前へ
戻る

私釈三国志 180 豪胆姜維

F「では、予定より2回遅くなったものの、姜維(キョウイ)についてを一席」
Y「狙ったようにしか見えないンだがなぁ……お前の性格からして」
F「ふふふ。まぁ、都合はよかったと云っておこう。ともあれ、かくて鍾会(ショウカイ)は死にケ艾(トウガイ)は殺され、蜀攻略の功はひとり司馬昭(シバショウ)に属することになった」
A「要領がいいよなぁ」
F「末っ子は要領がいいと云うけど、次男だしな。司馬昭の場合は要領よりアタマだろうね。鍾会・ケ艾ついでに姜維の死によって、一番得をしたのが司馬昭なのは確認するまでもないと思う」
A「鍾会は潜在的に、ケ艾は軍功的に、自分を脅かしかねないけど、それをまとめて除いた……か」
F「鍾会がハラに一物含んでいたのを、司馬昭がある程度以上察していた、それは正史鍾会伝にも書かれている。ケ艾に関しては冤罪だけど、その両者をまとめて除き、蜀攻略の軍功を一身に帯びることに成功しているのは、さすがに仲達の血と教えが生きていると云わねばならんだろう」
A「思想的なものは生きてねーけどな」
F「まぁ、その辺りは環境と鍾会のせいだから。また、本人は長安までしか来なかったけど、場合によってはそのまま鍾会たちと一戦交える態勢も整っていた」
A「……鍾会はどうすればよかったンだ?」
F「早い段階でケ艾を味方につけていれば、軍勢の半ばを割って呉攻略に向けさせ、姜維と自身で司馬昭を防ぎ、天下二分に持っていくこともできただろうけど、致命的なのは部下の信が得られないことだからなぁ。その辺りの性格から直さないと、まず天下は盗れなかったよ」
A「同情するつもりはないけど、やはり部下を恐怖政治で締め上げるのはなぁ」
F「やり方がまずかったワケだ。魏のオハナシはこれくらいにしておいて、ほとんどとばっちりに近い最期を迎えたのが姜維だった。鍾会に先立って姜維も斬り死にしているのも前回見たな」
Y「似あいの末路だな」
A「どういう意味だ!?」
F「姜維が何をしようとして失敗したのか、と云えば、鍾会を使って魏を打ち破ろうとし失敗した、ということになる」
A「もう少し詳細にー!」
F「劉禅(リュウゼン)ではなく皇太子を立てて、蜀の再興を目論んだ」
A「よくやった、姜維!」
Y「孔明の死から30年、常に誤った道を歩み続けてきた男が、ついに眠れる才に目覚めたか。いや、涼州最大の人材というのも伊達ではないな」
F「……何だ、この連中」
A「ヤスの暴言は聞き流すけど、それで、具体的には?」
F「あー、はいはい。前回見た264年1月18日の、成都城内の戦闘に巻き込まれて死んだ蜀の面子は、劉璿(リュウセン、劉禅長子・皇太子)・蒋斌(ショウヒン、蒋琬の子)に張翼、そして姜維だ。他にも将兵が多く死んだ……とはあるが、そもそも魏軍は略奪を禁じている。蜀軍が向かって来なければ、魏軍から向かっていくとは考えにくい」
A「そうか?」
F「不満ならこう考えろ。ケ艾の部下が脱出できるほど成都城内は混乱していたのに、蜀軍にまでかまっている余裕があったのか、と。略奪だの暴行だのしている暇はなかったはずだぞ。正史にも『蜀の軍が暴動を起こし多数死傷した』とある」
A「むぅ……」
F「となると、このとき蜀軍が死んだのは、むしろ姜維が手配していたと考えるのが筋だろう。鍾会に降っていた蒋斌(鍾会とともに死んだ、とある)はともかく、張翼が皇太子を立て軍を率いて、混乱に乗じようとした」
Y「姜維の指示かは判ったモンじゃないが、一発逆転を狙ってもおかしくはないな」
F「死んだのがよりによって張翼なんだ。アレも堅実な男だったが、この段階で動かなければ蜀の再興はないのは誰の目にも明らか。そして、その堅実な男が死んだということは、何か企みがあったと考えられる」
A「事前に姜維が手を打っていた……混乱に乗じて魏軍を討てと、か。蒋斌が死んだのは?」
F「私見だが、姜維に殺されたように思える。蒋琬(ショウエン)の子でありながら堂々と魏に降ったこいつだけは我が手にかけないと腹の虫が収まらんだろう。一方で"当先鋒"廖化(じんざいぶそく)が死んでいない、つまり戦闘に加わらなかったのは、本人が云う通り『ワシの生まれる前か死んだあとにやれ』という心境だったンだろう」
Y「すでに見離していたワケか」
A「まぁ、無理もないけどな……」
F「また、この時、関羽の子孫が殺し尽くされたのは以前触れたが、関興の子は劉禅の娘を娶っていてな。関羽の死後重要なポストには就いていないが、その辺りの関係で考えるなら無視できないだろう」
A「皇太子劉璿を立てて関家をメインに、張翼が実働部隊を率いて、鍾会亡き魏軍に向かっていった……か」
Y「そして、敗れた」
F「負けたのも無理からぬことではあるけど、それでもよかったように思える。殉じる者がいない国というのもみじめなものだからな。やり方次第では勝てなくはない戦闘のはずだが、やはり成都、益州の民は長き戦いに倦んでいたと結論を出さざるを得ない」
A「民心を得られなかったのが、姜維のしかけた一発逆転の敗因かぁ」
F「姜維という武将について考える場合、この男にはどこまでできたンだろうと思わずにはいられない。孔明に見出され、のちに軍権を預かったとはいえ、蜀の国力を低下せしめ、間接的に滅ぼした罪は負わねばならん」
Y「蜀が滅んだ原因の半ば……いや、3割はコイツに求めていいからなぁ」
F「正史でも、割と評価が分かれるンだ。ちょっと見てみるか」

