私釈三国志 182 市民生活
F・ヤスの妻『うーん』
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Y「アキラはどこだー!?」
F「こんな時間に騒ぐな。きのうようやっと帰国したって連絡があったばかりだろうが」
ヤスの妻「楽しんでくれたみたいだからねェ、わたしプロデュースの4泊5日モンゴル旅行」
Y「ついていかなかったのは何よりだが……何を悩んでいる、謀略家2匹」
ヤスの妻「持ち運べるサイズまでが"匹"で、それより大きいのは"頭"だよ」
Y「悪魔は1匹2匹でいいだろうが」
ヤスの妻「……愛されてないなぁ」
F「いや、そんないいものじゃないと自覚してるが……そもそも、僕はともかくこのヒトなら運べるだろ。曹操の『引き抜きメモリアル』、孫権の『出ると負け』に匹敵する、インパクトのある二つ名は、劉備にはないものだろうかなー、と」
Y「嘘つき嘘つき、何をやっても半端野郎、出自詐称はお手の物、薄情者偽善者無能者、喰う寝るばかりでふとももたぷたぷ、出奔寝返り繰り返し、はじめはコーソンさんコーソンさんから陶謙陶謙から曹操曹操から袁紹袁紹から劉表劉表から孫権、裏切者の劉備」
ヤスの妻「どこの寿限無!?」
Y「あぁ、タイプするときは陶謙と曹操の間に呂布入れてくれ。もっとも、前半何喋ったかすでに忘れてるが」
F「アドリブでこんなボケたことができる辺り、この妻にしてこの夫ありか……。まぁ、ツッコミはあとで、ベッドの中ででもしておいてください。今回は、当時の一般庶民の生活について」
ヤスの妻「今度こそ、史料からは判りにくいオハナシだね」
F「そうですね。……が、死んだ師匠のメモワール」
「歴史を柱とするなら文化は地盤のようなもので、両方がしっかりしていないと、文明という建物は長持ちしない」
F「歴史を識るためには文化をないがしろにしてはならない、と」
ヤスの妻「(正座)はい」
Y「……姐さんの話だとムダに真剣だな、お前ら」
F「当然だ。だが、正史三国志から当時の文化・習慣を知るのはやや難しい。ために、他の史書も使いながら講釈していきます」
ヤスの妻「うん」
Y「あ、もどった」
F「えーっと、衣食住で最初は住環境から。この時代……に限らず、基本的に都市は城壁に囲まれていました。というか、城壁の中に都市がありました。戦争になると住民もろとも立てこもるためで、大都市には地下壕や地下食糧庫が設けられていたと云われます」
ヤスの妻「いまでも、北京には2時間以内に全市民を収容できる地下施設があるンだっけ?」
F「どーでしたかね。以前云いましたが、鄴城の周囲は三十里(約17キロ)、これは洛陽の規模に匹敵します。対して長安はおおよそ六十里で2倍。鄴の大きさは冀州の豊かさを示すものですが、もともと劉邦が帝都にさだめたのが長安なので、長安が大きいというより、この時代の洛陽は現代のイメージほど大きくない、というのが実情のようです」
Y「そいつはかなり意外な話だな」
F「大通りは瓦やレンガ、ないし石で舗装され、幅は数十メートル。対して小道や路地裏なんかはほとんど整備されない……のは、今も昔も同じのようです。道の両側には民家が軒を連ね、木を植えたり井戸を掘ったりも許可されていましたが、その範囲を超えて私物を置いたり店を開いたり、挙げ句の果てに家を建て増したりした輩も多かったとか」
ヤスの妻「その辺りも、今も昔も変わりはないね」
F「意外に思うかもしれませんが、後漢代の住居については、割と詳細かつ具体的な資料があります。当時の豪族の墓から、陶器製の住居模型が出土しているンですね。生前に自分が住んでいた邸宅を、墓の中で再現しようとしたようで」
ヤスの妻「兵馬俑みたいなものかな」
F「それの民衆版ですね。豪族ですが。まず、壁や塀は版築という工法で造られていました。作る幅にあわせて杭を打ち込み、両側に板を渡し、その中に土や泥を入れて突き固め、これを繰り返して高くしていくものです」
Y「『蒼天航路』で劉馥がやってた奴か」
