぃ」
A「現物あったら蹴とばしに行くぞ、アキラは」
F「落ちつけ。150回で孫盛孫権に対する評価を見たが、そこに『国が興るときには民の声を聞き、国が滅ぶときには神の声を聞きたがるのが君主というもの』という身も蓋もない意見があった」
A「孫皓だけじゃなくて、演義の劉禅もそうだったしねェ」
F「云っていることは的外れでもなくて、むしろ無視できないンだ。亡国の主は神仙のようなオカルトに頼る場合がある。そこで、今までの群雄が神仙に対してどんな態度だったのか、をちょっと再確認してみる。まず黄巾の乱を引き起こした張角は、自身が仙道そのものだった。黄巾からして道教系の宗教結社だし」
Y「事例が極端すぎるわ」
F「続いて董卓だが、基本的には神仙に頼ることをしていない。それどころか、道士に呂布は危険だと示唆されても気づかなかったり、春祭りしている村を襲ったりと、超自然的なものにはまったく興味がなかったようでな。その割には、戯れ歌で死を予言されたり、宮殿に向かう途中馬が進まなくなったりと、異常事態は相次いでいるが」
A「その辺も無視して死んだンだっけ」
F「だな。死体を市場にさらし、へそに灯心をおいて火をつけたら燃え続けたり、棺に納めて埋葬したら暴風雨が起こって棺が浮かんできたり……と、死後もネタには事欠かない。『董卓が死んだら董卓がふたりになった』こと李カクだが、郭はともかく李カクは『妖術が大好き』と明記されている」
A「……仲がよかった当時は、郭もある程度つきあっていただろうな」
F「夫婦ぐるみのつきあいだったからな。えーっと、次の脱落者は……孫堅だけど、孫策ともどもあと回しにする」
Y「脱落順かよ」
F「劉虞だが、記述が少ないこともあって判断できない、と逃げておく。劉焉がそっち方面にハマっていたのは10回で見た通り。呂布はそもそも漢人と扱いにくいので対象外。で、コーソンさんは意外にもネタが多いな」
A「そうなの?」
F「劉虞を殺そうとしたときに『天がお前を助けるなら雨を降らせるだろう』とか云ったり、占い師を義兄弟にしたり、袁紹の猛攻に震えあがって『奴は神か鬼か!?』と慌てふためいたり、でな。『河北のプチ董卓』の割には、言動がどうにも神仙を意識しているように感じられるンだ」
A「何から何まで同じだったら天下が大変だよ」
Y「充分大変だったと思うがな」
F「否定はしない。一方、袁術には神仙の影響が見られないな。強いて挙げるなら『漢に替わるのは当塗高なり』って予言を信じたくらいだ」
Y「事例は少ないが充分インパクトはあるぞ。むしろ、日頃からそっち方面への傾倒が強かったからあっさり信じた、に一票入れるが」
F「考え方としてはあるか……じゃぁ袁術もマルで。次は袁紹なんだが、結論から云えば袁紹と息子たちには、神仙の影響を確認できない。珍しいことに、敵としても味方としてもそっち方面に接している記述がないンだ。ために、記述がないので判断できない、としておく」
Y「判断材料がないってのは難しいな」
F「続く劉表には、それっぽい記述が多い。劉表の治世に『はじめは豊かでも衰えていき、ついには誰も残らない』という戯れ歌が流れたり、劉表の死を予言した女が世間を惑わすと逮捕されて、でも云った通りの日に劉表が死んだから釈放されたり、という具合でな」
A「本人に関係ないンじゃないか?」
F「ところが、本人が天地の神に祭礼を行って、それを聞いた曹操が『ありゃいったい何事だ?』と使者に尋ねている。また、劉表の死後80年あまり経って墓が掘り返されたが、夫人ともども死体が生前の姿のままだった、なんて異常事態も起こっていてな」
A「……何かやってたようにも聞こえるねェ」
F「お次は……交州の士燮(シショウ)か。士燮がいちど死んで董奉(トウホウ)に助けられたのに着目したい。仙人という触れ込みで現れた董奉が、士燮の死体に薬を飲ませたり頭を振ったりできたからには、ある程度以上仙人を受け入れる気質が士燮の家か遺族にはあった、と考えられるからだ」
