私釈三国志 187 暴君誕生
F「司馬昭が死に魏が滅んで晋が起こった頃、呉では孫皓(ソンコウ)が暴走を始めていた」
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Y「テンション戻ったみたいだな」
A「誰か何とかしたのか?」
Y「いや、俺たちは何も」
F「久しぶりに、姐さんの夢を見た」
ヤスの妻「むっ……」
F「在りし日のように、僕を四つん這いにして背中に乗り、ムチでお尻を叩いてくれた。グズな犬コロが前に進めなくなっては何の価値もないと再確認できたからには、落ち込んでなどおれまいて」
Y「待てぃ!」
ヤスの妻「生前にいったい何してたの!?」
F「娘には聞かせられんことをね……。まぁ、バイクはバックができんということで納得しとけ。ツッコミは地獄で聞く。まず確認すると、呉の滅亡は諸葛誕の叛乱劇に介入して、失敗どころではない被害を出したことを端緒としている」
A「……そんなに被害出たっけ」
F「もともと呉は、江東豪族の寄り合い所帯に近い集まりだった。ほっとけば自家の利益追求に走りかねない連中を、それでもひとつにまとめていたのが孫権だ。いつか触れた通り揚州ひとつもマトモに統一しなかった、孫策から受け継いだ呉を大きく広げ、広がった呉をまとめていた、その手腕は評価されていい」
A「してないのはお前だろ」
F「能力は評価してるぞ? 人格はほめないが」
Y「同族嫌悪かね」
ヤスの妻「同病相哀れむ」
A「鏡に向かって悪口云っても、自分の顔は余計に醜くなるだけだろ」
F「だからこそ、自分の顔からひと目を避けるンだよ。傍証として、孫権の死の直前から呉はどうにもきな臭くなるンだ。大帝生前は抑圧されていた孫家傍流が復権と逆襲を志して動き出し、大トラ孫魯班がワガママの限りを尽くし、豪族たちも好き勝手し始める。孫亮(二代皇帝、権末子)の代では皇室・外戚・豪族の三派に分かれていたのは先に見たな」
Y「169回だな」
F「まず脱落したのが豪族派筆頭の諸葛格(瑾長子)だった。当時諸葛格は豪族派のトップにいたが、外様だったので江東豪族の支持を得られず、見捨てられるかたちで死んでいる。この頃すでに、呉は天下を盗る野心を失い、江東に割拠してそれでよしとしていた風潮がある」
A「で、外戚派の主体たる全家一族の大多数が、諸葛誕戦で追いつめられて魏に寝返った」
F「この一件がなければ孫亮はそのまま外戚派と皇室派の板挟みだったろうが、全家を失った大トラの衰えを見てとった孫綝は、孫亮もろとも孫魯班と残る全家を宮廷から追放。これにより、皇室派が宮廷の実権を握った……かに見えた」
Y「これまでないがしろにされていた皇帝そのものが、下級豪族……と云っていいのか、丁奉は? 組んで皇室派を根絶やしにした、と」
ヤスの妻「つまり、呉国全体で人的影響力が低下していった、ということ?」
F「そうなります。呉という国は江東豪族の集まりだけに、それを束ねる能力と意思のある者が上に立っていれば安定するンです。孫峻・孫綝には能力が、孫魯班には両方が欠けていて、この両者に翻弄されるまま流された孫亮にも、結果論で能力があったとは考えにくい。諸葛格に至っては上に立つことが認められず、一族郎党皆殺しという末路を迎えた」
A「……孫登(権長子)が生きていればなぁ」
F「孫権が長く生き過ぎたのが、むしろ不幸だったかもしれん。アイツが生きている間、皇后が立てられなかったため外戚も立たず、皇室どころか兄弟も冷遇されていた。身内を冷遇することで『我が孫家が呉を私物化することはありません。帝位さえ認めてくれれば皆さんの利益は保証します』と意思表示したともとれる。どうにも呉という国は孫権の調整能力に拠っていた面が否めない」
