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私釈三国志 179 成都死戦

F「予定だと、今回と次回は後回しにするつもりだったンだけどなぁ」
Y「アキラがおらんときにこのイベントを見るワケにはいかんからな」
F「そして、半月後に迫ったあの子の結婚式のため、本人が忙しいと思っていたンだが……いるし」
A「何だよぅ、いちゃ悪いのかよぅ」
F「いや、悪いとは云わんが」
A「気にすんなって。さすがに来週は無理そうだけど、今週はまだ手が空いてるンだから。そもそも結婚式なんて、当人が手出し口出しできるモンじゃないだろ」
Y「そりゃそうだな。俺のときも親父と向こうのじいさんが仕切ったし」
F「僕らは式挙げられなかったから、その辺の都合はどーにも。まぁ、詳しくツッコむのはよそう。前回、あんなタイトルだったのに鍾会の叛逆までには至らず、その下準備を総ざらいしていた次第だが」
A「えーっと、鍾会が司馬昭に取って代わるには、司馬昭に曹髦を殺させて簒奪の意志をかためさせ、それから、蜀攻略を行うことで司馬昭を洛陽から引き離し、自分の手元に軍事力を用意する」
Y「直接対決の際に呉や蜀から軍事介入を受けないよう、一方は謀略で足を止め、もう一方は物理的に叩き潰した、と」
F「蜀軍の抵抗が強固だと考えた鍾会が、撤退を考えたのも無理からぬオハナシだろうね。そのまま攻め続けて被害を増やすより、むしろ開き直って手持ちの軍を司馬昭に叩きつける方が安全だ。蜀軍の追撃はケ艾に任せておけば安心だし」
A「いいのか、その安心の仕方」
Y「この時代にあれほど殿軍を任せるのに不安のない武将も少ないか。陸抗(リクコウ、陸遜の子)か文鴦くらいか?」
F「文鴦に殿軍を任せるとどうなるかは以前見たけど、陸抗だとどうだろうな。アレは智勇で云えば智に偏るから、殿軍には向かないタイプに思えるが。張飛みたいな、何も考えずに味方を逃がすためだけに暴走する、武勇と忠誠心を併せ持った輩こそが殿軍には向くンだよ」
A「そういうもの……かな」
F「ともあれ、話を戻そう。蜀攻略の功績により、ケ艾は太尉、鍾会は司空と、それぞれ三公に叙任されている。これにより、常々見てきた失敗をケ艾がしでかした。下々の出自から大功を挙げ出世を遂げたがために、増長したンだ」
A「よくあるパターンだけど、人の世の欲にはケ艾でも逆らえなかったのか」
F「ケ艾"でも"という言葉の意味が判らんな。蜀のファンにしてみれば『姜維のライバル』『敵ながらアッパレな奴』という印象でもあるようだが、それほどの人格者ではないぞ? 吃音のせいで出世できなかったのは以前触れたが、同情した役人の父親が手厚い援助をしたのに全く礼を云わなかった、と正史にある」
Y「よくないパターンが頭に浮かんだ。障害者は自分が優遇されるのを当然と考えるが、それに近いか?」
F「さすがに、そこまではない。司馬師の代に汝南太守になると、かのひとに恩返ししようとして、ところがとっくに死んでいたので、改めて葬儀を行い、妻には存分に贈り物を、子は経理に登用している。韓信が若い頃世話になった相手に、出世してから報いたのはいいと思うが」
A「その辺を意識していたのか、性格的に似ていたのか」
F「性格は韓信だが、本質はもうひとりに近いと思う。164回で、陳泰(チンタイ)に『姜維が衰えるのを待ちましょう』という趣旨の発言をしているが、コレ要するに『王経(オウケイ)を見捨てましょう』と云っているンだから。もともとの出自が出自でひとを使うことにも気遣うことにも慣れていなくて、出世してもその辺の性格がこなれなかったようでな」
A「下々の出自というのが、どうしても響いてる?」
F「身分だけで考えるなら、正史では『司馬宣王(仲達)の配下にケ艾という地図職人がいた』程度の存在で済まされていたかもしれないのに、功績と出世を重ねて成り上がったモンだから、増長してしまった。それだけの話だ。割と空気読めない言動を、この頃しでかしていて……列挙するか」

