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私釈三国志 186 曹魏滅亡

F「では、引き続いて41回26年遅れとなった、魏の滅亡劇を見る」
Y「実質的には、司馬懿の政権奪取の時点ですでに魏は滅んでいた、だったな」
F「うん。仲達を経て司馬師が魏を支えていたが、司馬師は父とは違うかたちで政権を握っていた。つまり『皇帝だから大事にしよう、という発想はやめよう』という、袁紹王淩(オウリョウ)に通じる政治構想だ。ただ、曹爽(ソウソウ)のやったことは『何なら俺でもいいんじゃね?』と、発想としては革命派だが状況としては革新派というものになる」
Y「皇族による天下盗りがいちど画策されたワケか」
F「厳密には皇族と呼べるほどの位置づけではなかったが……」
A「いい加減助けませんか俺を!?」
ヤスの妻「むぅ……」
A2「じーっ……」
F「……おふたりとも、僕が手を叩いたら、距離は置かなくていいからアキラから手を離す。おーらい?」(ぱんっ)
妻たち『しぶしぶ……』
A「あうぅ……いつか刺されそうで怖い」
F「つーか、新婚夫婦の間にいらん波風立てるなよ。えーっと……どこまで喋った、オレ?」
Y「曹爽と王淩」
F「だったか。ために、仲達は王淩や曹爽を容認できなかった。保守派としては『皇帝だから大事にするンじゃ』というところでな。この発想は、司馬家が代々儒教を奉じていたのと無縁ではありえない。何しろ儒教は『親だから無条件で大事にしろ』と教える宗教だ」
ヤスの妻「ときどき思うンだけど、モーセの十戒に『お父さんお母さんを大事にしよう』ってあるの判ってる?」
F「そのモーセ率いるユダヤ人が、エジプトを出ることになった原因のファラオが誰か知ってるか?」
ヤスの妻「……知らない」
F「ラムセス2世だ。ご先祖様の作った神殿からその名前を削り落として『ボクが建てました!』と上書きした、エジプト史上もっとも偉大なファラオのひとりだな」
A「負け惜しみかよ……」
Y「何がどう偉大なのかまるで判らんが、そんな奴から迫害されていれば『親を大事にしないと地獄に堕ちるぞ』とか云いだしても不思議じゃないな」
F「キリスト者として論評は控えるが、無視できない人間関係があるのは事実なんだよ。それはともかく、司馬師の政治思想は『国のためにならない皇帝なら替えてもかまわない』だった。当初は司馬昭もそのハラづもりだったンだが、曹髦(ソウボウ)が早まったせいで路線変更があった、と」
A「やってることが袁術では、世間の支持は得られないだろうね」
F「司馬一族の魏における治世について、呉の張悌(チョウテイ、のちの丞相)の発言がある。魏が蜀に攻め入ったことについて、議論しているンだが……えーっと、かなり長いぞ」

呉人(誰かは不明)「司馬氏が政権を握って以来しばしば叛乱が起こっているのは、彼らが智に長けるとはいえ民心を得ていないからでしょう。今度は蜀に兵を出しましたが、兵が疲れ民衆が苦しんでも省みることもしないのだから、失敗は目に見えています。かつて呉王夫差が斉に兵を出し、国力では勝っていながら国を危うくしたのは、己の国に配慮をしなかったからこそ。司馬氏が失敗するのは明らかです」
張悌「そうではない。かつて曹操は中華の地を圧倒し、その名声は全世界に響いたが、権謀術数を重ね征伐を繰り返したことで、民衆は彼を畏れたのであって、仁徳にひれ伏したわけではなかった。曹丕曹叡はそのやり口を受け継ぎ、内には造営、外には兵を動かし続けたため、民衆は平穏をのぞめず、民心は曹氏から離れてしまったのだ。司馬氏は魏を我がものとして以来しばしば大功を立て、政治からは煩雑さ・苛烈さを除き、公平と温厚を旨とした。率先してひとびとの苦しみを救ってやったことで、民心は司馬氏になびいたため、曹髦が死んでも魏は揺らぎもしなかったのだ。敵を軽々とねじ伏せ、反対者を簡単に除き、賢者を取り立てて心から仕事に取り組ませている。それらはみな智勇を兼ね備えた者にしかできぬことだ。威名は広がるばかりで、人々の心はなびき国の根本は安定し、帝位簒奪の成算も進んでいる。それなのに、蜀では宦官が朝政をほしいままにして、国家の体をなしておらん。いらぬ軍役を繰り返したため兵も民も疲れ果て、守りの態勢が整わんのだから、二国の強弱には画然とした差がついているのだ。司馬氏が勝利することは疑いもなく、たとえ勝てなかったとしても退却しなければならんとか軍を失うとかの心配はない。蜀に兵を出すことに、何の心配があろうか」
呉人「張悌殿は心配症ですなぁ、はっはっは」
※ 夫差:フサ
 春秋時代呉の王。斉に攻め入るも越に本国を攻められ、そのまま滅びの道を進んだ。一名をして"臥薪"。