「蜀は小国で領土は狭く民は少ないのに、姜維はその軍勢を酷使して志を放棄しようとしない。先年敗北してからも、沓中(トウチュウ)で屯田して羌族を搾取し、民衆は圧制を耐えかねている。そもそも、弱者を併呑し道義に外れた者を膺懲するのは武力の正しい使い方であり、敵を我が方におびき出しても敵中深くまで入らないのは兵法の上策。もはや蜀が頼みとするのは、姜維ただひとり。かの者が成都を遠く離れているのに乗じれば、滅ぼすのはたやすい。ケ艾・諸葛緒(ショカツショ)・鍾会に命じる。姜維を捕らえ、蜀を討て!」曹奐(ソウカン、蜀攻略の詔勅より)

「かつて孔明はこれ(涼州攻略)と同じことを考えていたが、結局できなかった。ことは大きく、姜維にできるはずがない」司馬昭(王経の敗戦後、姜維がどう動くかについて)

「敵(姜維)は小賢しい策を弄するのだから、また来るのは間違いないぞ」ケ艾(姜維はもう来ないとの部下に応えて)
「姜維はそれなりの武将だが、ワシが相手だったから追い詰められたのだ」ケ艾(増長して)

「姜維は馬良でも及ばぬ、涼州最高の人材である」
「姜維は軍事に精通し度胸もあり、兵の気持ちを深く理解している。漢王室に心を寄せ、人に倍する才能を有している」孔明(姜維を評して)

「我々は丞相に遠く及ばないのだ」費禕(事実)

「あなたは文武両面に才能をもたれ、余人を凌ぐ策略を胸に抱き、功業を巴・漢の地に馳せられたため、名声は中華まで知れ渡り、遠きも近きもあなたに心寄せない者はおりません」鍾会(剣閣で姜維に送った文書より)
「姜維は凄いぞ〜、諸葛誕や夏侯玄でも及ばんだろう」鍾会(姜維を絶賛して)

「姜維は蜀の大臣でありながら、国家が滅亡し主君が恥辱を受けたときに死なず、鍾会の乱で死んだ。残念なことだ。死ぬのは難しいことではなく、死に方が難しいのだ」干宝(カンポウ、正史の注より)

「『戦争とは火のようなもので、やめなければ必ず自分を焼く』と云うが、まさしく姜維そのままではないか。智謀でも武勇でも敵に劣るのに、戦争しかけてどうして勝てようか。ワシは思う、今の事態がどうして、ワシの生まれる前か死んだあとに起こらなかったのであろうか、と」"当先鋒"廖化(北伐に反対して)
A「だから、当先鋒やめろ!」

