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私釈三国志 191 北門鎖鑰

F「では、タイトルコール。『私釈三国志』第191回。はい、泰永」
Y「……えーっと?」
ヤスの妻「ほくもんのさやく、だね。鎖鑰は鍵と錠前の意で、単純に云えば北方への抑えのこと」
Y「アキラの代理と自称しておきながら、幸市に比肩するのが我が妻の怖いところで」
F「世の中に妻ほど怖いものはナシ」
ヤスの妻「辞世に下の句がないのってどうなのかな」
F「案の定読めなかった泰永はさておいて。本日は、晋代の北狄対策について一席。なお、アキラたちは不在です」
ヤスの妻「可愛いアキラがあーちゃんといちゃいちゃしてるかと思うと、わたしのハラワタ煮えくりまくりです」
F「うちの翡翠は日頃医者医者してますが茶化したら命取りですねハイ判りました凄まないでください」
Y「ムダにからかうな、あとで俺が泣かされるンだから」
F「最近、オープニングジョークも命がけでいかんな……。えーっと、何度か初期のイベントで落としてきたものを加筆しているけど、その中で、羌族が涼州・長安近郊に強制移住させられ一種の奴隷として扱われていたのを触れた」
Y「12回に加筆した、涼州の叛乱についてだな。叛乱が起こる下地としてそんなことがあった、と」
F「後漢に限ったことじゃないが、歴代王朝の滅亡には宦官か外戚か異民族が絡んでいる。魏は皇族の影響も大きかったが、いつぞや触れた通り後漢では羌族の脅威が常にあった。もともと、前漢代には匈奴と組んで西北域を侵略していたが、えーっと……南匈奴の降伏って何年でした?」
ヤスの妻「紀元前53年だね。匈奴が南北に分裂して、南匈奴が前漢に降ったから河西回廊が前漢の領有域に入っちゃった一件。ちなみに、当時の皇帝は中興の祖ともされる九代宣帝劉病已
F「即位して諱を劉詢(リュウジュン)と改めているので、フルネームで呼ぶならそっちです」
Y「はいいが、河西回廊って何だ?」
ヤスの妻「漢土の西北端のこと。これが前漢の手に落ちたから、羌族は他の異民族と連絡が取れなくなったの。孤立して次第に衰退していき、ついに降伏するに至っているけど……」
F「漢土に強制移住させられ、分割して漢民族居住区に配分されています。文化的に劣っていたため奴隷として強制労働を科せられ、悲惨な生活を余儀なくされ、ついに、後漢に入った107年に叛乱を起こしました。当然鎮圧されていますが、14年で240億銭という巨額の戦費を費やし、後漢王朝の経済を揺るがしています」
Y「文化的には劣っても、軍事的には勝ってるのか」
F「ただ数が少なかった。それが、漢民族が羌族を異民族として扱えた根拠だ。中華思想って突き詰めると漢民族は人口が多いからってオチに行きつくンだよ」
Y「なんだかなぁ」
ヤスの妻「その後も羌族の蜂起は単発的に続いて、7年で80億銭、2年で44億銭と莫大な戦費が必要になった。だから、売官というとんでもないシステムが生み出されることになった、だね」
F「です。羌族を漢土に移住させたのは、根拠地で勢力をのばし外憂となるのを恐れたからですが、後漢を経て魏の代となると人口が増え、漢民族との軋轢も激しくなる一方でした。何しろ、漢民族が優位だった文化的側面も、長引く戦乱でないがしろになりつつありましたので」
Y「優位性が揺らぎつつあったワケか」
F「同じことは氐族にも云えました。涼州・益州に移住させられていた氐族は、魏や蜀から都合のいい戦力と見込まれ、徴発され酷使されます。ところが、蜀が滅び魏が衰えで、晋が起こった頃には人口の増加と相まって、渭水流域に勢力を誇るようになっていました」
ヤスの妻「この辺りが、のちの五胡につながっていくワケだね」
F「匈奴(きょうど)・(きょう)・(てい)・鮮卑(せんぴ)・(けつ)の五部族が五胡と呼ばれていますね。匈奴と鮮卑については以前、113回でひと通り触れました。羯族は匈奴から枝分かれした部族で、のちに……年表で云うとわずか2年後になりますが、石勒(セキロク)という男が生まれる、というのだけ覚えておいてください。つーか覚えとけ泰永」
ヤスの妻「わたしは知ってるし」
Y「だろうな」
