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私釈三国志 185 司馬子上

A「というわけで、ただいまー!」
A2「……ただいま」
F「あぁ、おかえり」
ヤスの妻「おかえり、アキラ!(ぎゅっ)」
Y「抱きつくな」
A2「(じーっ)……無視されてる」
三妹「仕方ないわよ、義姉さんアキラが大好きなんだから」
A2「(ぎゅっ)だめ」
ヤスの妻「むっ……」
A「えーっと……あーさんも義姉さんもおちついて……」
2人『じーっ……』
Y「おい、何とかしろ」
F「僕に振ってどうするよ。まぁ、気にしないで前回のおさらいから。そんなワケで264年7月25日に孫休(ソンキュウ)が病死したが、その息子ではなく『公式には甥となっている』孫皓(ソンコウ)が後を継いだ。日付の明記はないが、7月の末から8月の頭までには皇帝に即位している」
Y「約1週間というところか」
F「曹芳(ソウホウ)や孫亮(ソンリョウ)のように退位させられた皇帝の、後継は約半月後に即位しているが、皇帝崩御に伴っての後継即位は1ヶ月間を置くのも珍しくない。が、今回は蜀の滅亡が間もなく、帝位を開けてはおけないということで、早めの措置をとったと考えていいな」
A「あー、やっと解放された……。魏の動きが怖かったってコトか」
F「そゆこと。常々云っている通り、皇帝の代替わりというのは攻める側にとってはつけいる隙そのものなんだ。喪につけこんで攻めるのは道義的には褒められんが、孫権が実際にしでかしているのを考えると油断はできない。表向きには、孫休の息子(生年不詳だが、どう考えても十代それ以下)では若いから……というのが孫皓即位の根拠だし」
Y「若い皇帝ではこの難局を乗り切れない、と張布(チョウフ)辺りが判断したワケか?」
F「いや、万ケ(バンイク)だ。その辺の事情は何回か先の『暴君暴走(仮称)』で触れる。ただ、孫休の死と孫皓即位に揺れる呉に、魏は侵攻しなかった」
ヤスの妻「できなかった、ではなく?」
A「発言の前には手を挙げませんか、お義姉様……」
F「解放されたンじゃなかったのか? この頃の魏は、蜀攻略の戦後処理と、司馬昭(字は子上)が晋公を経て晋王になるので忙しく、外征どころではなくてな」
A「あぁ、やっと受けたンだ」
F「魏書によると、263年10月に相国・晋公に叙する詔勅が降り、これを拒んだという記述がない。晋書では、例によって拒んだものの、司空の鄭沖(テイチュウ)に説得されて受けたとの記述があり、どちらにせよ翌264年の3月の記述ではすでに公となっている。曹操のときとは違って、帝位簒奪への下準備を始めているワケだ」
A「今回は隠しようもない、と」
F「路人皆知じゃからねェ。ただ、以前見た通り263年の10月と云えば、魏による蜀侵攻戦の真っ直中だ。実戦はケ艾鍾会に委ねているとはいえ総司令官の司馬昭が、このタイミングで受けたのはちょっと妙だな」
Y「……確かに。出陣前に褒章の前渡しとして受けるか、勝ってから行賞として受けるならまだしも、戦闘中に受ける必要はないよなぁ」
F「理由づけはいちおうできるぞ。晋書では、ケ艾の山越えが11月になってるンだ。つまり10月というのは姜維相手に剣閣で苦戦している最中で、ケ・鍾への『苦戦しているようなら俺が行くぞ? せっかく昇進したンだ、手柄のひとつもあげんとなぁ』という意思表示とも取れるワケだ」
Y「督戦のためにか」
F「司馬昭の指揮能力は、諸葛誕相手に見せた通り拠点攻略でこそ真価を発揮するからな。姜維が防御を固めているモンだから、手柄を持っていかれると苦慮したケ艾が山越えに走った……とも云える。成り上がり者のケ艾は、蜀次いで呉を攻略することでさらなる出世をと望んでいたワケだから」
ヤスの妻「ケ艾が生きていたら、孫休の死につけこんで出兵していただろうしね」
F「でしょうね。ただ、それをしでかされるとさすがに軍功が大きすぎるンです。司馬一族としては、自分に取って代わりうる存在を生かしてはおけない。それがケ艾であれ、鍾会であれ」
A「ある程度鍾会の叛心を察していた司馬昭だけに、ケ艾にも踏み絵を敷いたワケか」
F「そゆこと。増長せずに従うようなら、生かして使うつもりだったンだろう。だが、かたや独断専行で自滅、かたや本心を剥きだして独立では、ふたりとも始末されてるのは仕方のないことでな」
A「相手が悪いかぁ」
F「司馬昭は、純粋な智略では兄を凌ぎ父にも引けを取らん。この頃存命の武将では、陸抗(リクコウ)でも一歩は譲るだろう。鍾会と真っ向からの知恵比べでも、きっちり勝ってのけたワケだ」
Y「司馬懿の劣化コピーだった司馬師とは格が違うか」
F「ただし、費禕(ヒイ)が蒋琬(ショウエン)の後継者ではなく、司馬師が仲達の後継者たりえなかったように、司馬師―司馬昭間でも政策変換が起こっている。司馬家三代の尊皇意識の変化を、書き起こしてみる」