Y「本人の態度も推して知るべし、か」
F「馬騰も半ば羌族だから、呂布同様対象外と考えるべきだが、息子の馬超はちょっと奇妙だ。曹操に負けて張魯のところに逃げ込んだのは地勢的に仕方ないとしても、迎えた張魯が娘婿にしようと考えたのは解せない。反対されて沙汰やみになったとはいえ、五斗米道教主が娘を与えようとしたからには、道教に対する理解があったのかもしれん」
A「涼州に勢力を伸ばすための旗頭として期待してのことかもしれんけど」
F「そっちのが強いかね……まぁ、サンカク。その張魯は云うに及ばず。劉璋は割と特異なケースで、オカルト大好きな劉焉の後継者でありながら、張魯との対立が悪化したせいで、その母(まだ益州にいた)や弟を殺している。シャーマンを殺すのを躊躇わない辺り、そっち系には頓着しなかったと考えられる」
Y「坊主憎さに袈裟まで憎んだか」
F「孟獲軻比能卑弥呼は異民族だから完全に対象外。公孫淵は本人の回で触れた通り、侵攻を受ける前にフラグが立っていたが、それを無視している、と。まとめるとこんな具合だ」

◎(そもそも宗教勢力):張角・張魯
○(神仙に傾倒していた):李カク・郭・劉焉・コーソンさん・袁術
△(明記はないが可能性あり):劉表・士燮・馬超
×(軽んじていた、ないし敵対):董卓・劉璋・公孫淵
?(判断材料に欠ける):劉虞・袁紹
―(対象外):呂布・馬騰、異民族

F「この通り、まとめれば孫盛の発言が割と妥当だったのが判ると思う。もともとの宗教勢力でもなければ、オカルトに傾倒していた者が率いる勢力は長続きしない。李カク・コーソンさんはいち時期権勢を誇ったけどあっさり滅び、劉焉は出先が益州だったのと張魯と友好的だったのでいちおうは勢力を保っていられた」
A「袁術もそうだけど、中原の勢力で君主がそっち系だと、周りからナメられて長続きできなくなるってこと?」
F「結果論でこじつけるとな。劉璋や公孫淵が勢力を維持できたのは、そもそも中原の争いからおいてけボリになっていたからで、本人の能力・性格を考えるならもっと早く滅ぼされていてもおかしくなかったンだし、実際に滅ぼされたのが、真ン中で敵に囲まれていたら中側の敵に殺された董卓だ」
Y「オカルト関係ないじゃないか」
F「結果論でのこじつけだと云うに。胸を張って『ワタシは神です』と云えるならまだしも、云えない君主が(儒教ではない)特定の宗教に肩入れし、国を惑わすことを孫盛は非難しているンだ。そのまま天下を盗っていたら宗教国家を目指した張角・張魯と李カクを除く面子が、オカルトに走るのは許されない、とだ」
A2「だから、アンリエッタ姫悪く云うのやめない? お兄様」
F「……またそういうネタがあるンですか、あの話には」
Y「今度弟から借りて読んどけ」
F「その方がいいかね……。ではスルーした、三国の君主を確認する。孫堅は、道教系宗教結社の黄巾や、揚州の妖賊(宗教結社)の討伐に駆り出されているので、その辺との癒着があったとは考えにくい。現に、董卓の使者としてやってきたアマチュア妖術師の李カクを突っぱねているから、むしろ神仙にはいい感情を抱いていなかったようでな」
A「その辺の感性が、孫策に引き継がれたのかね?」
F「単純に考えればその通り、孫策が仙道嫌いなのは有名だな。帝位に就こうとした袁術への絶縁状に『聖人や哲人が尊ばれるのは、それぞれの状況の中で為すべきことをはっきり把握し、それを慎重に行動するからだ。あてにならない情勢を利用して人々の心に不安をもたらすのは許されない』との記述がある」
A「どこまで仙人とか予言者が嫌いなワケ?」
Y「どうして、なら俺にも応えられるな。孫策が本心では袁術を嫌っていたのはいいな? となれば、その袁術が仙道の業に傾倒していれば、そのまま嫌うだろ」
