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私釈三国志 184 孫休崩御

頭の悪いバカ「いやー、失敗しっぱい」
Y「またお前は、うちの警備員弟とナニを悪だくみしている」
F「悪だくみというほどじゃない。コンプエースで『真・恋姫』のコミック版が始まるのをうっかり失念していてな。持ってるだろうと思ってお前の弟のお部屋を捜索してきただけだ」
Y「買ってなかったのか? あの雑誌、確か『すてしあ』も連載してただろ」
F「コミックス出たらそれでいいかなーって思ってたから、不覚じゃったよ。にょろーん」
Y「……別のモンが目当てだな?」
F「僕、チーズ喰えない。さて、本題に入ろう。今回のタイトルは『孫休崩御』で」
Y「例によってお約束のタイトルだな、と」
F「だ。ちょっと違う話から入るが、先日公開した孫静関連家系図で、孫堅の家系は子沢山だと云っている。が、同時に短命の家系でもある」
Y「孫権より長生きした奴は、三国志史上にそういないと思うが」
F「アレだけが例外なんだ。孫堅は37歳、孫策は26歳で死に、孫翊(ソンヨク、堅三男)・孫匡(ソンキョウ、堅四男)はいずれも20歳で死去。孫権の息子たちにしても、長男孫登(ソントウ)33歳、次男孫慮(ソンリョ)20歳、三男孫和(ソンワ)30歳、生年の明記がない四男孫覇(ソンハ)26歳から17歳、これまた生年不明の五男孫奮(ソンフン)はちょっと長生きで45歳から37歳、末の孫亮(ソンリョウ)も18歳で死んでいる」
Y「……で、孫休(権六男)が」
F「享年三十。父親はともかく孫家全体でみれば、そんなに珍しい数字ではないワケだ。かつて劉琬(リュウエン)という、朝廷に仕えていた文官が『孫家の兄弟はいずれも短命だが、孫権だけは長生きするだろう』と云っている通り、孫権こそが孫家の異端児だったと考えるべきだろうな」
Y「だからこそ……か。ふむ」
F「さて、そんな孫休の治世は、即位から2ヶ月そこらで孫綝(ソンチンorソンリン)を殺したところから始まる。258年の12月だった。政治の実権を皇帝に取り戻して、最初に行ったのは、学問による官吏登用制度の制定でな」

「古き時代に国を建てた者が教育に力を注いだのは、世を導き人々の性格を是正し、時代のニーズに併せた人材を養成するためでした。しかし呉は亮の即位後多事多難で、役人も民衆も目前の行いに追われて古の道を踏み外しています。そこで、古の制度にのっとって学官をおき、五経博士を立て、それに相応しい人材を選出して、厚い待遇を与えましょう。また、官吏や武将の子弟から学を志す者を選抜し、五経博士の講義を受けさせます。1年ごとに試験を行い成績をランク付けして、優秀者には官位と恩賞も与えましょう」

Y「学問をもって官吏のランク付けを行う、か。悪いことではないな」
F「ここだけ聞いてる分ではな。次(翌年3月)に布告したのは、農業生産力の増強だった」

「いまは軍事を抑え、文事をもって国を栄えさせたいと思います。倉廩実ちて則ち礼節を知り、ですからね。農耕と養蚕を盛んにするのが不可欠です。ところが、官民どころか兵士までおつとめを放り出して、長江に船を浮かべて商売しているそうじゃないですか。それじゃダメです。農業に従事した人には減税しますし、良田とそうでないものを区別した課税もしましょう。寛大で公平にやりますから、協力してくださいね?」

