私釈三国志 192 賢将羊祜
伝諸葛亮 梁父吟
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歩出斉城門
遥望蕩陰里
里中有三墳
塁塁正相似
問是誰家墓
田疆古冶氏
力能排南山
文能絶地紀
一朝被讒言
二桃殺三士
誰能為此謀
国相斉晏子
注 「二桃三殺」のエピソード
斉には田開疆(デンカイキョウ)・古冶子(コヤシ)・公孫接(コウソンセツ)という三人の勇士がいた。
が、彼らが権力を握ると国が乱れると考えた晏子(アンシ)は、王と謀って三人を殺すことにした。
ある日、王の前に呼び出された三人に、晏子は桃をふたつ示した。
「お前たちの中で、功績が優れていると思う者は、この桃を取るがいい」
田開疆と公孫接が桃を手にしてしまった。出遅れた古冶子は腹を立て「オレの方が功績は上だ!」と剣を抜く。
するとふたりは、自分の功は古冶子に及ばないのに先に桃を取ったのを恥じて、自害してしまう。
そうなっては古冶子も、手柄をひけらかしてふたりを死なせたのを恥じて、自害してしまった。
恥を知ることを示す矜持をくすぐって、晏子は三人を排除したのだ。
F「……はい、読み終わったかなー?」
ヤスの妻「暗唱できるよ」
A2「(こくっ)……同じく」
A「コレならアキラも。でも、何でまたこれを出すンだ?」
F「思えば『土井晩翠』をしでかしたのも20回以上前だからな、忘れてると悪い。では、ちょっと違うオハナシが2回続いたので、本筋に戻って。以前、万ケ(バンイク)が巴丘(はきゅう)に移ったのを触れたが、これも見方によっては左遷と云える」
Y「丞相たる身が中央から離れるワケだからな」
F「もともと武官で外に勢力があった陸凱(リクガイ)は、中央に召し出されることで軍事力から離された。そもそも文官だった万ケは、中央から離れることで政治力から離された、というワケだ。そして、それを証明するように、万ケも割と悲惨な最期を遂げている。丁奉の死んだ翌年、272年のことだが……刁玄(チョウゲン)という名を覚えているか? 泰永」
Y「……166回だったか? 確か、孫綝(ソンチンorソンリン)の命で蜀への使者になった」
F「うん、今度は正解」
Y「助かった……」
A「義姉さんにいぢめられるならむしろどんと来いじゃというのに」
Y「お前はされてないからそんなことが云えるンだよ!」
F「ノーコメント。その刁玄がいらんことをしでかした。蜀に行った折に、水鏡先生らの著作(残念ながら現存しない)を手に入れたンだが、それを勝手に書きかえて『天下を盗るのは荊・揚州の主君だと、あの水鏡先生が云っていたのだ!』と云いだした。晋からの投降者も、寿春で『呉の天子がやってくる』という歌がはやっている、と云っている」
A「……露骨に刁玄の息がかかってね?」
F「150パーセントくらいな。それをアホウが真に受けた。271年1月30日、孫皓は母や夫人、後宮の女たちや兵士・諸官を引き連れて『洛陽に入るのじゃ!』と西へと出発している」
A「お前、何やっとンね!?」
Y「どこをどうツッコんでほしいんだ?」
F「ツッコむ気力もなかったのが万ケなんだ。267年に巴丘に出されていたものの、271年には呉都建業に戻されている。ンでこの西遊に同行していたンだけど、丁奉や留平(リュウヘイ)と『もし華里(かり、建業の西方)まで行っても戻らないようなら、お国のために我らだけでも都に戻ろう』と相談している」
A「東京弁に訳すと『あのボケ見捨てて帰ろうぜ』かな?」
F「だな。もちろん、その辺りの相談は孫皓に漏れて、だがその場では、万ケたちが古くからの家臣だからと沙汰やみになっている。それから少し経った272年、ある宴席で孫皓は、万ケと留平に毒酒を呑ませようとする」
A「マテ」
F「給仕の役人が、さすがに丞相を毒殺はできないと考えてか、酒の量を減らしてその場では生き延びた。留平は呑んだものの毒だと気づいて、解毒剤を呑んで助かっている。だが、孫皓がそんな考えだとさとったからだろう。万ケは自殺し、留平は一ヶ月後に不安と憤りで死んでいる」
Y「……丁奉が死んだのも前年だったな」
A「あああ、裏がありそうに聞こえるー!?」
