私釈三国志 174 曹髦戦死
F「中国史上において、家臣に殺された(と、明記されている)皇帝はそれほど多くない」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「多くても困るよ」
F「まぁな。曹髦(ソウボウ)はその多くないうちのひとりなんだが、ただし、彼のケースは一種独特にして異常だ。何しろ、皇帝自ら臣下を討とうとして、返り討ちにあったのだから」
A「……いったい何がしたかったのか、素で反応に困るな」
F「うむ、露骨にリアクションに困る。とりあえず、状況の確認から。実は魏・呉・蜀全てを巻き込んでいた諸葛誕の乱が終結したのは258年2月のこと。呉書では3月になっているが、情報伝達速度の問題だろう。それぞれの戦後処理で、孫亮・孫綝が退場し、姜維の立場が危うくなってきた……のはすでに見た」
A「姜維だけは残念でなりませんねっ!」
Y「落ちつけ」
F「当然だが、魏でも戦後処理は行われている。荊州を張っていた王昶(オウチョウ)は、呉の荊州方面軍ににらみを利かせ、朱績(シュセキ)が淮南に向かうのを許さなかった。これを評価して、同年8月に三公の一角・司空に任じられている」
A「諸葛誕の云った通り、三公になったワケか」
F「ただし、淮南に従軍したワケでないので、この人事はちょっと遅い。従軍した王基(オウキ)なんかへの論功行賞が行われたのは6月末で、それぞれ格差のある恩賞が与えられている。実際に戦った連中は、昇進のうえで留任させればいい王昶とは違って、ちゃんとした評価をしないと不満が出るからな」
Y「前回見た、ケ艾の昇進時期は明記がないな」
F「後回しではあったろうけど、戦闘があった分、王昶よりは早かったと考えていい。だが、論功行賞よりも急ぐべきは、諸葛誕の抜けた揚州方面軍、対呉前線の後任人事だ。何しろ6年で3度の叛乱では、よほどの人材でなければ任せられん。というわけで、歴戦の王基が指名された」
A「魏の人事的過ちにおける最たるものと云えるのでは?」
Y「確かに、この上なく不安だな。完全にミスキャストじゃないか?」
F「そこまで云うか? まぁ……僕としても、王基に任せるのはどうなんだろうな、とは思うな。何と云っても、相手が司馬師だろうが司馬昭だろうが『作戦上の独断専行は武将としての権利である』とばかりに、云うこと聞かずに好き勝手やりながら結果を出すンだから。その意味では、王毌丘諸葛の3人よりタチが悪い」
A「逆らってるワケじゃないからねェ。ただ、正しいことをしているだけ」
Y「それを認めるのは司馬師・司馬昭が間違っていると認めることだぞ」
F「その辺りの関係性を、如実に表すエピソードがある。諸葛誕の死後、司馬昭は、呉に残っている唐咨(トウシ)らの親族を動かし、呉を内側から混乱させ、そこに兵を出そうと目論んだ。司馬昭が捕虜を虐待せずに手厚く扱ったモンだから、呉でも捕虜とか降伏した者たちの家族を処罰するような真似はしなかった……とある」
A「ンなモン、劉備が30年も前からやってたじゃろうが。黄権の家族は殺されなかったぞ」
F「子供が親の罪で殺されてはならない、と何年も前からサイトのトップページに掲げているンだがねェ。聖書の言葉だから2000年前だぞ。それはさておき、そのプランに王基が待ったをかけた。近年の諸葛格・姜維の失敗を例に挙げ『勝利のあとは敵を侮り、失敗することが多くなります』といさめている」
A「やかましいわ!」
F「そのうえで『年をまたいでの兵役となったので、兵士たちは里心がついております。武帝(曹操)陛下が官渡で袁紹を破ったときも、戦果充分と見て追撃しなかったではありませんか』とまで主張。下手なことをして武威を損なったらそれこそ一大事、と云われて、司馬昭も作戦を中止している」
Y「例によって妥当な判断だな。むしろ、別の意味で警戒すべきじゃないかと思えてきたが」
A「切れすぎる刃は持ち主を傷つけるってアレか」
F「その辺りの自覚があったようで、王基は官職・爵位を固辞している。功績は自分の部下たちのおかげだからと、配下7人を推薦し、その7人(誰かは明記がないが、唐咨は揚州方面の守備に回っているので入っていた可能性アリ)は全員侯に取り立てられた」
Y「それはそれで問題じゃないか? 軍事的に」
F「んー、官職や爵位は断ったけど、防御指揮は引き受けたようでな。防御面での問題はなかったと考えていい」
A「司馬昭の心理はどう? 好意を向けておいて断られては、不満に思っても仕方ないけど」
