私釈三国志 172 漢王即位
F「では、予定より100回遅くなりましたが、劉備が漢中王に即位したことの歴史的意義について一席」
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Y「数字がハンパじゃねェな」
F「自分でもそう思う。ただ、お題がお題だというのにアキラも泰永のカミさんも不在だが」
Y「しばらくアイツが常駐していたが、完全に俺たちだけというのも久しぶりか」
F「蜀贔屓のどっちかにはいてほしかったンだが、タイミングがどうにも悪かったようだ。仕方ないということで。えーっと、まずは漢中陥落の経緯だが、激戦の末に劉備が曹操を破った、というところだ」
Y「劉備に負けたからなぁ……不思議なことに」
F「純粋な軍事力で云うなら、この頃が劉備のピークだったように思える。ただし、演義では(五虎将−関羽+魏延)が華々しく曹操を追いつめるのに、正史では極めて地味な記述しかない。夏侯淵の死後、曹操自ら漢中へ兵を進め、3月には陽平関に到着。2ヶ月後に長安へと引き揚げた……というのが武帝紀(曹操伝)の記述」
Y「武帝紀ではどう戦闘したのか、直接の記述はなかったか。注でも例の鶏肋しか引かれていなくて?」
F「攻めても実りがない土地にしがみついてどうする、と退いたワケだ。対して先主伝(劉備伝)には『曹操が来ても大丈夫だ』と守りをかためて出撃せず、ひたすら防戦につとめ、死者が増えたので夏に(曹操は)引き揚げた……との記述がある。劉備が守りを固めていたのを曹操が抜けなかったと、まとめてしまえばそれだけに収まる」
Y「脇では趙雲が空城の計なんぞしでかしていたが、それは余談と」
F「だな。歴史的には、劉備が漢中を攻略し曹操は手を退いた、という戦闘だ。そして、いつぞや云った通り、漢中失陥は曹操の人生における最大の失敗だ。漢中を得たことで、劉備は蜀を興す大義名分……いや、名じゃないな、実を得た。その意味で、この一戦は割と大きい」
Y「天下三分の口実、だったか。隴を得ずに蜀を得たのがそんなに大きいか?」
F「魏が擁する献帝とは別に、漢中王を名乗って漢王朝の正統を自称する者がいては、漢から魏に禅譲が行われても、反発するのは明白だろ」
Y「……まぁ、フォローはできんが、それを曹操に求めるのは酷じゃないか?」
F「漢中陥落は曹操が人事補強を怠ったのに原因の半ばがある、と先に見てあるだろうが。夏侯淵の器はともかく、ちゃんと大局から判断を下せる人材が西方になかったのが、漢中陥落の原因のひとつだ。そして、その直後から関羽の北上が始まったがために、漢中方面を野放しにしてしまっている」
Y「いや、それは仕方ないだろうが。相手が関羽では」
F「曹叡にできた二正面作戦が、曹操にできないとでも思うのか? 呉を使って関羽の足を止めている間に、主力を動員して漢中を奪還していれば、関羽も退却せざるをえない。あとは益州・荊州・揚州、いずれを攻めるも思うままだぞ」
Y「荊州を攻めることで東西からの攻撃を受ける危険を追うべきか、それとも端から順に片づけて行くべきか……ふむ」
F「戦局を主体的に左右できることにこだわるべきだ、僕なら荊州から攻める。だが、この時点で曹操が、漢中方面からほぼ手を引いていたのは、鶏肋にこだわって関羽をないがしろにはできないという一種尊敬にも似た警戒心からだろう。戦略的に正しくても個人的にはどうかと思えるが」
M「(ひょっこり)むしろ愛情?」
Y「腐女子ーっ!?」
M「をほほほほほっ……(退場)」
死んだのまで入れると3人子供がいるというのにエロもの書いている夫「おなかの中のを入れるとふたり子供がいるというのに、なぜにガチホモものを描けるのかね、あのヒトは……? 天の無情を嘆く涙は師匠が死んだときに流し尽くしたから開き直って。今まで蜀で通してきたが、この呼称、実は当事者は使っていなかった節がある」
Y「当事者?」
F「首脳陣だ。劉備や孔明たちの主観では、帝位が曹丕に簒奪され、献帝が殺されたことで、漢王朝は幕を下ろしている。それなら正統を継ぐ自分たちこそが本物の漢王朝だ……と主張する目的で、劉備を帝位につけた。前漢や後漢と区別するため蜀漢という名乗りも併用していたが、正式な国号は蜀じゃなくて漢なんだよ」
Y「軍事政府がビルマをミャンマーと自称しているようなモンか」
F「ニュアンスはそれにかなり近い。ちなみに、あの国をミャンマーと呼んでいるのは、当の軍事政府と日本だけだというのは有名なオハナシ。それはともかく、なぜ漢という国号を名乗れるのかには明確な基準がある。伝統だ」