F「どちらが正しかったのか、は明らかなんだが」
A「うーん……」
F「もの凄く簡単にまとめると、曹一族は民衆を威圧して従わせていたが、司馬一族は民衆を寛容に扱って支持を得た。対して蜀は黄皓(コウコウ)と姜維のせいでボロボロだから、負けることはないだろう、ってところ」
A「最初からそうまとめろよ。……つーか、割と的外れなこと云ってないか?」
F「いや、曹操への評価はともかく、大筋では外れていない。忘れてるかもしれんが、魏は曹叡の代くらいから民衆の支持を失いつつあったンだ。経済活性化のための政策が失敗したからだが」
Y「そーいえばあったな、そんなイベント」
F「それでいて呉・蜀・燕らの外憂や曹爽・王淩・毌丘倹(カンキュウケン)・諸葛誕らの内憂が続いて、それらを武力で鎮圧し続けたのは、曹魏の旗のもとで行われていた。行いそのものを責めるわけにはいかんが、民衆からみれば武威で屈服させているという印象はぬぐえないンだよ」
A「実行犯は司馬一族なんだけど」
F「ところが、その司馬一族と曹一族の間では、かなり大きな意識の隔たりがあった。実を云うと、つい2時間前に認識したンだが」
A「にんしき?」
F「ちゃんと読んでタイプもして『私釈』でも取り上げたのに、これがどういうことなのか判っていなかったものがあったと、つい2時間前に気づいたンだ。自分の不明を恥じるしかないが、まずは訂正から。130回の8で挙げた曹植の上奏文に間違いがあった」

×「孫権孔明を捕らえることはできなくとも、先頭切って敵陣に斬り込み、副将程度ならば討ち取りましょう」
○「孫権を捕らえ孔明を殺すことはできなくとも、先陣切って敵陣に斬り込み、副将程度なら捕らえましょう」