F「実は、この258年に王基の母が亡くなったンだが、それがどうも戦闘中のことだったようでな。わざわざ詔勅まで出して、王基に知られないよう取り計らっている。戦後に父親と併せて洛陽に改葬しているが、母の死を隠していた引けめがあったンだろう、司馬昭が報復した記述はない」
Y「足元を見たのか、見られなかったのか」
F「微妙なモンだな。ただ、259年だから翌年には、王基は荊州方面に転任している。ちょうど王昶が亡くなって、後任になったワケだ。王昶の息子・王渾(オウコン)は各地の太守を歴任し、後に寿春太守として揚州方面を張ることになるが、まぁそれはさておいて。武将たちの行賞はそんな具合だったが、司馬昭への恩賞はそんなモンでは済まなかった」
A「だろうよ……」
F「実際、王基らへの論功行賞より先に、司馬昭(当時大将軍)への沙汰は出ているンだ。258年5月のことだが、相国・晋公に任じ九錫を与えるとの命が下っている。124回で説明したが、九錫を与えられるのは王位への前段階だ」
A「そっちで云うな!」
Y「他に説明したことあったか?」
F「記憶にないけどなぁ……? だがこれは、司馬昭本人が二度三度どころか九度に渡って辞退し続け、結局流れている。それに先立つ3月だが、曹髦はこんな詔勅を出していた」
『古来より、敵に打ち勝ったときは京観を作ったが、それは道義にもとる叛逆者を懲戒し、戦闘の結果を明らかにするためだった。大将軍は自ら軍を指揮して丘頭(キュウトウ)に本拠を置き、内の逆賊を平定し、外の侵略者を殲滅して、万民を救済し四海に名声を馳せた。そこで、丘頭を武丘(ブキュウ)と改名したい。武勇により乱を平定したのを後世まで伝えるのは、なにも京観でなくてもいいではないか』
A「けいかんって?」
F「敵兵の死体を積み上げてお山を作り、それに土を盛った戦勝記念モニュメント」
A「ぶっ!?」
F「愚かな負け犬どもはこうなるのじゃ、みたいな見せしめのニュアンスが強いな。えーっと、曹髦は260年に数えでハタチだから、この年18か。この頃の正史曹髦伝の記述は割と簡潔で、だが、書かれていることの裏を読むと司馬昭との対立が見える。この記述を見るに、司馬昭は京観を作ろうとして、曹髦はそれに反対した、というところだ」
Y「ふむ……」
A「京観そのものを追求しないのはいいことですがね……。孫亮みたいに、成長してきたから反発するようになった?」
F「単純に云えばね。王昶を三公に叙したあとに、大司農の王祥(オウショウ)・侍中の鄭小同(テイショウドウ)を、周代の『孝悌の道を天下に知らしめる』三老・五更という役職(なお、名称に反して定員各一名)につけているンだけど、王祥はともかく鄭小同は、司馬昭に殺されたと注に引かれている」
鄭小同「大将軍殿、失礼しますぞな」
司馬昭「ぅあ、侍中殿? すみません、ちょっとトイレ行きます!」
(ばたばたばたーっ)
鄭小同「落ちつきのない方ですのぅ。どれ、待たせていただきますかな」
(ぼけーっ)
司馬昭「……はい、お待たせしました〜」
鄭小同「いえいえ、おかまいなく」
司馬昭「ところで侍中殿、オレさっきまで重要文書を書いておりまして、ここに封もしないで置いていったンですが、読まれましたかね?」
鄭小同「いえいえ、とんでもない」
司馬昭「然様で。それならいいンですがね……あぁ、いまお茶を」
F「司馬昭は疑うままに、鄭小同に毒を盛って殺した……とあってな」
A「おじいちゃんなの?」
F「『私釈』では触れてないンだが、孔融が太史慈のおかげで劉備に助けられたエピソードがあっただろ? 192年か193年のことなんだが、その年か翌年に生まれている。六十代だね」
Y「第一世代でも生き残ってるじゃないか」
F「死んだから。まぁ、年が改まった259年、王昶や孫壱(ソンイorソンイチ)が死んでいたり、地籍改正があったりしたけど、その辺は抗争とは関係なさそうだ」
Y「王昶は寿命だったか」
F「生年は明記がないけど、王淩の弟分ではそれなりの年齢になっていたことになるからね。孫壱は、魏に来てから与えられた妻(曹芳の夫人のひとり)が顔はいいのに嫉妬深かったモンだから、家人たちは酷使に耐えられなくなって、夫婦まとめて殺した……となっている。これはまぁ、疑えば疑えるな」
Y「それほど重要でもないのに何で車騎将軍になれたのか、と裴松之(ハイショウシ)が首を傾げてるからなぁ」
A「……夏侯覇のハナシじゃないよな?」