F「要するに土の塊を積み上げているようなモンだから、当然ながら雨には弱い。ために、劉馥は長雨の際にはむしろで城壁を覆い、崩落した個所には石や木で補強する、という措置で孫権から合肥を守り抜いている。個人の住居でも、瓦を敷いたりレンガを表面に張りつけたりして雨から保護していたけど、庶民ではむしろをかけるのが精々だろうね」
Y「安上がりだからなぁ」
F「版築は、土と泥の比率を変えることで、強度と色を調整できる。たとえば楼閣なんかは漆喰で白く塗ることもあったけど、基本的には土色ベースを変えることはしなかったらしいから、地味な町並みだったようだな。で、基本的には土間で、わらじや靴(多くは木製)を履いたまま生活していた」
ヤスの妻「床はなかったの?」
F「なくはないですが……えーっと、列挙するか。豪族の住宅は塀に囲まれていまして、この中に、住居に相当する望楼、応接間兼儀式(一族での祭礼)場の堂、事務仕事や家庭の経理などを行う便室、それに倉庫や厨房、家畜小屋や傭兵房何かがありました。このうち、望楼・堂・便室は石やレンガを敷いた床がありましたが、他施設にはありません」
ヤスの妻「お客さんが入るか入らないか、が分かれめかな」
Y「住居はともかく仕事場まで入るか?」
ヤスの妻「お仕事での接客なら入らないといけないじゃない」
Y「……むぅ」
F「まぁ、そんなところだと云われています。また、堂は先祖をまつる祭礼の場でもあるので大きめに建てますし、望楼は多階層がもっぱらです。低いものでも三階建てでは、一階が土間では好ましくないでしょうね」
ヤスの妻「じゃぁ、庶民の住居は平屋だろうから、土間だったと考えていいのかな」
F「かと。ちなみに、外観は左右対称が原則で、入口は向かって真ン中です。風水の都合で井戸が東側に掘られる(水行は東)ので、厨房はその近くになりましたから、庶民の家でも炊事場は東側に作ったでしょう」
Y「云っておくが、風水について詳しく講釈する必要はないぞ」
F「……ちっ」
ヤスの妻「舌打ちしないでよ、えーじろ……」
F「えーじろやめろ。そんなワケで、座る場合はござやむしろを敷いていました。家主や主君だけは一段高い榻(とう、低めの四脚テーブル)に座っていましたが、土間でも床でもその辺りは共通です。ちなみに、さっき云いましたが、豪族の住居は塀に囲まれていますが、倉庫を除く各建物の出入り口にドアはありません」
ヤスの妻「門にはさすがに扉があるよね?」
F「ありました。で、入ってすぐに影壁という、ある程度の大きさの壁がちょこんと突っ立っていて、中は見えないようになっていました。日本の古いおうちでも、玄関入ってすぐに屏風が立っている場合がありますが、アレと似たようなものですね」
ヤスの妻「アキラの御実家にあったね」
F「厨房は炊事場だけに出火の原因になる場合が多く、また水もある程度常備されている。どちらの理由においてもとは開け放っておく必要があった。家畜小屋も柵があれば充分で、あとは通気性の問題です。では一般庶民の住居はと云えば、基本的には平屋で望楼・堂・便室・厨房の用をなしていたとされます」
Y「そこで生活しながら、接客して祭礼して内勤して食事も作るような家、か」
F「裏手に回ればブタやイヌのような家畜をつないでいただろうし、個人生活に傭兵は無用だからな。まぁ、物騒な時代だったから、ちょっとした武器は持っていただろうけど。屋根が板葺きか屋根瓦か、ドアは木の扉をつけるか安いむしろを垂らしておくか……は、経済力で決まるオハナシです」
Y「庶民の生活にもある程度の格差はあったワケな」
F「城内に住めるならある程度の稼ぎはあっただろうけど、大通りか路地裏かは大きいワケだ。もちろん、職人や学者さんの場合は、仕事場や書庫が併設されるか、別個に立てるかだった。この場合なら、仕事場は土間で、書庫なら床だったのは説明するまでもないと思う」
Y「だろうな。当時の書庫だと……竹簡か木簡だよな?」
F「蔡倫から200年と経っていない時代だからな。紙はまだまだ貴重品で、それだけに書簡もまた貴重品だった。ただ、民間の識字率はそんなに高くなかったから、盗まれても転売できる相手は少ない。ために、防犯より通気性を重視したようで、やっぱり扉はなかったみたいだ」
ヤスの妻「窓は?」