F「ま、そこまで見るのはさすがに先走りですが。さて、魏書の記述だが263年12月、つまり蜀を滅ぼした年のうちに、益州を分割して梁州を設置している。ネーミングで判ると思うが、南北に分けたようなかたちになる」
Y「梁は司隷に近い辺りか」
F「そゆこと。さらに、晋に移ってからの271年、南中の四郡をさらに益州から分割し寧州を設置。かつて蜀と呼ばれた領域を梁・益・寧州に三分して、それぞれに刺史をおき、統治しやすくしたワケだ」
Y「それくらい、統治が難しかったってコトか? ……というか、異民族か」
F「先に云ってある通り、羌・氐の進捗著しい時代だったし、南中にはさらに南蛮までいる。三州それぞれが羌・氐・南蛮に対していた、と考えれば判りやすいな」
Y「……となると、関中方面はどうなんだ? 魏から晋にかけては」
F「そっちはさらに問題だったとも。書かれたのは少し先になるが、江統(コウトウ)の記した『徙戎論(しじゅうろん)』で『いま関中の人口は百万を数えるが、異民族がその半数になる』とか『山西に住まう南匈奴の人口は数万で、西戎より多い』などと云われたくらいだ。ために、晋は269年、梁州・涼州・雍州のそれぞれ一部を分割して秦州を設置している」
Y「梁、涼、雍……西北部か」
F「そゆこと。といっても、鮮卑対策でな。この頃勢力を伸ばしてきた鮮卑系禿髪(とくはつ)族の樹機能(ジュキノウ)が、晋に造反する姿勢を見せたモンだから、その抑えとして秦州が設置され、歴戦をもって知られた胡烈(コレツ)が刺史に任じられている」
Y「万ケ(バンイク)に破られた処罰で北に回された、というところか」
F「んー、そうでもないと思うぞ。胡烈は鍾会を討つのにも尽力した勇将で、それを見込まれての人事だったと考えていい。事実、270年に入って鮮卑の動きが活発になると、胡烈は三度戦火を交え、三度とも打ち破っているンだ」
Y「それなりの武将だったか」
F「ところが、それが樹機能の罠だった。連戦連勝に気をよくした胡烈の軍は、胡烈本人が撤退したいと考えてもイケイケで進んでいく。気がついたら万斛堆(ばんこくたい)という谷間で樹機能の軍に囲まれていて、焦ったものの胡烈は包囲を突破できず、討ち死にしてしまう」
Y「死んだのは何回か前で聞いていたが、そんな死に様だったのか」
F「西陵包囲戦の2年前のオハナシです。これに晋の朝廷は震えあがり、司馬師・昭の弟にあたる司馬亮(シバリョウ)が秦州方面の軍権を預かり、劉旗(リュウキ)という武将を派遣しようとするけど、劉旗は胡烈に及ばない自覚があったようで、怖気づいて軍を進めることができなかった。ために、司馬亮は免官、劉旗は処刑されている」
Y「もう少しマシな奴を動員しろよ」
F「そこで司馬亮に替わって秦州の軍権を預かったのが石鑒(セキカン)で、秦州刺史になったのが杜預(ドヨ)だった。なぜ片方に指揮権を一元化しなかったのか、といえば、このふたりが普段から仲が悪かったからでな。上下関係を微妙な位置に並べることで、それぞれ奮起させる狙いがあったと考えていい」
Y「逆効果だってのは蜀攻略で懲りているべきだろうに」
F「今回は、そうはならなかった。杜預が出陣しようとすると、石鑒はそれを邪魔する。すると杜預はあっさり身を退いて、お手並み拝見とばかりに読書三昧の生活を始めた。結論から云えば石鑒には鮮卑を平定する才はなく、今度は牽弘(ケンコウ)が討ち死にしている」
Y「これまた、何度か名が出ている武将だな」
F「もともと北狄対策で名を挙げた武将だったが、蜀攻略にも従軍していた。戦後揚州刺史に任じられて、189回で触れた丁奉の攻撃を迎撃した(269年、ただし晋書では270年になっている)のがこのヒトだ。そのあとで涼州刺史に任じられたようで、泰始六年正月では『揚州刺史』なのに泰始七年夏四月では『涼州刺史』になっている」
ヤスの妻「中国大陸を斜めに渡ってるね」
F「で、その泰始七年、つまり271年ですが、樹機能が金城を包囲したのでその救援に駆けつけています。ところが付近の青山で鮮卑の襲撃にあい、またしても討ち死にに追い込まれる。武将としての才覚はあったはずなのに、樹機能の器量はそれを上回っていたようです」
ヤスの妻「軟弱な漢人どもが騎馬民族に勝てるワケないじゃない」