F「さらに月日は流れて260年。4月になってから、もう一度司馬昭を相国・晋公に、九錫もあげるから、と詔勅を下しているンだけど、例によって司馬昭は受けなかった。ンで5月7日、曹髦は死んだ。享年二十」
A「あっさり殺すなよ……いつも通りだが」
F「衝突に至るにはひとつの契機があった。この頃、龍がたびたび目撃されていてな。259年の正月には井戸の中に龍が出た、と正史の本文にあるくらいだ。人々は吉兆だと考えたのに、曹髦は『龍とは君主の徳の象徴だというのに、それが井戸の中で見つかってはめでたいワケがあるか』と突っぱねている」
A「あー……龍なのに、空も飛ばずに井戸に飼われていたら、何のありがたみもないわな」
F「それを自分の境遇になぞらえて『潜龍』なんぞという詩を詠んだモンだから、司馬昭は不愉快だった……とあってな。引用してみるか」
伝曹髦 潜龍
傷哉龍受困 ――痛ましきかな、龍の苦しみ
不能躍深淵 ――淵深くとも踊ることはできず、
上不飛天漢 ――天高くとも上ることもできず、
下不見於田 ――田はあれども見ることもできず、
蟠居於井底 ――閉塞された井の中にあり
鰍鱔舞其前 ――ドジョウやウナギがはびこる中で
藏牙伏爪甲 ――ただ牙を伏せ爪を隠す
嗟我亦同然 ――あぁ、オレそのままじゃねーか
Y「こりゃ怒るわ。司馬昭でなくても怒る」
F「演義ではこの辺が原因で暴発するンだが、正史では『なんか死んだ。オイラ知らない』と投げちゃっていてな」
A「はっきり書いたらまずいことが起こったワケな。さすがに陳寿では書けないようなことが」
F「そうなる。代わって裴松之が、司馬昭スキーな習鑿歯(シュウサクシ)が残した記述を引用しているので、それをベースに見ていくことにしよう。世にも名高き名台詞『司馬昭之心路人皆知(野郎のハラづもりは通行人もご存じだ!)』と、曹髦が怒りのままに司馬昭を討とうと、王経(オウケイ、狄道でマヌケした張本人)・王沈(オウチン、王昶の兄の子)・王業(オウギョウ、劉表の外孫)ら側近にブチまけた」
A「もちろん3人は反対して?」
F「いや、『兵も武器もないのにどーやってそんなことをなされますか。もう一度考え直してください』と、曹髦をいさめたのは王経だけ。曹髦はそれを聞かずに、勅命書を地面に叩きつけて『もう事態は引き返せん! 死んだとしても恐れるものがあろうか! そもそも死ぬとは決まっておらん!』と甘ったれたことを叫ぶ」
Y「自分が諸葛誕より上だとでも思いこんでいたのかね?」
F「そして、他ふたりは曹髦が完全に殺る気だと察すると、司馬昭のところに駆け込んでいる」
A「いっそ潔い連中ですねっ!?」
F「ために司馬昭は守りをかためたンだが、曹髦は数百の宮廷人・奴隷を引き連れて、太鼓を叩きながら司馬昭の陣地に向かってきた。いちおう司馬昭の弟が宮中に入ったンだけど、この時点ではどうするのか決心がついていなかったようで、曹髦に怒鳴りつけられると連れていた兵士は散り散りに逃げ惑っている」
A「仮にも皇帝サマでは、うかつに武器も向けられんか」
F「そゆこと。そこで開き直ったのは賈充(カジュウ)だった。動揺する兵士たちを『お前たちにこれまでサラリーを払っていたのは、まさしくきょうの日のためだろうが!』と怒鳴りつける。成済(セイサイ)という兵士が『捕らえますか、殺しますか!?』と聞けば『殺せ!』とのお返事。他の兵士が曹髦に怒鳴られて武器を捨てる中、成済は進み出ると曹髦を刺し殺した」
A「……あっけないとしか云いようがないな」
F「実際にどんなことがあったのか、陳寿は口をつぐんでいるからね。純粋な戦力差からして、劇的なことは起こらなかったと考えられる。このあと起こったことも、陳寿は直接語ることを拒んでいるので注で読むしかないンだが……えーっと、曹髦が殺害されると、司馬孚(シバフ)と陳泰(チンタイ)がその場に駆けつけ、遺体を抱いて慟哭する」
A「かたや叔父、かたや軍功明らかな武将では、そのまままとめて始末もできんか」
F「この一件にどう始末をつけるべきか、とりあえず司馬昭は宮中で会議を開こうとしたンだけど、陳泰がやってこない。荀ケの孫にあたる、陳泰の妻の父が呼びに行ったが、当人は『世間では舅殿と私を比べますが、いまの舅殿は私に及びません!』と泣き叫ぶ。家族子弟が何とか宮中に赴くよう説得したが、参内しても陳泰は泣くのをやめなかった」
司馬昭「お前、オレにどーしろと」
陳泰「賈充を斬って天下に詫びてください」
司馬昭「……もそっと穏便な方法はないかな?」
