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私釈三国志 193 郭馬挙兵 ―シリーズ孫呉滅亡・1―

F「では、今回から3回は『シリーズ孫呉滅亡』と銘打って、純粋な意味での"三国志"における最後のイベントを見ていこうと思う。覚悟はいいか、地雄星」
A「いや、やるのはいいけど、郭馬(カクバ)って誰だ?」
Y「初登場じゃないか?」
F「150回で名だけ出したよ!」
A2「(確認中)……グーグルで検索したけど、マトモにひっかかるのは3件」
ヤスの妻「あのタイミングで叛乱起こして、割と大きめの混乱は引き起こしてるけど、そんなに重要かなぁ」
F「こと軍事面に限定するなら、呉の滅亡の3割は郭馬に原因を求められますよ……。というか、僕から見ればどうしてそこまで軽視できるのかがむしろ不思議で」
A「ホントに3割なら大きいやな」
F「あとで覚えとけ、この野郎。まずは歴史の針を少しさかのぼろう、ことは263年12月に発生する。交州は交阯(こうし、現ハノイ市近郊)の役人だった呂興(リョコウ)が、太守の孫諝(ソンショ)を殺して、魏に救援を求めた一件から、だ」
A「前々から先送りにしていた話だな。何でまたそいつはそんな真似を?」
F「魏書・呉書で原因は共通している。孫諝は以前、交阯の技術者千人を呉都建業(けんぎょう、現南京)に送りこんでいたンだが、この年建業からまたしても徴発の役人がやってきた。前262年に建業の西門で火災が発生していて、その補修作業に駆り出されたのが先の千人のようなンだが、常識で考えれば、南京の火事をハノイの住民がフォローする道理はない」
A「まぁ、な。じゃぁ、その孫諝? がわざわざ駆り出したのって」
F「血縁の明記はないンだが、孫姓で地方の太守となると、皇室の遠い血筋だと推察できる。そうやって点数を稼ぎ、中央に出ようという野心があった、と見ていいだろうね。魏書では『凶悪な政治、残虐な刑罰を行い、租税の取り立てには限度がない』とされているが、どこまで信じていいのかは判らん。だが、少なくとも交州ではそれが行われていた」
Y「呂興の叛乱が上手く行ったから、だな」
F「そゆこと。この頃すでに蜀は降伏しており、呉としても軍備を整えておく必要があった。あったのは認める。問題は、だったら揚・荊州から徴発すればいいのに、交州でヒト狩りを行ったことでな。建業からお役人がやってきたと聞いた呂興は、また住民が徴発されると危機感を抱いた。なお、前後状況から察するに現地採用者だ」
ヤスの妻「これまた魏書に『交阯の太守(孫諝)は現地民を鎖につないで護送し、徴発して兵士にした』とあるね」
F「要するに、交州は呉の圧政を受けていた、ということです。ために、今度こそキレた呂興は、兵士や民衆、山越を煽動して、孫諝を殺し高官も追い払って、魏に『太守と兵士を送ってください!』と泣きついています」
A「距離が遠すぎると思うが……」
F「そう、魏と交州の間には距離がありすぎる。だが、建業からも遠かったのが、呂興の挙兵が成功した理由のひとつだ。そして、この挙兵に魏は救援をきっちり送っている。蜀の南中方面軍司令官の霍弋(カクヨク)が、南中の軍を率いて呂興に合流したンだ。魏からは遠いが、南中からならそれほどの距離じゃない」
A「ここでそいつが来るのか」
F「いつぞや云ったが、同じような立場の羅憲(ラケン)が呉軍の矢面に半年立たされていたように、蜀の滅亡に際して地方軍を率い、劉禅の安全が確認できるまで降らなかった霍弋に、魏は警戒心を抱いていた。ために、忠誠と能力をはかるために南方へ軍を向けさせたが、これは益州から軍を引き離すためでもあったと考えていい」
A「一石三鳥を狙ったか」
