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私釈三国志 190 安楽公禅

F「さて、陸抗が名を馳せた西陵戦の前年、271年に、劉禅が死んだ
A「……つーか、まだ生きてたのか」
F「いつもの反応がないな」
A「相手が劉禅ではな」
F「然様か。えーっと、いつぞや云った通り『劉禅公嗣』はやらない。だが、40年以上帝位にあった在位年数は中国史上でも稀有だ。劉備たちの興した国を受け継いだ皇帝について、まとめておかないワケには行かなくてな」
A「国を滅ぼしたボンクラでした、以上」
Y「続きは……」
F「やるとは思ったが、とりあえずコレ読め」

 陳寿(二三三〜二九七)は、劉禅(二〇七〜二七一)の政治を目のあたりにし、蜀の滅亡も見た。その陳寿が、劉禅を評して、
  良い色にも、悪い色にも染まる白糸のような人だった。
 と記していることこそ貴重である。諸葛孔明や董允に染まればよい皇帝、黄皓に染まれば悪い皇帝であったというのだ。
 これをただ「暗愚」の二字で片づけては気の毒だろう。彼は極めて無垢な精神の持ち主で、他人に影響されやすかったのだ――と、ここまで書いて少しゾッとした。こういうタイプの心やさしい人間ほど、われわれの日常生活の中で、
「あいつが(あるいは、あいつだけが)悪いんだ」
 という標的にされやすいものだからだ。
(渡辺精一著 廣済堂文庫「三国志謎とき101話」237・238ページより抜粋)

Y「……劉禅が責められがちなのは、悪の根源を自分(たち)ではない誰かに押しつけようとする、群集心理が原因か」
A「誰かのせいにすることで自分は罪を逃れようとする、浅ましいけど仕方ない考え」
F「多数派意見に同調して身の安全を図るようなら、190回も『私釈』しないってオハナシ。蜀の滅亡は劉禅が暗君だったから、で済ませていいのかと云えば」
A「まぁ、よくはないが責任は劉禅に求められるだろ?」
Y「むしろ黄皓だな。あいつと姜維がいなかったら、蜀はもう少し長持ち」
A「2番外せ!」
F「長持ちと云っても十年は持たなかっただろうけどな」
A「……その心は?」
F「263年時点で、蜀の経済はすでに破綻状態に近かったンだ。コーエーの『三國志]武将FILE』に興味深い指摘があった。劉備が益州を攻略すると、孔明法正張飛関羽に金五百斤、銀一千斤、銭五千万両、錦一千匹を、その他武将には格差をつけて恩賞を授与した、とある」
A「大盤振る舞いだな。どれくらいになるのかよく判らんけど」
F「種類と数字だけ頭に入れて、この記述を見てもらおう。劉禅が降伏したときに、ケ艾に送った蜀の内情の目録だ」