Y「豪族たちはそれに乗った、か」
A「ところが、長く生き過ぎたせいでアタマも衰え?」
F「孫峻や孫魯班の台頭を許したワケだ。その意味では、孫休(三代皇帝、権六子)も惜しかったと云える。呉が魏に対抗するには、益州を得て南北大勢に持っていくことが必要だという当初の国是・天下二分に立ちかえったのなら、能力面では孫亮らより上だったが、孫休にはとにかく上に立つ意志がなかった。はっきり政務放棄さえしてのけているンだから」
A「……何でそんな奴が皇帝になったンだ」
F「消去法だってば。そんな孫休がぽっくり死に、後を継いだのは孫皓だった。公式には孫権の三男・孫和の子ということになっているが、母の何姫は孫権のお手つきのあとで孫和に下げ渡され、生まれたのが孫彭祖だ」
A「それがのちの孫皓、と……」
F「165回か、孫和の最期を見たのは。孫峻というより大トラのせいで孫和が妻の張氏ともども無実の罪で殺されたが、何姫は『わたしまで殉死したら誰がこの子たちを育てるのです!』と孫皓らを育てるため生き延びている」
A「呉の民は孫和夫婦の死を惜しんだ、だったか。割と風当たりがあったかもな」
F「だが、何姫は自分の子を育てるのを孫和に殉じるのより優先したワケだ。孫和たちに罪がないのは孫峻も判っていたとは当時触れたが、それだけに追及はなかった。あるいは、孫皓が孫権のタネだと知っていたからこそ何姫は大言を吐いたとも取れる。まぁ、子供の父親なんて母親にも判らんものだが」
妊婦の弟「妊婦の夫がンなこと云うな」
F「……そうだな、すまん。えーっと、孫亮は殺した孫休だったが、孫峻・孫綝のせいで苦労した同士、孫皓には同情的だった。孫皓は、孫休から烏程(ウテイ)侯に封じられている。ニュアンスで判ると思うが、項羽の死んだ烏江(ウコウ)の近くだ」
A「お前、何やって……るのかね?」
Y「同情的なのか悪意があるのか、判断しかねるなぁ。あの学術研究家皇帝だけに、知らなかったとは思えんが」
F「僕もだ。だが、この叙任はのちの歴史を動かした。烏程の亭長……じゃなかった、県令をしていたのが万ケ(バンイク)で、彼は出世すると宮中に入っていた。県令時代に親しくしていたモンだから『孫皓様は才智にあふれ、孫策様にも劣らぬ立派な御仁です』とことあるごとに口にして、張布(チョウフ)や濮陽興(ボクヨウコウ)の耳に入れさせたンだ」
Y「時あたかも蜀が滅び、交州が呉に叛して、挙げ句に孫休が若くして死んだその頃だけに、呉の民は立派な君主を求めていた、と正史にも記述があるな」
F「以前触れたが、孫休が30で死んだからには、太子の孫ワン(字がない)はどう考えても十代それ以下だ。孫休は233年の生まれだけど、二宮の変の最中に孫休の子供が生まれていたら、いらんとばっちりのタネになりかねない。実理的に考えるなら250年以降の生まれだろう」
A「となると、264年の時点では十五そこらか……」
F「対して孫皓は、この年23歳。ちっとはマシ、ということで濮陽興らは朱皇后(孫休の后)に伺いを立てた。小トラ孫魯育の娘は『夫を失った女にすぎない私に、国家のことなど判りましょうか。呉と孫家が保てるならそれがいいでしょう』と、国政に関与しない旨応えている」
A「政治から身を引いた、か」
F「話をちょっとさかのぼるが、184回で孫休が『有力武将の子や孫を取り立て』たと云ってある。具体的には賀斉(ガセイ)や虞翻(グホン)で、賀斉の孫(次男の子、なお賀斉本人は227年に死去)の賀邵(ガショウ)、虞翻の四男(虞翻本人は233年に死去)の虞(グシ)だ。他にも薛綜(セツソウ、243年没)の息子・薛瑩(セツエイ)も昇進している」
Y「さりげなく、豪族の支持を取りつけようとした?」