F「そして、霍弋は上手くやった。もともと南中方面軍は、南征以来何度となく起こった南蛮の叛乱を押し潰してきた精兵で、率いた将も張翼馬忠張嶷と粒ぞろいだ。その後継者たる霍弋も才は確かで、呂興に合流するとさらに南の九真(きゅうしん)郡や日南(にちなん)郡も平定し、これら三郡を呉に背かせている」
ヤスの妻「魏書だとその二郡も呂興に呼応したってあるけど、呉の駐留軍を追い払うのにひと役買ったンだろうね」
F「呂興の挙兵に応じた声が続いたのは、それくらい交州の民衆が圧迫されていたということです。ですが一枚岩たりえず、264年中に呂興は部下によって殺害されています。その後は霍弋が指揮を執っていたようで、晋に替わった268年には討伐に派遣されてきた脩則(シュウソク)らを、部下の毛Q(モウケイ)らが打ち破っています」
A「蜀将、やるなぁ」
F「呉書でも晋将になってるけどな。翌269年の5月には三郡に特赦が出されているので、晋では現地を実効支配できたと考えたンだろう。以前見たように、この頃の呉は遷都や晋への出兵で忙しく、交州にかまけている余裕がなかった。穏健派の陸凱(リクガイ)が健在だったのも考えてみれば大きい。以前触れた通り、無用の兵を起こすなと諌めたこともある」
Y「その辺が片づいたから?」
F「そう、陸凱まで片づいたから、孫皓(ソンコウ)は本腰入れて交州の平定に乗り出した。呂興の挙兵は孫皓が即位する前なんだが、孫皓の即位から269年までに、新たに設置された郡を見渡すといずれも揚・荊州の南方部で、交阯での叛乱が交州全体に燃え広がらないよう、あるいは燃え広がったときに備えて、警戒していたのが見てとれるンだ」
A「侵攻する準備は整えていた、か」
F「そんなワケで269年11月、(グシ)・陶璜(トウコウ)らが率いる陸軍は荊州から南下し、李勖(リボウ)らの率いる水軍は海路で、交阯の手前の合浦(ごうほ)郡で合流し、交阯に攻め入る予定だった。ところが、李勖につけられた水先案内人がヘボで、水軍の進行が遅かった。頭に来た李勖は水先案内人を殺して建業に帰還してしまう」
A「……前回は同情したけど、李勖が死んだのって半ば自業自得やん」
F「だが、虞らの陸軍は順調ではないものの進軍を続ける。明記はないが270年頃に、霍弋が死んでいてな。戦死との記述は呉書にも晋書にもないから、老衰か過労死だろう。呉が討ち取ったならその旨記述はあるから」
Y「極端な二択だな、オイ」
F「そして、これが契機になって、呉軍は交州に攻め入ることができた。271年には交阯城を包囲している」
A「霍弋が粘っている間、呉は交州に入れなかった……か。順番は正しそうだね」
F「この頃、交阯城を守っていたのは楊稷(ヨウショク)と毛Qだった。いつぞや(155回参照)触れた通り、魏では『城が包囲されて100日経っても援軍が来なかったら、敵に降伏しても家族に罪は問わない』という法がある。晋でもこれは引き継がれていたようで、霍弋はふたりに『100日は守れよ』と云い遺していた」
Y「フラグか」
ヤスの妻「フラグだよね」
A「明らかなフラグだね」
F「もちろん、交阯城が包囲されて100日と経たないうちに、城内の食糧が尽きてしまった。羅憲の白帝城戦では兵は死んでも食糧が尽きたという記述がなかったように、攻城戦で守備側の食糧が尽きるのは、包囲されて攻撃されない場合だ。守備側は攻撃されればされるほど人数が減っていき、畢竟食糧の減りも緩やかになる」
A「壮絶なこと云うンじゃありません!」
Y「だが、云いたいことは判った。諸葛誕のときは全懌(ゼンエキ)が持って逃げたから不足したが、交阯城を包囲する前に野戦で敗れた晋軍が頼って来て、城内の食糧に計算ミスが発生したンだな」