「戸数二八万、人口九四万、将兵十万二千、官吏四万。米四十万石あまり、金銀各々二千斤、錦織物二十万匹、他の物資もだいたいこれに比例していた」

A「……ちょっと待て。金銀合計で四千斤って、孔明たちへの恩賞くらいじゃないか?」
Y「それも一部な。益州侵略なら、馬超黄忠魏延への恩賞もそれなりの量だったはずだ」
F「龐統の遺族にも気を遣った形跡があるしで、その辺りを賄っているからには、攻略後の益州はかなり裕福だったのがうかがえる。ただし、米と織物の備蓄は少なくなく、いつか云った通り食糧で云えば4年分にはなる。はずだ」
A「はずって?」
F「この時点で成都城内にいたのが十万なのか、蜀全体で十万なのか、判断しかねてな。諸葛瞻(ショカツセン)とともに親衛隊の副隊長まで死んだと以前触れたが、そうなると城内に十万も残っていたとは考えにくく、せいぜい3万くらいだろう」
Y「姜維や南方ブロックの兵まで入れて10万、か」
ヤスの妻「あれ……?」
Y「ここぞとばかりに悩むな!」
ヤスの妻「……おかしいなぁ、孔明さんが率いていた兵が2万くらいの計算になるよ」
F「そうなりますね。正直読み切れないものがあるので、僕は、孔明が北伐に動員した兵数には基本的に触れていません」
A「はい!?」
Y「……その心は」
ヤスの妻「戦争って消費活動だから。直接生産に寄与しない兵士が人口に占められる割合は多くても1割が限界。数えやすく蜀の人口を百万とすると、10万の兵で漢中方面軍・東方方面軍・南中方面軍・成都駐留軍を賄わないといけないことになるの。ここまではいい?」
A「はぁ……」
ヤスの妻「東方は呉との関係正常化からある程度の削減が可能だったけど、南中方面軍は漢中と同程度の規模がないと、とてもじゃないけど守り抜けない。また、出征に際しては最低でも3割を国内防御に残すのが通例だから、漢中方面軍は多く見ても3万。ここからさらに3割を漢中最終防衛ラインに残すとなると、北伐に出せたのは2万少しになる」
2人『……はぁ』
ヤスの妻「略奪をしないで農業生産を頼りに兵を養うには、総人口の10パーセント以下に兵数を抑えなければならない、という計算式を蜀軍にあてはめると、益州の人口が二百万近かったか孔明さんの軍が2万程度だったかでないと、食糧を賄えないってこと!」
F「補足しますが、いまの講釈には『産業革命以前の国家』という前提がつきますね。また、戦時ではそれどころではなく、俗に国民皆兵と称される挙国一致体制が用いられる場合がありますので、軍事国家というより地方軍閥に近い蜀の場合は、ある程度高くなっても仕方ないでしょう」
3人『……はぁ』
ヤスの妻「あーちゃんまで理解できないって顔だよ……」
F「要するに、魏延が1万の軍を預かるのは、蜀の総兵士数を理詰めで考えると無理じゃなくて不可能だってオハナシ。判らなかったらスルーしていいよ。一方で、はっきり『他の物資もこれに比例』とあるからには、農業・鉱業・工業と分けた場合、鉱業生産力が低下していたと断定できる」
A「えーっと……それは?」
F「現代日本の農家を考えれば判る通り、農業はある程度の年齢になってもできる。織物は女性でも生産できるけど、鉱物は就労可能な男でないと生産できない。この後の中国史における益州の役割を考えると鉱物資源が尽きていたとは考えにくく、単純に、鉱業生産に従事している年代の人口が少なかったと考えられるンだ。なぜか、姜維のせいだ」
A「……あー」
F「さっきも云ったが戦時では、国民全体に占める兵士数の割合が崩れるンだ。姜維がその辺りを無視して、軍隊にそういう年代の男どもを徴発すれば、鉱業生産力は低下する。米と織物の量を考えると老人男性まで徴発していたとは思えないが、もう十年もそんなことを続けていたら、軍より先に国家が崩壊したぞ」
