私釈三国志 189 陸抗奮戦
F「まず、訂正から。前回で触れた孫楷(ソンカイ)の晋への亡命ですが、276年のことです。ために、孫皓(ソンコウ)の詰問は武昌(ブショウ)からは来ていませんでした。その辺りを修正しました」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「ごめんなさい」
F「です。えーっと、このところ、分量は多いけど年代が進んでいないのは、孫皓がそれくらいボケた真似を繰り返している、ということになる。具体的にどんな非道を行っていたのか、は前回見た」
Y「まとめようにも20ヶ条ではなぁ」
F「陸凱(リクガイ)はいろいろとあげつらったが、死に臨んでの上奏文でも触れられなかった孫皓の悪行がある。無用の軍を起こし兵を損なった、という事実だ」
A「そんな真似までしてるのか、アイツは」
F「孫権の子だったにせよ孫だったにせよ、この辺りも似通ってしまったンだな。268年、丁固(テイコ)を司徒に、孟仁(モウジン)を司空に任じた孫皓は、その9月に兵を挙げた。自らは濡須(ジュシュ)に攻め入り、丁奉・諸葛靚(ショカツセイ)に合肥を攻めさせている。呉から魏に攻め入ったのは、確か263年に、攻められた蜀への援護で丁奉が動いて以来になる」
A「長江を渡るのは5年ぶりか」
F「触れなかったンだが、あのとき、孫異(ソンイ、孫楷の下の弟)や丁奉の弟が北荊州に兵を出し、朱績(シュセキ)が留平(リュウヘイ)とどうすべきか協議していて、呉国内に『魏軍が蜀に向かったのだから、今のうちに動いておくべき』みたいな風潮があったのが見てとれる。その後羅憲(ラケン)相手に一戦交えて負けたのを考えると、どこまで本気で『蜀の援護』を考えていたかは判らんな」
A「褒められたモンじゃないよな……当時、晋の揚州方面を張っていたのは?」
F「石苞(セキホウ)だ。かつて諸葛誕討伐にも加わった歴戦の勇将で、晋が興ると驃騎将軍に昇進している。亡きケ艾は牧童あがりだったがこちらは闇商人上がりで、だが仲達に見込まれて抜擢された経緯を持つ」
Y「お約束の増長イベントが起こりそうだな」
F「起こったのはもうひとつのお約束イベントだ。下々出身の石苞が昇進したのを妬む声があったようで、丁奉は『石苞はよからぬことを企んでますよー』との流言を流した。真に受けた皆さんはここぞとばかりに石苞を誣告し、結局石苞は洛陽に召喚されている」
A「そっちのパターンか……」
F「一方、荊州方面でも、朱績に江夏を、万ケ(バンイク)に襄陽を攻めさせた。皇帝・丞相・左右の大司馬とかなり高位にある面子で侵攻作戦を行ったのは『皇帝サマでも頑張ってるだにオラたちが命張らんでどうすっぺ!』と奮起させる目的があった、と考えていいだろうね」
Y「別にかまわんが、どこの田舎者なんだ」
F「呉。この中で、戦果を挙げたのは意外にも万ケ(ただし、晋書では万郁になっている)だった。羅憲のカバーにも入った荊州刺史・胡烈(コレツ)を破ったという記述が晋書にある。襄陽が陥落したという記述はないので、たぶん野戦でのオハナシになるが、本人の能力というより、陸凱がもともと率いていた巴丘の兵が強かった、と考えるのが筋だろう」
A「そんな奴に負けるとは、情けないぞ胡烈……」
F「諸葛誕戦でも蜀攻略戦でも活躍していたから、弱いってコトはないはずなんだけどなぁ。胡烈がひとかどの武将なのは戦歴からも事実で、一方で揚州方面でも石苞が現地を離れては、双方の戦線で劣勢なのは否定できない。晋としては、露骨に使いたくない最後の切り札を出さざるを得なかった」
A「誰か残ってたか?」