蜀攻略後のケ艾の言動
・略奪はせず、投降者は受け入れもとの職場に復帰させた(蜀の民衆には好評)
・劉禅を驃騎将軍代行、皇子・官僚らにも魏の官位を授け、師簒(シサン)や牽弘(ケンコウ)を益州各地の太守に任命(独断専行)
・綿竹関に京観をつくり、死んだ魏兵も蜀兵とともに埋葬した
・自分の手柄を誇り「諸君はワシに降伏したおかげで今日の日を迎えられたのだ。これが鍾会だったらどうなっていたか」とか「姜維はそれなりの武将だが、ワシが相手だったから追い詰められたのだ」とほざく(識者の笑いものに)
・司馬昭に上奏「呉にも攻め込みましょう」→返事「いいから落ちつけ」→もいっちょ上奏「『君命有所不受』でしたっけ?」→鍾会ら「アイツ、調子こくのもほどがありますぜ」

Y「どこまでつけあがってるンだ、この下民?」
A「何さまだ、お前」
F「ケ艾は下々の出で、人付き合いがやや不器用だった。さらに、能力には自信があるだけに空気が読めず、状況への認識が甘い。そう考えると韓信よりは項羽に近いな。韓信はそれでも、自分の能力では賄えない戦略規模の判断は蒯通(カイツウ)や李左車(リサシャ)で補っていたが、自分で何でもできると考えていたンだから」
Y「蜀兵の死体を穴埋めならぬ京観にしてるからなぁ」
F「そっちは『大勝利を祝って悪いか』とフォローもできるが、問題はそのあとだ。生き残った魏の兵から見れば、死んだ蜀兵、はっきり云えば負け犬と一緒に戦死した仲間が葬られては、面白いはずがなかろう」
A「そこまで云う……?」
F「そんなワケで陸遜級の空気読めなさ加減を誇るケ艾は、敵将・同僚・上司・兵士のことごとくを敵に回した。これじゃ、大臣の息子で世渡り上手な次男坊とは気が合わなかったのも無理はない」
Y「どっちの次男坊だ?」
F「両方。鍾会は、ケ艾が上奏する文書を手に入れると、手ずから傲慢で功績を自慢する表現に書き変えて、司馬昭のところに送りつけた。何しろ、"書聖"王羲之(オウギシ)が出現するまで中国書道界の神の座にあった鍾繇(ショウヨウ)の子だ。父から書道の手ほどきを受けていたようで『模写が上手かった』と正史の注にある」
A「アキラのいなかったときのネタですね。ちゃんと使うンだ」
F「一方で、司馬昭の書も入手しては握り潰し、ケ艾が疑念を抱く内容の書状にして届けているンだ。それがどの文書だったのか記述はないが、さっきの『いいから落ちつけ』を持ってきた衛瓘(エイカン)には、鍾会の息がかかっている。父は高名な書家だし、若くして傳嘏(フカ)に認められた人物だ」
A「……ケ鍾の二択なら鍾会につくね、間違いなく」
F「もうひとりの『大臣の次男坊』司馬昭も、ケ艾には目をつけていた。独断専行の気があるケ艾が、命令に従わないだろうと、衛瓘を通じてケ艾配下の軍団に武装放棄させ、ケ艾・ケ忠(トウチュウ、息子)・師簒らを捕らえさせているのね。鍾会とその軍団、そして姜維が成都に入ったのは、実はこの後のことだった」
Y「いちど蜀を攻略した面子が捕縛され、代わって鍾会が入ってきた……か」
F「ところが、鍾会の想定していなかったアクシデントがふたつ発生した。ひとつは先日見たが、郭太后がこの263年の12月24日に亡くなっている。鍾会の野望の片棒を担いでいたおばさんだが、思えば曹叡の死から24年だ。当時ハタチでも四十路も半ば、女としてもっとも魅力的な……こほん、怪しめば怪しめるがそれほど怪しいトシでもない」
A「口に出さんでも通じるようになってきたのはいいことだ。で、もうひとつは?」
F「実際のところ、司馬昭は鍾会の野望をある程度把握していたようでな」
A「何ですと!?」
F「司馬昭も木石ではないしバカではもっとない。毌丘倹平定戦からこうるさく蠢動していたこの男に、眼をつけていたンだよ。ケ艾を捕らえさせるのに成功した鍾会のところに、追い打ち気味の書状を送っているンだ」

