私釈三国志 177 蜀漢滅亡
F「では、続けていこう。前回見た通り、魏軍(総勢20万近く)は、大きくふたつに分かれている。このうちケ艾(トウガイ)率いる部隊、というか軍団(約6万)は、一度は姜維を包囲下においたものの、諸葛緒のうっかりで逃がしてしまった」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
Y「どうにも諸葛姓の武将は詰めが甘いな」
A「魏将だからねー」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。一方で、十数万の鍾会(ショウカイ)軍団は長安を発すると、漢中目指して進軍を開始した。順番は前後するが、鍾会が長安に到着した頃に、姜維は劉禅に上奏している」
「鍾会が関中で出陣準備を整え、蜀への侵攻を謀っております。張翼・廖化に軍を指揮させて拠点の防御に充て、侵攻への予防を行っていただきたい」
F「が、黄皓はシャーマンの言葉を信じて魏軍は来ないと考え、劉禅にその上奏を取り上げないよう進言している。劉禅がそれに従ったかは判らんが、当初群臣は何も知らされておらず、鍾会・ケ艾の両軍団が実際に侵攻してきた段階で、対応策が講じられることになった」
A「演義に出てくる西川の土地神は、さすがに正史には出ないか」
F「この段階でそんな寝言を信じるようなら、40年前に孔明が蜀を奪っているだろう。劉禅は、それでも出せる限りの戦力を動員して、この窮状を乗り切ろうとした。姜維の求める通り張翼・廖化に、董厥(トウケツ)まで出して、救援に向かわせている。一方で、対呉前線から閻宇(エンウ)と兵の大部分を連れて来て成都の守りに充てた」
Y「その閻宇ってのは?」
F「ん? 触れてなかったかな。馬忠の下で鍛えられた武将だが『馬忠に及ばなかった』とも書かれている。姜維に替えて北方前線の指揮を執らせようという動きがあったのは前回見たな」
A「演義では割とろくでもない武将なんだがなぁ」
F「正史では、成都に召喚されてからの記述がなくてな。対呉前線を任されていた経歴から、有力と考えていい武将なんだが……。ともあれ、そんな具合に迎撃準備が整えられた蜀に、鍾会は攻め入ったンだが、第一歩は味方のせいでつまづいた」
Y「一年生 はじめの一歩は右、左 」
F「春先の、交通安全週間のスローガンだな。どんな標語だよと本気で思ったけど」
A「いや、気をつけて歩こうって意味じゃないンだろ?」
F「実はそんな話だ。斜谷道から漢中に向かっていた鍾会軍団だったが、先行した許儀(キョギ)が桟道を整備していたはずなのに、足場板に穴が開いて鍾会の馬が落ちかけたンだ。怒り狂った鍾会は許儀を斬ると息巻いたが、諸将はそれをいさめた。何しろ許儀は、魏の王室に勲功ある許褚の子だ」
A「……えーっと、味方のせいで物理的につまづいた鍾会が、逆ギレして許褚の子を斬ると云いだした?」
F「それが逆ギレじゃない。割と重要な話なんだが、これまでの鍾会は個人で軍を率いた経験がほとんどなかった。文官あるいは軍師として出世してきたモンだから、武将としての名声はないに等しいンだ。そんな奴が、いきなり十数万の軍を率いると云いだしても、中級クラスの武将は頭抱えるだろう」
A「前回の発言は、そういう意味でだったか……」
F「そこで鍾会は手を打った。国に大功がある許褚の子でも、些細な失敗で処断する姿勢を見せれば、鍾会を軽視していた武将たちも態度を改めざるをえない。こういう姿勢は一歩間違うと反発を招くが、この場面では成功したようで『諸将みな震えおののいた』との記述がある」