F「留家の処遇は記述がないが、万ケの御遺族はお約束の広州送りになっている。まぁ、疑ってかかっても仕方ないと思える状態だな」
A「とんでもない……。で、西遊はどうなったの?」
F「孫皓伝本文には、例の華覈(カカク)が必死に引きとめて、華里から引き返したとあるけど、むしろ注に引かれた記述のが正しそうでな。1月の末だったから寒さが激しくて、大雪にも見舞われた。ために、道路は寸断されて、青い蓋をさした皇帝の御車は、兵士百人がかりで引かなければならないほどだった」
Y「ろくでもない君主のもとでは、天災が起こっても仕方ないな」
A「云うな」
F「大雪って簡単にヒトを殺せるからなぁ。半死半生の兵士たちは苦しみに耐えかねて『もし敵に遭遇したら、敵と一緒になって呉に刃を向けるぞ!』と口々に云いつのる。これを聞いたモンだから、さすがに孫皓でも都に戻らざるを得なかった……という顛末」
Y「虐げられた庶民の怒りこそが、皇帝に対する最大の抵抗勢力だというワケか」
F「さて、孫秀(ソンシュウ)が晋に逃亡するに至った原因が、何定(カテイ)が江夏で狩猟を行ったことだった。この何定、もともと孫権に仕えた汝南のひとで、おべんちゃらで孫皓に近づき信任を得ている。つまり、孫皓の外戚の何一族とは別系らしい。だが孫皓の権威をかさにほしいままにふるまうようになった」
A「典型的な小役人だね」
F「李勖(リボウ)という武将がいた。交州奪還の兵を率いて海路を出たのに、失敗してむざむざ戻ってきてな。これが270年のことなんだが、その前に何定は、息子に李勖の娘を娶らせたいと申し出て拒絶されているンだ。ために恨んでいて、孫皓に『交州奪還に失敗したのは野郎の責任です!』と李勖を讒言した」
Y「Aコースか、Bコースか」
F「どっちがどんななんだ? そのせいで、李勖と、一緒に交州を攻めた徐存(ジョソン)は、娘どころか一族郎党皆殺しにされ、死体は焼き捨てられている」
Y「Aコースだな」
A「Bコースがヴェトナム送りか」
F「もともと何定は、宮中の酒や食糧の買い付けを担当していたンだけど、地位を利用して利益をむさぼり、その利益を横流して孫皓に気に入られたみたいでな。それだけに、金の切れ目が縁の切れ目なのか、272年にあっさり誅殺されている。どうにも呂壱そのものの雰囲気がある侫臣だった」
Y「コースは?」
F「Cだな。本人は殺されたが、その後の家族についての記述はない。理由は『悪事がバレた』ためとなっているが、『悪事が張布(チョウフ)の場合と似ているので、死後は何布と呼んだ』とあるので、あんがい孫皓を除こうとしたのかもしれない」
A「成り上がり者らしく、権力を握って増長し、皇帝を軽んじたのか」
F「さて、そんな何定の悪事のひとつが、無用の水利工事を行い民衆を苦しめたことでな、薛瑩(セツエイ)がその被害に遭った。運河を掘って水運を活性化させようと奏上したところ、薛瑩がその工事を担当することになった。意見そのものは的外れでもないンだが、現地は大岩が多くて工事なんてできる地形ではなく、諦めて引き揚げている」
A「当然孫皓はお怒りで?」
F「まず武昌に左遷され、何定の誅殺後に裁判にかけられ、広州送りとの判決が下った。これには華覈のみならず陸抗も諌止の上奏を行い『王蕃(オウハン)や李勖を殺しておいて、いままた楼玄(ロウゲン)や薛瑩をヴェトナムに送っては、民の信を失いますぞ!』とまで云っている」
A「ろうげん?」
F「今まで出してなかったかな? 万ケの『宮中のことは立派な人格者が担当すべきです』との上奏に指名されて、宮中の諸事を担当することになった人物だ。ところが、孫皓にしばしば逆らったモンだから『野郎は賀邵(ガショウ)と組んで御政道を誹謗しています!』との誣告を受け、広州送りになっていた」
Y「広州に孫奮(権6男)でもいれば、呉が南北に割れていたかもな」
A「そっちの方がいい人材多いモンね……」
F「だが、陸抗の上奏は通らなかった。楼玄は広州への途上で孫皓から毒が届き、それをあおいで自害。賀邵は公職から引退したものの、275年にインネンつけられて酒蔵の役人(つまり、亡き何定の部下)に引き渡され、拷問の末に殺されている。家族は広州送りになったから、Bコースだな」