「姜維殿は上将の重責を負い、群臣の上に位置しながら、粗末な家に住み余分な財産をもたず、妾を囲う不潔さもなく、音楽を奏でさせる楽しみも持たず、あてがわれた衣服で備えつけの車と馬を使い、飲食を節制して贅沢もせず倹約もせず、俸禄を右から左へ使い果たした。彼にはそれだけで充分で、多くを求める必要はないと考えたからであった。ヒトは成功者をたたえ失敗者をけなすもので、姜維殿が殺されたから非難し、その評価を改めないのは残念でならない。姜維殿のように学問を楽しんで倦まず、清潔で質素、自己を律する者は、時代の模範なのである」郤正(ゲキセイ、蜀の学者)

「弱小国は民をいたわり、はぐくむことによってのみ大国に勝利できる。民の労苦を考え、慎重に戦い、可能な限り少ない回数の戦争で勝つようにしなければ、国内に騒動が起こり国が瓦解することにつながる。もしあくまで武力を奮い、何度も征虜の軍を起こした結果、崩壊の情勢が生じ危難に遭いでもすれば、智者であっても対策を講じることはできないだろう」譙周(ショウシュウ、蜀の学者)

Y「蜀の学者ふたりが、ほぼ反対の評価をしているのか。郤正は肯定的で、譙周は否定的」
F「というか、郤正は『同情的』だな。では、陳寿はどう評しているかと云えば、こんな具合だ」

「姜維はほぼ文武の才を備え、功名をあげるのを志したが、軍勢を軽々しく扱いむやみに外征を繰り返し、明晰な判断を充分にできず、最後は身の破滅を招くことになった。小国でたびたび民の生活を乱すような行いをしていいものだろうか」陳寿(姜維を評して)

A「譙周センセに近い意見なんだねェ」
F「うむ、二元論なら否定的な意見だ。また、ケ芝からも高く評価されたとの記述もあるが、実は正史の注で面白いことが起こっている。孫盛(ソンセイ)と裴松之(ハイショウシ、いずれも正史の注釈者)が姜維について揉めているンだ」

孫盛「ケ艾が江由に攻め入ったとき、姜維は綿竹にたどりつけなかったし、成都に駆けつけることもできなかった。魏と蜀の間を行ったり来たりし、滅亡した国をもって道義に外れた成功を収めようなんて、ぅわすげーバカ」
裴松之「バカはお前だ。姜維が綿竹に向かっていたら、鍾会が剣閣を超えて蜀を滅ぼしただろうが。諸葛瞻が敗死したのがまずかったンであって、剣閣と綿竹両方を守る責任は姜維にはねェよ。鍾会の策に乗じていれば蜀の再興は難しくなかったが、それをできなかったからといってバカ呼ばわりはねーだろ」

孫盛「しかし、郤正もおかしなことを云う。姜維は忠も孝も義も節も備えておらず、智勇もたいしたモンじゃない。魏から逃げて蜀を滅ぼした張本人を時代の模範とは何事か」
裴松之「郤正は姜維の美点を数え上げたのであって、姜維の全てを模範としろなんて云ってねーよ。人格的なことを褒めてるンじゃねーか。だいたい、本文で『追い詰められて蜀に降った』って書いてあるのに、そこを責めるのは筋違いってモンだ。責めるなら母に背いたことを責めればいいだけで、郤正を責めるのは筋違いだぞ」

F「正確には、裴松之が孫盛の姜維評にケチつけているンだが、どちらかと云えば裴松之が正しいことを云っているように思えるのは僕の気のせいだろうか」
Y「まぁ、剣閣を守りながら綿竹にも向かえなんて云われてもなぁ……」
A「裴松之も、姜維に同情的なんだ?」
F「いや、正史諸葛亮伝の注に、さりげなく本音が漏れていたよ」