F「かつてケ艾とともに対蜀前線を支えた皇族、司馬望(シバボウ)だ。姜維と死闘を繰り広げたこの男だが、立場としては鍾会ともども曹髦(ソウボウ)に親しく、司馬家反主流派に位置づけられていた。それだけに、手柄をたてさせずに飼い殺しておきたかったところなんだが、東でも南でも戦況が思わしくなくては、軍事的には頼れるコイツに頼るしかなかったようでな」
Y「司馬孚(シバフ)の子だから、司馬炎から見ると父のいとこか」
F「それを日本語で何と云うべきか、僕の語彙にはない。出陣した司馬望は荊州・揚州と平らげ、呉軍は各方面で撤退している。どれくらいの被害だったのか記述はないが、そもそも呉書では丁奉はともかく、荊州方面での出兵に関する記述が(胡烈を退けたことも含めて)されていない」
A「例によって小競りあいで済んだのか、それとも書けないくらいの被害だったのか」
F「小競りあいに一票だ。大勝利なら晋書でも相応の記述があるはずだからな。この年は、交州にも兵は出したが返り討ちにあい、率いていた武将ふたりが戦死するという体たらくで、呉軍大敗の年だったと云っていい」
A「では『出ると負け2世』の称号は、謹んで孫皓陛下に進呈したい!」
Y「すでに姜維が」
A「やかましい!」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。陸凱が死んだ翌269年、瑾兄ちゃんから諱を受けたのか、孫皓は長子の孫瑾(ソンキン)を皇太子にたてた。この年に、丁奉は前線基地を整備して晋に攻撃をしかけているが、その整備の様子が晋に伝わっていたようで、攻められた街の住人は事前に避難していて、丁奉は戦果をあげることができなかった、とある」
Y「守りがなかったら城は手に入れられるから、住民を逃がして徹底抗戦のかまえでも見せたのか」
F「そんなところだろうね。怒った孫皓は丁奉の配下を処分しており、それから2年後に丁奉も死んだ。その人柄は『身分が高くなるにつれて増長した』と正史にあり、丁奉の遺族は269年の作戦失敗を理由に広州送りになっている。ちなみに、さっきさらっと挙げた弟は、丁奉より先に死去」
A「人柄云々はともかく、眼をつけられていたせいで死後に家族が処分された、か。陸家もだったよな?」
F「そうなる。なお、孟仁もこの年に死去。270年には、魏で『賊国(呉)の名臣だが、猜疑心を抱いて君主のハラづもりを疑い、そのせいで孫皓から嫌悪されている』と名指しされていた朱績が死んでいる」
Y「かつて蜀軍引き込もうとした前科があったが、当時から君臣に溝があったのが原因か」
A「だから、何かあったような云い方するのやめね?」
F「ちなみに、父の朱然はもともと施然という名だったが、朱治の後継ぎになるときに朱姓を継ぎ、両者の死後……えーっと、五鳳年間とあるから孫亮(ソンリョウ)の代だな、朱績は施姓に戻っている。ために、正史では施績とも書かれる」
A「……一族に朱但とか云うヒトいませんか?」
F「明記はない。さて、孫権の弟の孫匡(ソンキョウ)が、曹操の娘を娶っていたのは以前触れた。この孫匡の息子・孫泰(ソンタイ)は孫権とともに出陣した折に流れ矢で死ぬという不可解な最期を遂げていたのだが、その息子、つまり孫匡の孫にあたる孫秀(ソンシュウ)が、270年、晋に亡命している」
A「何があったのさ……」
F「江夏(コウカ)、つまり荊州方面での最前線を張っていたンだけど、孫皓が何定(カテイ)に5000の兵をつけて派遣し、62年越しとなる『江夏での狩猟』を決行したンだ。もともと『孫秀サマは殺されるでねェか?』との噂がはやっていたモンだから、震えあがった孫秀は、妻子に兵を連れて晋に逃げ込んでしまった、という次第でな」
Y「ヤブに爆竹投げ込めばヘビも出るわな、そりゃ」
A「何でこんなことをしでかすのかね、孫皓は……」
F「そんなことがあった。さて272年、孫皓は、対西最前線を張る歩闡(ホセン)を建業に召還した」