Y「商人気質の江南人を、土地に縛りつけて農耕に従事させる……それを拒んだ連中が多かったからこその布告か」
F「そゆこと。もうひとつ、えーっと261年の8月になるが、石偉(セキイ)らの高官を国内巡察させている。各地を視察し、武将や官吏が公平な政治を行っているか、民衆が何に苦しんでいるか……を査察させている。それに応じて、地方官の昇進と左遷を行った、とのこと」
Y「こうしてみると、孫休というのは文治型の皇帝か。学問と農業を奨励し、民衆の意見を容れて官吏を評価した」
F「そう考えると孫権に似ているのが判るな。あの皇帝は、外征するとまず負けたが、国内を治める手腕は超一級だった。ただし、孫権は超一級でも孫休はよくて二級というところでな」
Y「手厳しい評価だな」
F「孫休が皇帝に即位し、孫綝を除いた辺りから出世した人物には、問題の李衡(リコウ)がいる。硬骨をもって知られていたが、カミさんに勧められて朝廷を離れ、カミさんにいさめられても孫休を糾問していたモンだから、孫休が帝位につくと魏に寝返るのを考えている」
Y「判断としては間違いでもないな」
F「ところが例のカミさんが『先帝(この場合、孫亮ではなく孫権)に取り立てられたあなたが、自分可愛さで魏に走っても、中原の皆さんが相手にしてくれるはずがありません!』といさめた。むしろ堂々と罪を受けたいと申し出れば、即位したばかりで周りからよく見られたい陛下は、かえって手厚く遇してくれるだろう、と」
Y「で、実行したのか」
F「そして、妻の云うことは正しかった。李衡は罰を受けることなく、将軍位を授かったくらいだ。もともと皇太子争いには加わらなかったし、孫奮のように自分から帝位をうかがったこともない孫休には、名声と実績の両方が欠けていた。ために、李衡のように一種名を馳せた者や、有力武将の子や孫を取り立てることで、支持を集めたンだ」
Y「人気取りか」
F「一方で、張布(チョウフ)や濮陽興(ボクヨウコウ)といった、ドサまわり時代から交流のあった面子を高官に取り立て、与党の中に子飼いを作ることもしている。この辺りの政治センスは確かなものだったようでな」
Y「じゃぁ、何が評価を下げているンだ?」
F「まず、致命的なまでにひとを見る目がなかった。260年のことだが、問題の濮陽興が丹楊(タンヨウ)に灌漑施設を作ろうと上奏している。例の農業促進政策の一環なんだが、群臣みな『いくら資金や人手を出しても上手く行きませんよ』と発言したのに、本人がやる気満々だったモンだから、やらせてみることに」
Y「で、案の定?」
F「失敗した。兵士や民衆を動員して工事させたけど、莫大な費用と人命を費やしても上手く行かず、動員された苦力には自殺者まで出ている。人々はこの工事を非道く恨んだ……とあってな」
Y「判りやすい失政だな」
F「3年後の263年のことだが、濮陽興は武陵(ブリョウ)を分割して郡を作るよう上奏しているが、同時に屯田している農民から1万人を兵士にするよう求めている。通常、徴兵は郡単位で何人と割り振られるので、郡を細かく分ければ、たとえば『各郡で千人ずつね』と告知した場合、全体量を増やすことができるンだ」
Y「失敗しておいてまだ頭数を集めようとしたのか?」
F「武陵で民衆叛乱が起こった、と前回云ったな。この上奏の翌年のことだ。何でそんなことになったのか、は割と明らかなんだよ。要するに濮陽興の失政だ」
Y「用いるべきでない者を用いてるなぁ」
F「それも、もともと親しかったというだけの理由でな。濮陽興当人は割と情けない人物なのに、会稽(カイケイ)にいたころからのつきあいだからと高官に任じたのみならず、261年10月には丞相に取り立てている。左将軍に取り立てられた張布と、ふたりに政治・軍事・宮中の全てを委ね、孫休は古典文献の研究に没頭したンだ。それも、凄まじい目標で」

「わたくし孫休は、諸子百家全ての学説を読み尽くします!」

Y「……いるンだよな、頭のいいバカって」
F「いつぞや云ったと思うが、孫休は学問さえできればそれで充分なヒトだった。孫綝に野心がなければ政治をマル投げしていた……と云っているが、張布や濮陽興には帝位への野心なんてないのは、以前からのつきあいで察している。ために、ふたりに政治をマル投げして、自分は大好きな学術研究に没頭しようとしたわけだ」
Y「地獄で孫権に怒られるンじゃねェか?」
F「ところが、例の博士に取り立てられた韋曜(イヨウ)らが、孫休に招かれ学問を議論するのは、張布にはまずいことだった。何しろ韋曜は普段から歯に衣着せずにことの道理を追求する、根っからの学者肌だった。『叩けば埃が出る』『過失を隠している』と正史にさえ明記されている張布にしてみれば、そんな奴が孫休の近くにいたら失脚させられかねない」
Y「無能な濮陽興に前科者の張布が、学者を遠ざけようと画策するのか」
F「もっとも、どんな過去があるのか明記はないが。学問が政治に悪影響を与えるのを避けたいので、と韋曜を遠ざけるよう勧めた張布に、孫休は笑って応えた」

「書物を好まないことが問題になっても、書物を好んで何か悪いことが起こりますか。政治と学問は携わる者に区別があり、互いに損なうようなものではありませんよ。政治を預かる者がそんなことを云っては、故綝の二の舞ですよ。それは聞けないオハナシです」