F「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、だな。袁術の死後、独立した劉勲(リュウクン)に、豫章(よしょう)の宗教結社を配下に収めるよう勧め、本人が出陣した隙にその本拠地を奪う、なんて真似もしでかしているが、このときも自分では宗教結社を配下に収めようとはしていない。于吉を殺したことなんか顕著すぎる事例だし」
A「二重マルならぬ二重バツつけてもいいくらいなのね」
F「反面孫権、それと劉備は、若い頃にはそんな気配がないのに、トシを取ってきたら神仙にすがるようになったという共通点が見られる。孫権が蓬莱を探そうとしたのを孫盛が非難したのは150回で見たが、劉備も夷陵への出陣に先立って神仙に卦を求め、敗戦を予見されているのは正史(の注)と演義の両方で採用されている」
Y「ボケはじめていたワケか」
A「ある程度のトシになってたのは事実だけどなー!?」
F「なまじ長生きしたせいで先の人生に不安を抱き、オカルトにすがるようになるのは、このふたりのみならず君主ではそれほど珍しいことじゃない。現に始皇帝や大ハーン・チンギスだってそうだった」
ヤスの妻「講釈しようか!?」
Y「ナニに反応するか、お前は」
A「義姉さん落ちつけ!」
F「頼むぞ義弟! では曹操はと見れば、さすがに彼は老獪だった。孫堅同様宗教勢力の討伐に駆り立てられながら、それと迎合し共存する道を選んでいる。黄巾の残党を配下に収め、張魯を降伏させたように、だ。老獪とは云ったが青州兵に同志と呼ばれたのは三十代半ばの頃だから、割と早い段階から懐柔策を取っていたのが判る」
Y「孫盛とお前のオカルト論の、前提が総崩れしてないか?」
F「いや、始皇帝と大ハーンは、いずれもトシ取ってから不老不死を求めたが、始皇帝が徐福に翻弄されたのとは違って、大ハーンは道教の老師から『永世の術はないが養生の術はある』との返答を得ると、老師を手厚く遇している」
ヤスの妻「だから、その辺りの説明するならわたしに喋らせてくれてもいいじゃない! えーじろ気が利かない! それともナニ、わたしより正確かつ詳細かつ高尚な講釈ができる自信と知識があるとでも!?」
役立たず「何をそこまでむきになっているンだ、お前は!?」
F「……アキラ、助けて」
A「アキラですかっ!? えーっと……義姉さん、落ちつこう、ね? ね?」
ヤスの妻「ううう〜……」
A「わ、わーい、義姉さんの膝枕〜、アキラ嬉しいなー」
A2「手を叩きなさい」
F「いまンなことしても状況が変わらんので嫌です……。えーっと、何だっけ? あぁ、曹操だ。曹操が、左慈ら天下の仙人を集めたと正史の注にあるが『曹操や息子たちは彼らを信じておらず、与えられる待遇には上限があった』とも書かれている。しかも、書いたのは曹植だ」
Y「信じていなかった息子ひとりだな」
F「演義でも、曹操は左慈の敵であって馴れあう関係ではなかった。曹操は、オカルトを利用はしても信用はしていなかったンだよ。その辺りは羅貫中も判っていたようでな」
A「えーっと、なんて云った……夢梅老人? そんな仙人いなかったか? 馬超に苦戦してた曹操を助けた」
ヤスの妻「バカな仔ほど可愛いってホントだねー。夢梅居士っていうのは、80回でスルーした曹操被害者連の一員の婁圭(ロウケイ)そのひとだよ。さらに云うと、馬超と曹操の戦闘は211年8月のオハナシ」
F「裴松之曰く『真夏だよ!』とのこと」
A「……聞かなかったことにしてください」
F「演義が物語としての面白さを追求するため、曹操の実像を歪めていたのは、それこそ80回で触れただろうが。その辺りが判れば、正史では黄皓こそ信じたものの劉禅は相手にしなかった西川の土地神を、演義では信じさせた理由も判ると思う。オカルトに傾倒する君主は国を保てない、という孫盛の発言を意識していたからだ」
Y「……おい、三郎は演義にも出るのか?」