Y「適当にもほどがあるな」
F「いや、ホントに。中国の歴代王朝には、最初に王に封じられた地を国号とする伝統がある。劉邦が項羽から漢中の王に封じられて漢王朝を名乗り、魏王曹操を経て曹丕、呉王孫権、いずれも王となった地を国号に定めている。首都を揚州から動かさなかった呉はともかく、漢王朝は長安・洛陽を首都とし、魏は許昌・洛陽を拠点としていたのに、だ」
Y「……先走るが、司馬炎が国号を晋としたのは、司馬昭が晋王に封じられていたからか」
F「そゆこと。その後に劉淵が、漢王を経て漢の皇帝を名乗ったが、息子の代で国号が趙になったのは、その息子が趙の分国たる中山の王に封じられていたことに由来する。元(正式名称はモンゴル帝国)以降はこの伝統が崩壊するのは当然というか必然というかだな」
Y「モンゴルが中国史における最大のターニングポイントだというのは、女房から血反吐出るほど仕込まれてる」
F「詳しくは見なくていいか。というわけで、漢王朝において漢王ないし漢中王を名乗るのは、叛逆行為に相当するのはいいと思う」
Y「父祖の地を占領し『お前たちよりも俺こそが漢の正統を継ぐに相応しいのだイーッヒッヒッヒ』と云っているに等しいワケだからな。聞いてるか、孔明!」
F「聞こえないよ。これには実例があってな。張魯による統治時代、後漢王朝は漢中に『朝貢さえ怠らなければ自治を許す』と、交州の士燮に近い扱いをしていた。ために繁栄していたところ、住民から『地面から出てきました!』と玉印が献上されたのね。そこで部下たちは、張魯に漢寧王を名乗るよう進言している」
Y「五斗米道の連中でさえ、漢王ないし漢中王を僭称するのを躊躇ったワケか。聞いてるか、孔明!」
F「しつこいねキミも。その声を制し張魯をいさめたのが閻圃で『漢寧王と名乗れば災厄を受けましょう。豊かな漢中を戦火に包むおつもりですか』と自制を求めている。結局張魯が漢寧王を名乗らなかったため、曹操に降伏するまで漢中は独立を守り、降伏してからは張魯・閻圃は列侯に叙され、張魯の娘が曹操の子の妻に迎えられているくらいだ」
Y「正統を守った姿勢が、漢の忠臣たる曹操のおめがねにかなったワケだな。聞いてるか、孔明!」
F「どーにもお前ひとりだと、合の手が北に偏るなぁ。とにかく、劉備・孔明が『災厄を受け』『戦火に包』まれる道を選んだのには、216年に曹操が魏王に叙されたのが関連している。コレを帝位簒奪へのはじめの一歩とする誤解は、現代でも曹操に否定的な見方をする場合避けて通れないが、当時の劉備や孔明がそう考えないワケがないからだ」
Y「そうではない、というのは先に見てあったな。曹操が魏公・魏王に叙されたのは、過去の曹操の功績からして何もおかしいものではない。信賞必罰の是を問うなら天下の8割は曹操に譲渡するべきだ」
F「さすがにそれじゃ多すぎるわ。それに対抗するにはどうすべきか、と考えだされたのが漢中王への即位だったワケだ。さすがに漢王を直接名乗ることはできない、許されない。だが、漢朝礎の地で王となれば、人心としては漢中王イコール漢王と、漢王朝の正統を継ぐ者と見える」
Y「……見えなくはないか」
F「名実で云うなら、もともと劉備には中山靖王劉勝の末裔という名はあった。この劉勝、前漢四代景帝の息子で、五代武帝の異母兄弟にあたる。ついでに云えば他の兄弟には、光武帝劉秀の祖先に当たる長沙定王、劉表や劉焉のご先祖サマにあたる魯恭王がいる……ことになっている。過分に疑わしくはあるが、否定する史料そのものはない」
Y「確認できないだけだからなぁ。だが、漢王朝の末裔という大義名分そのものはあったワケか」
F「それに漢中王という実が加わったンだ。さすがに張魯のような異姓の者が漢中王(イコール漢王)を名乗ったら、閻圃の云う通り、それこそ『劉氏にあらぬ者が王となったら、天下を挙げてこれを討て』の対象となるだろう。だが、仮にも劉氏の末裔たる劉備が漢中王を名乗ることは、道義的には責められないンだ」
Y「物理的に攻めればよかろうが」
F「それを曹操はしなかった。劉備が漢中王を自称する前に叩き潰していれば、曹操の死後に三国が鼎立する異常事態にはならなかったワケだから、繰り返すが、歴史的には赤壁の敗戦どころじゃない失態なんだよ」
Y「曹操らしからぬ失態だな。何で攻めなかったンだか」
F「理由としてはふたつ。まず、さっきも云った通り関羽が北上してきたから、鶏肋どころじゃなかった」
Y「事態を甘く見ていた、と」
