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私釈三国志 173 陳祗暗躍

F「では、アキラが来たところで本筋に戻って」
A「義姉さんもアキラもいないタイミングでアレをやることもなかろうに……」
F「ナニを云うか。『あーさんの都合があるから、連休は土曜日に行くね』って連絡してきたのお前だろ。本音としては連れてくるなと云いたかったが」
A「どーして義姉さんもお前もあーさん苦手なのさ」
F「ベクトルはずいぶん違うンだが、オレたちの頭の上がらん女性と同じ匂いがしてな」
Y「俺にはそうは思えんが……そういえば、あの弟は来なかったのか? 意外にも俺と気が合うように思えたが」
F「性格的なものは否定せんが、あのヒト、お前より年上のカミさんと、僕のより年上のこどもいるぞ」
Y「……気が合わないだろうことが実感できた」
F「こればかりは天の授かりものだから、人的努力ではどうにもならんがな。ともあれ、今回は9回ぶりに……ということは都合1ヶ月ぶりか、ずいぶんほったらかしていた蜀について」
Y「アキラに気を遣う必要はないンだぞ? あんないい嫁さんもらうンだ、思う存分バチでも当たれ」
A「義姉さんは世界で二番めに素敵じゃない!」
Y「自慢混ぜた寝ボケ発言するな! 頭下げれば云うこと聞いてくれる女房なんて、血反吐吐くくらい羨ましいぞ!」
F「土下座してケツの穴させてくれるなら、いくらでも頭下げるンだがなぁ」
A「……世界でいちばん厄介な女の夫がここに」
Y「姐さん……アンタ、何でコイツにアナルの味覚えさせたンすか……」
F「宿業だろう。だからお前ら、劉備や蜀の話になると先を競ってボケ続けるのは何でだ? とりあえず、実はかましていた割と大きめなボケのフォローから。蜀の四相こと董允(トウイン)だが、すでに死んでいたのを告知し忘れていてな」
A「……いつの間に?」
Y「年表にはちゃんと246年に死んだ旨記述されてあるし、163回で『董允の死後に』と発言してるだろうが」
F「『私釈』の本文中では完全に触れてなかっただろ? 本気で忘れてたンだ、董允氏御臨終の告知を」
A「え? でも……四相だろ? 孔明さんとか、蒋琬・費禕と並んで」
F「うん。でも、246年に死んでいる。ちなみに、生前の最高位は費禕の後任での尚書令だ。で、泰永の云った通り163回でさらっと触れたが、董允の死後に国政へ参与するようになったチン氏、じゃない陳祗(チンシ)が、董允からひとり挟んでの尚書令になる」
A「……割と凄まじいボケかましてたのな」
F「間に挟まれているのが呂乂(リョガイ)だけど、同音の呂凱とは別人ね(時期不明だが南征後、異民族の叛乱で死亡)。王連の下で文官畑を歴任したンだけど、孔明の北伐に兵士や食糧が不足するとそれを送っていた、地味な倉庫番といった感の人物だ。孔明の死後に逃亡兵への対策を行い、それに成功した功績から尚書、董允の死後には尚書令となった」
Y「地味に堅実だな」
F「優秀な文官は国の窮地にこそ生まれるもので、でないとそのまま国が倒れる。蜀がどっちなのか……考えるまでもなさそうだな。では、北方での戦役に目を戻そう。聞かれたときはスルーしたが、255年に敗走した姜維は、さすがに年内2敗めは喫しなかった。さすがに慎んだようでな」
A「やかましいわ」
F「だが、中央に召された陳泰に代わって、対蜀方面に赴任したケ艾は、姜維率いる蜀軍の襲来を予測している」

『王経の敗北は、西方軍全体の崩壊につながりかねない大きなものだった。蜀軍には勝ちに乗じる勢いがあり、我が軍の士気は落ちている。これが第一。
 蜀軍は将兵ともによく訓練されているが、我が軍は、将が王経から不肖艾に替わったばかり、兵もこちらに来たばかり、武器も不充分。これが第二。
 蜀軍は船で移動できるが、我が軍は陸路を歩いてきたので、疲労度が違う。これが第三。
 我が軍は狄道・隴西・南安・祁山にそれぞれ守備兵を配置することで分散させねばならないが、蜀軍は兵を一ヶ所に集中できる。これが第四。
 蜀軍が隴西・南安に向かえば羌族が呼応し、祁山に向かえば現地の麦を食糧に充てられる。その利点に姜維が目をつけないはずがない。これが第五。