「姜維は天水の一男子にすぎず、(孔明が)彼を手に入れたからといって魏にどれほどの損失があろうか」

Y「割と妥当な発言だな」
F「孫盛に『お前、云いすぎ』とは云っているけど、姜維の人格はともかく能力への非難には反対していないようでな」
A「なんだかなぁ……」
Y「やはり、孔明の後継者たるには器が不足していたか」
F「その辺りなんだろうな。そもそも孔明が姜維に期待していたのは、自分の後継者ではなく魏延の代わりだということは、以前指摘している。蒋琬や費禕(ヒイ)には蜀の宰相たる権限と責任もあろうが、結局前線指揮官にすぎなかった姜維に、過度な期待を向けすぎなんじゃないかと思えるンだよ」
A「……まぁ、そうだけど」
Y「期待……だな」
F「姜維は国政を担うことがなかった。蒋琬の死によって蜀が益州人主導に方針転換しては姜維が担えるはずもないが、むしろ性格面からだろう。何しろ正史に『功名を立てることを望んだ』と記述されるくらい名誉欲が強く、華々しく大軍を率いて魏に攻め入り大勝利を得たいと考えていては、費禕が認めないのも無理はなくてな」
A「北伐反対は益州人の総意に近かった……か」
F「孔明時代は地味なお仕事に従事していても、蒋琬の頃には部将として活動し、費禕の代では大軍がほしいと云うようになっているのは、実績を重ねてきたことで次第に若い頃の性格が表に出始めたからではないかな、と」
Y「蜀の身代に合わない北伐を繰り返したのは、費禕の死によって軍事面での上位者がいなくなり、その辺のタガがすっ飛んだからか」
F「誰も止められなかったからね。蜀が滅んだ原因の一部が、姜維の北伐で国力が衰退したことにあるのは事実だ。でも、それ以上に問題なのは、一介の前線指揮官にすぎない姜維ではない、国家レベルでの責任者が蜀にいなかったことにある。陳祗(チンシ)は思想的には費禕の後継者だったが、政治的にはそこまでの権力がなかった」
Y「国を思い背負う者が、当時誰ひとりいなかった?」
F「宦官ににらまれるのを恐れて斬ることもできないような連中に、そんな気概があるはずがないだろう。その意味では期待されていた諸葛瞻(ショカツセン、孔明の子)が死んだら、劉禅が降伏に同意したのも無理からぬオハナシだな」
A「……姜維の政治的な立場って、そんなに高くないンだねェ」
F「軍事が政治に左右されるのはまっとうな国家の証拠だが、まっとうじゃない政治に左右されたのが姜維の不幸に思える。ただ、そうやって考えると、北伐に反対するはずがない夏侯覇(カコウハ)を高位に就けた劉禅の考えは、姜維を間接的にフォローするものだ、ともとれる」
A「……あ」
F「さらに、諸葛瞻や董厥(トウケツ)が、姜維を閻宇(エンウ)と交代させ、益州刺史として召しよせようとしたことがあったが、これだって好意的に考えれば、姜維を宮廷に呼んで黄皓(コウコウ)に対抗させようとした……とも考えられるンだから」
Y「いや、対抗できるか?」
F「できる、と諸葛瞻たちは期待したンだよ。だが、姜維はむしろ身の危険を感じて朝廷から離れた。軍功を立てたいという野心はあっても政治権力を握ろうとはしなかったのは、この態度から明らかだが、それが蜀首脳陣の失望を買ったようでな。諸葛瞻が戦死すると、姜維は健在でも成都は開城している」
A「孔明の弟子より孔明の子のが、敗戦のインパクトが強かった……と思っていたンだけどなぁ」
F「姜維に期待していたひとは、案外少なくなかったようでな。それに応えられなかったのは男としても武将としても問題だな。そして、人格面や社会性についてはフォローもできるが、能力においてはフォローの余地がない」
A「そりゃ負け続きでしたがね!?」
F「曹爽(ソウソウ、曹真の子)の侵攻以後、蜀が滅亡するまで、魏は蜀に攻め入らなかった。姜維が先制攻撃を繰り返していたため、魏軍が受動的になったとも云えるが、それでも孔明時代を下回る戦果だ。出るたびに被害を出し、たまに勝てばもっと勝とうとして失敗する。どうにも姜維は大軍を率いられる器ではなかったように思える」
A「……うーん」