父「ワシは曹操様に見い出され、曹丕様と曹叡様から若君と天下をお預かりした身じゃ。息子たちよ、ゆめゆめ魏に背くでないぞ……」
兄「父上はああおっしゃったが、曹芳様はいかん。あの方はボンクラで家臣を大事にしないからな。魏は大事だが、それを治める器さえあれば、誰が皇帝でもいいんじゃないか?」
弟「兄者は手ぬるい! 父上や兄者が苦労なされたのは、曹家のボンクラどもが皇帝だったからではないか! 蜀を滅ぼし当面の災いが去った今こそ、司馬一族が皇帝となる好機と云うべきであろう!」

ヤスの妻「あれ……?」
A2「(きょとん)……これって」
Y「158回の続きか。あのとき、司馬昭の代でも政策変換があると云っていたが」
F「うむ。曹操・曹丕に見いだされた仲達が、曹魏に基本的には忠臣だったのは確認済みだ。ところが、その仲達が東西南北駆け巡って死んだモンだから、司馬師の代で一度考えが変わっている。尊皇保守から革新派に、だ。これに失敗していたら袁紹王淩(オウリョウ)のようになっていただろうが、司馬師は上手くやった」
A「皇帝をあっさりすげ替えたモンねぇ。で、司馬昭は」
F「さらに考えが違うンだ。父や兄が使い潰されたのを見ていた司馬昭は、ついにキレて自分が皇帝になることを志した。これに失敗したのが袁術で、成功したのが孫権だ」
妻たち『あ、やっぱり……』
Y「革命派!?」
A「ここでまたそれが来るの!?」
F「22回および121回で見たが、三国時代における"天下"争奪戦は、主に三派で行われていた。そして、司馬家の3人は、代を経るごとに変わっているンだ。保守派から革新派、そして革命派にな。主家が衰えているンだからそれに取って代わって何が悪い、という発想だが」
ヤスの妻「善悪で云うなら悪じゃないね。天命がその王朝から離れているなら、それに取って代わるのは漢土の統治システムで公認されている行為だから」
Y「放伐であれ禅譲であれ、主家を上回る権勢を誇る家臣が天下を取るのは珍しいことじゃないしな」
F「はじめは功臣として仕えていた家臣の家が、時代を経るにしたがって皇帝を変えるほどの権力を手にし、そして取って代わる……のは、中国の王朝では割と頻繁に起こったことです。家臣の権勢拡大は、イコール主家の衰えですから、態度が保守から革新、革命へと発展していくワケですね」
Y「司馬懿から司馬師での政策変換は、老いた父が文字通りの東奔西走の末に死んだことで、ボンクラ君主を変えてしまえば魏はもっとマシになる……と考えて、だったな」
F「父や兄が命賭けで国に尽くしてきたため、司馬昭は当初その路線を継承していた。誤解されることが多いが、もともと司馬昭は、才では父に似ていても性格は兄に似ていて、また兄思いだった。そのままなら司馬昭は革新路線を継承していたのに、いらんことしでかしたのが曹髦(ソウボウ)と鍾会だ」
A「鍾会の画策で、皇帝自ら剣を持って進んできたため、キレたンだったな」
F「いったい何のために自分は戦ってきたのか、父や兄は死んだのか……と思いつめてしまったワケだ。状況そのものは同情に値するが、行いをほめるワケにはいかん。司馬昭が皇帝への野心をむき出しにしたがために、仲達の代からすでに帝位簒奪を目論んでいたと思われがちなんだから」
Y「順番に誤解があるのか。帝位簒奪の意志があるから、と曹髦に襲われたが、それを返り討ちにしたのは本当にそんな意思があったからだ……は間違いで、皇帝を殺してしまったから精神的に追い詰められ簒奪への道を走りだした」
F「思想が段階を経ているのに気づかないと、その辺にも気づきにくいわな。曹髦殺害までの司馬昭には、帝位への野心はなかった。だが、司馬家に取って代わりたい鍾会が暗躍していたため、思いつめた曹髦が挙兵したのがまずかった。早い段階で晋公・相国の叙任を受けていれば、この悲劇は回避できたはずなんだが」
A「逆効果じゃないか?」
F「相国になるということは、皇帝に代わって国を治めるということだ。実質的に国を率いている身でありながらこれを受けないということは、つまり、その上を欲していると思われてもおかしくないンだよ。……まぁ、封じられるのがよりにもよって晋では、辞退するのも無理からぬ話なんだが」
A・Y『?』
ヤスの妻「魏はもともと晋の一部だったの。春秋時代で魏が興ったのは、紀元前453年に晋を滅ぼしてのことだもの」
A「……漢王朝で漢中王を名乗るよりはるかにまずくね?」
Y「……どっちの発案だ? 曹髦か、司馬一族か」
F「えーっと、晋書に採用されている曹髦の詔勅に『古訓や典籍を考慮して晋にします』(晋書文帝紀、ただし263年10月の詔勅)とある。つまり、曹髦側の発案だったと考えていいかと」
Y「ますます判らん。これが司馬家からの発案だったら天下をよこせと云っているに等しいが、だったら自分で拒む理由がない。まして、曹髦の側からそんなモンを与える理由が、俺には思いつかんぞ」
A「義姉さん?」
ヤスの妻「……ぱす」
A2「(軽く両手を挙げる)ぱす2」
F「実はその点、少し前にメールで聞かれたので、いちおう答えっぽいものは用意してあります。春秋の末期、晋はみっつに分かれたンですよ」
Y「それは先に云えよ!」
ヤスの妻「……あー、これは素直にごめん。そういえば三晋に分かれたね」
F「中原の超大国だった晋が魏・趙・韓の三国に分かれたように、現在の天下もまた魏・呉・蜀の三国に分かれている。三晋をひとつにまとめるように、呉・蜀を平定してもらいたい……と求める意味で晋だったのかな、と。奇しくも天下が三分しているのが、そんな暗喩に思えるンだ」
ヤスの妻「だから、ケ艾も粛清された? 帝位への野心と同じくして、三分した天下をひとつにするのは司馬家でなければならない、との意志も抱くようになっていたから」
F「かと。ただ、アキラの云う通り、そんなモン受けては僭越の誹りを受けかねん。ために司馬昭がいったん辞退したところ、曹髦は『じゃぁ帝位か? 帝位がほしいのか!?』と思いつめてしまったワケだ。その過剰反応に過激反応したのが、司馬昭が天下を望むに至った直接の原因なワケだが」
Y「粉骨砕身尽くしていても、皇帝自らの手にかけられそうになっては、そんな忠義擲ちたくもなるか」
F「というわけで、司馬昭は魏への忠心を放棄した、と。ひとつには直接危害を加えられそうになったことで、自分の命はともかく父や兄の名誉が汚されたこと。もうひとつ、司馬昭は仲達の息子だけに、魏が漢から禅譲を受けるのをかぶりつきで見ている。それなら自分が魏に取って代わってもいいじゃないか……と思いつめたとも云える」
A「そこで、蜀を滅ぼしてから工作を行うようにもなった?」
F「そゆこと。具体的には、264年の3月に、晋公から晋王に格上げされている。孔明は受けず、曹操は輔弼のための措置として受けた王位だったが、司馬昭は帝位へのきざはしとして受けているンだ。本人のこんな発言がある」