 敵は小賢しい策を弄するのだから、また来るのは間違いないぞ』

F「実際には、こんなに流暢には喋れなかったはずだが、このケ艾の発言は、当時の西方軍がかなりの苦境に立たされていたことを暴露している」
Y「魏の東部から歩いて大陸を横断してきた、装備も整わず地勢にも不慣れな軍を率いて、勝ち戦に勢いづく蜀の精鋭を相手にしろってンだからな。それも、前回お前が云っていた『戦局を主体的に左右する』権限は、蜀軍にあった」
A「他はともかく、それは判らない。四ヶ所拠点があるなら、それを全て守ればいいだけじゃないの?」
F「孫子曰く、全てを守ろうとすれば全てが手薄になる、と。有限な兵員を四ヶ所に配備すれば、一ヶ所当たりの兵士数は減少するだろ? それだけに、赴任してきたばかりのケ艾は最重要拠点の防備をまず固めた」
Y「祁山(キザン)だな」
F「蜀軍の食糧不足は孔明時代からの通例だが、祁山を攻略すれば現地の麦を略奪できる。ケ艾の云う通り、そこに目をつけない姜維ではないだろう」
A「徴発とか云ってくれませんかね……?」
F「うん、それ無理。そんなワケで256年春、姜維は動いた。出陣前に劉禅は、姜維を大将軍に叙任しているが、これは255年の戦闘で当初勝利を収めたのを賞してと考えられる」
Y「張翼の云う通りにしていればなぁ」
A「勝ってるときに退くのは難しいンだよ!」
F「否定しない。ちなみに、この年姜維54歳。孔明の享年とついに並んでしまっているのを、多少ならず意識していたのは疑う余地がないだろうな。対してケ艾は……えーっと、正史には生年の記述がなかったと思う。演義だと197年生まれだったから、59歳ということになるけど」
A「ふたりとも、割といいトシなんだねェ」
F「出陣した姜維は当然のように祁山へと向かっているが、ここにはケ艾が防御陣を築き上げていた。相変わらず蜀の諜報網は優れていたようで、とても抜けそうにないと報告が来るや、姜維は兵を南安(ナンアン)に向けている。祁山から見て北北西で、隴西(ロウセイ)と並んで西羌との協同ができる土地だ」
Y「どこで戦うか、を蜀軍が選べるのは正直痛いところだな。ケ艾が4人……いや、3人いればどうにかなるンだが。蜀から見て南安は隴西の手前にあるから、南安で抑えれば隴西までは張らんで済む」
A「でも、すでに陳泰は宮廷に下がっているンだぞ。ケ艾に匹敵する武将は蜀方面にはいないはずだ」
F「その通り。それだけに、ケ艾は南安の手前にある武城山(ブジョウザン)に自ら陣を構え立てこもっていた」
A「祁山どうなった!?」
F「云ってしまおう。蜀の諜報網が優れているのは、十中八九夏侯覇のおかげだ。郭淮・夏侯玄の副将として対蜀戦線を支えていただけに、魏軍の弱点や隙をある程度把握していただろうし、李簡(リカン、163回参照)が寝返ってきたのも夏侯覇の誘引と見ていい。軍事力としてのみならず諜報面でも優れた人材だったと考えられる」
Y「……云われてみれば、陳泰のあとの西方軍主将の第一候補だったワケだからな」
F「そして、陳泰の頃からそれを逆用していたのはすでに見てある。夏侯覇の密偵が来ているのを承知で、蜀軍に不利な情報をつかませて行動を制限していたンだ。夏侯覇が蜀に走ってからすでに17年という時間が流れ、魏で軍制の変更が行われるたびに防諜態勢も整理するだろうから、この頃すでに夏侯覇の諜報能力は通じなくなっていたようでな」
A「祁山には防御陣などなかったのに、堅固なものができあがっていると偽情報をつかまされた?」
F「いや。ケ艾の性格と能力からして、それはあったはずだ。祁山にケ艾が入っているという情報をつかまされたンだろう。それくらいなら、息子のケ忠(トウチュウ)がいるンだからうまくごまかせる」
A「かくて武城山で直接対決……か」
F「この一戦は、蜀書にはない。姜維伝では武城山に関する記述はなくて、魏書ケ艾伝では『姜維はケ艾と武城山を賭けて戦ったが、勝てなかったので方向転換して上邽(ジョウケイ)に向かった』となっている。先の回で見るが、ケ艾は土木建築の名手だ。そのケ艾が築いた防御陣では、抜けないのも無理はなくてな」
A「仕方ないか……。上邽って、確か第四次北伐の?」