Y「鎮圧に向かったのが陸抗(リクコウ)だったな」
A「……意味は通じてるけど、途中が抜けてない?」
F「ん、そうか? 272年、孫皓は、対西最前線を張る歩闡を建業に召還した。各地で武将たちが死亡・出奔、遺族がヴェトナム送りになっているのに、半ば被害妄想とは云えない危機感を抱いていた歩闡は『今度は歩家 の番か!?』と震えあがり、弟や歩協(ホキョウ、兄)の子を晋に送って降伏を申し入れ、西陵(セイリョウ)城を挙げて呉に反旗を翻している」
Y「鎮圧に向かったのが陸抗だったな、と。抜けてないじゃないか」
A「行間読めないアキラが悪いのー!?」
F「晋ではこの降伏を受け入れて、歩闡の救援のために車騎将軍の羊祜(ヨウコ)と荊州刺史の楊肇(ヨウチョウ、なお胡烈はすでに故人)を差し向けている。一方で、呉では朱績の死後荊州方面の軍を統括することになった陸抗が鎮圧することになった」
Y「人選としては他に人なしだからなぁ」
F「陸凱・朱績・丁奉らが死に、皇族の孫秀まで晋に亡命するようでは、歩闡の危機感もやむを得ないだろう。朱績が生きていればフォローできたかもしれんが、何しろ後任は空気読めない陸遜の息子だ。アイツじゃ頼りにならんと思ったようで、西陵城に立てこもってしまった」
A「……息子さんも空気読めないヒトだったりする?」
F「将兵を引き連れ西陵に赴いた陸抗は、城を攻めるのではなく、城の周りに二重の包囲陣を構築し始めている。しかも突貫工事で、兵士からは『まるで敵がすでに来たみたいじゃないか……』と不満の声が上がっている」
A「ちゃんとした陣地を作るのは悪いことじゃないけどなぁ」
F「従軍した諸将は『すぐに攻めてしまえばいいことなのに、どうして陣地にばかり労力を割くのですか!』といさめるけど、どうしてと聞かれて応えた理由が奮っていた」
「この城は堅固な地勢を活かして建てられ、食糧も充分にある。防御用の設備だって豊富にそろっているから、すぐに攻め落とすのは不可能だ。何しろ、この城を整備したのはこの私だからなっ!」
A「お前かよ!?」
F「陸抗は259年から益州との州境地帯の軍権を預かっているが、その頃に西陵城の整備もしていたようでな。自分で手塩にかけて整備したがために、必ず来る晋の援軍が来襲するまでに西陵城を攻略する自信がなかった。ために、包囲の陣地を二重に築き、外の陣は晋が来る外周を、中の陣は西陵城を警戒するようにしていた」
A「ちょうど夷陵だったからなぁ、陸遜の持久戦略が諸将に受け入れられなくて悪い評判が立ったのって……」
F「しかも、陸抗も西陵城を攻めようという声を却下して、ひたすら陣地構築に従事するよう命じているンだ。どうしても攻めたいですと主張したいち部将に仕方なく攻撃させると、案の定何の戦果もなかったので、諸将はようやく納得した……とある。触れなかったンだが陸遜も、夷陵戦当時、一度蜀軍に攻撃をしかけ何も戦果がなかったのを確認してから全面攻撃に出ていてな」
Y「やってることがどうにも父親譲りなんだな」
F「性格はともかく戦術が似るというのは何なんだろうなぁ。城攻めに関しては当代最高の攻城戦の名手が師匠、みたいな状態なのに。さて、晋軍は大きく三手に分かれて西陵戦に臨んでいる。西の益州からは徐胤(ジョイン)が長江を下って国境線に迫り、北からは楊肇が西陵に向かってくる。そして羊祜は搦め手として、西陵の東に位置する江陵に向かった」
Y「囲魏救趙か」
F「そゆこと。戦国時代、邯鄲(カンタン)を魏の軍勢に囲まれた趙は、斉に救いを求めた。趙救援を命じられた田忌(デンキ)は、邯鄲には向かわず、魏本国へと兵を向ける。それを聞いた魏軍は邯鄲の包囲を解いて兵を退き、結局田忌に打ち破られている……というオハナシ。狙いとしては田忌、というかその軍師孫臏(ソンビン)の計略を再現しようとしたワケだ」