「ケ艾の奴が大人しく捕らえられるか判らんから、念のため賈充に兵一万つけて楽城まで送るよ。俺は兵十万を率いて長安に入るから、もうすぐ会えるな」

F「鍾会は近しい者を集めて『どーしよう、叛逆企んでるのバレちまったぜ……!?』と困惑している」
Y「ホントに突発事態に弱いな、コイツ」
F「考えてみれば無理からぬオハナシでな。そもそものプランは、司馬昭を皇帝・朝廷から引き離して、蜀・呉の軍事介入を受けないよう手を打ってから、蜀を攻略した余勢を駆って司馬昭を叩き潰す……というものだった。その際に、郭太后が健在かどうかは極めて大きい」
A「郭太后の死も怪しく見えてきたな」
F「ところが郭太后が死に、司馬昭・賈充によって退路を断たれたことで、旧敵国で孤立する事態になってしまった。ただ、アクシデントとは云っても大規模な方針転換が必要なものだったかどうか、は判断しかねるところだが」
A「その心は?」
F「このとき鍾会の手元には、少なく見繕っても20万の軍勢があったンだ」
A「……どーいう計算?」
F「成都入城時点で、鍾会の軍はケ艾の軍の五倍か六倍は兵数があるとの証言がある。ケ艾軍団は半数を率いていた諸葛緒(ショカツショ)が抜け、その兵が鍾会軍団に編入されたため、ケ艾軍団3万に対し、鍾会軍団は15万以上。2回前に食糧がどれだけ必要か云ったが、その辺りが人数的な根拠でな」
Y「それも最低限の、か」
F「武装放棄したケ艾軍団だって、指揮官が捕縛されたら鍾会の指揮下に入らないとまずかろう。さらに姜維の軍、というか蜀兵がどれだけ生き残っていたのかは不明だが、5万は鍾会の指揮下に入っていた形跡がある。戦死者さっ引いても20万は残っているだろう」
Y「……数学的にも軍学的にも妥当かつまっとうだな」
F「長安周辺の軍勢は鍾会が率いて蜀に入ったのを考えると、長安に兵が残っていても5万は超えず、せいぜい3万。これに11万の軍が加わっても2倍近くだ、充分太刀打ちできる兵数はあるンだよ。長安城の守りの弱さは、馬超に奪われたことでも明らかで、魏延も1万の兵で攻略できると豪語したほどだ」
A「魏延はともかく、馬超は実際に攻略してるもんねェ……」
F「問題は相手が司馬昭だということで、その辺りが鍾会の躊躇った理由なんだろう。というわけで、鍾会が積極的に方針変更する必要は、あるのかないのか微妙なラインだ。ところが、心理的に追い詰められた大臣の次男坊は、堅実という自分の人生をどっかに放り投げて、三国志史上屈指の名台詞をのたまった」

「ケ艾を捕らえるだけなら俺ひとりで充分だと司馬昭は知っていよう。それなのにこの大袈裟なやりようは、俺の逆心を察したに違いない。ただちにことを起こさねばならん。成功すれば天下を盗れようし、失敗しても劉備くらいにはなれるだろう。淮南を平定した俺の智略は、天下こそが収まるべき鞘なのだ!」