F「100日守れと云ったからには、相応の食糧は確保してあっただろう。にもかかわらず足りなくなったということは、他の要因があったということだ。困った楊稷たちは、包囲する陶璜に降伏を申し入れたンだけど、このとき陶璜はとんでもないことをしでかした。交阯城内に食糧を搬入させたンだ」
A「はい?」
Y「……意味が判らん」
F「陶璜も晋の100日ルールを知っていた、ということだよ。残り日数がどれくらいだったのか記述はないが、100日守ったという実績を作れば、楊稷らの家族は罪に問われずに済む。国内には『陶璜サマはご立派じゃ!』と、国外には『呉にも立派な方がいるじゃねェか』との評判を作れるンだ」
A「……こっちでもチキンレース?」
Y「つまり何か? 楊稷たちに『百日守りました!』という口実を作らせるため、包囲戦を長引かせたのか?」
F「云ってしまえば談合だ。楊稷たちはそれに乗り、送られた食糧を喰い尽くしてから、改めて呉に降伏した。その前に九真も虞に攻略されていて、交州三郡の叛乱は鎮圧されたことになる。271年の7月だから、足かけ6年8ヶ月の間続いた抗争は、ようやく幕を下ろした」
A「後味が悪いというか、なんか面白くない幕切れだったな」
F「別伝もあって、楊稷と一緒に交阯を守っていた武将が呉に寝返り、城門を開いたから呉軍は攻略できた、なんて記述もある。こっちの方が信じやすいものがあるな。また、楊稷は建業に送られる途上、合浦で血を吐いて死んでいる」
A「自害したかね」
Y「敵の食糧で生き延びようとする奴が、そんなことするとは思えんな」
F「もうひとりの毛Qはもう少し悲惨だ。先に脩則を殺していたモンだから、従軍していた息子の脩允(シュウイン)に『アイツだけは許せません!』と名指しされ、本人も呉に帰順しようとしなかったから、死刑になっている。えーっと、アキラは見なくてもいいけど、ちょっとコレ回して」
A2「ていうことは、またカニバなオハナシですかい?」
A「みぎゃーっ!?」
F「いや、ちょっと残酷なオハナシなんだ」

脩允「晋の賊が、よくも父を殺しましたねェ?」
毛Q「呉の犬コロが何をほざく、賊の方がイヌよりマシじゃ!」
脩允「よくそんなことが云えるものですねェ? いいでしょう、アナタを生かしたままおなかを割いて、ハラワタを引きずり出してあげましょう。イーッヒッヒッヒ!」
(実行)
脩允「さぁ、コレがアナタの臓物ですよ? これでもまだ意地を張って、賊の味方をなさるのですか?」
毛Q「お前の孫皓を殺してやりたいわ! オレが賊なら、お前の親どもは死んだ犬であろうが!」
脩允「イヒーヒッヒッヒ! よくそんな口が利けますねェ? それなら……」
陶璜「あー……待て待て。さすがにそこから先はダメだ。もう殺してやれ。な?」

F「呉書の注では死んだ犬発言のあとで斬首された、とあるンだが、捕虜をなぶる脩允の性格からして、本人の意思で楽にしたとは思えん。たぶん、陶璜が制止して斬首させたンだろう」
A「くぁーっ……」
A2「(なでなで)……よしよし」
ヤスの妻「よしよーし(ぎゅっ)」
Y「……まぁ、陶璜が割と立派なのは判った」
F「はいはい、そこでアキラ挟んで火花散らさない(ぱんっ)。実際のところ、司馬炎は271年の5月に『交阯ら三郡や南中は、戸籍を送ってこなくていい』との声明を出しており、交州戦線から手を引くかまえを見せていた。だが、楊稷や毛Qの最期を聞いて、官職を追贈したり、遺族を侯に封じたりしている」
Y「惜しむべき者を惜しんだか」
F「また今度触れるけど、司馬炎、その辺の感情はまっとうだからね。南中まで放棄するつもりじゃなかったみたいだし。さて、交州が平定された8年後の279年、合浦太守になっていた脩允は、合浦の北の桂林(けいりん)太守に転任することになった。終わるのに7年近くかかった戦闘だけに、8年経ってもまだ落ちついていなかったようでな」