F「孫休は孫峻(ソンシュン)・孫綝と同族であることを恥じて、ふたりを故峻故綝と呼んでいた……とある」
Y「孫権も呂蒙に学を修めろと勧めたくらいだから、書物を好むのは悪いことじゃないが」
F「問題は、孫休の場合それが度を超えていたということだ。何しろこの皇帝は、262年の8月に妻を皇后に、息子を太子に立てているンだけど、太子を含む4人の息子に、とんでもない真似をしでかした」
Y「何をした?」
F「……お前、孫休には詳しくないのか。こんなことを云いだしたンだ」

「諱や字は師や父兄がつけたり自分でつけるものですが、師はともかく父兄が立派過ぎる文字を使いたがるのは間違いで、まして自分でつけるなど許されません。その辺りを考慮して、わたくしは子供たちの諱と字を定めます。迂闊に使われるようでは困るので、わたくしが作った文字です。太子の名はワン、湖水湾澳の湾と同じ音です」

F「以下3人、略」
Y「? 孫湾?」
F「いや、字が見つからんのだ。というか、孫休は息子4人の諱と字に、自分で作った文字をあてはめている。我が子に暴走族ばりの当て字な名をつける親は現代日本にもバカみたいに多いが、自分で文字まで作るのは稀有なケースだ」
Y「さすがに役所が通さんからなぁ」
F「いったい何がしたかったンだ、といえば、自分の学術研究の成果をひけらかしたかったとしか考えようがない。こんなことを考える奴から韋曜を遠ざけるのは悪い判断ではなく、結局孫休も韋曜を側近にするのは諦めたンだが、この一件に関して裴松之(ハイショウシ)は70年ぶりになる暴言を吐いている」

「孫休よ、そんなに息子の諱や字をヒトから使われたくないなら、いっそハナから名などつけるな。文字を作るなど明らかに古の典例に反するではないか。ンなことしてるからお前の女房子供は皆殺しになったンだよ!」

Y「そこまで云うか……と思ったのは70年ぶりだな、確かに」
F「というわけで、学術研究に人生を費やす皇帝と、割と無能な丞相、行いがまっとうでない左将軍に率いられた呉が、火事場泥棒よろしく蜀に攻め入ったのは前回見た通り。歩協(ホキョウ)の苦戦に孫休が腹を立てたのも、無理からぬオハナシだろう。何しろ彼は戦場のことはまるで知らないワケだから」
Y「文書で軍学を理解できれば苦労はないな」
F「というわけで、孫休には皇帝たる資質が欠けていた。第一にひとを見る目がなく、第二に学問に没頭するあまり他の全てがおろそかになっていた。そして第三に、この皇帝サマはどーにも行いがよろしくない」
Y「まだ何かあるのか?」
F「260年、孫亮殺害。当時配流先の会稽で、孫亮が都に戻って天子になるとの流言があった。さらに、孫亮の付き人が、孫亮が巫女を使って孫休を呪っていると告発したモンだから、国替えの沙汰が下ったが、任地につく前に孫亮は『自殺』している。護送していた役人が処刑された辺り、孫休の手によるものと考えていい」
Y「自分に取って代わりうる存在を排除するのは、皇帝の行いとしては間違ってはいないが」
F「また、今のところ誰からもツッコミがないンだが、孫休の妻にして皇后に立てられた朱夫人、コレがよく考えてみればまずいのは明らかだと思う。小トラ孫魯育は孫休の腹違いの姉か妹にあたり、その娘ということは姪っ子と結婚しているンだから」
Y「近親婚か」
F「裴松之は、前漢二代恵帝が姉の子を皇后に立てたのを引きあいに出して『人倫にもとる大罪』と間接的に非難している(つまり、孫魯育もたぶん姉)。……まぁ、地方や時代によっては近親結婚が問題とされなかった場合もあるが。人類史上最高の美女クレオパトラ7世の、最初の夫は実の弟だった。ハワイ王家でもきょうだい間の結婚がいちばん尊いとされ、カ・メハメハ大王の父は母の兄だ。もっとも、こちらはすでに妻子がいたため、甥としか扱われなかったが」
Y「儒教としては同姓は娶らずが基本だろ?」
F「儒教でなくても倫理的にまずいだろう、姉の子を妻にして少なくとも5人(男4女1)は子を産ませているンだから。件の『すてキラっしあ』に『昔のさる高貴な血筋は、その特別な血を守るために近親相姦を繰り返した』との台詞があったが、他の血を入れないことで血統の純度を保つのを目的とし、日本の天皇家がハワイ王家からの縁組を辞退した事例だってある。ただ、孫休に関して云えばそんなことを考えたワケじゃなくて、朱皇后とらぶらぶだったのが原因でな」
Y「夫婦仲はよかった、と。まぁ、5人も子供がいて仲の悪い夫婦はないか」
F「僕の親は3人子供がいても、毎日毎晩怒鳴りあっていたな。10年以上夜同じ家ですごしてないから、今じゃどうか知らんけど。近親婚については、以前某出版社(現在倒産)のサイトで書いてた歴史コラムで割と掘り下げたが、アレが不評だったから追及は避けよう。自分に懐いている姪っ子が『おおきくなったらおヨメさんにしてね♪』とほざいたのを真に受けて冗談抜きで手をつけた、と云えば、孫休のしでかしたことの罪深さが判ると思う」
Y「30歳で子供5人ではなぁ……異常事態だな」
F「しかも、この男さらに非道い真似をしでかしている。孫魯育の義理の息子・朱熊(シュユウ)が孫亮に殺されたのは以前見たが、朱熊の子・朱宣(シュセン)を憐れんで、娘を娶らせているンだ。はとこ同士でも血が近いと難色を示す者は少なくないだろう」
Y「どっかの誰かもそうだが、学術研究の度が過ぎると儒教を軽んじるようになるのかね」
F「ヒトとしての本質に反する教えだからな、儒教は。書物の世界に没頭できていれば、それなりの人物として歴史に名を残せたかもしれないが、彼について陳寿のコメントは割と手厳しい」