A「何と云うか、孫子の罠……?」
F「孫子じゃないってのに。事実、配下の諸将は、羊祜が江陵に向かったと聞くと、江陵に向かうよう陸抗に進言している。それこそ晋軍の思うつぼと気づいていた陸抗は『あの城は守りが堅いし兵も充分にいるから大丈夫。たとえ落とされても守りきることはできないから、たいしたことじゃない』とスルーしている」
Y「コレは、孫桓(ソンカン)見捨てたようなモンか」
A「……えーっと? ちょっと待って、守りが堅い城なのに、攻略されても守れないってどういうこと?」
F「守りが堅いだけに、攻略するには城に被害を与えなければならないだろ? それを補修できないうちに再奪取に乗り出せば、奪い返すのは手間じゃないってコトだ」
A「ある程度の被害を与えないと攻略できない、か……納得」
F「さらに、西陵を手薄にして江陵に向かったら、晋軍は西陵に集結して手につけられない事態になり、武陵蛮・山越も呼応するだろう。荊州を放棄する事態に発展しかねないから、たとえ江陵が陥落しても西陵から離れない、と陸抗は宣言している。諸将の反応は記述がないが、いちおうは納得したようでな」
Y「で、戦闘開始か」
F「まず江陵方面を見よう。長江の流れに近い江陵に、陸抗は、堤防を築いて付近を水浸しにするよう命じている。こうすることで、ひとつには晋軍の騎兵の足を止め、一方で呉軍内部からの離反・逃亡を防いだワケだ。だったら……と羊祜は『こちらの手で堤防を切り、歩兵で江陵に向かってやる!』と喧伝した」
A「正直に云ってどうするよ」
F「いや、逆なんだ。本心では、堤防を占拠して船で物資を運びながら江陵へ迫ろうと企てていた。その喧伝は西陵にも届いたが、陸抗はだまされず『急いで堤防を切れ!』と命じる。だまされた従軍諸将はそれをいさめるけど、陸抗は聞き入れずに堤防を切らせた」
Y「それじゃ船は出せなくなるな」
F「かくて、物資を荷車で、水浸しの道なき道を通って運ばねばならなくなった羊祜は、江陵攻めどころではなくなってしまう。一方で、長江南岸には陸抗配下の部隊が張っていて、羊祜が渡ってくるのを警戒していた。さしもの智将でも身動きが取れなくなったワケだ」
A「ライバル対決は、陸抗に軍配があがったか」
F「直接の対決ではなかったけどな。さらに、陸抗配下の水軍が長江をさかのぼって、徐胤率いる益州からの軍を防いだ。外部からの雑音を除くのに成功した陸抗は、楊肇との対決に専念できるよう手を尽くしたワケだ」
A「手腕はさすがだな」
F「だが、いざ戦闘に入ると、この時代なんだと思いださせる事態が発生する。従軍していた武将がふたり、楊肇の陣に駆け込んでいるンだ。陸抗への不満もあっただろうが、それよりも孫皓への不満が原因だったかもしれない」
A「両方じゃねェかな」
F「これに対し陸抗は、堅実な策で対抗している。降ったひとりは営都督、つまり陣営の管理官で、しかも古くからその職にあった。呉軍の内情をよく知っているからには、充分な訓練を受けていない異民族の部隊が担当している箇所へ攻撃をしかけてくるだろう、と踏んだのね」
Y「呉への不満がある連中なら、そのまま寝返って襲いかかってくるな」
F「というわけで、夜の間に異民族の部隊と古参兵を交代させ、他の部隊にも『あそこが攻撃されたら援護に回れ』と伝達した。実際に楊肇が、そこに練度の低い異民族がいるものと思いこんで攻撃をしかければ、あっさりと撃退され多数の死傷者を出してしまう」
A「あっさりと……」
F「戦闘すること数ヶ月、楊肇の不利は明らかだった。もはや勝てないと察した楊肇は夜陰に乗じて兵を退こうとするが、当然陸抗は追撃したい。だが、歩闡が待っていたのはまさにそのタイミングだった。楊肇が退くのを陸抗が追撃したら、すかさず西陵城から討って出て背後を衝く、単純だが効果的な策だ」