ヤスの妻「呉の本国で、西陵包囲戦とか、武将が晋に次々投降したりとかで、南方まで意識が回ってなかったのかな」
F「またしても、ですかね。肝心の三郡は交州牧となった陶璜が、交阯に入ってにらみを効かせていたので、ある程度は落ちついていたと考えられますが、脩允に治められていた合浦はどんなものだったやら。ところが、本人がちょうど悪く病気になったので、部下の郭馬が代理で桂林に送られ、現地の異民族の慰撫にあたっていました」
A「ふーぅっ……ここでやっとタイトル武将が登場したな」
Y「しかし、このタイミングで病に倒れるとは、毛Qの呪いかね?」
F「非科学的だが否定はしない。何しろ快復できず、脩允はヤンだまま死んでいるンだから」
A「その台詞のためだけにあんなキャラにしただろ」
F「ここからトラブルが相次ぐ。いつぞや繰り返した通り、呉では世兵制がとられていた。親の兵を子が受け継ぐもので、陸遜の死後陸家の兵は陸抗に、陸抗の死後は5人の息子に、とそれぞれ受け継がれている。ところが、脩允には子がいなかったようで、配下の軍は分割されて別の部隊に配属させられることに」
A「状況としては仕方ないね」
F「仕方ないじゃ済まない、と考えたのが郭馬なんだ。何しろ『父祖以来ひとつの軍をなしていたので、離れ離れになるのを望まなかった』と正史(呉書孫皓伝)にも書かれているくらい、郭馬や他の武将たちの結束は強かったンだから」
Y「世兵制の強さの元凶であると同時に、欠点だな。タテの関係より横の結束を重視する」
F「しかも、この頃孫皓が、広州の戸籍を整備して、課税しようとしていた。各地で武将たちが出奔・寝返りを繰り返していたから、それに伴って兵士や農民が晋に流れて、徴兵や税収がおぼつかなくなっていたのが推察できる。それを補おうと、書いてはいないが十中十まで、重税を課そうとしたわけだ。そして、状況から考えて交州にも課税の手は伸びていた」
A「フォローの余地もないな」
F「郭馬はこれを利用した。同僚の脩家軍部将たちと謀って、現地の軍や民衆に不安を広げ、支持を集める。そして人数が集まったと判断した郭馬は挙兵し、広州刺史の虞授(グジュ、血縁の明記はないが虞の子孫と思われる。当人は九真平定後に死去)を殺害し、交広二州総督・安南将軍を自称した」
Y「呉への敵対宣言か」
F「桂林から出陣して南海郡(広州治所)を包囲した郭馬たちは、背後を突かれないよう兵を各地に送る。同志の何典(カテン)を蒼梧(そうご)郡に、王族(オウゾク、人名)を始興(しこう)郡に送っているが、この二郡はそれぞれ荊州からは湘水(しょうすい)、揚州からは贛水(かんすい、いずれも長江の支流)を、船で下って南海郡に向かう場合の関門となる、戦略上の要地だ」
A「その辺も意識していたワケか?」
F「そうなる。しかも、人選が奮っていた。何典はともかく王族は、ヴェトナム送りになっていた王蕃(オウハン)の遺族のようでな。王蕃の弟ふたりは郭馬への協力を拒んで死んだが、この王族ははっきりと協力し、贛水をくだって鎮圧にきた縢循(トウジュン)を迎撃し、その侵攻を防いでいるンだ」
Y「そっちは滕牧(トウボク)の一族か?」
F「否定はできんが明記はない、亡き陸凱に『清廉な補佐役足りうる』と指名されていたひとりだ。279年に司空に任命されるはずだったンだが、この騒動で鎮南将軍・広州牧代行に任じられ、1万からの兵を率いて鎮圧に差し向けられた。豫章から始興に向かっているから、張節(チョウセツ)の叛乱を鎮圧した功績と実績を買われての人選だろう」
A「そんなヒトも残っていたンだねェ」