A「曹操でも司馬懿でも周瑜でもできなかった孔明殺害を成し遂げるとは、あのボンボンなかなか豪気だな」
F「対して、176回で見た蜀攻略の詔勅は、こんな具合だ」

「(前略)ケ艾諸葛緒鍾会に命じる。姜維を捕らえ、蜀を討て!」

ヤスの妻「捕らえる、だけでいいの?」
F「現に、姜維は降伏したら受け入れられている。鍾会には鍾会の考えがあったのが実情だけど、少なくとも最初から殺せとは命じていない。晋書でも『沓中(トウチュウ)で縛りあげろ(=捕えろ)』となっているし」
A「敵将を、殺せとは命じなかった?」
F「事例としてはこれだけじゃない。諸葛誕の叛乱劇でも、諸葛誕とそれに殉じた兵たちは処刑したが、降伏した将兵は受け入れている。戦中では諸葛誕・文欽(ブンキン)と並んで『三人の叛逆者』と名指しされた唐咨(トウシ)でさえ、許されたのみならず、呉攻略のための軍船整備という大役を任されたほどだ」
Y「ブラフだったがな。……だが、確かにコレは無視できんぞ。敵将でも、首謀者に近い輩さえ受け入れているとは」
F「劉禅はどうなった? 降伏を容れられ、ちゃんとした扱いを受けた。事前に『ちゃんとした扱いをしなければ許さん』と息巻いた譙周(ショウシュウ)や霍弋(カクヨク)が魏に降っているのがその証拠だ。蜀の民衆はどうなった? 五年間は税を半分に免除し、罪人には恩赦を出し、中原に移住する者には2年分の食糧を与えるという好待遇だった」
A「寛容というより甘過ぎんか!?」
F「この時点での司馬一族を、寛容でないと評価することはできないンだ。孔明を嫌い抜いていた曹叡への上奏文だから、その孔明を殺すと云えば心象がよくなるとの判断かもしれんが、ポエットの曹植でも敵を殺すという選択をしていた時代なのに、殺さずに捕らえ(使い方はともかく)活かすことを選んでいた」
A「これじゃ、天下が晋に揺らいでもおかしくないな……」
F「司馬昭は辛辣だった。武力でもって天下を奪えば思わしくないリアクションがあると、その時点では考えていなかったのに身をもって知っていた。そこで選んだのは、民の信望を集め、味方を増やし支持を積み重ね、階位と実効支配を進めていくという、ある意味途方もない道だった」
ヤスの妻「……確かに、途方もなさすぎるよ、それ。張角劉虞(リュウグ)が志半ばに倒れた道でしょ?」
F「そう。董卓や袁術では云うに及ばず、孫権でも成し得なかった、王道だ」
Y「……魏が選んだのは覇道だった。それは否定しない」
ヤスの妻「成し遂げたのは演義での劉備くらいかな。行いとしては曹操がやっていたのも王道だけど、あのヒトはそもそも帝位への野心がなかったワケだし」
A「民に優しく、敵にも情けをかけ、だが己には厳しく……か」
Y「……となると、曹髦殺害は司馬昭の本意ではなかったことになるな。曹髦を殺したことで革新から改革へと針路変更したからには、王道を選んだのもその時点だろう。自分の意志で主を弑逆奉ったなら、そのまま覇道を歩んだはずだ」
A「鍾会が踏み出させようとした覇道への一歩は、野心の木がしっかり生えちゃったせいで踏み出せなかった?」
F「自分を高めることで天下を盗ろうとした、というわけだ。簒奪の意思はあった、それは間違いない。だが、そこに至る道は誰よりも厳しく遠いものを選んでいるンだ。司馬昭が何を考え何を志したのか、深く考えもせずに前回の講釈をしでかした、自分の愚かさを恥じる他はない」
A「いや、それは仕方ないって。演義のせいで曹操に野心があったと思い込んでる輩に比べたら可愛いモンだ」
Y「当の本人にしかできんフォローだな」
A「うるさい」
ヤスの妻「……贖罪かな。どっかの誰かと同じで、主を死なせたことを悔やんで自らに苦行を科した」
F「さて、誰のお話やら。だが、誰ひとり予想だにしなかった事態が発生する。265年8月9日、司馬昭が急死しているンだ。死因や死の状況について、魏書には一切の記述がなく、ただ日付があって『逝去した』とのみ。晋書でもなぜ死んだのかは一切ない。享年五六」
Y「司馬仲達が73歳、司馬師が48歳だったか」
F「兄よりは長生きしたが、その兄が不測の死を遂げたのは周知の事実だ。つまり、寿命そのものはまだまだあっただろう。だが死んだ。なぜ死んだのか……は一切記述がないが、ここで司馬一族は方針転換を余儀なくされている。世間や朝廷での評判はどうあれ、司馬昭が天下を牽引していたのは事実だ」
A「司馬炎(シバエン)では、それが務まらない?」
F「司馬昭の長子、司馬炎……236年生まれか、この年30歳だな。キャリアであれ名声であれ司馬昭に劣る司馬炎では、司馬昭の代わりにはなりえなかった。しかも、司馬炎が王太子に立てられたのは、実はこの年5月なんだ」
A「3ヶ月前!?」