陳泰「もっと厳しい手段ならありますが、穏便な手段などございません!」
F「陳泰は、血を吐いて亡くなったという」
A「司馬昭に殺されたンですかね……?」
F「不明だが、260年に亡くなって、死後三公やら公位やらを追贈されているのは陳寿も書いている事実だ。本人の性格的にも、司馬昭を糾弾して殺されたというのがしっくり来るな。『もっと厳しい手段』で真っ先に思いつくのは、司馬昭本人の責任を追及することなんだし」
Y「悪く思ったから追贈する、というのは珍しいことじゃないしな」
F「もちろん賈充を斬るワケにもいかないので、司馬昭は成済を斬ってごまかそうとしたけど、本人がこれに反発。賈充の命だったと本当のことを暴露しだしたモンだから、舌を切られたうえで処刑された。成済の兄は屋根に登って賈充の悪事を大声でわめきたてたため、下から矢を射かけられて殺されている。残る一族も、もちろん皆殺し」
A「あからさまなしっぽ切りだな」
F「そして、しっぽ切りなのか何なのか、とりあえず王経も処刑されている。他2名とは違って司馬昭に与しなかったンだけど、王業がフォローを忘れたために、ことの責任を押しつけられたようなかたちでな」
A「感心できないなぁ……」
F「この男がかつて、職務放棄を母親に密告され、棒叩きにあったのは以前見ている。母親は、棒叩きで済ませれば死刑にならないと踏んで密告しており、事実、当時政権を担当していた曹爽(ソウソウ)は、王経を許している」
A「おかあさん、割と計算高いンだ」
F「男が職務放棄を理由に殺されるワケにはいかない、ちゃんとした死に場所があるはずだ……とのこと。その母も処刑されることになったモンだから、王経は母に詫びるけど、母は気にした様子もなく笑った」
『これが男の死に場所というものだよ、経。何を恨むことがあるモンかね』
F「先走って云うけど265年、ときの皇帝は、王経の処刑そのものは法による適正なものだったとしながらも、その志は評価し、孫に家督を相続させている」
A「……再登場の場で処刑されるって云ってたから、どんな抜けた死に方するのかと思えば、惜しまれて死んでるじゃないか。狄道でのボケっぷりがボケっぷりなだけに、この最期にはちょっと感動したぞ」
Y「相変わらず、嘘をつかずにヒトをだますからなぁ、コイツは」
F「だますつもりはなかったンだよ、今回は。ところで……」
A「やるよね!? うん、判ってた!」
F「曹髦が割と善戦した(自ら兵を斬ったという記述さえある)のは正史の注に引かれているが、曹髦に勝算があったのか、何か根拠があって挙兵に至ったのかといえば、よからぬ期待を抱いていたかもしれない」
Y「期待?」
F「父たる司馬仲達は王淩のクーデターを平定して3ヶ月後に死に、兄たる司馬師は毌丘倹の謀叛・敗死から7日後に死んだ。となれば、弟司馬昭が、諸葛誕の乱を平定したら死んでくれるンじゃないか……と単純な期待を抱いていても、愚かなこととは云えないだろ?」
A「……期待くらいはするか、確かに」
F「その期待を胸に諸葛誕の乱から2年待ち続け、だが司馬昭は生きていた。まぁ、司馬師とは違って健康上の問題がなかったし作れなかったンだろうけど、裏で糸を引いていた"あの男"としても好ましくなかったようで、表に出ることなく司馬昭に君主弑逆という十字架を背負わせている。司馬昭の中にあった野心の木の幹は、この十字架だろう」
A「……誰かいるンだね? 曹髦を挙兵に追い込んだ黒幕が」
Y「アイツ……か。その目論見通り司馬昭は、曹髦を殺してしまったがために野心のタガが外れ、父兄以来のコースからずれて簒奪を考えるようになった?」
F「司馬昭は軍事的才覚こそ司馬師を凌いでいるが、他の点では兄に及ばない。政治手法でも基本的には兄のものを踏襲していたが、司馬師は皇帝を替えても殺さなかった。それを考えると、皇帝を殺してタガが外れた……という方がしっくり来る気がしてな。その辺は、たぶん……えーーと、4回先で触れるが」
A「だれ?」
Y「判らんのか? この時代の魏に天下を左右できる策謀家なんぞ、司馬昭・司馬炎ともうひとりしかいないだろうが」
F「司馬炎には無理だと思うが……ともあれ、曹髦は死んだ。これによって魏の命運が断ち切られることになったが、自分の死がそれほど重い事態を招くと、果たして本人は自覚していただろうか」
Y「お前が考えすぎているのか、曹髦が考えなさすぎているのか」
A「たぶん両方か、でなきゃ1番……」
F「続きは次回の講釈で」