A「米はともかく、織物は呉に輸出して外貨を稼げば? 蜀錦って貴重品だったろ」
Y「供給過剰だと価値が下がり、買い叩かれるのがオチだ。畜産に力を入れて馬を輸出した方がマシだと思うぞ」
F「呉書に『蜀から馬を買った』って記述があったな。農業・工業はともかく鉱業生産力が落ちていて、それに従事するべき年代が他のことに使われていた形跡、というか証拠もあるからには、蜀では年代別人口の比率が崩れつつあった、と云えるンだよ」
Y「軍事的にいらんことして国力を下げていた野郎がいたワケだなぁ」
A「うぐぐぐ……」
F「つまり、蜀にはまっとうな将来が見込めなかった。姜維と黄皓が失脚すれば、人口と生産力に対する軍事の比率が低下し、行政がまっとうになった可能性もなくはないが、実史通り劉禅が8年後に死んで、そのまま国家崩壊していた公算の方がはるかに高いだろう」
Y「軍事偏重のせいで人口比が崩れかけ、それが生産力に悪影響した。持ち直そうと努力しようにも、皇帝の寿命が十年もないようでは、まっとうな改革は望めない……か」
F「陳寿は黄皓のせいだとしたし、多数派意見では劉禅のせいとされがちだが、蜀という国は263年時点で、すでに自分で滅ぶか誰かに滅ぼされるかという瀬戸際にあったワケだ。それだけに、劉禅が徹底抗戦することなく降伏したのを責めるのは、蜀という国をやや過大評価しているように思えるところでな」
A「うーん……」
ヤスの妻「蜀贔屓としては、残念な評価だね」
F「さて、劉禅という皇帝は、呉の孫皓とは違って暗愚ではあっても暴虐ではない……とされる。宦官の黄皓を寵愛して賢人を遠ざけ、政治を顧みなかったため、蜀そのものを傾かせたという評価がある」
Y「否定はしないだろ?」
F「積極的にはな。だが、積極的に評価すべきこともいくつかある。まず、劉禅は、三国時代の君主でありながら、猜疑心というものが薄かった。孔明存命中の蜀は孔明ひとりに権力が集中し、政治も軍事も外交も孔明が左右していたのに、劉禅はそれを平然と受け入れている」
Y「……考えてみると変な奴だな。普通、そんな家臣は殺すか殺されるかだろ?」
F「そう、君主が猜疑心で殺すか、逆に君主が殺されるかになる。だが、劉禅は孔明を信じきって国そのものを委ねていたような状態だ。一度は李厳の謀略でその行動を妨げたが、孔明には蜀の政治・軍事に関する完全な裁量権があった。劉備の遺言があったとはいえ、そこまで君臣間に信頼関係があったのは、正直珍しい」
A「孔明が劉備を裏切らなかっただけ、だろうけどな」
F「そういう面もあるな。問題は、劉禅がそのまま成長してしまったことだ。家臣を疑わないモンだから、蒋琬費禕はともかく黄皓まで過剰に信用してしまった。この件については劉禅本人の性格もさることながら、むしろ、能力もそうだが人格的にちゃんとした後継者を確保できなかった蒋琬・費禕に責任があるだろう」
Y「ひいては孔明が悪い、ということでいいか?」
A「極論するとそうなるからやだなぁ……」
F「劉禅の行いには、孔明の影響が露骨に強いのは事実だな。たとえば、孔明は法正からの『大赦を出して民衆を慰撫しましょう』との進言に『大赦というアメで民心を得ては、アメがなくなったとき民心が離れる』と、劉璋の失敗を引き合いに出して拒否している(ただし、裴松之はコレを『疑わしい』としている)」
A「あったねー、そんなオハナシ」
F「劉禅は、孔明が生きている間、大赦を1度しか行っていない。劉備が死んで劉禅が即位したときに、だ。新しい皇帝が立ったンだから、これはしない方がおかしいと云えるが、以降孔明が死ぬ234年までの12年、一度として大赦も改元もしていないのは、どう考えても孔明の影響だ」