A「恐怖政治を敷こうとしたワケ?」
F「だ。これによって軍団を引きしめた鍾会は、改めて漢中へと攻め入った」
A「迎撃は……胡済(コセイ)、だっけ?」
F「256年の例の戦闘までは、胡済の生存が確認できるンだが、その後漢寿(カンジュ)に異動してからは記述がない。このとき漢中方面の防御指揮を誰が執っていたのか、正直判らない。だが、蜀軍は漢中城を放棄し、その後方に位置する楽城・漢城・陽平関改め陽安関(別のものとの説もある)に防御ラインを設定した」
Y「漢中城に防御を集中させるのではなく、いったん漢中城に魏軍を入れて、だがその先には進ませないように陣をかまえた、というところか」
A「あー、袋叩きにしようと……」
F「云うまでもないだろうが、この作戦に必要なのは綿密な指揮系統じゃなくて兵力だ。敵は一ヶ所に集中しているのに味方は方々に散らばっているンだから、敵と互角ないし上回る兵数がなければ各個撃破の的になる。そして、この時の鍾会には十数万の兵力があったが、一説ではこの数字、蜀軍の総兵力を上回っている」
Y「勝てるワケがねェな」
F「そんなワケで鍾会は各個撃破を実行した。楽城・漢城にはそれぞれ五千の蜀軍が入っていたので、それぞれに一万を差し向けて封鎖する。残る本隊は胡烈(コレツ)を先陣に陽安関へと攻め入った」
A「兵力分散が裏目に出たね……」
F「完全な作戦ミスだ。そもそも蜀軍のディフェンスは、要害にこもって魏軍に流血と疲弊を強いながら時間を稼ぎ、成都からの援軍が来たぞーと喧伝して撤退させる、というのが基本パターンだった。244年に王平が曹爽を迎撃した折にも、魏軍は『費禕が来た!』と聞くととっとと引き揚げている」
A「パターンを放棄したワケか……陽安関は、それでも粘ったンだろ?」
F「陽安関に入っていたのが傅僉(フセン)で、もうひとり蒋舒(ショウジョ)という武将がいた。このふたりが、魏軍の襲来を聞いて揉めている」
蒋舒「敵が来ているのに出撃もせず、門を閉ざして守るのは良策ではない」
傅僉「城を守れと命を受けたからには、無事に守り抜くのが務めであろう。討って出て国家の期待に背いては、それこそ申し訳が立たんではないか」
蒋舒「お主はここを守れれば手柄と考え、ワシは敵に勝つことを手柄と考えている。それならそれぞれ思い通りにやろうではないか」
A「……どっちも間違いではないンだよなぁ」
F「任務の達成で良しとするか、それ以上の功績を挙げるのがよいか、というオハナシだからね。かくて蒋舒は軍を率いて胡烈隊に向かい……降伏した」
A「お前、何やっとんね!?」
F「いや、別の郡で太守張ってたヒトなんだけど『アイツはいざというとき頼りにならん』と交替させられ、傅僉の補佐に回されていたンだ。その人事を恨んでいて、とりあえず傅僉を誘って外に出て、そのまま魏に寝返ろうとしたけど、断られたから自分だけ降った……というところでな」
A「恨むことじゃないでしょー!? ホントにお前、いざというとき頼りにならんよ!」
F「というわけで、蒋舒を先頭に陽安関へと攻め入った魏軍相手に、傅僉は徹底抗戦。こちらは、夷陵の戦いで劉備を逃がすべく奮戦し『漢の将が呉の犬に降伏できるか!』と討ち死にした傅彤(フトウ)の子だ。『漢の将が魏の犬に降伏できるか!』と叫んだかは定かではないが、父同様乱戦の中で斬り死にしている」
A「親子そろって蜀に殉じましたか……」
Y「しかし、この辺りの武将でも自分たちを漢と僭称していたか」
A「僭の字外せ!」
