私釈三国志 188 陸凱暗躍
F「歴史ものに限ったことではないが、多人数が出ている物語の収束は割と難しい。何とかフィナーレに持って行っても『あのキャラどーなった?』とツッコまれないよう注意しなきゃならんから、だ」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「げんそーすいこでんみたいな後日談が必要ってコトか」
F「そうそう。ネタバレになるが、コーエーの『三國志曹操伝』やいまブログで攻略メモを順次公開している『董卓の覇道』なんかは、天下統一したら家臣たちはオメデトウございます云ってもとの生活に帰っていく。コレはフィクションだからできる手法で、ノンフィクションだと統一しても国と歴史が続くから、放り投げて逃げるワケにはいかんのだ」
Y「旧『恋姫』なんざ、ひとり残らずどころか死人まで黄泉還って、天下を投げ出してたからなぁ」
F「いちばん手っ取り早いのは皆殺しにすることなんだよ。水滸伝や、西洋ではアーサー王伝説やロビンフッド物語、ゲルマン神話がそういうオチだ。ただ、繰り返すと、ノンフィクションだとそうはいかない、それができない。この『私釈』でもそれなりの区切りと結末を用意しないといけないワケだ」
ヤスの妻「どこまで続けてどこで切るのか、に頭を使うワケだね。盛り上げるだけ盛り上げて『はい、天下一統!』とはできないもんね」
F「それで済ませられれば、どんなに楽か……。かくて、いい加減アタマが疲れてきたモンだから、司馬昭に関する大きすぎるボケをかましてしまった、と。ようやっと半ばを越えて、気がたるんだみたいでな」
A・Y『半ばって何だ!?』
F「百里を往く者は九十里を半ばとせよ、というだろうが。まぁ、愚痴はこれくらいにしておこう。さて、以前羅憲(ラケン)が歩協(ホキョウ、歩隲の子)らを相手に孤軍奮闘したのを触れたが、終末期蜀における人材が姜維だけ、という認識は割と根強い」
A「111回で触れたネタだね」
F「同様に、終末期呉における人材が陸抗(リクコウ、陸遜の子)ただひとりという認識もけっこう根強いンだが、そんなことはないンだ。往年より小粒になったのは全面的に肯定するが、前回さらっと挙げたように、小粒でも小粒なりにそろっている」
A「で、陸凱(リクガイ)か」
F「陸遜の一族で、息子の世代だとある。もし『続・恋姫』が出るなら陸抗と双子キャラとして出るかなーって期待してるンだが、誰も作らねェよなぁ……」
A「自分で作れよ。俺は描かんぞ」
F「弟が冷たい……。ともあれ。以前触れたが、司馬昭が晋公ならび晋王に叙任されるのに忙しかったのと、ほとんど間もなく急死したモンだから、終末期魏および創成期の晋からは、呉に直接の侵攻をしていなかった。実際には霍弋(カクヨク)が交州方面に出兵していたンだが、それはまた今度触れる」
A「晋から長江を渡っての攻撃はなかった、ということでいいのか?」
F「そゆこと。ところが、265年の9月、孫皓(ソンコウ)は建業から武昌(ブショウ)に遷都している。この武昌は呉の副都とでも云うべき地で、関羽を討ち荊州を支配下に置いた孫権が、荊州統治のために首都を遷したンだ(221年。呉の首都が建業に戻ったのは229年=孫権皇帝即位の年)。ために、孫登(権長子)や孫奮(権五子)といった王子たちが守備していたことで知られる」
Y「建業から荊州まで治めるには遠すぎるから、荊州方面を実質的に預かっていたのが大都督だった。だが、関羽を亡くした劉備が復讐の兵を挙げてきたら、挙国一致で応えなければならない。それだけに、孫権も自ら西に移動した……というところか」