A「おいおい……肝心の薛瑩は?」
F「ある意味いちばん悲惨だ。殺されも許されもしないで、広州に流されては本国に戻され、という両地を往復する日々を送ることになったンだから。本格的に許されたのは、他に誰もいなくなってからだった」
A「……晋か海の向こうに逃げろと云いたい」
F「同情はするよなぁ……。まぁ、そんなことがあったンだが、それでも晋は呉に侵攻しようとしなかった。前回見たように、西北域が不穏だったのと、何より荊州に陸抗が張っていたからだ」
Y「屋根も壁も床もオンボロだが、大黒柱はしっかりしているから、北風にも倒れなかったワケだな」
ヤスの妻「ヤスにしては、ちゃんとした比喩だね」
Y「何だとオラ」
F「まぁ、軽い屋根だからちゃんとした柱一本で支えられたワケだ。西陵包囲戦の翌273年、陸抗は大司馬に昇進している。この3月、丁固(テイコ)が国を憂いながら76で死去しているが、本っ気で珍しいことに本人・遺族が何かされたという記述が確認できない」
Y「マジか!?」
ヤスの妻「うん、丁固に関してはホントにないんだよ」
A「信じられない。気でも狂った……もとい、マトモになったのか?」
F「もともと丁固は二宮の変でも孫和派に属していたからな、孫皓としてはうかつに扱えなかった、とも云える。ともあれ、陸抗だが、西陵で勇戦したせいで晋の武将、特に羊祜(ヨウコ)に畏敬の念を抱かせた。車騎将軍として襄陽に駐留し、荊州における対呉戦線を預かる身だが、あの男がいる限り呉は滅ぼせない……というある種の尊敬と警戒を、だ。ちなみに、西陵の敗戦と歩闡(ホセン)が死んだ責任を問われて平南将軍に降格している」
A「まぁ、仕方ないか」
F「むしろ御の字だよ。西陵戦で直接歩闡のカバーに向かって失敗した楊肇(ヨウチョウ)なんか、官職を罷免されて庶民に落とされてるンだから」
Y「無理もないだろうな。純粋な智略でぶつかって負けたンだから」
F「それも、陸抗3万に対して羊祜・楊肇で5万+徐胤(ジョイン、益州からの別動隊)3万だったからな。正面からでは勝てないと察した羊祜は、軍でも智でもなく徳をもって陸抗に対抗することにした。民衆に恩恵を施し、がっこうを作り、軍務や役務を減らして、食糧の備蓄を貯え、呉よりも晋のがいいですよー、住みやすいですよーと喧伝したンだ。正確には、本人は徳と恩恵を施すだけで、民衆が勝手に喧伝してくれていたンだが」
A「呂蒙や司馬昭が使った手段だな」
F「孫皓の暴政に悩まされていた呉の民衆が、晋に走ったのは云うまでもないな。陸抗自身『軍務を控えねば民心を失います』と上奏していたものの、孫皓がそれを顧みたという記述はない。それだけに、以前触れた孫秀や孫楷(ソンカイ)のみならず、呉将の出奔も相次いでいて……えーっと、ちょっと列挙するぞ」
272年12月 前将軍孫秀が家族と兵を連れて降伏してくる(呉書孫皓伝・晋書武帝紀)
273年3月 孫秀のもと部下何崇(カスウ)が兵五千を連れて降伏してくる(晋書武帝紀)
273年中 夏詳(カショウ)・邵(ショウガイ)が降伏、ケ香(トウカ)は一戦交えてから投降(晋書羊祜伝)
274年7月 平虜将軍孟泰(モウタイ)、偏将軍王嗣(オウシ)が兵を連れて降伏してくる(晋書武帝紀)
274年9月 呉と交戦し、荘祐(ソウユウ)を投降させる(晋書武帝紀)
274年12月 威北将軍厳聰(ゲンタン)、揚威将軍厳整(ゲンセイ)、偏将軍朱買(シュバイ)が降伏してくる(晋書武帝紀)
276年6月 京下督孫楷が兵を連れて降伏してくる(呉書孫皓伝・晋書武帝紀)
277年5月 邵凱(ショウガイ)、夏祥(カショウ)が兵七千を連れて降伏してくる(晋書武帝紀)
278年11月 昭武将軍劉翻(リュウホン)、歯随ォ軍祖始(ソシ)が降伏してくる(晋書武帝紀)
A「まぁ、バタバタと……」
F「呉書の側で記述があるのは孫秀と孫楷だけなんだが、晋書ではこれだけの投降者が書かれている。ただ、273年に降伏してきたふたりは、277年に降伏してきたふたりと同じ人物にも思える。まぁ、探せばもっといるかもしれんが、当然、最前線を預かる陸抗としても、部下の逃亡には頭を悩まされていたはずだ」