F「そんなワケで陽安関を攻略した鍾会は、ここに蓄えられていた食糧を収容している。楽城は激しく抵抗していたンだが、漢城に入っていたのは、亡き大将軍蒋琬の子・蒋斌(ショウヒン)だった。彼には自ら書状を送っている」
会「あなたや諸葛思遠は、わたしと同じ漢民族ではありませんか。わたしはあなたの御父君の墓に詣でて、墳墓を掃き清め祭祀を行い、敬意を表したいと思います。所在をお教えいただければ幸いです」
斌「同じ民族と云っていただき嬉しく思います。父は涪(フ)で亡くなったところ、墓所として吉であるとの卦が出たため、そのまま安置いたしました。父に敬意を表していただけるなら、父への情を募らせていただきます」
F「鍾会が涪で実際に蒋琬を偲んだモンだから、蒋斌は降伏。鍾会の軍は、蜀の民衆に暴行・略奪を行わず規律をもって接し、もの凄く単純にまとめると『仲良くしましょう』という趣旨の布告文をバラまいて、民衆や一般兵の抵抗意識を戦わずに削いでいるンだ」
Y「そのやり方に対抗するすべはないからなぁ。暴行しないと云っている敵に武器を持って立ち向かえ、と命じても士気が上がるはずがない。まして略奪においておや」
A「かつて呂蒙が関羽を破ったときに使った手段だね。苛政は虎よりなんとやらか」
F「しかも、この軍団には、かつて姜維の作戦ミスで魏に降っていた句安(コウアン)が従軍していた。夏侯覇の諜報が蜀に走ってからもしばらく通用していたように、十数年ぶりでも句安はしっかり道案内の役を果たせたようで、姜維が守る剣閣までほとんど素通りに近い状態になっていてな」
A「今度こそ『要害にこもって魏軍に流血と疲弊を強い』る策に走ったワケだな」
F「そゆこと。剣閣(ケンカク)は剣門関とも呼ばれる防御拠点で、かつて孟達が馬超を喰いとめていた葭萌関(カボウカン)よりもさらに成都寄りに位置している。漢中方面の防御ライン崩壊を聞いた姜維・廖化は、このラインまで撤退して張翼・董厥と合流。剣閣に立てこもって魏軍を防ぐ姿勢を見せた」
Y「こうなると単純な力攻めでは抜けんからなぁ」
F「それだけに、鍾会は姜維に『仲良くしましょ? ね?』という書状を送っている。確かに姜維が諦めたらそこで蜀漢終了ですが、姜維は返事さえしなかった。やむなく鍾会が攻撃命令を下せば、こっちの軍に合流していた諸葛緒は姜維を恐れて進軍しない。頭に来た鍾会は、諸葛緒の軍を取り上げ、本人は囚人車に載せて後方に送った」
Y「人名の入り乱れっぷりが尋常じゃねェな」
A「しかし、話の判る奴もいるじゃないかね。諸葛の血筋だけに姜維と戦うのを躊躇ったのかな?」
F「血縁は確認できんと云うに。ケ艾と組んでの動きだったンだよ。この頃ケ艾は、総司令官の司馬昭に『艾は、脇道通って直接成都に向かいます』と上奏し、決行しているンだ。道なき道を進むワケだから、蜀軍にその動きを把握されたらまずい。ために、剣閣で蜀軍の耳目を集める鍾会のところに、諸葛緒と軍団の半分を送って圧力を強めさせた」
Y「諸葛緒は諸葛緒で怠慢な動きをして、戦闘を長引かせてケ艾が進軍するのを間接的に協力する、か」
F「まぁ、桟道でもマトモには進みにくい蜀の隘路を、山道伝って敵の背後に回ろうなんて策だ。事前に地形を調べていた鍾会にしてみれば、話を聞いていても『死にたい? どうぞご自由に』程度にしか相手にしなかっただろう。むしろ被害が深刻で、長すぎる補給線に頭を痛めた鍾会は撤退を検討した……とさえ伝えられる」
Y「長丁場になるのは最初から判っていただろうに」