F「事前に根回ししていたことで、孫綝誅殺後の政策にそれほどのトラブルが残らなかった、とも云える。では孫皓はどんな人事を行ったかと云えば、ぶっちゃけえこひいきだ」
A「ひと言で云うなぁ」
F「まず、丞相は濮陽興が留任、張布は驃騎将軍に昇進した。万ケも側近秘書官的な役職に取り立てられ、この辺りは単純な行賞人事。孫皓夫人の父たる滕牧(トウボク)が衛将軍に、二宮の変で孫和に与し流罪となった屈晃(クツコウ)の子たちも立義都尉、身辺警護の役職に取り立てられた」
A「二宮の変の決着は250年だから……まだ根に持っている世代だねェ」
F「そゆこと。まぁ、その先は割とマトモで、賀邵・虞・薛瑩や韋曜(イヨウ、史官)も昇進ないし留任、この辺りは孫休時代の踏襲となる。軍部では、朱績(シュセキ、朱然の子)と丁奉を左右の大司馬に並べ、陸抗(リクコウ、陸遜の子)が鎮軍大将軍・益州牧として荊州方面軍を預かるに至った」
A「そんなに的外れでもないのか」
F「この時点では……というところだがな。さて、孫皓が即位して最初にやったのは、孫和を皇帝にすることだった」
A「……えーっと?」
F「周知の通り孫和は、いち時期孫権の後継者となっていながら、大トラのせいで二宮の変が起こり失脚している。孫魯班はそれでも飽き足らず孫和を殺しているから、孫皓としては黙っておれんワケだ。孫和に昭献皇帝、のちに文皇帝の諡号を送り、韋曜が編纂していた呉書(呉の史書、陳寿のものとは別物)に孫和の本紀を立てるよう迫っている」
A「本紀って……」
ヤスの妻「史書における帝王の列伝だね。史記で云えば五帝から春秋戦国期の王たち、始皇帝と項羽、それに劉邦からの皇帝たちと呂后が該当。要するに、孫和が皇帝になったことにしろ、と云っているの」
A「だから『孫和を皇帝にする』か」
F「だが、いつぞや云った通り韋曜は物事の筋を通さずにはいられない性格だった。皇帝になっていない孫和の本紀など立てられません、と反発している。これはまぁ妥当な反応なんだが、孫皓は収まらなかった。烏程に作った明陵(孫和の墓所)に、200からの墓守をおいているンだ」
Y「多すぎんか?」
F「ンで、烏程を治所とする呉興(ゴコウ)郡を作ると、季節ごとに孫和の祭礼をさせた。のちに、呉都建業にも孫和をまつる廟が建てられている。これは、役人が孫和廟を建てましょうと上奏してその気になった……ということになっているが、癒着があったのは明白だな」
A「孫和祭礼のための郡を作って、さらに孫和の廟を立て……」
F「清廟を名づけられたこの廟が完成すると、二千からの官吏・軍兵を明陵に送って魂分け(分骨の一種)を行わせ、分魂が到着すると陸凱(リクガイ、当時左丞相)に到着の祭礼を行わせ、孫皓も加わって野外で夜を越している。ンで、翌日からは泣くや叫ぶやの大哭を繰り返し、7日で3度の祭礼を行ったという」
A「コイツ、何やってンの?」
F「さすがに見かねた係官が『過ぎたるは及ばざるがごとしです!』と上奏し、何とかやめさせているが、やりすぎてはむしろ軽んじることになると云われるまで哭き続けたのは、やはり孫和の子ではなかったンだなぁと思える」
ヤスの妻「そーだね」
Y「……おい、何でだ」
F「実子ならここまでやらん。度が過ぎも過ぎまくっているくらいやり過ぎているのは、純粋な親孝行か裏があるかだが、孝ではない。孫皓は何姫を昭献皇后、のちに皇太后に立て、孫和の母・王夫人(瑯邪)にまで追号を送っているが、孫権及び孫和正妻の張氏に孫皓が何かした記述はほとんどない」
A「張氏はまぁ仕方ないでしょ、孫皓は何姫の子なんだから。でも、孫権に何もしなかったからって、孫和やその母親に追号してて、どうして孫和の子じゃないことになるンだ?」
