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私釈三国志 183 蜀侵攻戦

F「ちょっとあって、けっこー大きいモノを暴露してしまった……のが前回。公開録音に来ていたニニギ様たちはご存じだけど、実は、毎回2割、多いときは5割近く、編集の段階でカットしていたりします」
Y「純粋な容量の都合か」
F「前回の『一般および豪族の住居を全面カット』こそがイレギュラーで、大半が雑談だからね。151回みたいに、いつかの雑談に加筆修正して1回に割り振ったなんてケースもあるけど。その辺りを全面公開するとどうなるか、といえば182回のようになります。1ページでの文字数としては過去2番めの分量、と」
Y「過去最大は?」
F「さりげなく125回だ。では、本筋に回帰して263年、蜀滅亡の事後処理から。……の前に、状況の再確認からか」
Y「約1ヶ月別のことをしてたからな」
F「劉備の死から40年、孔明の死から29年、蜀という国は2代42年の歴史を終える。それは、歴史的な意味での三国時代は、この時点で終わったとも云えることだ。何しろ『三国』じゃなくなってしまったワケだから。自覚はあったようで、蜀滅亡後の呉書には『南北』という表現がみられる」
Y「魏と呉の二国で天下を競う時代になった、と。まぁ、265年にはさらに時代が変貌するンだが」
F「先走らないようにな。魏は大きく二路から蜀に侵攻した。ケ艾隊は北から姜維を攻め、鍾会隊は北東から漢中を攻略し、だ。敵の実働戦力と軍事拠点を攻撃し、相互の援護をさせなかったこの作戦は、立案が司馬昭か鍾会かは判らんが、有為的なものだった」
Y「初動段階で姜維を取り逃がしているが」
F「漢中と姜維を相互に援護させるのを防ぐため、ケ艾隊と鍾会隊を同時に侵攻させたのが、あーいう結果を招いたと云わねばならんか。仮にケ艾隊を先に動かしていたら、姜維はとっとと漢中方面の守りに入っただろうし、鍾会隊が先だったら姜維はその背後を扼したはずだ。どちらにせよ魏軍は合流せざるを得なくなる」
Y「二隊同時に進めたのは間違いではなかった、か」
F「姜維の戦況判断が、司馬昭なり鍾会なりの上を行っていたンだ。漢中にせよ姜維にせよ、もう一方に援軍を乞うても『こっちにも敵がいます!』とオコトワリしなければならない状態だった。となれば傅僉(フセン)のように討ち死にするのがイレギュラーで、蒋斌(ショウヒン)のように降るか姜維のように逃げるかが主流だろう」
Y「逃げていいのか、大将軍」
F「多数の敵には、野戦でなら火計をもって対抗できるが、山岳戦、それも自国の領土ではそうもいかん。そこで、敵を深く領内に引き込んで隊列と補給線を引きのばし、一方で隘路の要害にこもることで兵力差を無力化している。ディフェンスとしては万全だろうね」
Y「野郎の智略も並じゃないか」
F「姜維がいなくても張翼(チョウヨク)辺りが迎撃の指揮を執っただろうけど、そのせいで鍾会は死ぬ思いをしたワケだ。相手が鍾会だけだったら防ぎきれた公算は高いが、姜維、というか蜀にとっての不幸は、地図作成と土木水利のスペシャリストが従軍していたことでな」
Y「"当先鋒"廖化(じんざいぶそく)曰く『智謀でも武勇でも姜維を上回る敵』か」
F「そんなワケで、戦う文官・ケ艾によって諸葛瞻(ショカツセン、亮の子)親子が討ち取られ、成都は陥落。蜀は滅亡した……のだが」
Y「だが?」
F「劉禅が戦わずに降伏したことについて、孫盛(ソンセイ、正史の注釈者)が激しく非難しているンだ」

「劉禅は凡庸であっても暴虐ではなく、軍も敗れたとはいえ決定的な崩壊は起こっていない。成都に籠城することができなかったにしても江州に逃れていれば、前後策は講じられたはずだ。蜀の地形をもってすれば大軍を防ぐことは難しくなく、東には白帝の羅憲が、夜郎には霍弋が精兵を擁していたのだから、姜維ら五将と呉の援軍を待てば充分対抗できた。どうして身を寄せる場所がなどといって降伏したのか」
※ 夜郎:やろう
 南中の古国。ここの王さまが漢からの使者に「我が国と貴国とはどちらが大きい?」と聞いたことで『夜郎自大(みのほどしらず)』という故事が生まれた。