F「身も蓋もない発言ですね……。例の陳騫(チンケン、蜀の統治にあたっていた可能性のあるひとり)が『胡烈や牽弘には、勇はあっても智が欠けます。とても北狄を相手にするなどは務まらないでしょう』と、事前に発言していたンだけど、司馬炎はその反対を押し切って任命し、そのせいで勇将ふたりを失ったことになる」
Y「最初からそいつ使えばよかったのに」
F「まったくだ。278年には楊欣(ヨウキン)が、禿髪ではない他の鮮卑系部族と戦って戦死しているモンだから、司馬炎は『鮮卑の脅威は呉・蜀の比ではない!』とまで発言している。というわけで動員されたのが、ある意味冷遇されていた、だが仕方のない武将だった。かの『趙雲の再来』こと文鴦(ブンオウ)だが」
Y「……冷遇されてたのか? あのレベルの武将なら、使って然るべきだと思うが」
F「忘れてるか? 司馬師の直接の死因はこの男の突貫だぞ。晋書景帝紀(司馬師伝)にも『文鴦がブっ込んできたから目玉が飛び出た』と書いてあるくらい、文鴦のせいで司馬師が死んだというのは知られていた事実のようでな」
ヤスの妻「わたしからフォローしようか。もうちょっと詳しく訳すと『文鴦は三度斬り込んできたものの、文欽が呼応しなかったため撤退せざるを得なかった。ところが魏軍の包囲が堅く、まずは勢いをくじこうと、精鋭十数騎で魏軍の追撃を退け陣を落とし、向かうところで武勇を披露してひきあげていった』ってところ」
F「楽綝(ガクチンorガクリン)らを追撃に出しても返り討ちにあったのは周知の通りですね。そんなワケで、司馬一族が帝位にある晋では、文鴦はあまり重用されていなかった。西方に回されたのも、次々と武将たちが討ち死にしていたので、死んでも惜しくなくかつ優秀な武将、ということで白羽の矢が立ったようなものだったと考えられる」
Y「考えてみれば、益州侵攻にも従軍してないよな」
F「したという記述がない、だな。まぁ、さすがは文鴦というところで、具体的にどう戦ったのか記述はないンだが、あっさり樹機能を打ち破っているンだ」
Y「むしろ、胡烈や牽弘が弱かっただけじゃないかという気がしてきた」
F「比べるのがちと酷だろうからなぁ。禿髪族はもともと、鮮卑の有力氏族の拓跋(たくばつ)から離脱した部族でな。この拓跋の酋長・力微(リキビ)が、275年6月に息子を晋に遣わして帰順している一方で、同じ年に樹機能は晋の討伐を受けている。鮮卑内部でも晋への態度が分かれていたのがうかがえるな」
Y「背くべきか従うべきか、だな。実際に何度も晋軍を打ち破っている樹機能にしてみれば、叩き潰されるまで抵抗する余地があるワケか」
F「対して、樹機能が勝っても晋が小揺らぎもしないモンだから、拓跋としては楽観できないワケだ。さて277年、司馬炎は『天下の徳義は衛将軍に諮問せよ』と、司馬亮を宗師として相談役に任命した。さっき云ったが、免官されたとはいえいち時期は西方域を預かっていた男が朝廷に入ったのと、力微が討伐されたことで、275年に討伐され降伏した樹機能が、また背いている」
Y「だから、藪に入ってヘビを探そうとするなよ」
F「なぜ拓跋が討たれたのかは記述がないが、晋が鮮卑への危機感を強めていたのは事実だ。ために、樹機能も先手を打って挙兵したのかもしれない。ところが、文鴦がしっかりこれを叩いている。本人こそ討ち取れなかったが、樹機能は『もう逆らいません!』と降伏した」
Y「信じろと?」
F「文鴦というよりは晋としては信じたかったワケだ。晋が呉に侵攻しなかった理由は、正史・演義で共通していて、重鎮も重鎮、司馬昭の腹心だった賈充が反対の態度を崩さなかったからだ。ところが、演義には、なぜ賈充が呉侵攻に反対していたのかが書かれていない。もちろん、ただ反対していたワケじゃない」
ヤスの妻「南に攻め入っている間に、北が動いたら大変だからね」
F「その辺りの認識があったから、賈充は反対していたンですね。現に、さっき云った楊欣の戦死後、樹機能はまたしても兵を挙げ、涼州を席巻しています。こんな油断ならん戦況で、呉への侵攻などできません! との主張が朝廷で主流を占めていたモンだから、孫皓が暴挙暴走を繰り返しているのに呉の命脈は保たれていた……という皮肉なオハナシ」
Y「敵の敵が味方だったワケか」