F「ほとんど、と云ったろう。実は、孫皓が孫権に何かした記述がある。孫権が建業に立てた宮殿を太初宮といい、これが約720メートル四方だが、孫皓はそれを凌ぐ約1200メートル四方の昭明宮(呉書では司馬昭の諱を避けるため顕明宮としている)を建てているンだよ」
A2「(くすっ)……ラムセス、3世?」
Y「何でお前、前回都合よくラムセス2世の話なんかさせたンだよ!?」
ヤスの妻「うぐぐ、わたし一流の不覚……。清の乾隆帝が、61年在位した康煕帝(祖父)が偉大だからって60年で退位したように、ご先祖さまを上回るような真似をしでかすのは、孝に外れる行いだね」
A「ご先祖さまを上回る大きさの、それも宮殿……。こりゃ確かにフォローもできん」
F「ラムセスは6世までいるンだが、ともあれ。孫皓は孫和を手厚く葬っても、孫権を軽んじていた。そして、孫皓が孝行者という結論には納得しかねる根拠がある。以上のことから、孫和を手厚く葬ったのもパフォーマンスと考えざるを得ない。なぜそんなパフォーマンスをしたのか……は、というわけだ」
A「……どーにも、孫皓が孫権の子だと考える方が説明がつくンだな」
F「実は、それを理解してもらうのに、凄まじく手っ取り早い方法があるンだが……やってしまっておくか。孫皓は、即位した当初は意外にも名君だった、とある」
A「そーなん?」
F「正史の注だが『慈愛ある詔を出して士人や民の生活をあわれみ、官庫を開いて貧民を救済し、規定を定めて宮廷の女官を解放すると男やもめに娶せたり、宮廷で飼っていた鳥や獣を逃がした』と、評判のいい真似をしているンだ。ために、ひとびとは口をそろえて名君と評した、とあってな」
A「後半がどう評判がいいのか判らんけど、地味にいいことしてるなぁ」
F「ただ、コレ即位した当初の話題でな。先に触れた通り、孫皓の即位は8月になるかならないかくらい。11月にはすでに『粗暴で驕慢、肝っ玉は小さくて執念深く、酒や女を好んだので、ひとびとはみな失望した』となっている。濮陽興や張布は孫皓を立てたのを悔んだくらいだ」
A「これまた3ヶ月!?」
F「ここまでに孫皓が何をしたか、は記述が少ない。朱績ら群臣を昇進させたり、改元したり大赦したり……と悪とは云えない記述が並ぶ。孫休夫人朱太后の位を落としたり、孫休太子孫ワンやその弟たちを各地の王に任じたりしているが、これだって一概には悪とは云えないだろう」
Y「まぁ、権力のありかが変わったのを内外に知らしめるために必要な措置だな」
F「そもそも3ヶ月では、悪行を重ねようにも期間が足りないと思えるしな。だが、思いだしてくれ。そもそも張布たちは孫休の肝煎りで登用された身だ。それなら孫休の死後に朱夫人が廃されたのを、不満に感じてもおかしくあるまい」
A「……割と因果関係は明らかなんだな」
F「というわけで11月1日、張布・濮陽興は広州送りになった。万ケが先の不満発言を聞きつけて孫皓に吹き込んだことでそんな処置を取られたンだが、もちろん、広州に行きつく前に追っ手がかけられ両者は殺害され、その一族は皆殺しになっている。濮陽興は諸葛格・孫綝らと並んで呉の叛臣列伝にあげられているンだが、かなりあっけない最期を迎えたワケだ」
A「何でその程度で叛臣扱いなんだ?」
F「陳寿は、張布と組んで孫休が執るべき政治を私物化し、万ケと組んで孫皓を立てたことをあげているな。孫皓ではなく孫休への叛臣だった、としているワケだ。これとは別に、翌265年7月には、件の朱夫人が、孫ワンともうひとり(孫休次男)ともども殺害されている。裴松之によれば皆殺しになっているンだが、この時点では下の子ふたりはまだ殺されなかったという程度のオハナシだろう」
Y「正殿では死なずに、宮殿の中の小さな建物で葬儀が行われたため、ひとびとは朱夫人の死が病死ではないと察し、悲しまない者はいなかった、とある」