F「軍勢を仮に15万としても、食糧は1ヶ月で630万リットル必要だからな。いつか云った通り、劉馥(リュウフク)・ケ艾によって整備された揚州灌漑施設での生産量が年間600万リットルだから、それでも賄えないくらいなんだよ」
2人『……えーっと』
F「この時代、兵士には一日七升、現在の度量衡では1.4リットルの食糧が配給されていた。15万人の30日分ならそれくらいになるだろうが」
A「あー……」
Y「こういう地味な話になると強いのはいいが、アキラ、ついていけないならはっきりそう云っとけ」
F「ともあれ、そんな悩めるトリックスター御曹司を余所に、牛飼いから成り上がった土木工事オタクは道なき道を進んでいった。山に穴をあけて桟道を渡し、谷には橋をかけ、深いところでは毛布にくるまって転げ落ちながら、やっとの思いで進軍する姿は、正史・演義ともに克明に描写されている」
A「ケ艾って、さりげなく演義で優遇されてるひとりだよな」
F「ついに軍勢が江由(コウユ)に到着すると、太守の馬邈(ババク)はあっさり降伏。正史には『食糧の輸送もおぼつかず……』とあり、また谷底へ転がり落ちたりしていたのを考えると馬がいてもさしたる数ではない。餓えかけた歩兵相手に何日か持ちこたえれば、成都から援軍が来たと思うと、馬邈の罪は軽くないンだがなぁ」
A「すでに天は蜀を滅ぼしたかね……?」
F「というわけで、ここで食糧や馬を補充したであろうケ艾隊は、改めて成都への進軍を開始する。この動きを知った劉禅は、最後の切り札というより手札・諸葛瞻(字は思遠)を動員した。当時衛将軍の地位にあった生ける七光は綿竹関(メンチクカン)にこもるが」
A「否定はしないが、もう少しオブラートに包めよ!」
F「実際、ここを抜いても成都までには雒(ラク)城が控えている。さすがに、山を越え谷を越えぼくらの蜀にやってきたケ艾くんは、すぐには戦火を交えようとしなかった。諸葛瞻に『降伏するなら、瑯邪(ロウヤ)の王となれるよう取り計らう』と誘いをかけるが、諸葛瞻は聞き入れずに使者を斬った」
Y「父祖の地を与えられると云っても、この段階では寝返れンだろうな」
F「かくて戦闘は始まった。出陣してきた諸葛瞻に、ケ忠(トウチュウ、ケ艾の息子)が右翼、師簒(シサン)が左翼となって激突。やはり魏軍は、道程の険しさから疲労していたようで、両者この段階では打ち破られ『勝てません!』とケ艾に泣きついてきた」
Y「そうか、あんな山道を抜けてきたせいで、疲れが激しいのか」
A「あるいは……とも思ったけど、確かにそっちが原因だろうねェ」
F「するとケ艾は『我らの存亡はこの一戦にかかっているのだ、不可能など可能にしろ! ブっ殺すぞ!?』と怒鳴りつける。さすがにこれでは奮い立たねば我が身が危ういと、ケ忠・師簒は蜀軍に取って返し、今度は撃破。諸葛瞻ら主だった武将を討ち取り、蜀の兵は散り散りになって逃げ惑った」
A「あっけないなぁ……」
F「正史の注では、諸葛瞻には武勇も智略もなかったとしながらも、国を裏切らなかった忠と父の志に殉じた孝は評価している。また、この一戦に従軍していた諸葛瞻の長子・諸葛尚(ショカツショウ)は、自らを嘆く言葉を遺した」
『じいさんも親父も国から恩義を受けたのに、黄皓のヤローを斬らなかったせいでこんなことになっちまった。これじゃ、生きていても仕方ねェぜ』
F「かくて魏軍に斬り込み、討ち死にしている」
A「……はいいが、孔明の孫なんだから、もう少し言葉遣いってあるじゃろ?」
F「諸葛瞻の妻は公主、つまり、劉禅の娘で、下手をすれば張飛の孫だぞ? 劉禅の孫と張飛のひ孫がこんな口調で何か不満か?」