F「結果論から行くとそうなる。晋の西北域は、鮮卑をはじめとする五胡の脅威に脅かされていた。これが安定し、晋が呉への侵攻に本腰を入れるのは、279年に樹機能が死んだのと時を同じくしていた……のは、また少し先のオハナシになります。ところで……」
ヤスの妻「わー(ぱちぱちぱち)」
Y「だから、喜ぶな!」
F「前回のうちにやっておきたかったンだけど、内容と容量の都合でずらしたオハナシです。実際のところ、降伏後の益州がどう統治されたのか、というのはあまり記述がありません。数少ない記述を拾っていくと、さっき云った通り梁・益・寧州に三分した、とかですが」
Y「だったか」
ヤスの妻「正史三国志・晋書を問わず、あんまり記述はないね。誰が治めていたもはっきりしないくらいだから」
F「件の賈充が、自ら成都に入って戦後処理にあたったという記述が演義にあります。彼が漢中に兵を率いて入っていたのは事実なので、そんなことがあったと考えるのは、それほどずれていないように思えますね」
Y「幹部どころか首魁クラスが、成都城内戦でそっくり消えたワケだからな。代わって治めるのにも、ある程度の人材でないと納まりがつかんだろう」
F「そゆこと。ただし、例によって『書いていないから何もしていなかった』ではなく『特に目立ったことがないから書かなかった』のが正しいように思える。蜀降伏後の益州の民衆は魏・晋の統治を受け入れたようで、晋代に叛乱や民衆蜂起が起こったという記述はない。自然災害に見舞われた旨の記述はあるが、これは割と広域的なものだし」
ヤスの妻「えーっと(確認中)……277年に2回大水があったね。6月の一度めは益・梁州で、9月の二度めは青・徐・兗・豫・荊・益・梁州……なんだこれ、大陸の真ン中辺りを横断?」
F「割と被害が大きかったのが見込まれますが、益州に限ったことではないですね。そんな具合に、蜀の時代から天災が増え、西陵戦の別動隊として益州からも軍を出したり、呉攻略の軍船製造に駆り立てられたりと、それなりの働きは科されていたようですが、全体としてはちゃんとした統治を受けていたようです」
Y「魏・晋に背かなかったため、民衆の安全は確保されていたワケか。本来なら、過酷な労役を課されてもおかしくないンだから、それくらいなら御の字だろうな」
F「司馬昭ならそんな真似はしないだろうと思うが……。さて、そんな益州で起こった一大イベントが、州刺史殺害事件でな。益州で下級武将の地位にあった張弘(チョウコウ)が、突然『刺史が晋に叛乱しました!』と云いだして、州刺史を殺し、首級を都に送りつけてきたンだ。ところが、どーにも濡れ衣だったようで、張弘は三族皆殺しになっている」
ヤスの妻「ただの権力争いみたいだね」
Y「だが、ちゃんと刺史に関する記述があったンじゃないか。誰なんだ?」
F「皇甫晏(コウホアン)。王経が処刑されたときにその死体を引き取った張本人なんだが、これが272年のオハナシでな。劉禅が死んだ翌年なんだよ」
ヤスの妻「……おいおい」
Y「かははっ……こりゃまた、タイミングが」
F「偶然なのか、賈充なりの政策がしっかりしていたのか、それとも劉禅の前向きな降伏が益州の民衆にも伝わっていたのか、その辺の判断はしかねる。だが、この一件に関与して益州の民衆が処罰されたという直接の記述はない。そして、劉禅存命中の、晋書武帝紀(司馬炎伝)における益州に関する記述は、寧州が分割されたという一節のみだ」
ヤスの妻「阿斗ちゃんの影響が活きていたかもしれない、か……」
Y「前向きな降伏ね……なるほど」
F「ちなみに、この皇甫晏、皇甫嵩の子孫のようでな。血統は明らかじゃないンだが、割と珍しい姓だからつながりはあると考えていい」
ヤスの妻「すでにその世代でさえ、先祖と扱わなきゃいけない時代かぁ」
Y「そりゃ、陸抗なんか赤壁どころか夷陵の戦いも知らない世代だからな。もう、五丈原の戦いも知らないって連中も出てくる頃合じゃないか?」
F「出てるよ? 司馬炎は孔明の死後の生まれだから。236年だな」
Y「……思えば遠くまで来たモンだ」
F「続きは次回の講釈で」

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