F「魏書では前年のうちに決まっているンだが、この場合は晋書の記述が優先されるべきだろう。なぜそんなに手間取ったのか……はかなり複雑に人間関係と利権が絡むから、この場ではさておく。ともかく、司馬炎を立てたからには、王道を放棄して覇道を往かねばならなくなった。実績も名声も乏しい司馬炎を立てていくためには、とっとと帝位につけてしまわないと、魏の忠臣ヅラした連中が反攻に出かねない」
Y「しかもそれが身内ではなぁ」
F「というわけで、司馬炎は8月中に晋王・相国の座を継承すると、12月には曹奐(ソウカン)から禅譲にこぎつけている。さすがに、曹叡の最期でも息子の即位でも身を退き続けた曹宇(ソウウ)の子だった。亡父(曹宇は263年に死去)の薫陶よろしくあっさり身を退いている。あるいは魏の命数が尽きたのを自覚していたのかもしれんが」
A「あっさりしすぎてないか?」
F「側面的な事情もある。呉帝孫皓(ソンコウ)も24歳と若いが、曹奐はこの年ハタチだ。ちゃんとした宰相もナシに大国を率いるにはやや不安のある年齢なんだよ。そのちゃんとした宰相が死んだからには、何らかの手を打たなきゃいけない」
A「若き宰相を皇帝に、その補佐役を宰相に、か。賈充(カジュウ)……だっけ? それくらいの切れ者なのか?」
F「その辺りはこの先で触れる。というわけで265年12月13日、魏という国は滅んだ。5代45年の歴史は、曹叡か司馬昭が長生きしていればもう少し長く続いたと思われる」
A「曹操の死から……数えても45年か」
F「後漢王朝は曹操と同じ年に死んだからね。いちおう云っておくと、曹丕の死から39年、曹叡の死から26年、曹芳の廃立から12年、曹髦の戦死から5年。仲達の死から14年、司馬師の死からは10年後のことだ」
Y「思えば環境が悪かったな。曹髦が孫休みたいに、政権マル投げして趣味に没頭できるタイプだったら、魏は安泰だったはず。禅譲の時期が早まったとも考えられるが、なまじ義務感のある君主だったせいで魏の命脈は絶たれた」
F「何もかも曹芳だね。アレが出自の判らない子供だったせいで司馬師に廃立され、廃立されたせいで曹髦が即位し、即位したせいで悲劇が起こった。ちゃんとした後継者を得られなかったと曹叡を責めるとなると、皇族冷遇政策をとった曹丕にまで遡るから、さすがに責任の所在が薄れる。まぁ、曹芳くんで止めておくべきだろうな」
A「子の罪で親を責めるより、むしろ子の育て方を間違ったと司馬懿責めろよ……」
F「曹操や仲達を『息子の育て方に失敗した』と責めることはできるけど、漢なり魏なりを滅ぼした責任の所在は親世代にはない。その辺りの追求が『私釈』のメインテーマのひとつだったりする」
ヤスの妻「それを云うとなると、蜀を滅ぼした遠因を劉備や孔明さんに求めることになりそうだからね」
F「そりゃ求めていいようにも思えるが。ところで、繰り返しておこう。蜀や呉は攻め滅ぼされたが、後漢や魏は禅譲してその命脈を終えている。ために、滅びの道を転がっていたのは明らかなんだけど、転がり始めた時点が滅亡なのか、ついに道がなくなった時点が滅亡なのかは、今ひとつ判断が難しいところで」
A「後漢で云うなら、霊帝が即位したのが転がり始めで?」
F「黄巾の乱がひとつの谷だったが、曹操が愚直に山を遷してスピードを緩めていた。ところが曹操の死によって、山からすっとんと落ちたのが220年、というわけだ。魏も経緯はほとんど同じで、曹丕・曹叡が若くして死に、曹芳が即位したことで滅亡劇はスタートした」
Y「曹爽の手で加速していたのが司馬懿によっていったん休止したが、そこから司馬師・司馬昭を経て司馬炎に代替わりしたことでまたすっとん、か」
F「この辺りのコース取りは割と興味深い。何しろ、司馬家三代が保守派→革新派→革命派と代替わりとともに政策変換していったのに対し、曹操から曹丕へのパスワークでは革新派を経なかったンだから」
Y「……そうか、曹丕はその段階を踏まなかったのか」
F「それが曹操にとっての不幸だった、とも云える。自分の死後に曹丕が帝位に就くのはある程度覚悟していただろうけど、その数十年後に似通った真似をしでかした奴がいて、そいつははっきり帝位への野心を持っていた。司馬昭には司馬昭の事情と考えがあったとはいえ簒奪を企んだせいで、割と悪評が根強い」
A「誤解なのかそうでないのか微妙なものが蔓延しているワケか」
F「司馬昭がせめてもう10年……いや、7年長生きしていたら、あるいは評価が覆ったように思ったのはほんのついさっきなんだがな。というわけで、To die or To kill, That isn't the question! 『玉座の上のハムレット』司馬炎は皇帝となった。ここに、三国時代の終わりが始まる」
Y「何だ、その二つ名は!?」
ヤスの妻「寿限無よりはマシだよ!」
F「続きは次回の講釈で」

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