Y「まぁ、そうだろうな。管理責任が問われかねない」
F「もちろん問われる。さて、陸抗と羊祜には有名なエピソードがある。時期は明記がないが、羊祜が軽い衣装で鎧も身につけず、護衛もほとんど連れずに前線にいるのに、兵たちは徹底した規律に従い行動していた。これを見た陸抗は『羊祜にはつけいる隙がないな……楽毅や孔明でもかなうまい』と嘆息する」
A「対して羊祜も」
F「呉軍はだらけきっていてすぐにでも攻め滅ぼせます、と報告を受けても『お前たちは相手を誰だと思っている。鬼謀百出の陸抗がいる限り、こちらからは攻められん。迂闊に攻めては返り討ちになるだろう』と、呉の内紛につけいらなければ負けると、弱音ともとれる発言をしているンだ」
Y「配下はどんな反応を?」
F「陸抗の恐ろしさを充分把握していたようで、従っている。ただ、万全の理解を得ていたかは疑問だが。たとえば、羊祜は呉に攻め入ると現地で食糧を徴発したけど、後日その代金として絹を呉の民衆に送っている。これなんかは『戦争に略奪はつきものです』みたいな意見がでてもおかしくない」
A「だが、それをやったから羊祜は呉からも信望を得た」
F「そゆこと。ある日羊祜が国境に狩猟に出ると、同じく陸抗も狩猟に出てきた。そのまま戦闘に入るかと思えばそんなことはなく、羊祜が『呉の領土に入ってはならんぞ』と命じたことで、陸抗もその場での手出しは控えている。日が暮れて双方自分の陣地に帰ったンだが、陸抗の陣に羊祜の陣から使者が来た」
A「狩りの獲物を持ってきたンだよね」
F「その通り。狩った獲物のうち、呉の矢が先に刺さっていたものは呉の獲物だ、と送り届けてきたンだ。これには呉の兵士たちが大喜びする。持ってきた兵士を呼びつけた陸抗は『獲物のお礼として、ワタシが自分で醸した酒を羊将軍にお送りしよう』と、呉の名酒を持ち帰らせた」
Y「この辺の感性は、俺には判らんなぁ」
F「武将たちも『何でそんなことをするンですか』と尋ねるけど、陸抗は『好意には礼をするのが当然だろう』とあっさり。羊祜も羊祜で『彼はワシが酒好きと知っていたンじゃな〜♪』と、疑うそぶりもなく呑もうとする。さすがに配下の武将がいさめるけど『彼は毒殺なんぞ企む御仁じゃない』と相手にしないで呑んでしまう」
A「事実、毒は入っていなかった、と」
F「以来、羊祜と陸抗の間では、日常的に使者が行き交うようになった。またある日、呉からの使者に羊祜が『陸将軍はお元気かのぅ?』と尋ねると、病に伏せっているとのお返事。そこで羊祜は包みを取り出し『よく効く薬を調合しておる、これを飲ませるがよいぞ』と持ち帰らせた」
A「もちろん、配下の武将たちは反対して?」
F「飲んじゃいけませんと勧めるけど、陸抗は『羊祜がヒトを毒殺するものか』と薬を飲んでしまう」
Y「何とも奇妙な話だな」
F「深読みしてみれば裏がある。羊祜が徳をもって民衆に接しているのに、呉では武力で民衆を締めつけていた。どちらが支持を得られるかなんて明白だ。そこで羊祜は、陸抗に揺さぶりをかけてみた……というオハナシ」
A「ゆさぶり?」
F「呉の獲物をそのまま返して『ワシはこんなことをできるのじゃ、さてお主はどうかな?』と反応をうかがった。対して陸抗は『お前が御大尽ヅラするのなら、この酒を呑んでみろ!』と反発する。となれば『おぅおぅ、美味しくいただこう。次はお主の番じゃな、こちらの薬を飲んでみ?』と、挑発に挑発を繰り返したワケだ」
Y「度胸試しのチキンレースか」
F「それに近い。直接危害を加えずに、互いに度胸と面子を試しあうワケだ。先に毒を仕込んだり、相手からの好意をはねつけた方が、勝負では勝っても試合では負けになる、そんなチキンレース」
A「命賭けてそんなことやってられるか!」
F「田開疆と公孫接は古冶子の面子を潰し、それを恥じて自害した。それを見た古冶子も『生き残ったらオレまでチキンだぜ!』と自害しているよ」
A「……最初に梁父吟確認したのはそういうオチか」
Y「父親より頑固、か……確かに、陸遜ならどっかで降りていた気がするな」
F「国士というのは何より面子にこだわるンだ。命を惜しむな名を惜しめ、なんて台詞もある。相手の面子をくすぐるチキンレースを繰り返していたふたりだが、孫皓からの先制攻撃命令に、陸抗が『今は徳を磨き内政を充実させるべきです』と応えると、孫皓から詰問の使者が来た。『お前、敵と馴れあっているそうじゃないか』と」