「孫休は、親しい関係を結んでいるということで濮陽興と張布に政治を任せ、自分の政治を行えなかった。これでは学問を修めても、国の乱れを救うのに何の役に立ったというのか。さらに、退位させられていた孫亮に無残な死に方をさせたのは、兄弟への思いやりが充分でなかったということだ」

Y「孫亮の死にも言及されているのか」
F「というわけで、孫呉三代皇帝孫休は死んだ。何の病か記述はないが床に伏せるようになり、言葉が喋れなくなると濮陽興を招いて孫ワンに拝礼させている。つまり、孫ワンを次の皇帝に、という意思表示だ」
Y「最期まで、なんか評価に困る奴だったな」
F「孫呉三代皇帝ではあるが、即位したタイミングが悪かったと云わざるを得ない。外敵も内憂もない平和な時代に皇帝になっていれば、学術研究者として名を残していたかもしれないが、戦乱が終結に向かう時代に国を率いるには、やや資質に難があった、と」
Y「そんな時代があれば苦労はないがな」
F「違いない。それでも、前回見た通り羅憲(ラケン)相手にキレたり、正史で『狩りに行く時だけは本を読むのを忘れた』などと書かれている辺り、しっかり孫権の血は引いていたンだが」
Y「……孫権のは引いていても、孫堅のは引いているのか判ったモンじゃないな」
F「ゆえに僕はあんなことを考えているワケだ。ところで、帝位を継いだのは孫ワンではなく、孫皓(ソンコウ)だった」
Y「呉のラストエンペラーだな」
F「その通り。そして、孫皓の出自については、かなりまずい記述が正史にある。あえて書き下して引用しよう」

何姫は、並の女性でないと孫権に見初められ後宮に入った。孫和に下げ渡された彼女が男児を出産すると、孫権は喜んで彭祖という名をつけてやった。これが孫皓である

Y「孫権の子か!?」
F「いつか云った孫権の庶子だ。何姫に関する記述からはそうとしか見えん。また、孫皓は孫亮よりひとつ年上だから、年齢での無理もない。さらに兄弟順について、孫休は『孫権の六男』となっているのに、孫亮は『末の息子』とあり、陳寿はこのふたりの間に誰かいるともとれる書き方をしているンだ。そして、これなら孫休のあとを孫和の子が継いだことにも説明がつく。実は孫権直系の男児だという認識が、呉宮関係者にはあったと考えていい」
Y「……呉が、滅ぶワケだ」
F「孫休の死が呉の滅亡を直接招いたワケではないが、引き金は引いた。だが、孫休を責めるのは酷というものだろう。そもそも孫休には皇帝たる資質が欠けていたのに、分不相応な地位にあってそれでも尽力していたのだから」
Y「たぶん過労死だな、こっちも」
F「続きは次回の講釈で」

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