A「なんにもありませんわチクショウ!」
F「張苞の子もこの一戦で討ち死にし、成都は震えあがった。群臣はどうすべきか論議し、呉に逃げるか南方に逃げるかというふたつが主流となったが、『私釈』初登場は110回前の譙周(ショウシュウ)センセが『魏に降伏すべし』と主張した」
A「え? ごく最近じゃなかったか?」
F「いや、65回だ。どう主張したのか、えーっと……ちょっと長いが見てみよう」
「呉に逃げ込めば呉に臣従せねばならず、呉が魏に滅ぼされたら二度めの屈辱を受けることになりましょう。南方に逃げ込もうにも事前に準備をしていないので、行きつくことができるとは思えません。それなら直接魏に降るべきでありましょう。呉が健在なのだから降伏が容れられないはずはなく、容れられたからには礼遇されるはずです。魏が陛下を礼遇しないのなら、ワタシが洛陽に乗り込んで、降伏した君主の扱いを講釈してまいります!」
「南方に逃げようという計画は不穏当かと思います。南方は、亡き丞相の征伐に屈し、租税と役務に応じてまいりましたが、民衆は苦しみ恨んでおりましょう。ここぞとばかりに叛逆します。魏が追ってくれば彼らをもって迎撃することとなり、なおさらに恨みを買いましょう。追って来ないはずがないのですから、叛逆するのは明らかです。まして、皇帝たる身が南方へ逃れるようでは、民の信を失いましょう。ワタシは愚かでありますが、追い詰められてから降るようでは禍いから逃れることなどできぬことと考えます」
F「この譙周は、演義では、劉璋に劉備へ降伏するよう勧めた張本人でな。正史では当時生まれていたのかも定かではないンだが、劉禅を魏に降伏させた実績から、その役目を受け持ったンだ。それこそ65回で、劉璋に聞かせた市井の戯歌を見ているな」
――若要吃新飯、須待先主來(新しいごはんが食べたいなら、先主が来るのを待つべきだ)
F「通常、先主の対になるのは後主だ。つまり、先主のあとには後主しかない。蜀は二代で滅びると暗示している内容の戯歌だった、というわけだ。譙周は二度の降伏をプロデュースすることで、ある種運命を識る人物として書かれている。なぜか、といえば正史に明記がある」
陳寿「私、このヒトにお会いしたンですが、どうやら未来を知る術を使えるみたいです」
A「おいっ!?」
F「マジで陳寿は『私は譙周センセにお会いしました、あの方は未来を知ることができます』と書いているンだ。正史を読んでて思うのは、陳寿には多少ならずミーハーな面があるということでな」
Y「ことの是非はさておくが、いいのか? 作者が自分の作品に登場して」
F「大においてはアルフレッド・ヒッチコック監督が、小にして下ではこの津島幸市がやっていることだが、何か問題があるのか? ともあれ、天機を知る譙周の言葉に、劉禅は降伏する決意をかためた。成都には3万程度の軍と4年分の食糧があり、かつて攻略に1年以上の時間と"鳳雛"龐統を費やした雒城が健在であったのに、だ」
Y「成都には、城主が気弱になる呪いでもかかってるのか?」
A「劉備にはその呪い、かからなかったみたいなんだけどなぁ……?」
F「ただし、それに先立ってひと悶着あった。かの『反三国志』では劉備の死後帝位に就く劉禅の五男・劉ェ(リュウシン)が、徹底抗戦を唱えて受け入れられず、劉備の墓の前で妻子を殺して自害しているンだ」
A「……まぁ、そんなのもひとりはいないとね」