A「すンごい台詞……」
F「前後までしっかり見ると、かなり凄まじい台詞なんだよ。相手が魏か晋かはともかく、完全な独立宣言だ。具体的にどうしたのかは、陳寿が現場にいたのか、割と詳細な記述がある。264年1月15日に成都へと入城した鍾会は、翌日、軍の中級以上の指揮官と蜀のもと官僚を全員集め、郭太后の死を公表した」
Y「正史に曰く、毌丘倹や鍾会は郭太后の命と称して叛逆を起こした、と」
F「なかったと思うか?」
A「……あった気がするね」
F「うん、毌丘倹はともかく鍾会の手には、本物が詔勅があったと考えられる。鍾会伝では鍾会が偽作した(つまり、自分で書いた)ことになっているが、前後の事態からして出陣前に手に入れていた可能性が高い。司馬師の頃には別々のプランで動いていた両者だが、曹髦の一件の前後から結託していた、と」
Y「だが、本人が死んでいては、あまり効果もない?」
F「鍾会は武将たちに叛逆を持ちかけたものの、この会議のあとで全員を役所内に閉じ込めているンだ。二の足を踏んだかはっきり反発したかで、協力を得られないと考えて幽閉した、というわけ。改めて、自分の信頼する部下たちに軍の指揮をゆだねたが、武将たちを殺すべきという進言には決断を躊躇っている」
A「……仕方ないかな」
F「正直、ここで殺すべきだったかは僕も判断しかねる。蜀攻略を成し遂げた武将たちを欠いて、城郭戦の名手たる司馬昭こもる長安を攻略することが可能かどうか。演義では孔明の空城の計を見破り、諸葛誕と呉軍こもる寿春城を攻略した城攻めの練達者が、防御戦は不得手だとは思えんのだ」
Y「そうか、場所じゃなくて相手が問題なのか」
F「昔とあるゲームで『城攻97城守17』とか『城攻1城守98』という武将(いずれも最大99)がいたが、そういうのこそがむしろイレギュラーだろう。野戦なら話は別だが、城郭戦なら攻めるのが得意で守るのは不得手というのは考えにくい。簡単に云えば、自分が攻めようと思うところを防げばいいンだから、守る分には守れるはずだ」
A「まして兵数が2倍では、将の質が問われるな。……つーか、誰?」
F「前者は石川五右衛門、後者は天草四郎」
A「ぅわーい、むちゃくちゃだぁー」
Y「何か違わんか? 特に五右衛門」
F「城に『攻め込む』のは得意だと思うよ? まぁ、結論を云えば処刑を躊躇したことが鍾会の失敗につながったンだが、それはさておいて。この頃姜維は、鍾会の身辺におかれていて、外出の際には同じ車、会議の際には同じ敷物で過ごし、従軍していた杜預(ドヨ)に『姜維は凄いぞ〜、諸葛誕や夏侯玄でも及ばんだろう』と絶賛している」
A「比較対象がろくでもないのか、そうでもないのか……」
F「後代の魏における武将と文官の中でも、上位にいるふたりだろうが。そんな姜維は鍾会に『韓信がどうなったかご存じないのですか。張良がやったように、功績を挙げたら隠遁されるのがよろしい』と勧めている」
A「何しとんね」
F「もちろん鍾会が『いま取るべき手段はそれだけではあるまい』と応えれば『そちらならば、あなたの才略なら失敗はありえないでしょう』とけしかけている。鍾会をけしかけて魏将を殺させ、そのあとで鍾会を殺せば、蜀を復興できる……という単純な策だな」
A「孔明の名を汚すなよ!」
F「だが、利害としては一致している。鍾会は姜維に5万の軍を与え、長安攻略の先鋒に用いるつもりで、魏軍の軍需物資を蜀兵に供与していたくらいだ。それくらい姜維に期待していたようでな」
Y「キツネとタヌキが化かしあうのは50年ばかり前に見たが、コレも似たようなモンか?」
F「どこまで信頼関係があったのかは微妙なものだが、意識としては一致していたな。つまり『コイツを前に立て、せいぜい働かせてやろう。司馬昭と殺しあわせたあとで両方まとめて叩き潰せば、天下を平定できる……ククク』という内心では、だ。まぁ、姜維には鍾会とは違って自分が上に立とうという野心はなかったようだが」
A「……どっかで聞いたぞ、その台詞」
F「うん、いつか云ったな。コレをやるともともとの味方に加えて、使い捨てようとした相手まで敵に回す。また、世論も味方してくれない。姜維はともかく、鍾会の失敗はとにかく味方が少なかったことに帰結する。ことの起こりは胡烈(コレツ)の部下の丘建(キュウケン)にある」
A「胡烈の部下?」
F「なんたが、鍾会の要請で本陣付きとして従軍していたようでな。この男が、幽閉された胡烈を惜しんで、従卒を中に入れて食糧を届けたい、と鍾会にうったえ、鍾会はこれを了承した。鍾会が甘いというよりは、胡烈を説得させるためとりあえず食事を摂らせようとした、というところだろうか。当然、他の武将にも従卒が食事を持っていく」
A「うん、持っていくのは正しいだろうね」
F「ところが、胡烈は従卒に事態を説明し、息子の胡淵(コエン)に『ワシらがみんな殺されるぞ』と伝えさせた。胡淵はそれほど高い地位にはなく、累を免れていたンだね。他の武将たちの従卒も似たようなことを伝えあったモンだから、胡淵を筆頭に下級指揮官たちは奮いたった。許儀(キョギ)の件があるからな、鍾会についていっても先がないと判断されたワケだ」
A「恐怖政治を敷こうとした反動か」
Y「かくて成都は血に濡れる」
F「1月18日正午、胡淵に率いられた胡烈配下の軍勢が、陣鼓を打ち鳴らし鍾会こもる政庁へと進軍し、他の武将の軍もそれに続いた。ちょうど姜維と相談中だった鍾会は、火事程度に考えていたところに、兵が向かってくると報告が入り、慌てふためいて姜維に尋ねた」