F「うむ、そこの麦を孔明と仲達で奪いあった現場だ(123回参照)。祁山からは北東、武城山からは東にあたるが、どーにもこの戦闘での蜀軍はあちこちにふらふらしている感がある」
Y「ケ艾に踊らされてるンだろうな。いい加減、偽情報をつかまされていると気づかないものか」
F「演義では警戒しているンだけどなぁ。この戦闘前に、ケ艾の挙げた魏軍五つの弱点を、蜀軍五つの有利点として姜維が出撃を主張すると、夏侯覇は『ケ艾はトシは若いですが深謀遠慮、防御に抜かりはなく軍制もこれまでと変わっているはずです』といさめているンだから」
A「それでも出陣したのは、蜀軍有利と考えたからか」
F「だが、そのあとがまずかった。いざ祁山に来てみれば、ケ艾の敷いた防御陣にお手上げ。南安を目指せば武城山で足止めされ、上邽に転じては包囲され、夏侯覇・張嶷の奮戦でやっとこ退却する始末なんだから」
Y「何で張嶷が出てくる? アイツ死んでるだろ」
F「演義だとこの戦闘で陳泰に討ち取られてるンだ。ともあれ、演義での動き通り(つまり、演義が正史に準じた)、武城山を抜けなかった蜀軍は上邽に向かっている。その途上に段谷(ダンコク)という、狭く険しく伏兵にもってこいな地形があったンだけど、そこで、蜀軍は追撃してきたケ艾に追いつかれた」
Y「ホントにいいとこナシだな、この軍隊」
A「やかましいわ!」
F「いや、上邽に向かうのは予定範囲内だったらしいンだ。漢中太守の胡済(コセイ)も、出撃して上邽に向かうよう手筈を整えていたンだから。段谷で追いつかれるのを承知していて、追撃してきた魏軍のさらに背後を衝いて挟みうちにするつもりだった、とも見える」
A「策としては悪くないンじゃないか?」
F「ところが、ここでアクシデント発生。胡済が来なかったモンだから、姜維は孤軍での戦闘を強いられたンだ。祁山や上邽からも援軍が来て蜀軍は大敗し、多くの死者を出して撤退している」
A「お前、何やっとんね!?」
Y「ケ艾の策にはめられたと考えるべきか」
F「と思う。こうるさく動かれちゃかなわんから、偽情報を送って、胡済が漢中から出ないよう取り計らったンだろう。かくて蜀軍は大敗を喫し、人々は姜維に反感を抱いた……とある。これでは立つ瀬がなかったようで、蜀に戻った姜維は官職を下げるよう自ら奏上し、大将軍から後将軍に格下げされている」
Y「対してケ艾は、安西将軍から鎮西将軍に格上げだったか」
F「詔勅(この時代、魏の皇帝は曹髦)によれば『将は2ケタ、兵は4ケタを討ち取り、捕虜まで入れれば5ケタにのぼる』とある。妥当な昇進だね。256年の春に始まったこの戦闘、7月にはすでに昇進の詔勅が出されている辺り、それほど長引きはしなかったと考えられる」
A「ぐむぅ……」
F「この翌年、257年だが、諸葛誕の挙兵に呼応して蜀軍が動くのを警戒した司馬昭が、いとこの司馬望(シバボウ)を西方軍に送ったのはすでに見てある。当然のように姜維は出陣し、沈嶺山(チンレイザン)まで兵を進めた。この山のすぐ北には長城が築かれ、そこには大量の食糧が備蓄されているのに、守備兵は少ないという状態だった」
A「何でそんなコトになってンのさ……」
F「たぶん、策だ。蜀を出てすぐに『こちらへどうぞ!』とネオン満載の看板が立っていたら、そこへ攻め込むだろ? 蜀軍の選択権を取り上げ、予想の範囲内で動かすために、エサをまいて喰いつかせることにしたようでな」
Y「魏が設定した戦場で蜀軍の相手をしようと考えたワケか」
A「さすが、ケ艾……」
F「長城に入っていたのは司馬望だったンだけど、蜀軍の襲来に守りをかため、山と城でひたすら防戦。姜維も陣を連ね、何度も挑戦するけどまったく打って出る気配がなかった」
Y「持久戦にさえ持っていけば、魏軍の勝ちは決まるからなぁ」
A「悔しいけど、食糧不足はいつものことじゃね……」
F「隴西からケ艾まで馳せ参じ防御陣に加わっては、戦闘になっても勝てたか判んないけどね。結局、年が明けて258年、諸葛誕が敗れたと聞くと、姜維は兵を退いている」
A「時間切れドロー、かな」
F「一見してそう見えるのはやむを得んが、魏軍は蜀軍から雍州を守り抜き、蜀軍は寸土も得られなかった。どっちが勝ちかは明らかだぞ。現に、ケ艾は戦後、征西将軍に昇進している。……まぁ、姜維も戦後、大将軍に復官しているが」