F「少し裕福ならあったようです。もともと土壁に近い版築なので、その気になればいくらでも窓は作れますが、そこから壁全体が崩れかねません。ために、窓を作るなら、木で枠組みを整える必要がありました」
Y「作るときに少し手間を加えるだけだろうに。城壁にも矢を射かける穴があっただろ?」
F「箭窓か? 豪族レベルの住宅なら壁にあっただろうけど、ちゃんとしたお城の壁にはそんな穴ないぞ」
ヤスの妻「そこを手掛かりに登られたら大変だもんね」
F「さすがに騎馬民族重視の歴史知識を誇るだけに、城壁建築には詳しくありませんか。城壁って、高さより厚さが凄いンですよ。3000年前の殷の時代で、すでに幅20メートルの城壁を築いていて、厚い城では50メートルの城壁を持っていたンですから。衝車や破城鎚で城門は破れても、城壁そのものをブチ抜くのは、この時代では不可能です」
Y「壁というよりすでに土手だな」
ヤスの妻「わたしとしたことが、不覚……」
F「いや、僕も笑われるまで、城壁の厚さは失念していました。先日、三国時代の火攻めと水攻めを総ざらいしたンですが、火攻めが行われたのってたいがい野戦でしてね。城攻めで火計が用いられなかったのは何でだろうって悩んでたら、協力者の某教授サマに『そりゃ、10メートルの土壁が燃えるワケないだろ』と笑われまして」
ヤスの妻「……野戦用の陣地は急ごしらえで、土を盛るより手早くできる木の柵だったから燃える、かな」
F「そういうオハナシですね。まぁ、城壁に穴を開けるのはひと苦労ですけど、一般住宅ならちょっと手間をかければ窓も作れます。たぶん、書庫の壁にも窓が開けられ、周りには塀が立っていたのかと」
Y「弟子か丁稚に巡回でもさせれば問題も起こらんな」
F「ちなみに『真・恋姫』で、楽進(凪)が城の書庫から書を借りていく……というイベントがあったけど、アレは相手が曹操だったからできたようなものだ。前漢の武帝には、全国から数万巻の書簡を買い集めると、長安に作った自分専用の書庫にため込んで、自分と司書にしか触らせなかったという逸話がある」
ヤスの妻「あのヒトの行いが悪いのか、えーじろがそういう逸話ばかり好んで集めているのか」
F「嫌いなのは事実です。だからえーじろやめろ」
Y「ちなみに、風呂やトイレはどうしていたンだ?」
F「ふむ。まずお風呂だけど、庶民はだいたい、水で身体を洗う程度だったと思われる。というのも、大規模にお湯を沸かしてそれに入るという、一種贅沢な行いが個人単位でできたか、というとやはり疑問視されていて」
Y「大商人か豪族レベルでないと持ち風呂は無理か。江戸時代みたいに風呂屋があったのかね?」
F「んー、江戸でお風呂屋さんが流行ったのは木造住宅だったからなんだよ。個人各位でお湯を沸かしていたら火事になりやすい、火事になったら燃え広がる。ために幕府は持ち風呂を規制していた、という即物的な理由があって」
Y「意外ではあるが筋は通っているな」
F「となると、版築住居の場合には当てはまらないから、完全に文化の問題だと思う。西施がプールで泳いだってオハナシはあるから、一部の豪族のみ湯水に浸ることはしていたけど、現代でいうお風呂はまだなかったンじゃないかと。ちなみに、さっきから思ってたンだが、江戸時代で云うなら湯屋と風呂屋は別物な。当時の風呂屋ってのは今のサウナだ」
Y「……まぁ、三国志じゃないンだから気にするな」
F「自分で間違えておいてその台詞はないだろ。また、トイレだが、そちらに至ってはほぼ完全に資料はない。が、たいていの家では家畜を飼っていたのは云ってあるな」
Y「……おい」
F「ブタもイヌも人糞を喰うからね。ある程度まとめて、その辺のエサにしたか、あるいは捨てたか、肥料にでもしたかだろう。下水道はこの時代なかったけど、曹操が衛生面での問題を放置していたとは思えない」
ヤスの妻「ムダに万能だからね、あのヒト」
F「漢土で最初にろうそくを作ったのも曹操だった、ってオハナシがありますね。信憑性はともかく、後漢末に実用化されたのは事実のようですが」
ヤスの妻「……万能だなぁ」
Y「むしろ全能?」