Y「民を戦火に見舞わせなかったのは、劉禅の好判断と思うが」
F「孫盛発言の是非はこの際さておく。降伏したのがまずかったのか、ということで引用したンじゃなくて、ちょっと別の話をしたかったンだ。蜀の軍は、まず大きくふたつに分かれる。孔明およびその後継者が率いた機動戦力と、成都含む各地の守備隊だ。厳密には、漢中の軍は後者に入るべきなんだが、戦場の方向性から前者に配属されている」
Y「外に出す軍と中で守る軍、か」
F「各地の守備隊は、益州を5ブロックに分けて、南中・江州・永安・漢中にそれぞれ都督がおかれ、成都近郊は衛将軍が指揮を執った。先に名指しされた霍弋(カクヨク)が南中を、羅憲(ラケン)が永安をそれぞれカバーしている。一方で、蜀の軍事政策の方向性から、漢中都督は孔明ら軍事指導者の指揮下に入っていることが多かった」
Y「蜀滅亡当時の衛将軍は……諸葛瞻か。じゃぁ、迎撃に出て死んだのは無理からぬ話だな」
F「ちなみに、諸葛瞻とともに討ち死にした中には羽林右都督、つまり皇帝親衛隊の副隊長まで含まれている。ある程度の軍を整えて出したっぽいが、結果を出せなかったのはいかにも孔明の息子といったところだ。残る江州は、いつぞや触れた『益州東部の(ハ、現在の四川省重慶市)』に相当する、蜀の東ブロックだ(南中:南ブロックおよび西ブロックの大部分、成都:首都および残り西ブロック、漢中:北ブロックおよび対魏前線、永安:対呉前線)」
Y「江州都督と永安都督を分ける必要があるのか? 北では両方の役割を漢中都督が担っているようだが」
F「漢中には大本営があったから、その辺りの統合が可能だったワケだ。永安都督は呉への抑えという意味での軍令、江州都督は益州東部の抑えとしての軍政本部、と云える。位置づけで云うなら江州>永安で、役割としては前者は武官で後者は文官。ために江州都督には、李豊(リホウ、李厳の子)やケ芝といった武官としても使える文官が赴任していたし、ケ芝の死後は当時の大将軍費禕が自ら現地に入り、成都直轄領に統合されたのか、以後空席になっている」
Y「割と複雑だな」
F「江州・漢中都督は事実上空席、衛将軍は討ち死にしたが、南中・永安にはまだ個別の軍が残っていた、というのが判れば充分だ。アキラならまだしもお前なら、それが何を意味するか判るだろう?」
Y「成都の南と呉との国境部に、ある程度の戦力があった、と?」
F「そゆこと……と云いたいところだが、さすがに1ヶ月前では覚えてないか。まぁ、その答えでほぼ正解。魏の来寇を聞いた霍弋は、配下の軍勢を率いて成都救援に向かおうと画策したが、思わぬ事態が起こってそれは許されなかった。ために、成都が陥落したのを聞くと、喪服を着て三日の服喪を行っている」
Y「国に殉じたか。しかし、当時南蛮で何かあったか?」
F「何回か先で触れるが、南蛮の事情じゃなくてな。ともあれ、配下の諸将は魏に降伏するよう霍弋に勧めたンだけど、すぐには降伏しなかった。劉禅がどのような扱いを受けているのかを確認し、礼を持って遇されているなら降伏し、辱めを受けているようなら南中を挙げて敵対する、と息巻いているンだ」
Y「……いや、劉禅への処遇で腹を決めるって何だよ」
F「後世からみれば劉禅はバカ殿の代名詞みたいな奴だが、当時の蜀将からみれば、40年蜀を率いてきた君主だからね。忠臣くらいいてもおかしくないだろ?」
Y「おかしくはないが、感情的には否定したい」
F「無理もないか。さて、蜀の滅亡により、呉もかなりの危地に立たされた。今までは蜀軍が魏の西方軍を引き受けてくれていたのに、これからは魏の軍勢全てを呉が相手取らなければならなくなったからだ。蜀にしてみれば天下三分は国是通りだが、呉の国是はもともと天下二分で、三国鼎立を本心では望んでいなかった朱然のような武将もいた」
Y「その息子じゃなかったか? 蜀軍を呉領に引き込んででも荊州を守ろうとしたのは」
F「孫権が老いぼれ、呂壱(リョイチ)を経て大トラ孫魯班が幅を利かせるようになってから、呉が混乱していたのはここまででずっと見た。その混乱の間接的な根源たる孫ロ(ソンコウ、孫堅の甥)の血筋が根絶やしになったことで、ようやく呉が再建に向かおうとしていた矢先にコレでは、呉帝孫休ならずとも困るだろう」
Y「まぁ、困るだろうな。だが、困ってばかりでは皇帝は務まらんぞ。何か対策を講じないと」
F「というわけで、孫休はやっちゃならん決断を下した」
Y「……おい」
F「繰り返そう。呉の国是はもともと魯粛の唱えた天下二分。すなわち、長江南側の諸州を統一して魏に対抗するというものだった。ところが、劉備と孔明によって荊州・益州が奪われ、荊州こそ取り返したものの、後世の日本人並に孔明が大好きな皇帝サマが、蜀との同盟を律儀に守り続けていた」
Y「だが、孔明も孫権も、それどころか蜀もすでに亡い」
F「おまけに、益州で大規模な内乱が起こって、魏軍のトップクラスがまとめて消えうせたと聞いては、孫休でなくてもこの決断を下したかもしれない。歩協(ホキョウ、歩隲の子)に、益州侵攻の命を下したのであった!」
Y「やっちまったな、オイ……」
F「いつぞや云ったが、犯罪が成立するにはみっつの条件が必要になる。このうち、被害者と動機はいいと思うが、もうひとつの手段が問題だった」
Y「蜀に侵攻できるか、か? ……永安を守る羅憲を抜けるか、ってコトか」
F「コレについて、孫休は抜けると判断したンだ。何しろ、羅憲の手元には2000しか兵がいなかったワケだから」
Y「待て! 何で国境がそんなに……少ないって、あぁ〜……」
F「思いだしたな、1ヶ月前を。この羅憲、権勢を誇った宦官の黄皓におもねらなかったがためににらまれて、当時永安を張っていた閻宇(エンウ)の下に送られた。その閻宇が、魏の侵攻によって成都に召され(孫盛の云う『五将』のひとり)兵もいいとこ連れていったものだから、残る羅憲が率いていたのは2000の兵だけだったワケだ」
Y「まさか呉が攻めてくるとは思わなかったンだろうな、黄皓も」
F「うむ。永安の守りについては、生前に孔明が興味深い発言をしている」