A「むぅ……」
F「さて、この頃になると、さすがに蜀の宮廷内でも、姜維への怨嗟の声が上がり始めている」
Y「そりゃそうだろうよ」
F「ただ、姜維に原因のどこまでを求めていいのかは微妙なラインだが。何しろ陳寿は、後主伝(蜀書劉禅伝)の258年にはっきりと『宦官の黄皓(コウコウ)がはじめて政治権力を握った』と書いているンだから」
A「来たよ、亡国の宦官……」
F「黄皓は劉禅に寵愛されて政治に参与するようになったンだが、悪い意味で頭がよかった。巧言令色を駆使して劉禅に気に入られるのに成功し、陳祗とともに政務を執っている。だが黄皓だけではなく、たとえば益州きっての知識人・譙周(ショウシュウ)が『仇国論』を著しているが、コレは人民を疲弊させ国に仇なす出兵、要するに姜維を非難する文書だ」
A「益州人を敵に回していた、ということ?」
Y「そりゃそうだろう。魏から寝返ってきた武将の先導で、益州の人命が為す所なく失われていくンだぞ」
F「民衆は長年の兵火に疲れていたのに、姜維がそれでも北伐をやめないようでは、益州人が怒らないはずがない。それも、ちょうど悪く259年8月に陳祗が死に、黄皓が権力を握った時期と重なったモンだから、政治への不満も姜維に向けられたような状態でな。必要以上に出兵していたせいで、必要以上に敵ができてしまっていたワケだ」
Y「政治をおろそかにして軍事だけ行っていたら、国が滅びるのは当然だな」
A「まだ滅んでねェよ!」
F「まだ、だがな。ところで……とここで云おうか。姜維の行いが、孔明ではなくその甥に似ているのはいいな?」
A「……諸葛格?」
Y「あぁ……そうか。アイツも外様の国で取り立てられ、外征している間に宮中で孤立したンだったか」
F「そう、宮中を顧みなかったモンだから、政権首脳部で与野党逆転して、いつの間にか立場が悪くなっていた。もう少し宮中を気にかけていれば……と云えなくもないが、気にかけるよりしっかりした人材を残すのが必要だったのは155回で指摘している」
A「孔明が蒋琬を、蒋琬が費禕を残したようにか。諸葛格は滕胤(トウイン)だったけど力量が不足していて、姜維には誰もいなかった?」
F「そこで問題になるのが、費禕の立場でな。この男、北伐には反対していながら大将軍として蜀国内を動き回っていて、宮中を空けることが少なくなかった。孔明時代の蒋琬、蒋琬時代の費禕に相当するのが誰なのか……といえば、これが陳祗なんだ(繰り返すと、董允は蒋琬と同年に死去)」
Y「費禕に高く評価されていたため、序列を飛び越えて董允の後任となった、と陳祗附伝にあるな」
F「その陳祗附伝が董允伝収録なのが、陳寿の痛烈な皮肉に思える。董允・呂乂の死後尚書令となった陳祗は、姜維が宮中を空けているのをいいことに、上は劉禅に親しみ、下は黄皓に通じていたため、序列としては姜維(大将軍)より下でも、宮中での権限は上回っていた……と正史にある」
A「……というか、劉禅や黄皓と馴れあうような奴に、宮中を切り盛りする才覚があるのかと思えるンだが」
F「かなり大事なことを見落としているだろう、アキラ。費禕に認められたということは、陳祗は北伐反対派だぞ。あの男が、根本的なところで自分と通じない者を信任するとは思えん。そして、北伐忌避は張翼・譙周といった、益州人の総意でもある」
Y「姜維が北伐を行っている間に、陳祗が北伐反対の世論を宮中に根づかせた、ということか」
F「費禕が種をまき、この頃にはすでに芽吹いていた若葉に、水をやった程度かもしれんが、姜維を孤立させるのには充分だったワケだ。そして黄皓の台頭によって政治が腐敗し始めるのと、それでも姜維が北伐をやめなかったことで、蜀の最期が見え始めた」
A「……黄皓だけが一概に悪いとは云えない、ということ?」
F「終末期蜀における姜維の孤立は、黄皓が原因ではあるが、その孤立を助長させる風土は先にできあがっていた、かな。宮廷内の世論は費禕を経て陳祗が作り上げた北伐反対に傾いていたンだから」
A「諸葛格と同じ末路……か」
Y「いや、まだ末路じゃないだろ」
A「あ、そーでした」
F「続きは次回の講釈で」

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