F「さすがに民間レベルに出回るには至らなかったようですが、この時代でも、動植物の油で火を灯し、ある程度遅くまで生活していたのは事実のようです。ただし、城壁の中にも塀が立てられ、城内を区画整理していました。これを"坊"といい、夜間に他の"坊"へ出入りしようとすると、原則捕まります」
Y「防犯のためか」
F「そゆこと。同様の理由で、夜間は城門が閉ざされ、中に入ることも外に出ることもできません。火事でもなければ、朝まで門が開くことはなかったとされます」
Y「洪水は?」
F「効果のほどはともかく、しっかり閉じた方がよくないか?」
Y「……それもそうだな」
F「まぁ、この"坊"がひとつの街に近いので、"坊"の中だけで充分生活が営めていました。夜になっても物売りや酒家の呼び込みが声を上げ続け、飲食店は朝早くから夜まで営業していました。不自由に感じたのは、運悪く城門が閉じてしまい、野盗に襲われないかとビクビク夜を過ごす旅人くらいでしょう」
ヤスの妻「中に入れてあげればいいのに」
F「そいつが野盗の仲間でないという保証があっても、門を閉じるのが門番の責務ですから。ンなことをしたら門番のクビが物理的に飛びますよ。平和な時代なら、そんな旅人を相手にする宿場が門の外にもできていたでしょうが、さすがに三国時代では望むべくもなかったでしょう」
Y「文字通りの門前町か」
ヤスの妻「ヤス、門前町はお寺の前に作る宿場町のこと。場所のニュアンスはあってるけど用法としては間違い」
F「まぁ、昼間なら門の外でも物売りは店を出せたはずですけど、首都級の大都市でも割と叛乱に見舞われるから、その辺は時代的に難しいかと」
Y「……寄ってたかって」
F「さて、市場というと道の両側に店が並んでいるのを想像するかと思いますが、漢代ではちょっと違います。塀に囲まれた広い敷地に長屋のようにお店を並べ、計画的に設置・管理する公設市場でした。劉邦が大商人の横行を抑制しようと、モノを売買するのにかなりの規制を強いたのがことの発端でして」
Y「商人というのは、ある程度自由に出入りできるものと思っていたが」
F「とんでもない。市に出入りする商人は市籍という名簿に登録しなければならんが、まずこの手続きにも費用がかかる。ちゃんとした身分でなければ登録できないし、市に持ち込む商品の品目や数量は毎日申告しなければならなかった。それでいて、売り上げに応じて課税されたが、利益の大部分は徴収される」
Y「商売するのが嫌にならんか?」
F「それでも巨万の富を築く大商人がいたくらい、市場での取引は活発だったンだよ。そして、市場がにぎわえば国庫収入にもつながる。曹操は税制や規制を緩めてさらなる発展を当て込んだが、何しろ黄巾の乱で天下が荒れ果てていた時代だ。民衆が生きる糧を得るためには、ある程度商人に融通する必要があった面も否めない」
ヤスの妻「不正を見逃すようなひとじゃなかったンだけどなぁ」
F「民衆には優しいンですよ。また、市場には商品流通の他にもうひとつ、重要な役割がありました。縄を打たれた罪人や処刑された死体をさらす、広報の場という側面です。董卓が殺された折には長安の市に死体がさらされ、へそでろうそくが三日三晩燃え続けたとされますが、商人たちはそんな情報も、物資とともに遠方へ持ち込んでいます」
ヤスの妻「民間レベルでの情報交流は商人が担っていて、政府が情報を発信する場が市場に求められた、か」
F「その街の住民にしてみても『市に行けば情報が得られる』くらいの認識はあったでしょうね。さて、そんな商人たちですが、闇商人という異端児も存在していました。当時、塩や鉄は官制品でしたが、これらを裏ルートで仕入れて売りさばく商人もまたいたワケです」
Y「それこそ取締りの対象じゃないか?」
F「塩はともかく金属品に関しては、魏ではある程度黙認されていた節があります。割と重要な話ですが、黄河流域にはマトモな銅の産地がなく、資源は長江流域から得ていました。ために、戦乱の時代になると南北での流通が疎遠になり、河北ではまっとうな手段で資源を得ることができなくなっていたンですね」
ヤスの妻「……あー、銅山ないもんね。長江流域まで行かないと」
Y「知らねえよ」