会「兵が叛乱した、どうしよう」
維「殺せばいいでしょう」

F「というわけで、政庁の門をふさぐ一方、幽閉していた武将たちに兵を差し向け殺そうとする。ところが武将たちは内側に机を並べてバリケードを作り、兵たちはそれを突破できずに手をこまねいた」
A「手際が悪いなぁ」
F「手際がよかったのは胡淵の方でな。政庁の門がふさがれているのを確認すると、無理に突破しようとせず、はしごを使って壁をこえたンだ。鍾会配下の兵も矢を浴びせて足止めしようとするけど、何しろ数が多い。やがて武将たちも屋根から外に出て、兵士たちと合流したモンだから、状勢は決したようなもの」
A「ンっとに手際悪い……」
F「かくて斬り込んできた兵士たちによって、首謀者ふたりは斬殺された。姜維は自ら5人か6人殺したとあるが、鍾会が兵を斬ったとの記述はないな。この時鍾会は40歳、姜維62歳だった」
A「頼るべきでない者を頼ったから……かな」
F「ところが、それでは収まらない。このゴタゴタは各地に飛び火し、成都城下では魏兵だけでも数百人、蜀兵はたぶんもっと、武将級にも被害は大きかった。さらに、どさくさにまぎれて成都を脱したケ艾配下の軍勢は、ケ艾らの身柄を確保したものの、衛瓘は田続(デンゾク)を送り出して追撃し、皆殺しにしている」
A「おいおいっ!?」
F「因果は巡るというか。この田続、もともとはケ艾の配下で、江由県に攻め込めと命じられたのに、道程に疲れ果てていたのかこれを拒んだため、斬られそうになってな。衛瓘は彼を送り出すとき『江由の屈辱を晴らすがいい』とけしかけているンだ」
A「何でそんな真似を……」
F「そりゃ、鍾会が死にケ艾が軍に復帰したら、捕縛した衛瓘に報復するのは明らかじゃないか。衛瓘が生きるためには、ケ艾を殺さねばならないンだ。かくてケ艾・ケ忠は斬られ、師簒に至っては身体中に傷のない箇所はなかった。彼らが斬られたのは、奇しくも綿竹関に程近い場所だったという」
A「……因果で済ませていいのかと思えるほど悲惨な事態だな」
F「ケ艾・鍾会・姜維の遺言は残っていないが、囚人車で移送されるときに、ケ艾は天を仰いでいる」

『ワシは忠臣であったのに、この扱いはなかろう。白起の最期がいま再現されるとは』
 白起(ハクキ):昭襄王(始皇帝の曽祖父)に仕えた秦の武将。宰相に警戒され自害に追い込まれた。