F「というか、もうひとつの理由。漢王朝の名実は曹操の側にも備わっていたから、だ。何しろ曹操は、漢王朝当代たる献帝の心身を擁している。曹操と孔明の政策・政治姿勢がずいぶん似ていたのは前に見たが、最大の相違点は、担ぐ漢王朝の実を誰に求めたか、という点になる」
Y「西の辺境でむしろ売りがナニをしでかそうが、魏という大黒柱が支える後漢王朝の屋台骨は揺らがない、と」
F「劉備に皇帝を名乗らせる口実を与えたのが歴史的には曹操最大の失態でも、劉備の帝位僭称を防ぐのは実はものすごく簡単なんだ。本物の漢王朝が続いていれば、劉備は皇帝を名乗ることが許されなくなる。それでも名乗ったら劉備はただの叛逆者になり下がるンだから。漢王朝の正統を受け継ぐ皇帝というかたちに持っていくには、漢王朝が悪者に簒奪されなければならない」
Y「……待て。つまり劉備、いや、孔明は、漢王朝がなくなるのを前提に劉備を漢中王に据えたのか?」
F「そうとしか考えようがない。何しろ漢中王に即位するや、許昌におわします献帝陛下に、絶縁状ともとれる書状を送りつけ、左将軍の印璽も送りつけているンだから。そもそも劉備が献帝に何か書状を送ったという記述は、自分か関係者の官位・地位・身分を追認するよう求めるものくらいしかない。それもごくわずか」
Y「実史ではやっぱりろくでもない奴だな、あのむしろ売りは」
F「はっきり云えば、この時劉備と孔明がしでかしたことに比べれば、曹丕なんて可愛いモンなんだよ。曹丕のやったことは『宦官のひ孫が斜陽の帝国から禅譲を受けて皇帝に即位した』だけど、劉備たちは『いやしくも皇族の隅っこに連なる者が発祥の地に立てこもって、主家を救いもせずに王を自称し、滅んだら皇帝を自称した』なんだから」
Y「どちらが悪かと云えば、劉備のがはるかにタチが悪いな、どう見ても」
F「曹丕がこの辺りの事情を把握していたか、は、実はかなり疑わしい。というか、『まさか皇帝になるとは思わなかった』というところか。皇帝が複数人いるという異常事態を想定できる方が、当時の文化としてはおかしい。献帝が曹丕に禅譲した途端、待ってましたとばかりに劉備を皇帝にした孔明こそが、むしろずれていると云わねばなるまい」
Y「お前が話の判る奴だというのは重々承知しているが、孔明ボロクソに云わせたら人後に落ちんな」
F「……いや、それほどでもないが。ところで、この『私釈』では劉備に、割とアレな称号をお送りしている」
Y「『ひとを裏切ることに関しては呂布にも引けをとらない』という、三国志史上に残すべき名言か」
F「残されても困るが……。ただ、この両者の『裏切り』には微妙に違いがある。というか、裏切りには2種類あって、呂布と劉備のやっていることはそれぞれ別のものでな」
Y「裏切ってるのは同じだろ?」
F「呂布の裏切りはおおむね、宿主を喰って自分が乗っ取るつもりでのものだが、劉備は宿主の危険を察知して逃げるのがメイン。宿主へ直接危害を加えるのが呂布で、宿主には手出ししないのが劉備だ」
Y「えーっと……? 弱ったな、それを責められん。主が衰えたらそれを喰うのも見捨てるのも、それほど悪いことじゃないように思える。確かに劉備が……世話になった相手を滅ぼしたのは、劉璋の一件くらいか?」
F「コーソンさんみたいに、劉備が逃げたことで結果として滅んだ、という事例もあるが、それを劉備の責任として責めるのは筋が違う。衰えた主を救おうと尽力する者を忠臣と呼び、呂布のように喰おうとする輩を裏切り者と呼ぶなら、劉備はそのどちらでもないように思える」
Y「何と呼ぶ」
F「薄情者、と呼ぶべきかもしれん。裏切り者と呼ぶのは、やや筋違いなんじゃないかと思えてきた今日この頃」
Y「……こりゃまた一種独特な劉備評だな。確かにアイツが肉親だのに薄情だったのは、100回でこきおろしたが」
F「民衆や部下はともかく、な。ともあれ、劉備の漢中王即位は、衰えた漢王朝を見捨てようとしたいつものパターンと云えなくもない。ただ、いつの間にか逃げるには重すぎるモノを背負っていたがために、天下を分けることで逃げ場所を作りだした。天下三分を悪く云うなら、劉備の逃げ癖の集大成と云えよう」
Y「誰がどこまでそれを把握していたのかは、今となっては確認もできんな」
F「都合100回遅れとなった、劉備の漢中王即位に関する講釈。予定より少しずれたものになったけど、順番通りだったらまとめきれなかったようにも思える。1年半ずらしたことで、さて熟成できたのか、腐敗したのか」
Y「当初予定がどんなモンだったのか判らんでは、評価もできん」
F「続きは次回の講釈で」