Y「来るのが遅い」
A「……意見は認める」
F「詰問された陸抗は病を発し、274年、わずか49年の人生を終える。では相方の羊祜はといえば、陸抗が詰問され死んだと聞くと、司馬炎に上奏文を送っているンだ」
『運は天からの授かりものですが、人事を尽くさねば天命も得られません。呉には長江の天険がございますが、蜀の剣閣に比べれば屁でもありません。劉禅は惰弱なだけでしたが、孫皓はもっとタチの悪い暴虐の君主で、呉人の苦しみは蜀人の比ではないのです。
晋の兵は往時(蜀の攻略のころ)よりはるかに勝っており、このまま守りに従事していても、天下の民の苦しみが長引くのみ。いまこそ、四海を平定する好機にございます!』
Y「陸抗はともかく、羊祜の本心がどんなものだったのかは、はっきり上奏文に残されているワケか」
A「感動の友情物語も、この雪男にかかれば裏面が暴露されてしまいますよ!」
F「思えば陸抗は不幸な男だった。偉大な父をもったがために、呉の"天下"を背負う役割を担い、強大な敵と相対した。だが、彼が奮闘すればするほど、暴虐な君主は非道を積み重ね、陸抗自身の足元を崩していく。彼の死後、陸家の兵は息子たちに分配され、それから『荊州における呉軍の全権責任者』は任命されなかった」
A「その意味では惜しんでいたのか、それともそれくらい陸抗を煙たがっていたのか」
F「なお、有名な話ではあるが、正史に個別の伝を立てられているのは、皇帝になった者たちを除くと、曹操・孔明・陸遜のみ。そんな陸遜伝に附された陸抗に関する、正史での評価を引用する」
「劉備は天下に広く名声を馳せ、当時呉の人々はみな彼を畏怖した。陸遜はちょうど壮年に達したばかりで、威名はまだ知られていなかったが、その彼が劉備を打ち破り、計略通りにことを進めた。ワタシ(陳寿)は陸遜の計略を評価し、また孫権がその才能を見抜いて、功業を行えるよう取り計らったことに感嘆する。陸遜の、忠義の心を尽くし国を憂いて命を縮めたその生き様は、立派に社稷の臣と呼べるものである。
陸抗は、身を正しく維持し、将来への見通しをもって行動を起こし、父の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の家風を守り、実際の行動では陸遜にいささか劣ったとはいえ、先人以来の基礎の上にみごと功績を完成させたと云えよう」
「裴松之だ。だが、陸抗が歩闡を降したとき、歩家の赤ン坊まで殺したのはまずかったな。そんなことをすれば子孫が必ず報いを受けるもので、だから陸家は陸抗の息子の代で途絶えたンだぜ?」
Y「陸抗は、陸遜より空気が読めたンじゃないか? 『羊祜に劣る』と思われるのが嫌で張りあっていた」
F「そういう面もあった気はするが、偉大な敵手を尊敬するのを知っていたと思えるのも事実だ。羊祜の本心はともかく、陸抗の側には羊祜を信じる気持ちもあっただろう」
Y「どーにもそういう考えを捨てられんか」
F「チキンレース135連勝無敗で引退した過去があるンでな。ところで、羊祜は羊祜で割と悲惨だった。何しろ、傍目には敵将と仲良くしているンだから、こちらでも『アイツは敵に通じています!』と誣告される。先の上奏文にしても、司馬炎はその気になったのに賈充らの反対で出兵は行われなかった」
A「……北が大変だって気持ちの他にも、羊祜は信用ならんって気持ちがあったのかね」
F「いや、朝廷で権勢をもっていた連中ににらまれていたンだ。前門の虎に備えるあまり、後門の狼をないがしろにしていたワケだ。出征中の武将にとっての敵は、後方にもいる。それを忘れていたというより、意識していなかったようで、上奏が容れられなかった羊祜は天を仰いでいる」
「天下で思い通りにならないことは十中の七か八になるが、決断すべきときに決断せず、天が与えてくれるものを得ようとしないのは、必ずあとで悔やむことになるぞ」
F「司馬炎がのちに後悔したのは、歴史的な事実だった」
A「かくて呉の大黒柱は倒れ、滅亡のときが近づいてくる……か」
F「続きは次回の講釈で」