F「袁家は北狄に通じていたので、長城の外から金属資源を得ていたとは思えますが、それを得るまでの曹操軍は、武器を輸入していたとしか考えようがないンですね。自分で作れないなら買うしかありませんから。そして、逆説的ではありますが、この場合武器を大事にしません。また買えばいいや、みたいな感覚で使い捨てるようになります」
ヤスの妻「北伐で孔明さんが魏軍を破ったとき、鎧を何千領も得たって記述があったね」
F「自分で作ったものと金で買ったものでは、思い入れが異なるのは当然のことですね」
ヤスの妻「……ちょっと待って、どこから仕入れたの?」
F「まさか、です。魏の遺跡から呉や蜀の貨幣が出てくるという、笑えないオハナシがあります」
Y「節操ってモンはないのか?」
F「それを持つ商人は銀でできた指をしている(=いない)と云うぞ。利益のためなら国でも売るのが商人という人種だ。闇商人を通じて呉・蜀の物資が魏に、あるいはその逆にも流出入していたようでな。さらには民間レベルのみならず、魏が呉に馬を売って珍品を得たのも以前に見ているだろうが」
Y「戦争してるとは思えない雰囲気に見えてきた」
F「民衆にしてみれば、自分たちに直接の被害がなければ、おかみがどう変わってもいいンだよ。耐えられない君主だったら民衆叛乱が起こって国まで倒れる場合があるが、三国時代の商人や民衆はそこまで追い込まれていなかったワケだ。まぁ、珍品を得るために軍需物資を手放したのは、相手が呉だったからできたことだろうな」
ヤスの妻「江東は商人気質が強い、だっけ」
F「利害ではなく損得で計算できるワケです。呉の藩璋が、自分の部隊で余った物資を市みたい売買していたところ、他の武将が買いに来たってオハナシがありますから」
Y「……呉将だよな?」
F「違うとの明記はない。さて、商人に並ぶ『旅する人々』が芸人で、中国と云えば雑技団というように、雑技芸人はこの頃も盛んでした」
ヤスの妻「芸人ってもともと差別用語なんだけどね。生産に与しない職業は低く見られがちだから」
F「扱いとしては商人よりさらに下ですね。ですが、娯楽としての雑技は重宝され、正史には、曹丕の妻・甄氏が8歳の折に、おもてに芸人がやってきたとの記述があります。芸人がお宅訪問して芸を見せ金を稼ぐのを推参と云いますが、この時代でもそれは変わらず、大きな酒家では頼まれもしない芸を見せようとする芸人を追い払うのに苦労したとか」
ヤスの妻「進歩がないなぁ」
F「演目で云うならこの時代で、すでに完成に近いことになっていたようですから。手技口技猛獣使い、玉乗り綱渡り馬の曲乗り、演舞からイリュージョンまで、楽器の発達と相まって現代の雑技に引けを取らないものが公演されていたと云います。特に魏では盛んで、曹操は『こんな連中を野放しにしては民衆が惑わされる』と宮廷に集めたほどで」
ヤスの妻「自分でも見たかったのかな?」
Y「幸市の曹操評を聞いていると、あながち否定できん……」
F「そして、自分でもやってしまったのが息子の曹丕です。皇帝になる前、故郷に帰った折には、住民を集めて雑技を楽しませたほど雑技が好きで、それが高じて自ら口技を修得しています。これは鳥や獣の鳴き声をまねるものですが、ロバの鳴き声が好きだった家臣が死んだ折には、自らロバの鳴き真似をして、ために参列者もみんなで鳴いたとか」
Y「曹丕をネタにするのやめてくれんか?」
F「一方的に嫌ってる奴なら大喜びだろうけど、きょうは不在だからなぁ。この親子が芸術分野に造詣が深いのは歴然たる事実じゃないか。民衆の娯楽として雑技だけに、草の根レベルでの講演も盛んで、サーカス団みたいに各地を巡る雑技団もいたようだ。一方で、曹操に集められたように、権力者や富裕層のお抱え芸人もいたワケだが」
Y「詩人はもともとその類だった、と」
F「個人レベルでの遊びとしては、囲碁が盛んだったようです。正史・演義を問わず武将同士が碁を打つ姿が描写されていますから。ただ、この時代の碁は十七路(ラインが17本)だったそうで、現在のものより2本少ないですが」
ヤスの妻「割と多いもんね、囲碁のシーンって」
F「僕もいちおう嗜み程度には打てますが、そんなに強くないので論評は避けます。そういえば、知恵の輪を発明したのは孔明だというオハナシがありましたね。出陣するときに、月英さんに『コレで遊んでろ』と置いていったとか」