F「赤壁のときも、孫権は柴桑(サイソウ、孫家の対荊州最前線都市)にいたからね。要するに、今回も荊州が不穏だったワケだ。先に云った通り、武陵(ブリョウ、南荊州)の民衆が濮陽興(ボクヨウコウ、故人)の政策に反発して叛乱を起こし、こちらは云っていなかったが、豫章(ヨショウ、揚州西部)では張節(チョウセツ、農民)の叛乱が起こっていた。この二ヶ所は、武昌からみれば南西と南東で、どちらの鎮圧にも便利な場所に陣取った、と云える」
A「当時、呉の荊州方面軍って?」
F「朱績(シュセキ)の指揮下に陸凱・歩闡(ホセン、歩協の弟。歩協は没年不明だが故人)が入っていたが、歩家が拠点としていたのは西陵(夷陵から222年に改名)で、武陵の北、白帝城の東に位置している。しかも、歩家の軍は羅憲相手に消耗していたし、益州方面への抑えを張っていたせいで動かせない」
A「ちっと不安だね、それじゃ」
F「武昌への遷都を勧めたのが、そもそも歩闡なんだ。歩家の軍が消耗していたのと、武陵といえば武陵蛮の住まう地だけに宮中に救いを求めたワケだが、状況から察するに山越もこれに呼応していたと考えられる。晋が内部でまとまっていなかったため、呉の内紛につけいろうと火に油を注いでいたと考えていい」
A「羅憲がフォローしていた、だったか」
F「実際に兵を出したワケじゃないが、武陵太守に任じられて給油役を張っていたようでな。北からではなく西からのちょっかいが来ていたワケだ。より正確に云うなら、北からは来なかったが東・南・西から、だが」
Y「南は交州の話だと思うが、呉の東って海だぞ」
F「うん、東シナ海。魏・晋に、呉から寝返った武将たちで編成された新附督という部隊があるンだが、コレが海路から揚州沿岸部を襲撃し、呉と戦火を交えているンだ。孫皓も迎撃に孫越(ソンエツ)を出してちゃんと反撃しているンだが、これに本物の海賊まで加わってきて、東側でも被害が出ていてな」
Y「ローゼンリッターかよ」
F「ローゼン云うな。ただ、新附督や海賊の件は、孫休の晩年のことで、264年の4月と7月。さっきも云ったが反撃もしたので1年かかって東海岸が安定したから、武昌に遷った……というわけだ。ところが、これにほぼ前後して司馬昭が急死したので、武陵・豫章の叛乱が激化した、とかの記述はない」
A「本国がそれどころじゃなくなったワケな」
F「というわけで266年、司馬昭の弔問に出された丁忠(テイチュウ)は、帰国すると『魏の防御線は備えが緩んでいます、攻めるなら今ですよ!』と云いだした」
Y「火事場泥棒は呉のお国芸か」
A「そいつ、何しに行ったワケ?」
F「そのことを孫皓が群臣に諮ると、陸凱が『国力に格差がある現状で、敵が使者を送ってきたのを弱体化したからとでもお考えですか。まぐれあたりで勝とうとする計画には賛同できません』と反発。実は、司馬昭が相国になったくらいから、魏・晋と呉の間では割と活発に外交が行われていて、丁忠が弔問に出たのもその一環なんだ」
Y「兵を出せないなら搦め手に出るのは常道と云えるか」
F「そんな陸凱に対して、中トラ(大トラの妹)を妻に娶った車騎将軍劉簒(リュウサン)が云い張った台詞がある」
「そもそも武器をなくすことなど誰にもできず、謀略で敵に勝つことも古来から続けられてきたことではないか! 敵が隙を見せたなら、それを攻めて何が悪い!」
F「これこそが、呉の本心だと云えよう。現に孫皓は、陸凱より『劉簒の意見を容れたいと思った』とある」
Y「単純にもにもほどがあるな。防備が薄いです、じゃぁ攻めようってのは、一国の将軍が考えていいことじゃないぞ」
A「この頃に例のアレをされていたら、間違いなくひっかかって大きな被害を出していただろうねェ……」