F「あくまで『自分の行いには問題がない』と考えていた辺り、何ら項羽と変わらんではないか」
A「割とろくでもないヒトだったのね……」
F「衛瓘の狙いがどこまでだったか……ケ艾を殺そうとしただけの自衛だったのか、それともその先まで企んでいたのかは判らないが、この行いに杜預は腹を立てている。ちょっと長いが見てみよう」

「野郎は死を免れん。身は名士に属し、高い地位と人望を得ながら、よい評判を立てられることがないうえに、正義をもって部下を統御することもできない。小人のくせに君子の皮をかぶっていては、終わりをまっとうできようか」

F「杜預の発言の、半ばは当たるが前後はややずれる。ただ、人名を変えるなら全面的に当たるのだが、それはさておこう。割と長くなってきたので被害の確認は次回に回すことにして、ところで……」
A「やりますよね……」
F「鍾会・ケ艾の死によって、魏の叛臣列伝『王毌丘諸葛ケ鍾伝』にエントリーされている5人全員が、叛逆し死んだことになる。が、以前云ったと思うが、この5人の行いは性質が違うンだ。各人の主張を書き起こしてみる」

王淩「仲達めに左右される曹芳様は、帝位に相応しいお人ではない。曹彪(ソウヒョウ)様を立て、魏を復興せねば」
毌丘倹「司馬師の野郎、曹芳様を廃するとは何事か! 仲達殿に御恩はあるが、あの男だけは許せん!」
諸葛誕「曹爽、王淩、夏侯玄、毌丘倹……次はオレか? それならいっそ……あ、誰か来た。はーい」
ケ艾「ここ、どこでありますかー? 自分、何でここにいるでありますかー? 何で檻に入れられるでありますかー?」
鍾会「きょうから私、劉備になります!」

Y「下ふたり、いいのか?」
F「上からリアクションしてくれると助かるンだがな。まず先鋒の王淩は、魏の皇帝そのものへの不満から来るクーデターだ。皇帝をすげ替え国家権力を握ろうとしたワケだから」
A「さりげなく司馬師がやったことと共通している面があるのは、以前見た通り、と」
F「そゆこと。続く毌丘倹は、皇帝にではなく司馬師への不満だった。定義にもよるがこれはクーデターというより下剋上に近い。諸葛誕は、以前割と詳細に見た通り、心理的に追い詰められて魏に自分の居場所はないと思いこみ、呉に助けを求めたというもの。呉を巻き込んでいる辺り、性質的には前二者よりもっとタチが悪いが」
Y「これは……出奔、かな?」
F「何と云えばいいのか、割と難しいところだな。そしてケ艾だが、アレは完全に冤罪だ。本人は、何で殺されたのか判っていなかった可能性もある」
A「だよねェ……誰かにハメられたのは判ってたみたいだけど」
Y「だよなぁ。で、鍾会は完全な、そして失敗した叛逆か」
A「何だとオラ!?」
F「いや、鍾会のやろうとしたことに既製の言語をあてはめるなら、むしろ独立と称するのが相応しいように思える。蜀にこもって魏に対抗しようとしたのは劉備に通じるものがあるが、158回で見た通り、状況によっては毌丘倹ではなく司馬兄弟が叛臣列伝にエントリーされていた可能性もあるンだ」
A「あの時司馬昭が戦場で討ち取られるようなことになっていたら、鍾会がその場で掌返したかもしれないか」
F「毌丘倹に呼応して、司馬家の権益を弱める側に回っていた可能性はある。となると、事態の進展は司馬昭の動き次第になるが、洛陽の戦いが早まって今度こそ司馬一族は朝敵に。一方で、諸葛誕の被害妄想はその場合でも変わらないし、ケ艾も十中八九どこかで切られるだろう」
Y「最後のひとりは鍾会か毌丘倹か……というわけか」
F「あるいは両方だな。かくて、魏の叛臣列伝は終わる。皇帝を殺し魏そのものを簒奪する最大の悪党がここに含まれなかったのは、やはり本人の才あればこそだったろう」
A「世渡り上手な次男坊、か……」
F「続きは次回の講釈で」

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