Y「陳寿も『改元も大赦もしないでしばしば出兵していたのはたいしたモンだ』って書いてはいるが、それを孔明の影響と云いきっていいのか?」
F「劉禅の治世41年中、二度めの大赦は孔明の死んだ234年で、北伐に従軍していた将兵の帰還を嘉してのものだ。孔明が死んだ途端にそんな真似をはじめ、234年から263年の30年で、大赦は11回、改元も3回行っている。やはり、孔明の生きている間と死んだあとでは、ずいぶん違うようでな」
A「良い色にも悪い色にも……か」
F「一方で、以前、シナ五輪の前に大地震が起こったのはろくでもない君主が世を治めている天罰だと触れたけど」
A「はっきり云うな!」
F「劉禅の御世には大規模な自然災害が発生していないンだ。陳寿は『蜀には史官がいなかったから災害の記録が残らなかった』としているが、実はちくま版正史で指摘すると、ンなことを書いている(90ページ)7ページ前に、はっきり『史官からめでたい星が現れた、と報告があった』と書いてある(83ページ)」
Y「……あ、ホントだ」
F「単純に起こらなかったと考えていいみたいでな。こうしてみると、フォローする分にはフォローもできる君主だったが、お約束の悪事もしでかしている。北伐に従軍していた劉琰(リュウエン)という武将が、酔っ払って魏延に絡み、成都に強制送還されたンだが、234年の正月にその妻が参内すると、1ヶ月宮中に留め置かれた」
A「……劉禅のお手つきがあった、と」
F「この妻が美人さんだったものだから、とあるな。劉禅との不義を疑った劉琰は、彼女を鞭打って、草履で顔面を殴って離縁した。するとこの妻は劉禅に泣きつき、劉禅は『顔は草鞋を受ける場所ではない』と至極ごもっともな理由で劉琰を処刑している」
Y「どう見ても、この女房にお手つきがあったとしか考えられんな。でなきゃわざわざ殺さんだろ」
F「この時代の皇帝どもは、どーにも女性遍歴が思わしくない。孫休なんかは一見マトモだが、ある意味いちばんまっとうじゃない夫婦だし。さらに、黄皓を重用したのは、明らかに劉禅の失態だった。まぁ、コレもコレで劉禅ひとりの失態かと云えばやや疑えるが」
A「どう疑うのさ」
F「始皇帝の母親が宦官に身をやつした小悪党を身辺に引き込んだように、宦官が出世する場合は皇帝のみならず皇后の影響がある。また、黄皓は、羅憲(ラケン)を遠ざけ閻宇(エンウ)を近づけたように、自分の派閥に与する者にはある程度の処遇をしていたと考えられる」
A「……共犯者がいた、ってコト?」
F「名指しするなら張紹(チョウショウ)だ。張飛の次男だが、黄皓と同時期に昇進しはじめ、譙周(ショウシュウ)とともにケ艾への降伏の使者に立っている。劉禅の皇后とは同腹か異腹かは判らんが兄弟で、何もかもあてはまっていてな」
A「えーっと、張苞(張飛長男)には子供いなかったの? というか、張家の家督は」
F「家督そのものは張紹が継いでいて、張苞の子供は諸葛瞻とともに、ケ艾と戦って死んでいる。関家は成都城内の戦闘で全滅しているが、張家は張紹がしっかり生き延び、劉禅に従って洛陽に送られ、郤正(ゲキセイ)らとともに晋の列侯に処されている」
A「関家は戦うことを選んだかもしれない、でも、張家は明らかに戦わないことを選んでいた……」
F「張家という、建国の功業者でもトップクラスの大物が動かなかったのが響いたと思わずにはいられない。もと皇帝自ら将兵に『この機に乗じよ!』と命じていたら、蜀軍の勢いは変わっていた。ケ艾・鍾会亡く指揮系統も混乱する魏軍を打ち破ることはできなくなかったはずだが、劉禅と張家が動かなかったせいで、蜀軍はひとつになれなかった」
A「皇太子では望むべきもなかったかぁ」
F「忘れられている気もするが、僕は『私釈』の第1回でこんなことを云っていた」