F「偽装降伏か? 確かに、こんな車騎将軍とこんな皇帝なら、あっさりひっかかっただろうなぁ。結局、北に攻め入るよりは西への警戒が優先だ、ということになり、出兵は沙汰やみになった。陸凱のみならず、他の武将も賛同しなかったようでな。現に、硬骨と知られた王蕃(オウハン)が、この直後に殺されているンだ」
A「えーっと?」
F「万ケ(バンイク)から『奴はワシが孫皓様のおかげで出世できたと、ワシを見下しておる……』とにらまれていた官僚でな。半ば本当のことなんだが、見下していたというのは誤解で、王蕃はプライドが高く、相手の顔色を見て言動を慎むようなタイプではなく、孫皓にも毅然と反発していた。ために、孫皓や万ケたちににらまれたワケだ」
A「無用の兵を起こすのにも、露骨に反対しそうなタイプじゃね」
Y「孫権にならある程度は受け入れられただろうに」
F「だが、孫権にあって孫皓にないものの筆頭が自制心だ。日頃からやることなすことケチつけられていたらしい孫皓は、丁忠(無事)お帰りなさいパーティーの席で、王蕃が泥酔したので輿に乗せて外に追い出したところ、ややあって、本人が堂々と自分の足で戻って来たのを見て『お前、酔った振りしてオレをバカにしたな!』と斬り殺させた」
A「おいおいっ!?」
F「実は王蕃、まだ酔いが醒めてはいなかったンだが、例によってプライド、というか意地で自然体のふるまいをしていたンだ。ために、孫皓は誤解した。滕牧(トウボク、衛将軍にして妻の父)や留平(リュウヘイ)がいさめたンだけど、聞かずに殺させ、後日陸凱が『あんなに素晴らしい男を殺すとは、嗚呼悲しいかな哀しいかな』と哀悼している」
Y「孫権の酒癖は、張昭や顧雍がいさめていたンだったか」
F「うむ、盛大に酒盛りしている中でおじいちゃんふたり(張昭156年生、顧雍168年生)が素面のまま見張りに立っていたような状態だ。孫権は『これじゃ酒も楽しめない……』とぼやいたが、孫皓の酒癖をいさめる奴は誰もいなかった。思えば張布(チョウフ、故人)らが後悔したのも、酒癖に関しては間違いではなかったことになる」
A「嗚呼、悲しいかな哀しいかな……」
F「そんな王蕃を除けたことで、孫皓はそろそろ人事的にも暴走し始める。ドサまわり時代からのつきあいになり、帝位に就けた最大の功労者たる万ケを右丞相に任じたンだ。いちおうは陸凱を左丞相に任じていたが、もともと鎮西大将軍・荊州牧だった陸凱は、これにより軍から引き離されて宮廷に出ることになった」
A「無力化されたか」
F「いや、任地が武昌からそんなに離れていなかった巴丘(ハキュウ、武昌から武陵への通り道)だから、無力化というほどじゃなかった。現に、前回のラストで見た御尊顔を拝し奉る騒動は、左丞相就任後のことなので、王蕃が抜けてもうるさいのはまだ多いという状態だったンだ」
Y「頑張るな」
F「だが、孫皓に見切りをつける者も現れだした。266年10月、山賊の施但(シタン)が、孫皓の弟となっている孫謙(ソンケン、孫和三男。なお孫皓とは腹違い)を拉致し、烏程(ウテイ)を制圧しているンだ。戦闘が起こったという記述がないので、1万からの施但軍に怯えて、例の墓守連中は逃げたっぽい」
A「山賊に1万人呼応するって、どんだけ終末だよ……」
F「問題は、孫皓が孫和の陵として烏程を整備したことでな。皇帝扱いでまつられたモンだから、皇帝が使う道具や傘なんかも副葬品として納められていたンだ。腹違いとはいえ皇帝の弟がそんなモン手に入れたら、まずいことになるのは明白だろう。現に施但軍は、そのまま何の抵抗もなく、建業の手前三十里まで進軍している」
Y「誰も止めなかったワケか。建業の守備は?」
F「泰永、華覈(カカク)という名に聞き覚えはあるか?」
Y「ん? ……いや、知らんな」