F「かくて劉禅は、譙周に張紹(チョウショウ、張飛の次男)らをつけてケ艾に降伏を申し入れさせた。ケ艾はコレを喜んで、返書を張紹に持たせて帰している。ケ艾の軍が成都城下までやってくると、劉禅は棺を背負って出頭し、ケ艾はその棺を焼かせる、降伏のパフォーマンスを行った」
A「劉備の死から40年、孔明の死から29年……か」
F「263年11月、蜀という国は滅んだ。2代42年の歴史の終焉は、その確たる日付さえ残されていない。が、おそらくは11月24日のことだったと思われる」
Y「その心は?」
F「譙周・張紹がケ艾に降伏を申し入れた当日に、劉ェが劉備の墓で自害している。となれば、劉備の月命日の24日だったように思えてな」
Y「……検証するのも野暮な話か」
F「だが、やっておこう。ところで、ケ艾は成都で略奪・暴行を禁じていたが、ただひとり、黄皓だけはその悪評を聞き生かしておけんと判断。投獄ののち処刑しようとしたが、やはりバカにアメをしゃぶらせてはならなかった。黄皓は、ケ艾の側近に賄賂を贈り、処刑をまぬがれている」
A「演義だとちゃんと斬られてるンだけどなぁ……」
F「羅貫中が仇を取ってくれたかたちだが、黄皓がこの場面ないしこの後の騒動で死んでいたなら、陳寿はその旨書き残しているはずだ。だが、正史には黄皓がどう死んだか記述がないということは、黄皓は成都の大混乱を生き延びたと考えざるを得ない。その辺りで死んでいれば、必ずその旨記述するだろう」
A「……残念ではあるけど否定できんなぁ」
F「政権を執ることなく死んだ董允(トウイン)が、四相と呼ばれ孔明・蒋琬・費禕と並び称されているのには、過分に彼を慕う住民感情が強いように思える。そして、その董允の伝に黄皓と陳祗(チンシ)の附伝が掲載されているのには、陳寿のあからさまなまでの悪意が見えていてな」
『陳祗の死後、黄皓は権力を握り、ついに国家を転覆するに至った。蜀の民で董允を追慕しない者はいなかった』
『陳祗が寵愛を受けるようになると、劉禅は死んだ董允への恨みが日に日につのっていったが、それは陳祗がこびへつらい、黄皓の讒言がだんだんしみこんでいったからである』
『董允はいつも、上は厳しい態度で劉禅を匡正し、下はたびたび黄皓をとがめた。董允が生きている間、黄皓は出世できなかった』
『董允の生前には、黄皓も悪事ができなかった』
F「この3人をひとつの伝にまとめたのには、陳寿の、陳祗に対する『アンタがもっと頑張ってくれれば……』という不満があるンだろうな、と思えるンだよ」
A「費禕の後を継いでおきながら、宦官の隆盛を野放しにするとはなにごとかー、みたいな?」
F「陳寿(蜀の民のひとり)が董允をどれだけ追慕していたのか、単純な証拠がある。正史三国志で伝を立てられている中で、曹操と皇帝になった面子を除くと、親子で別に伝を立てられているのはざっと数えて4組いる」
Y「えーっと、諸葛瑾・格親子、鍾繇・会親子、劉焉・璋親子、で董和・允親子か」
F「子が叛臣列伝に回されている瑾兄ちゃん・諸葛格親子に鍾繇・鍾会親子、益州の歴史を振り返る意味で分けられた劉焉・劉璋親子とは違って、董和(トウワ)・董允親子が別に伝を立てられているのには説明がつかないと、裴松之が首をかしげているンだ」
「陳泰や陸抗でも親の伝に附されているのに、何で董允はこんな扱いなんだ? 親を超えた子なら他に夏侯玄らがいるが、彼らはそうはなっていないぞ」
F「考えすぎずに、陳寿の好意と追慕の念からだとしていいだろうね」
Y「どこまで董允を偲んでいるンだ、陳寿は?」
A「それくらい、黄皓を許せなかったってコトだよ」
F「続きは次回の講釈で」