Y「手慰み与えて夫の役割を放棄したワケか」
ヤスの妻「ちゃんと子供がいたんだから、役割は果たしたと思うけど」
Y「……やかましいです」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
F「男は己を知る者のために死に、女は己を愛する者のために粧う……と云いますが」
Y「やかましいって云ってンだろ!」
F「女性のお化粧好きはこの頃でも変わりません。当時、豊な黒髪が美人の条件とされましたが、髪のヴォリュームの少ない女性のため、ウイッグがすでにあったといいます。3日に一度くらいのペースで、米のとぎ汁を使って髪を洗い、象牙や鼈甲の櫛を使い、植物の油で光沢を出しました。また、眉毛を書くのが流行したのがこの時代で、細く長い眉が好まれたと云います。眉毛を抜く道具も発掘されていますね」
Y「浅ましいなぁ」
ヤスの妻「ヤス。わたしが、えーじろが女装したような外見だったら、連れて歩きたいと思う?」
Y「埋めるか捨てる」
ヤスの妻「一緒に歩いている男がバカにされるような外見で外を歩けるほど、女って図太くないよ。もちろん、男にもある程度気を使ってもらうけどね」
Y「……女の、外見にこだわる習性は歴史を超えるか」
F「ときどき、アンタたちの仲の好さが羨ましく思えます」
Y「気の迷いだ!」
F「話を戻すと、白粉・頬紅・ルージュの類はすでにできていましたし、かんざしどころかピアスでさえ周の時代からありました。ちゃんと耳に穴をあけていたというから驚きですが、それ以上に鏡の質が向上していたのを無視できないでしょう。かくて女性たちは良人のために自らを高めていた……ワケですが。ところで」
ヤスの妻「おー(ぱちぱちぱち)」
Y「だから、喜ぶなってのに……」
F「ここまでは、あくまで都市部でのオハナシです。いつの世も上に『貧しい』との枕詞がつくのが農民ですが、この時代でもご多分にもれず、都市部とは明らかに違った生活をしていました。都市の住民がレースを施した絹や綿の衣服を着ているのに、農民は麻のボロ布に身を包んでいました。版築ですらない泥を硬くした壁に藁で屋根を噴き、豪族の家畜に近い生活をしていた者は少なくありません」
ヤスの妻「……茶化しちゃダメなオハナシだったよ、ヤス。お座蒲団持っていって」
Y「だから、茶化すな」
F「食糧事情も異なっていたのは云うまでもありません。先ほど『都市部の』女性が米のとぎ汁で髪を洗ったと云いましたが、農村ではアワのとぎ汁でした。当然、これはどちらを食していたのかに直結する事例です。当時の食事は87回で、食人まで含めてひと通り見ましたが、下々では米麦ではなくアワやヒエを主食にしていたようです」
Y「下を見ればきりはないものだが」
F「えくせれんと。曹芳くんの辺りで触れたが、この頃には奴隷も売買されていた。官人>庶人>農民のさらに下に位置する奴婢は、市場で取引される経済物資のひとつと扱われていたンだ。お値段は、成人男で1万5000文、女性1万文、子供で7000文。アワが約3日分で100文しないくらいだったので、割とお高い買い物です」
Y「相場がよく判らんなぁ」
F「リンカーン時代の、アメリカでの奴隷と比べてもちとお高いくらいだ」
Y「だから、リンカーンの何がそんなに不満なんだって」
F「運よく宮廷に買われた奴婢は重労働ではなかったでしょうが、多くの奴婢が農村で、農作業に従事していました。ひとは、自分より下と思い込んだ存在には、いくらでも残酷になれる生物です。どんな扱いを受けたか……は、想像に難くないですね」
ヤスの妻「そういう話、好きじゃないな」
F「武将たちが華やかに兵馬を駆る時代ではありましたが、一方で、生活を営み生産者として社会を支え、あるいは虐げられる民衆もいた……というのを、忘れてはいけないと思います。彼らの我慢が限界に達したとき、失敗すれば叛乱と、成功すれば革命と呼ばれるのが、漢土の文化ですので」
ヤスの妻「……どうしても、この一歩が届かないンだよね」
Y「相手が悪いだろ」
F「続きは次回の講釈で」