F「この名を知っているかどうかは、正史三国志をしっかり読んだかどうかの答えとイコールだ。お前が正史をしっかり読んでいなかったのが、いま確認できた」
Y「は?」
A「えーっと……義姉さん? そんなに重要なひとなの?」
ヤスの妻「我が夫が情けないことに、極めて重要な人物です。あとで、ベッドの中でお説教します」
A「ぅわ、『だよ』が出ない……あーさん」
A2「(確認中)……これは、確かに」
Y「何者なんだ?」
F「正史でいちばん最後に個別の伝を立てられている張本人だ。華覈を知らないってコトは、つまり正史を最後まで読んでないってことだよ。ったく、最近お前の反応が悪いと思っていたが、まさか最後まで読んでいなかったとは……」
うっかり長兄「いや、あの、それは……」
ヤスの妻「ヤス、云い訳はいりません」
Y「……はい」
F「どーすんのかは任せる。えーっと、首都が武昌に遷ったことで、建業には、国内の叛乱鎮圧のエキスパート・丁固(テイコ)が諸葛靚(ショカツセイ、諸葛誕の息子)と入っていた。施但から送られてきた降伏なり開城なりを求める使者を斬り捨てると、ふたりは出陣し、施但軍をさんざんに打ち破っている」
A「よわっ!?」
F「何しろ『施但の兵は鎧を身につけておらず、いざ戦闘になると散り散りに逃げだした』とあってな。対して諸葛靚の軍ということはもと魏軍で、ある程度の武装はしてある。戦う前から装備段階で勝敗は決していたようなものなんだ。施但本人は逃亡したが、問題の孫謙は、御者も逃げた馬車の中でぽつんと座っているところを身柄確保された」
A「首ちょんぱ?」
F「どうしましょうと丁固は孫皓に指示を仰いだが、生かしておけんだろう。孫皓伝では自殺したとあるが、孫和伝の注では『母親・息子ともども孫皓に毒殺された』とある。末の弟にあたる孫俊(ソンシュン、張氏の子)も殺されている。さらに、孫桓(ソンカン)のいとこにあたる孫韶(ソンショウ)の長男・孫楷(ソンカイ)が、あろうことか孫謙に味方していて、こちらも処罰されることに」
Y「家系図にはいない名だな」
F「孫桓辺りとの関係は、少し難しくてな。当時宮廷警備を担当していたのが孫楷なんだが、孫韶の死後、爵位と役職を継いだのは、弟の孫越だった」
Y「……さっき、ローゼンリッターの迎撃に出た?」
F「だから、ローゼン云うな。弟が爵位を継いで、外に出て活躍(ただし、住民の被害200人に対し捕虜30人)しているのに兄が警備員では、クサってくるのも無理からぬオハナシだろう。しかも、いつぞや見た通り、この男は孫綝の使者として孫休に帝位に就くよう求めた前歴がある。派閥で云うなら孫綝派だった可能性もあるンだ。その辺りの事情があってか、孫楷は丁固の軍に従軍しなかったみたいでな」
A「ところが、期待の施但が負けた?」
F「どうなるのかとビクビクしているところに、孫皓から何度も何度も詰問の使者が来ては、対策は誰にでも思いつくだろう。孫楷は、晋へと亡命した」
A「やることが判りやすいねェ」
F「さすがにこれでは荊州より揚州が不安になったようで、施但の乱から2ヶ月後の266年12月、孫皓は建業に都を戻した。遷都が昨年9月だったので、わずか16ヶ月でのドタバタ劇に、民心はさらに離れていくことになる」
A「董卓でももう少し長安で粘ったぜ……」
F「さっきも云ったが、王蕃を殺すなと滕牧や留平がいさめているが、たぶんそれが死亡フラグになって、滕牧は武昌に残されている。常々云っている通り、衛将軍は最終防衛ラインを担当しているンだから、首都を離れているということは、すでに実権から遠ざかっているに等しい。翌267年中に交州送りとなって死んでいるのは前回見たな」
A「何とかならんか、このボンクラ……」