F「コレが実際、後漢ともうひとつにとって害悪を成したんだけど(以下略)」

F「外戚は蜀にも害悪をなしていたワケだ。黄皓と劉禅を野放しにすることで失脚を免れ、姜維に迎合しなかったことで結局最後まで生き残った。行いそのものは責められんが、ほめることは絶対にできん」
A「……190回先を見越しての伏線かよ」
F「こんな回数になるとは、2年前では思っていなかったンだけどな……。劉備本人と義兄弟にして、娘ふたりを皇后にした張飛は、まぎれもない外戚なんだ。だが、外戚として権力を握ろうとせずに黄皓を野放しにした辺り、張紹にも蜀滅亡の責任の一部を求めてしかるべきだと思う」
ヤスの妻「外戚が権力を握ってもろくなことないけど、宦官と手を組んだらさらにタチが悪いね」
Y「しかし、外戚なのに何もしなかったから、と責められるのも変な話だな」
F「さて、張紹の影響とは思えないが、劉禅は皇帝に即位してから、一度として戦場に出ていない。魏や呉では皇帝自ら出陣するのは珍しいことじゃないが、劉禅はそれを完全に行わなかったンだ」
A「……君主としてはともかく、劉備の息子としては失格じゃね」
F「皇帝としては正しい。自ら馬に乗って戦場に出るような君主は、君主が死ねばそのまま国が崩壊しかねない、戦乱の時代では高い評価をするわけにはいかん。本人のせいではないが国庫を傾けたり、家臣の伴侶を奪ったりと、割とろくでもない真似はしでかしているが、酒癖の悪さをうかがわせるエピソードがないのと含めて、その辺は評価できる」
Y「ちょっと待て、幸市。お前、『ゼロの使い魔』のアンリエッタ姫が君主として最低って云ってるか? さりげなく何もかもあてはまってるが」
A2「(くすっ)……自分で戦場に出る、国庫を傾ける、家臣の伴侶を奪おうとする、酒癖悪い……」
ヤスの妻「行いそのものは露骨に暗君だね」
F「えーっと……そんなつもりはないというか、僕アレ読んでないので何とも。ただ、劉禅が自分で戦場に出なかったのは、第一には孔明の教えだろうけど、そもそも魏に勝てないと判っていたのかもしれない。だからこそ、民を苦しめることになる戦闘には、たとえ姜維からの求めでも協力しなかった」
A「男なら、一発逆転も狙おうぜ」
F「忘れてるみたいだがな、アキラ。ケ・鍾亡きあとの魏軍を打ち払って成都を取り戻したにしても、長安には本隊10万、漢中には賈充率いる1万の魏軍がすでに入っていたし、益州内部の要地もすでに魏に抑えられている状態だったンだぞ。今度こそ成都に立てこもるにしても、率いるのは城攻めの名手司馬昭
Y「どちらが勝つかと聞かれたら、司馬昭の勝ちに有り金張るな」
A「……その場では勝てても、さりげなく完全に追い詰められてましたか」
F「ヒトの生き死にに金を張るな。思えば劉禅は大人だったと云える。劉備や孔明の掲げた漢朝復興という大義、と云えば聞こえはいいが実現の可能性の低い妄想を受け継ぐのではなく、蜀ではなく益州が大国のいち地方として生き延びるすべを選んでいるンだから。蜀の国力で魏を討つことは現実的には不可能だ」
ヤスの妻「それが判っていても、時間が経てばさらに広がる差を局地的に縮めて、反攻の契機にしようとしたのが孔明さんで、姜維だった、でしょ?」
F「対して劉禅がとったのは、ある意味辛辣な策だったように思える。姜維が正面切って抵抗し、裏道を使われれば諸葛瞻を死にに行かせる。そうやって降伏し『おぅ、益州に危害加えたらどうなるか判っとんか? こちとらにゃまだまだ命張る連中がおんのやぞ』と脅迫したように、だ」
A「結局正面からは破れなかった姜維や、堂々と戦って死んだ諸葛瞻か……」
Y「戦える戦力がありながら戦わなかったのは、魏が心変わりして益州に過酷な仕打ちを科したとき、改めて反抗するための戦力として、だったと?」
F「南中方面軍の霍弋(カクヨク)が成都防衛線に来なかったのは以前触れた。なぜか、と云えば確たる理由がある。劉禅から『こっちはもう大丈夫だから、お前は来ンな!』と返事が来たからでな」
Y「いざというときに備えた、無傷の主戦力か」
A「そんな風に思えてきたのが嫌です……」
F「劉禅が本当にそこまで考えていたのかは判ったモンじゃないが、仮に考えていた場合、ふたり邪魔な存在がいる」
Y「ひとりは姜維だな?」
F「鍾会は考えがあって投降を受け入れ、ケ艾はそれを見て嘲笑ったが、もともと魏に仕えていた姜維は蜀降伏後に戦犯と問われかねない立場だった。自分でもそれが判っていたから必死こいて魏に敵対していたが、そんな奴が生きていたら、またどんなことをしでかすか判らないし、事実鍾会と組んでケ艾を殺し、そのあとで鍾会まで殺そうとしている」
A「……蜀でなく益州のためを思うなら、除くのは仕方ないのか」
F「かくて、劉禅の将来構想から、姜維は除かれたワケだ」
A「じゃぁ、もうひとりは黄皓?」
F「いや、劉禅本人だ。黄皓が何かしようとしても協力するのはひと握りだが、益州に劉備の血筋がいれば、何らかの野心を持つ者が利用しようと考えかねない。現に長男が姜維に乗せられ死んでいる。それを避けるためには、劉禅が益州を離れるのがいちばん手っ取り早い」
Y「だから、劉禅はむしろ喜んで洛陽に移った、か……」
A「……何なんだ、コイツは」
F「ホントに、そこまで考えていたのかは判らんし、確認するすべもない。だが、その辺りの事情を鑑みた上で、かの有名なエピソードを見直してもらおう」