「兄者は永安の守りを心配しているようだが、陳到(チントウ)が率いているのは亡き劉備様の親衛隊で、蜀の精鋭だ。訓練はちゃんと行き届いてる。数が少ないのはまぁ事実だから、江州の兵をまわして増強するよ」

Y「何で諸葛瑾が、蜀の守備態勢に口出しするンだよ」
F「どうにも癒着が目立ってな。同盟国たる呉の抑えに、夷陵での生き残りを残した辺りには、孔明の狡猾さを認めねばならん。一方で、数が少ないのなんのを瑾兄ちゃんが知っていたからには、呉からの密偵もちゃんと入っていた。つまり、呉の側でもつけいる隙を探していたと云える」
Y「……この兄弟は」
F「だが、夷陵の戦いからすでに40年以上だ。率いる将も、陳到から宗預(ソウヨ)、閻宇を経て羅憲と四代。兵も南征・北伐に加わらず世代交代も進んで、すでに精鋭とは云えないレベルだったのは否めない。現に、成都が陥落したと聞くや長江周辺(つまり、呉に近い辺り)からは逃亡者が相次いでいる。状況から察するに、呉に逃げ込んだということだが、夷陵で負けた恨みを知らない世代だということでもある」
Y「時代が進んでいるのを実感するな、そういうイベントは。その連中から、蜀の内情を聞きこんだワケか」
F「順序立てて考えるとそうなる。羅憲は、成都での混乱を云いふらしていた輩を斬り捨てて民衆を落ちつかせ、劉禅が降伏したとちゃんとした報告を受けると三日間喪に服している。そんなところへ歩協から使者が来たモンだから、羅憲は激怒している」