F「というわけで、と云うべきだろう。266年12月、陸凱は……じゃない、この云い方じゃまずいな。陳寿は陸凱伝に、266年12月、陸凱による孫皓廃立未遂事件があったと書いている」
A「ぶっ!?」
F「別件だが『私、荊州や揚州から来たヒトたちに話を聞いたンですけどね……』と歴史書に書いているのが陳寿らしい。この一件に関しても『こんなことがあったって云うヒトがいるンですよ』と、誰から聞いたのかは書かずに概要を記している。参加者は陸凱・丁奉に丁固」
A「まずかろ!?」
F「建業に首都を戻した前か後かは記述がない。が、孫皓が廟に詣でたところで廃立しようという計画だったので、建業に戻ったあとで、その報告のため廟に詣でるところを狙おうとした、と考えられる。何しろ陸凱は、ちくま学芸文庫で7ページに及ぶ上奏文を書いているくらい、武昌への遷都に反対していた」
Y「長い文章は読む気なくすぜ」
ヤスの妻「ヤス」
Y「はい」
F「皇帝が廟に詣でるときは、護衛の将が三千の兵を率いて随行する、ことになっているらしい。陸凱はこの護衛に丁奉を推薦し、そのままことを進めるつもりだったようだが、孫皓は丁奉では気に入らなかったとあってな。なぜという直接の記述はないが、アイツは孫綝誅殺の実行犯だ。しかも、陸凱が孫皓に替えようとしていたのが、生き残っていた孫休の息子、つまり幼子ふたりのどちらかでな」
Y「最後の孫休派、丁奉か……警戒すべきか信頼すべきか、微妙なラインだな」
F「無関係とは思えんね。護衛はちゃんとした武将でなければ、と云われた孫皓が『それなら留平にせよ』と命じたため、陸凱は息子の陸禕(リクイ)を送って、留平を同志に引き込もうとしたンだが、この留平、丁奉と仲が悪かった」
A「何で?」
F「例によって『普段から』としか記述がなくてな。陸禕が訪ねた折にも『丁奉の野郎の陣地に、イノシシが入りこんだそうじゃないか! コレは奴に不吉なことが起こる前触れだぜ!』と喜んでいる真っ最中。一緒に孫皓を討とうと申し入れても、丁奉がいるンでは上手くいくはずがないと判断して、陸禕はそのまま帰った」
Y「張耳と陳余の実例があるからなぁ」(注 『漢楚演義』8回参照)
A「また懐かしいオハナシで」
F「改めて陸凱が計画を伝えたみたいなんだけど、留平は『参加はしないがその計画をヒトにもらすこともしない』と誓約している。そのせいで、つまり実行犯が得られなかったから、この計画は立ち消えになった。左丞相に建業城主代行、それに護衛官まで味方に引き込めれば実行できたはずだが、最後の詰めが欠けていたワケだ」
A「将来のことを考えると、そこで孫皓が除かれていた方がよかったンだけどねェ……」
F「そうはいかなかった、と。ところで、先にさらっと挙げた7ページに及ぶ武昌への遷都反対の上奏文だが、孫皓の目に届いていたのか判ったモンじゃない」
Y「万ケ辺りが読ませなかったのか? 見せちゃまずいと考えて」
F「陳寿が云うには『陸凱の文章は歯に衣着せぬもので、コレを見たら孫皓が陸凱を生かしておいたとは思えない』とのことでな。しかも、遷都反対の上奏文についてではなく、陸凱が書いておいて、死に臨んで提出した遺言についてのコメントなんだ。となると、陸凱の味方が陸凱を惜しんで、孫皓には見せなかった可能性がある」
A「善意からかよ……」
F「実際のところ、陸凱という男は、孫皓に反発したりいさめたりで歴史に名を残したような感がある。孫亮や孫休がそのまま帝位にあったなら、有能ではあっても地味な武将という印象しかなかっただろう。だが、なまじボケた君主が相手だっただけに、持ち前の正義感から孫皓をいさめ続け、そして報われずに死んだ。269年11月、享年七十二」