 洛陽の宴席で、蜀の音楽が演奏された。郤正ら蜀の人々は望郷の念に哀しんだが、劉禅はご機嫌に笑っている。
司馬昭「少しは、蜀を思い出されるかな」
劉禅「いやいや、この地は楽しくて、蜀を思い出すなどありませんな」
司馬昭「……然様か」
郤正「(ひそひそ)……陛下、陛下」
劉禅「んー?」
郤正「(ひそひそ)今度そんなことを聞かれたら、涙流して『先祖の墓が蜀にあるので、一日たりとも思いださぬ日はありません』とでもお応えになりませい。蜀に帰してくれるかもしれませんぞ」
劉禅「んーなこと云われてもなぁ……」
司馬昭「で、蜀を思い出されるのかな?」
劉禅「先祖ノ墓ガ蜀ニアルノデ、一日タリトモ思イダサヌ日ハアリマセン……あ、涙が出ねぃ」
司馬昭「……郤正の云うことにそっくりだな」
劉禅「まったくもって、おっしゃる通りでございます、ハイ」
郤正「…………………………」
司馬昭「……こりゃダメだ。これじゃ孔明が生きていても、蜀を保つことはできなかっただろう。まして姜維などでは……」
賈充「ですが、こうでなければ蜀を得ることはできなかったでしょうな」

A「暗愚を装って望郷の念がないと思わせることで、蜀にこもって魏に叛することもしないと思わせる……?」
F「突然ですが、ここで問題です。劉禅の父親とは何者だったでしょう」
ヤスの妻「嘘つき、寝業師……なんだっけ」
Y「自分でも忘れた」
F「要するに、ひとをだまし、ヒトの懐に入り込むのが得意な男だった。劉禅にもしっかりその辺の血と演技力は受け継がれ、降った魏から安楽公などというふざけた爵位を与えられても平然と、あるいは悠然と8年生き延びていたのかな、と思えるのは、僕の考えすぎだろうか」
A「……お前が過大評価しすぎているのか、それとも世界と歴史が過小評価しているのか、判断がつかん」
F「自分でも判らん。思うのは、劉禅は、この時代の蜀に生まれたのがまずかったンだろうな、と。ある程度の国力を持った……まぁ、普通は国力があって皇帝を名乗るモンだが、とにかく魏や呉くらいの国の皇帝だったなら、それなりの賢君と呼ばれるくらいの資質はあったンじゃないかな」
A「結果を出せなかったのは、能力でなく環境の問題、か……」
F「正史三国志における、陳寿の劉禅評を見ておこう」