「呉とは唇と歯の関係であったのに、我が国の危難に一切報いず、利益を求めて盟約に反した! 漢が滅んでなお呉が長く続くと思うな! 呉に降るなど考えられんわ!」

F「蜀書の注では『表向きは救援、その実羅憲を攻めるつもりだった』とあるが、発言の内容からして歩協は、羅憲に降伏を勧告したようでな」
Y「甘いな。混乱に乗じていればまだしも、攻める意思を羅憲に伝えたに等しい」
F「おまけに怒らせた。羅憲は軍備を整え、城内に呉を防ぐ旨宣告し、呉の非道さを説いたところ、一致団結して呉に対することを将兵ともに誓っている。まずは出陣して、水路長江をさかのぼり攻め入ってきた歩協と交戦したが、さすがに兵数の差は大きく、この場では防ぐことができなかった」
Y「2000……いや、もう少し逃げているか。呉の兵力は?」
F「記述はないが、この時点では1万を下るくらいだろう。歩家は荊州にある程度大きな勢力を持っていたから。単独では敵しえないと判断した羅憲は、安東将軍陳騫(チンケン)に使者を送って、文武官の印璽と人質を差し出し、救援を求めている。以前、諸葛誕戦に従軍していた陳騫だが、蜀攻略時は長安まで来た司馬昭本隊にいたようでな」
Y「何でそいつに?」
F「ちょっと判らん。関連は一切記述がなくてな、たぶん蜀の戦後統治にあたっていたひとりなんだろうけど。ともあれ、白帝城まで戻った羅憲を、歩協は追撃し城を包囲したが、出撃してきた羅憲に打ち破られている。さすがに陸上では蜀軍に分があるようだが、兵数差があるのにコレでは、孫休が怒ったのも無理はない」
Y「怒ったのか?」
F「うむ。かの陸遜の子・鎮軍将軍陸抗(リクコウ)、歌う跛行者留賛(リュウサン)の次男・征西将軍留平(リュウヘイ)らに、3万の軍をもって白帝城攻囲に加わらせている」
Y「来たか、切り札。……つーか、歌う跛行者って」
F「そのままだろ(跛行=片足が不自由)。十数倍の呉軍を相手に、それでも羅憲は果敢に抵抗を続け、城内は傷病兵であふれかえった。部下が羅憲に逃亡を勧めたが、当人は『危難に際して民衆の安全を保てず、かえって見捨てるような真似は君子にはできない。ここで死んでくれる!』とそれを拒む」
Y「……うーん」
F「救援を求められた陳騫は、司馬昭を何とか口説くンだけど、司馬昭は冷酷だった。ひとは、たいして困っていない時に助けられても感謝しないが、心身の窮地に助けられると篤く感謝する。荊州刺史に就任していた胡烈(コレツ)が2万からの兵をもって救援に駆けつけたのは、歩協の国境侵犯から半年後のことだった」
Y「兵数はいまだに呉軍優勢だが……」
F「だが、魏にはさらなる援軍が期待できる。陸抗らは抗戦を断念し、軍をまとめて撤退した。264年2月に始まった蜀侵攻戦は、出鼻をくじかれたことにより、7月何の戦果もなく収束している」
Y「父親ならどうとでもしただろうに」
F「うーん……」
Y「悩むなよ!」
F「いや、陸遜でもどうしたか……は、後回しだな。呉軍を防ぎきった功績で、羅憲は永安太守に留任したのみならず、ちょうどこの頃、荊州西部の武陵郡が呉に叛逆したモンだから、その辺りのフォローも任されたほどだ」
Y「高く評価されたンだな」
F「踏み絵に近いモノじゃなかったのかなぁ。何しろ、成都が陥落し蜀が滅んでも、すぐには降らなかったひとりだ。白帝城の戦略的重要性は判っていても、それを誰に任せるかは利権が絡む。そこで、あえて呉軍の矢面に立たせて忠誠と能力を確かめた。のちに霍弋も似たような扱いをされているし」
Y「そして、羅憲は充分おめがねに適った?」
F「危地を救うことで恩も売っているワケだ。蜀末期に、黄皓に疎まれたがために追いやられたが、そのおかげで思いがけずに出世した辺り、並ならぬ才覚の持ち主だったと評価できるな。まぁ、過分に運も味方したようだが」
Y「運がいいならこのタイミングで永安にはおらんだろ」
F「ところで、と云おうか。胡烈の到着に過剰反応して、さらに呉軍が兵を出してきた可能性もあった。何しろ、当時の荊州方面軍総帥の朱績(シュセキ、朱然の子)や、呉本国の丁奉(テイホウ)はまだ動いていなかったンだから」
Y「朱然とは違って蜀に好意的だったその連中が動くか?」
F「動ないじゃなくて動ない状態だったンだ。264年7月25日、病に倒れていた孫休が、そのままぽっくり崩御してな。陸遜ならどうしたかは判断しかねるが、陸抗らが交戦を断念して撤退しているのには、この辺の事情があったのは疑う余地がない」
Y「……そうか、孫休が死んだのはこのタイミングだったか」
F「かくて呉は外征どころではなくなり、羅憲は命拾いした。魏は戦後処理で、呉は相続問題で、それぞれ一手が止まったような状態に陥る。これが何をもたらすのか……は、また今度ということで」
Y「区切りのいいところで切るか。では、どーぞ」
F「続きは次回の講釈で」

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