F「仮に孫休派と呼ぶべきものがあるのなら、それらは丁奉を残して、手っ取り早く除かれたワケだ。そして、それに代わって勢力を伸ばしてきたのは、皇后・滕夫人の父・滕牧や、何姫もとい何太后の親族たち、要するに外戚連中だった。孫権健在の頃には見られなかった外戚の横行が始まったワケだ」
A「あらら……」
F「ところが、横行はあっさり終わる。267年中のようだが、滕夫人への愛情が薄れていたモンだから、滕牧は交州送りになり、道中で心労から死去。滕夫人は廃されこそしなかったものの、孫皓は次々と女性たちを後宮に入れた……とある。実は滕牧、孫皓の暴虐をいさめる上奏係として使われていて、それが理由で身を滅ぼしたっぽい」
A「誰に使われてたのさ」
F「たぶん陸凱。夫人を増やすことで寵愛の対象を増やし、特定個人に寵愛を集中させないことで外戚が現れるのを防ぐというのは孫権がさりげなく使っていたテクニックだな」
A「そこでつなぐなよ!」
F「また、孫皓は群臣を集めて酒宴を張るとき、全員酔い潰れるまで呑ませた挙げ句、秘書官(には呑ませなかった)にその様子を記録させ、酔いが冷めたところで読み上げさせる、というろくでもない真似をしている。不満そうにしただけで摘発された……とあってな」
A「……酒癖というより、酒宴癖が悪かったンだな」
F「さらに、後宮には数千人の女性がいたが、それでも新しい女を集めていた。宦官を地方にくまなく送り込み、文武官の娘を査察させている。地方・中央を問わず有力な家臣の娘は、15そこらになると一度選抜試験を受け、それに落ちてからはじめてヨメに行けた……とあってな」
A「試験に受かったらそのまま後宮入りかよ……」
F「いつか云った通りだよ。孫権の下から2番めの息子は、孫権の悪いところだけ受け継いだ感がある。酒癖・女癖・粛清癖だが、孫権と孫皓の血縁を理解してもらうには、孫皓の行いをしっかり見てもらうのがいちばん手っ取り早い」
Y「まぁ、グウの音も出ないが……」
A「あああ、信じそうになってるアキラがいやーっ!」
F「ところで……」
A「追撃きたーっ!?」
Y「むしろとどめか?」
F「いま見た孫皓の行いには、正史の注の記述も含まれているが、正史の本文に孫皓の奇妙すぎる性癖が書かれている。本人の伝には書いていないからこそ信憑性がある、とも云えるが、陸凱伝にそれはある」
孫皓は、他人が自分を見ることを好まず、群臣の御前に出るときも正面から見ることは許さなかった。陸凱が説教すると、陸凱には自分を見るのを許した。
A「ヒトに見られたくないってなに!?」
F「なぜ、という明記はない。理由としてはふたつ考えられるが、うちひとつ『極度の恥ずかしがりだった』はありえないので却下する。おそらくはもうひとつの『顔に問題があった』だろう。夏侯惇が盲夏侯と呼ばれるのを嫌がって、鏡を叩き割っていたように、だ」
Y「外見的なコンプレックスか」
ヤスの妻「……それは、直視しなければ見ることができないもの」
A「っ……!?」
A2「(ぅわ)……ここで、問題の隠しページが」
Y「孫権は碧眼紫髯だった……か」
F「なぜ、という明記はない。だが、本人の伝には書いていないからこそ信憑性がある、とも云える。男は自分の顔に責任を持てと云っておきながらグレース嬢に指摘されるまでヒゲもはやさなかった貧乏弁護士(のちの大統領)みたいな例外もいるが……」
Y「だから、リンカーンの何が不満なんだ、お前は」
F「存在。孫権と共通した、孫和とは共通していない外見的特徴があったのなら、孫権本人はともかく、孫皓がそれを嫌がるのも無理からぬオハナシでな」
A「……ぎゃふん」
F「続きは次回の講釈で」
Y「姐さん……コイツ調子づかせるのやめてください……」
ヤスの妻「いや、なんかホントにごめん……」