A「そんなのやられたらかなわんね」
F「そこで陸抗は、攻撃開始の陣太鼓を鳴らしまくり、兵を追撃に向かわせる姿勢だけを見せつけた。晋軍はおののいて鎧も捨て逃げ惑い、陸抗は改めて軽装の兵を出し、追撃させ大勝利を得ている。重装の兵は動かなかったようで歩闡は動けず、この方面での勝敗は決した」
Y「本隊が敗走しては、別動隊の羊祜も戦闘継続はできんか」
F「直接の明記はないンだが、羊祜隊に従軍していた歩協の子が戦死したようでな。粘っても意味がないと判断したようで、羊祜も撤退。晋軍が引き揚げたのを確認した陸抗は、改めて西陵城に総攻撃をしかけ、あっさりとこれを陥落させた。歩闡はじめ歩家一族は捕らえられている」
A「……まぁ、殺さないとかな」
F「歩家一族や主だった武将・文官は斬られたが、部将や兵士たちは陸抗自ら孫皓に助命嘆願して、これを容れさせている。歩闡らが全滅したため、歩家は歩闡の弟しか生き残らなかった……と呉書にあってな」
Y「人望はともかく智略では、父の名を辱めるようなタイプじゃないな。ほとんど完勝したンだから」
F「夷陵の最中で蜀に寝返った輩は、結局確認できなかったからなぁ。……ところで」
Y「やるのかよ」
F「さっき云ったが、陸抗がこの戦闘で勝利できたのには、当代最高の攻城戦の名手による、城攻めの実演を目の当たりにしていたのが大きい。云ってしまえば、城攻めに関して、司馬昭は陸抗の師にあたる」
2人『待てぃ!』
F「気づかいてなかったのか? この西陵戦での陸抗率いる呉軍の動きは、諸葛誕討伐戦での魏軍の動きをかなり意識している。城内に立てこもっている敵と城外から攻め寄せる敵を、内線は防備をかためて身動きさせず、外線は直接撃退した。内外に敵を抱えながら静と動を使い分けることで両方を叩き潰すのは、15年前に司馬昭が実践しているンだ」
Y「……云われてみれば、諸葛誕戦に、さりげなく陸抗も従軍していたか」
A「あああ、ぼそっとしか出なかったから、すっかり聞き流してたー!」
F「陸遜が死んだ折、陸抗は二十歳だった。夷陵の戦いの頃には生まれてもおらず、戦場での駆け引きを父から教わった形跡はない。それだけに、性根は父に似ていても、智略ではより柔軟だったと云える。個々の戦術にはアレンジを加えているが、たとえ敵であっても尊敬すべきは尊敬し、吸収すべきは吸収した、としか思えなくてな」
A「……その辺の感性が、あの有名なオハナシに発展するワケか」
F「まぁ、父より意固地な面もあったようだが、それはともかく。司馬昭がもう7年生き延びて、この戦闘に自ら出陣していたなら、陸抗では防ぐことができなかったと考えていい。仲達と陸遜なら優劣は競えんが、司馬昭と陸抗ならそういう次第で司馬昭のが上だ」
A「となれば、荊州西部、次いで南部が呉の統治から外れて、晋なり魏なりの軍はそのまま揚州へ向かおうとする……武昌辺りで一大会戦かな」
F「そして、呉は負ける。西陵でどれくらいの被害を出すかにもよるが、陸抗がその会戦の指揮を執ることはありえないから、呉に魏・晋を防ぐことができる者は残っていない」
Y「西陵鎮圧に失敗していたら、戦死するか、あるいは孫皓に斬られるかだろうからな」
A「どうして、追い詰められれば追い詰められるほど、暗君って家臣のせいにしたがるンだろうね……」
F「ひとのせいにすれば自分のせいにはならないからだよ。だが、司馬昭はすでに故人だった。尊敬すべき敵手の業を発展させて再現し、陸抗は勝った。これにより、陸抗には敵味方問わず畏敬の念が向けられるようになる」
Y「終末期呉における、最後の名臣か」
A「ホントに最期の……だね」
F「続きは次回の講釈で」