「後主(劉禅)は、賢明な宰相に政治を任せている間は道理に従う君主だったが、宦官に惑わされてからは暗愚な皇帝だった。『白い糸はどんな色にでも染められる』と云うが、もっともな話だ。君主が国を継承したときは年が明けてから改元するものだが、それをしなかったのは道理に合わない。また、蜀には史官がいなかったから災害の記録が残らなかった。孔明は政治に精通していたが、この辺りにはやや周到ではなかったと云えよう。だが、孔明の存命中は12年改元をせず、しばしば出兵しながら大赦も出さなかったのは、やはり優れていたことだ。まぁ、孔明の死後はその辺りも乱れていき、優劣は明らかなんだけどね……」

A「……嗚呼、悲しいかな哀しいかな」
Y「その台詞、気に入ったのか?」
F「ところで、さっきアキラが劉禅を『劉備の息子としては失格』と云っていたが、発言の是非はともかく、諸葛瞻は孔明の息子としては失格だったと云える。以前云った通り、諸葛瞻は孔明の遺言を守れなかった」

「君子となるためには、じっくりとかまえて自分を鍛え、何事も控えめに振る舞い、徳を身につけねばならない。無欲でなければ志を抱き続けることはできないものだ。じっくりかまえねば大きな仕事は成し遂げられない。努力を怠っては自分を高めることはできず、志を失っては努力を続けることはできない。人を見下す気持ちがあっては己を奮い立たせることはできず、心に落ちつきがなければ性格も浮ついてくる。
 時が経つのは早いのだから、年をとって気力も体力も衰え、世の中とのかかわりが少なくなってから慌ててもどうにもならない」

Y「黄皓の専横の中で控えめに振る舞っていたようだし、取って代わろうという欲もなかったが、努力していたかは判ったモンじゃないな。そもそも、あの最期を考えるに落ちつきがあったとは思えんし」
F「ただ、これは諸葛瞻本人の資質というより、蜀の置かれていた状況の悪化が原因だ。同情すれば同情できる。では、劉禅は劉備の遺言を守れたのか、と云えば、そういえば劉備の遺言は見ていなかったのを思いだした」

「はじめはただの下痢だったが、もう助かる見込みはない。人間五十年で若死にとは云わないのだから、六十過ぎた父としては自らを悲しむことはない。ただ、お前たち兄弟だけが心配だ。孔明はお前のアタマが賢いと太鼓判を押してくれたが、そうであれば思い遺すことはない。努力しろ。重ねて努力しろ。悪事はたとえ小さくてもこれをしてはならん。善事はたとえ小さくてもこれをしなくてはならん。ただ賢と徳がひとを従わせることができるのだ。
 お前の父は徳が薄かったのだから、これを見習ってはならん」

Y「思えば劉備という男は自分を知っていた。そして、息子の資質も知っていたと云えるだろう。劉禅が愚かで、ひとに云われるままことを為すと知っていたからこそ、善を重ね悪を行うなと遺言したのだから」
A「云われるままに、善を重ねたのかね」
Y「だが、もうひとつの遺言、すなわち、孔明に託した『劉禅に素質がなければお前が帝位に就け』に、孔明が応えることはなかった。115回、馬謖の回で触れた通り、孔明にはひとを見る目などなかったからだ」
A「……ブン殴っていいか?」
F「云いたいことは云われたから、止めはしないな」
ヤスの妻「じゃぁヤス、こっちにおいでー」
Y「お前はダメだ! アキラを、アキラの相手をさせろ! あっちになら勝てる!」
ヤスの妻「アキラ、足持って」
A「おーらい」
(ずるずるずる……ばたん)
F「続きは次回の講釈で」
A2「……で、助けないの? お義兄様」
F「前にオレも見捨てられたからね……」

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