F「何よりの問題は、漢中防御ラインの変更だ。正史にはっきりと『魏延の築いた防御陣のおかげで、王平は曹爽を撃退できた』と書かれている漢中の防御陣を『守るのには向きますが、大勝利は得られません』と、177回で見たシステムに切り替えたのが姜維なんだ。これによって、楽城・漢城・陽安関が各個撃破の対象となったのは周知の事実」
Y「魏延の代わりとの期待には、応えられなかったワケか」
F「やや酷な見方をすれば、智勇いずれも魏延に劣る。無能ではなかろうが……国を背負える武将ではなかった、と云わねばならんだろうな」
A「残念な結論ですね……」
Y「何で孔明は、こんな奴を選んだのやら」
F「ところで、はその辺りだ。諸葛瞻らが姜維にある種の期待を抱いていたかもしれないとはさっき触れたが、それは黄皓の対抗馬としてではなかろう」
A「じゃぁ、どんなだ?」
F「斬ってくれないかと期待していたように思えてな」
Y「……まぁ、期待もするか」
A「俺も期待するよ」
F「だが、姜維はそれをしなかった。曹爽や孫峻(ソンシュン)、諸葛格(ショカツカク)がやったように、敗戦後に、軍事力を盾に宮廷を牛耳ってお茶を濁すような真似を、姜維は結局しでかさなかったンだ。当時の武将としては異例の潔さと云っていい」
Y「潔いというよりは、それをしたところで宮廷に味方がいないのを自覚していて、二の足を踏んだだけじゃないのか?」
F「少なくとも孔明は、姜維がそんな真似をしでかす男ではないと知っていた。何しろ姜維は、馬遵(バジュン)を斬っていない」
A「……天水太守だっけ? 蜀軍の侵攻におびえるあまり、随行していた姜維たちをも見捨てて逃げた」
F「関係が良好でなかったかもしれん、とは111回で触れているが、姜維はそんな太守でも斬っていない。どさくさにまぎれて馬遵を殺し自分が天水の太守たることができたのに、だ。同僚3人が結局蜀までついてきたことからも、姜維が動けば天水の文官も協力していた可能性は高いンだよ」
Y「だが、文句も云わずに蜀に降った……か」
F「上に対する忠誠心そのものは、評価していいと思える。だからこそ、孔明はこの男に期待し、評価した」
A「でも、母親見捨てただろ? 裴松之でもその点は非難していたぞ」
F「何でその程度が問題になるのか、僕には判らん。親を捨てられるほどの相手に出会えるのは、男にとって最高の喜びじゃないか」
Y「……経験者は語る」
F「30近い男(降伏当時姜維は27歳)が母親の云うことに従って仰ぐ旗を変える方が、むしろ不潔と云わねばならんだろうさ。姜維は馬遵に捨てられたことで、真に仕えるべき主を得た。その主が興し育てた国を滅ぼしはしても、武力を背景に自分で率いようとしなかったのが、姜維最大の美徳であろう」
Y「褒められたモンじゃねぇけどな」
A「褒めたいけど……何でだろう、コイツが云うと褒められないのは」
F「かくて、孔明に見出され、孔明に惚れこみ、その背中を追い続けた男は死んだ。死体は魏兵によって切り刻まれたが、その肝は一升もの大きさがあったという」
Y「フォアグラ?」
A「茶化すな!」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る

















F「泰永、泰永」
Y「ん?」
F「アキラの前ではできんオハナシを少し。幸村こと真田信繁だが、討ち取られた首級から武運長久を願って髪の毛を抜いていく兵士がいたそうだ」
Y「まぁ、判らんでもないか」
F「敵や捕虜を喰う習慣は、その辺りの感情と無縁ではない。強力な敵を体内にとりこむことで、そのちからを自分のものにできるという考えだな」
Y「なぜ姜維が切り刻まれたのか、という話か」
F「うん。水滸伝では、クビを取った敵将の残りは、バラして喰ったという記述もある」
Y「勇戦したのかもしれんなぁ。切り刻まれるほどの働きは、武人としては目覚ましいものと認めざるをえまい」
F「将としての武勇はともかく、個人としての戦闘力は別して低くはなかったようでな。しかも、還暦回ってるのに」
Y「……思えばトシをとったモンだな」
F「補足、以上」