F「だが、王族の抵抗が凄まじく、始興から先へは進めなかった。やはり、農民蜂起とちゃんとした叛乱軍では勝手が違ったようでな。その間にも郭馬が南海太守を殺したり広州刺史を打ち破ったりの快進撃を続けていたモンだから、孫皓はついに切り札を出した。交州牧陶璜に出陣を命じている」
Y「今までは北と西からの軍を警戒していればよかったが、そこに南からの軍も来ることになった、か」
F「交阯・合浦など南方諸郡の兵を総動員していい、との許可を出されたので、郭馬の背後を扼する姿勢を見せたワケだ。さらに、陶璜の弟・陶濬(トウシュン)にも七千の兵を与え、武昌から湘水を下って西の荊州水路を進ませている。孫皓が意地になって潰しにかかったのが見てとれるな」
A「でも、1万とか七千とかの兵で何とかなるの?」
ヤスの妻「陶璜隊がそうだったように、陶濬や縢循はそれぞれの流域諸郡の兵を動員する許可が出ていた、って考えていいと思うよ。それくらいの兵で叩き潰せるくらいなら苦労はないから」
Y「人口の少ない広州とはいえ、州を挙げて郭馬に呼応していたら、まぁ万単位だろうな」
F「そゆこと。縢循を防いだ始興の兵を仮に互角の一万と仮定すると、郭馬には最低でも3万の兵があったと計算できる。蒼梧に1万、自分の手元にも1万だ。実際には自分の手元にはもっと多く残すだろうけど、陶璜・陶濬がすぐには動けなかったことを考えると、叛乱軍は総勢3万くらいだった、と考えられる」
ヤスの妻「そして、郭馬の叛乱が南海・蒼梧・始興から広がった形跡がないことを考えると、広州周辺には縢循・陶璜の軍を含めてざっと4万の兵があったと逆算できるよ。でないと郭馬が先に進まなかったことに説明がつかないから」
A「呂興や霍弋への対策が、この時点でも活きていたってコトか」
F「ところで、呉の総兵数は23万です」
ヤスの妻「……ぅわ!?」
A「えーっと……?」
Y「郭馬の叛乱に加わった兵と、それを鎮圧するのに動員された兵が、推定で7万……呉の総兵数の約3割だな」
F「少し先取りになるが、この数字は無視できない。郭馬が叛乱を起こしたせいで、呉の総兵数の3割が南方に集中し、長江流域を離れていたンだ。晋にしてみれば郭馬様サマと拝んでいいところだぞ。呉侵攻のタイミングを謀っていたら内輪もめが起こって、勝手に7万が前線に来ないことになってくれたンだから」
A「えーっと、23万が16万になって……」
F「通例通り、建業防衛に全軍の3割が残されていたとするとこちらも7万だから、長江流域には9万しか配分できない。本来晋は16万の軍を破ってやっと建業を攻められる手順だったのに、相手が半分程度で済むことになるンだ。これなら、とっとと手を下した方が賢いだろう。司馬炎が呉への侵攻に踏み切ったのは、郭馬挙兵の3ヶ月後だ」
A「気持ちと理屈は判る……」
Y「……何で俺たちは、今までこれほどのイベントを無視していたンだ?」
ヤスの妻「いや、無視はしてなかったよ……軽視はしてたけど」
F「正直、それが判らんのです。のちに陸機(リクキ)が『弁亡論』を著して、呉の滅亡の原因を講釈していますが、正史孫皓伝の注にも引かれたそれに、はっきり書いてあるでしょうに」

「そもそも晋軍の侵攻は、赤壁の曹操軍ほどの盛大なものではなかったし、郭馬の叛乱の重大さは歩闡造反の危機にまさるものでもなかった。でも、これらのせいで呉という国家は傾き倒れ、宗廟は廃墟となってしまった」

A「呉の滅亡の、直接原因に挙げられているワケか……」
Y「陸機……確か陸抗の四男だったか?」
A「陸遜の孫!?」
F「そんな人物をして郭馬の乱の大きさははっきり認められているのに、見落とされがちなんですよね、コレが」
Y「……認識改めないといかんのははっきり判った」
F「続きは次回の講釈で」

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