ヤスの妻「少し先だね」
F「ですな。陸凱が死に臨んで、事前に書いておいた上奏文が孫皓のもとに今度こそ渡った……とされる。病気が重くなった陸凱に、孫皓は使者を使わして云い遺すことはないか尋ねたが、それに応えてのものだ」
「家臣に諮問されず武昌へと遷都なされたのに、何のメリットがありましょう。陛下の過ちの第一です。
国家の重鎮たる王蕃を殺したのは、賢者を遠ざけ民の信を失う行いです。陛下の過ちの第二です。
家臣を束ねる宰相には優れた者を選ばねばならないのに、万ケがごとき者を選んでおります。陛下の過ちの第三です。
民の妻を奪い、衣服を奪い、死体を野ざらしになるまで放置なさっておいでです。陛下の過ちの第四です。
後宮に女を集め過ぎておいでです。陛下の過ちの第五です。
その後宮に通いつめて政務をないがしろになされるから、小役人が悪事を働きます。陛下の過ちの第六です。
各地から貢物を集めては豪奢な建築物を作り、民の財を根こそぎ奪っておいでです。陛下の過ちの第七です。
防備や内政に充てる人材にも、先帝が見捨てられた小役人を用いておいでです。陛下の過ちの第八です。
宴会において、賜った盃を干さねばならぬとは処罰するなど言語道断でありましょう。陛下の過ちの第九です。
小役人の宦官どもに軍権を与えては、いざ戦争になっても敵を止められません。陛下の過ちの第十です。
後宮に女があふれているのに、まだまだ女を集めるとは何事ですか。陛下の過ちの第十一です。
皇子様がたに乳母をつけられても、その夫に役を科したままでは子供が死にます。陛下の過ちの第十二です。
民には食糧と衣服が必要なのに、農耕も養蚕もないがしろにされておいでです。陛下の過ちの第十三です。
かつては能力が評価の基準であったのに、今や徒党を組んでいる者が昇進します。陛下の過ちの第十四です。
兵たちに戦闘と耕作のみならずさまざまな役を科し、しかも給与が不十分です。陛下の過ちの第十五です。
将兵とも、死んでも哀れまれることがなく、功績があっても賞せられません。陛下の過ちの第十六です。
地方の役人と中央からの監察官がいては、地方の民政が乱れて叛乱が起こります。陛下の過ちの第十七です。
そもそも監察官などは何の役にも立たないのに、なぜそんなものを増やされますか。陛下の過ちの第十八です。
州や県に赴任した者がすぐに召し返されたり移動したりでは、民心を得られません。陛下の過ちの第十九です。
陛下は罪人の処罰を、深く検討もせずに認可されておいでです。陛下の過ちの第二十です。
臣の言葉に取るべきものがあれば史官に記録させていただきますよう。臣の言葉を妄言とお思いであれば罰を与えてくださいますよう、ご留意いただければと思います」
Y「上奏文はその裏を読め、だったな。どこまでろくでもないことをしていたのやら」
A「この辺が残っているってコトは、孫皓も少しは留意したってコト?」
F「僕の講釈聞いてるか? この文章は、陸凱が死に臨んで孫皓に提出させたとされているもので、陳寿が呉方面からの亡命者から得た伝聞なんだ。そして、陸家は275年(陸抗の死後)お約束のヴェトナム送りに処されている。正史にもはっきり『孫皓は陸凱が嫌いだったが、陸抗が健在だったので手を出せなかった』とある」
Y「陸抗が死んだから処断した……か」
F「暗殺未遂事件の翌年、267年には、孫皓は万ケを、陸凱の任地だった巴丘に送っているンだ。陸家の勢力を削る動きに出始めた……と考えるべきではあるが、盛者必衰の理は万ケにも降りかかってきた。その辺りは、まぁこの先のオハナシということで」
A「かくて陸凱は死に、どんどん呉の屋台骨を支える柱は減り続けていく……か」
F「続きは次回の講釈で」