A「出ない出ない」
Y「じゃぁ、孫皓がこうなのは何でだ? 三郎をあっさり信じるなんざ、君主の器を問われても仕方ないだろ」
F「実は、そこで注目すべきが出典の『江表伝』でな。晋代に編纂された江南の記録なんだが、演義における赤壁の戦いの元ネタなんだ。当時触れた通り、正史では劉備軍が主力となって曹操を退けたとあるのに、羅貫中は、ひともあろうか孫盛の『こんなのありえません!』というツッコミを無視して『江表伝』通りの赤壁戦を描いている」
Y「……は?」
F「『江表伝』は孫堅・孫策・孫権をヨイショするために書かれたものなんだ。ために、退位した孫亮→為すことなく死んだ孫休→呉を滅ぼした孫皓と、代を経るごとに思わしくない記述になっている。孫皓の暴君ぶりは割と詳細に見てきたが、『江表伝』が孫皓に悪意を持っているという点を考慮すると、誇張があるとも考えられる」
A「コイツ、『私釈』始める前から『アレだけは信用できない』って云ってたんだよ……」
Y「赤壁で誰が戦ったのかを誤解させた元凶なら、呉を滅ぼした孫皓を暴君に仕上げるくらいやっていそうだな」
F「あー、ちょっと違う。陳寿の書いた先主(劉備)伝本文と『江表伝』が違っていたら、陳寿の方が真実に近いとは思うけど、孫皓伝なら『江表伝』は、陳寿が『孫皓が5やりました』と書いているのを『孫皓は10、いやいや15はやっています!』と書いているような状態だ」
A「虚構でなく誇張、か」
F「孫皓が暴君だった材料を集めることで『コイツのせいで呉が滅びました(=堅・策・権のせいではありません)!』と喧伝している、のが『江表伝』なんだ。それも『家臣を殺しました』→『死体を犬に喰わせました』とか『祭礼を行いました』→『度が過ぎています』という具合に、信憑性のあるかたちに誇張して」
Y「暗君で済んだかもしれない孫皓を暴君と評価させているのが『江表伝』だ、と」
F「そゆこと。まぁ、陳寿も孫皓を暴君と評価しているむきがあるから、僕としてもそこは否定できない。でも、『天璽紀功碑』に関する記述は陳寿もしているけど、石印三郎の記述は『江表伝』にしかなく、陳寿が無視したのか『江表伝』がでっちあげたのかは判断しかねる」
A「暗君だったのは確かでも、どこまでのものだったか判らない?」
F「その辺りが、孫皓の評価が難しいところなんだ。その象徴的な一件が、この石印三郎に関する記述でな」
A「他の件で象徴してほしかった」
Y「まったくだ」
F「……ところで」
A「アキラが義姉さんの膝枕です! 勝手にやってください! もう聞こえません!」
Y「久しぶりに三段責めしてまで逃避するな!」
F「アキラを指名しよう。突然ですが、ここで問題です。演義に仙人は多数出演するが、ふたり挙げろと云われたら?」
A「俺かよ……左慈と、孔明」
ヤスの妻「孔明さん、仙人じゃないけどね」
A「演義だとそう思われても仕方ないだろ? 風は呼ぶし嵐は起こすし」
F「どうにも僕に都合のいい誤解があるようだな。演義における孔明は、風は操れるが、仲達親子もろとも魏延を殺そうとして失敗したように、天候を左右する能力はもっていない」
A「……いや、ないけどな」
F「そして、風は起こしても雨は降らせなかったのは、左慈も同じだ。左慈は曹操、孔明は仲達を、翻弄はしても殺すことができなかった。羅貫中もまた、仙人に時代を動かすことはできないと結論づけていたようでな」
A「ぶっ!?」
F「千変万化の術を駆使して、時代の勝利者に挑んだ仙人と、翻弄されつつも負けなかった英雄。曹操はともかく、羅貫中が仲達に好意的だったのは、いつぞや触れた通りだ」
Y「……だが、三郎にだまされっぱなしだった孫皓、か」
A「時代がどっちに動いていたのかは、割と明らかなんだね……」
F「続きは次回の講釈で」

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