賈充(カジュウ)「すでに魏はお先が見えております。晋王殿下におかれましては、帝位に就かれるがよろしいかと」
司馬昭「魏の武帝(曹操)が漢の禅譲を受けなかったのと同じ思いだよ」

F「この瞬間、司馬一族、さらに曹家の評価は地に落ちた。曹丕はともかく曹操や仲達には帝位への野心はなかったというのに、息子どもが不遜な行いをしでかしたせいで、親の代から野心があったという悪評が根づいてしまったンだ」
Y「曹操がどんな思いだったか、を誤解しているワケか」
F「ところで、と云おう。何しろ司馬昭は211年の生まれだ。魏が後漢から禅譲を受けた220年に数えで10歳、赤壁の戦いすら知らない世代なんだよ。曹操が何を考え、何を志していたのかを知らない者が、結果論から簒奪の意志を持っていたと誤解するのは、仕方ないことでな」
そのひとり「……いくらでもいるからね、そういうヒト」
Y「死んでから40年少しだというのに、すでにそんな誤解が蔓延していたのか」
F「そうやって、過去の英雄に自分をなぞらえ、行いを正当化しようとする意志もあっただろうけどね。かくて司馬昭は公を経て王位に就き、魏の実効支配を進めていく。その様子は……まぁ、次回だな」
ヤスの妻「あ、もう遅いからね」
F「続きは次回の講釈で」
ヤスの妻「アキラ、義姉さんと一緒に寝ようね!」
A2「(ぎゅっ)だめ」
Y「お前ら、いい加減にしろ」

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